西国時通外二名連署書状案
九月廿四日 / 冊子 247頁
西国時通らが、加州老の病状と養生、堂作事の進捗を伝えた書状案。加州老の気色がいまだ十分に快復していないため養生を第一にするよう申し入れ、先月二十日に幻生の堂作事へ大工衆が取り付いたことなど、近況を報告している。
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九月廿四日 / 冊子 247頁
西国時通らが、加州老の病状と養生、堂作事の進捗を伝えた書状案。加州老の気色がいまだ十分に快復していないため養生を第一にするよう申し入れ、先月二十日に幻生の堂作事へ大工衆が取り付いたことなど、近況を報告している。
十月十二日 / 冊子 247~248頁
西国時通らが、秋月家家老の入江三左衛門一行の通行を知らせた書状案。入江は父子三人・弟一人・女房衆五人を含む上下四十五人で唐津方面へ向かい、野尻に宿泊後、八日町の三学院付近へ到着したとする。伊地知杢右衛門からの連絡を受け、宿泊・通行への対応を関係者へ申し送っている。
十月十二日 / 冊子 248頁
西国時通らが、秋月家家老の入江三左衛門一行が翌日に当地へ通行する予定であることを知らせた書状案。父子三人・弟一人・女房衆五人を含む上下四十五人で唐津方面へ向かい、前日に野尻、当日に八日町へ宿泊した経路を示し、宿所・通行の準備を求めている。
延享四年四月十七日 / 冊子 984頁/整理ID 2643
松平薩摩守宗信宛の四月二十一日付書状。宗信の帰国に際する御暇の礼と献上について、先例を調べて答える。大御所への御暇物の献上と賜り物、家督相続後初めての帰国時に必要な礼を説明し、松平加賀守や上杉大炊頭の例を挙げる。将軍家と大御所への拝礼・贈答をどう整えるかを示した実務的な回答。
宝永八年正月 / 冊子 948–949頁/整理ID 3052
北条安房守と大田和泉守が御料・私領の浦々へ、琉球人が島津吉貴の家来を伴い薩摩国へ帰る渡海で風波が荒れた際は、浦の船を出して迎え、急用でも滞らせず通すよう命じる。No.3043と同趣旨の別通。
年月日未詳 / 冊子 532~533頁/整理ID 1375
薩摩守が家督後初めて帰国する際、御座や御内意、進物と使者の扱いについて、光久・綱貴・吉貴の先例書付を列挙する。
享保七年四月 / 冊子 534頁/整理ID 1377
継豊が家督後初めて御暇を得て帰国する際、先例どおり京都で近衛家に立ち寄り機嫌を伺う願いについて、御用番への書付提出と返答を記す。
享保七年五月 / 冊子 536頁/整理ID 1384
松平大隅守の家督後初めての御暇帰国に際し、先例により京都で松平伊賀守へ立ち寄る件を伝える。水野和泉守らとの相談、差図の取次ぎにも触れる。
明暦二年三月二十四日 / 冊子 276~277頁/原整理番号 36
一向宗本尊を保管した者が予定以外にも多数見つかり、全員をまとめて差し出したいと述べる。歩行できない人や子どものいない人をどう送るべきか、宗体奉行に指示を求める。
明暦二年三月三十日 / 冊子 277頁/原整理番号 38
宗門改めで集めた本尊・道具を奉行へ送る。歩けない人や子のない人の分は組中や名頭に託して持参させるため、受け取るよう依頼する。
明暦二年閏四月十五日 / 冊子 277~278頁/原整理番号 39
本尊保管者として指摘された松本坂之下の六兵衛と中福良の大蔵を調べ、本人または家族に品を持参させる。本村の千兵衛後家と藤兵衛も調べ、判明分を宗体奉行へ報告する。
明暦二年閏四月十六日 / 冊子 278頁/原整理番号 40
本村の藤兵衛と九十歳ほどの千兵衛後家を調べる。後家から仏器と香炉を出させ、歩けないため名頭に持参させる。藤兵衛は品を持たないと述べ、五人組の一人を添えて送る。
宝暦五年十二月九日 / 冊子 583頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1733
島津主鈴・伊集院十蔵が十二月九日、義岡相馬の御什物・譲状についての書状に返答する。書状の趣旨を承知し、主鈴から直接伝えたところ、今後の下国時には譲物をご覧になるとの意向が示されたと知らせる。別紙の記録奉行書付は手元に留め置くと答える。
建白10月14日表記/10月六署通知・卯10月27日申渡注 / 冊子 418~419頁/原整理番号 594/整理ID 594
慶喜の「皇国時運」の建白を十月十四日・慶喜の表記で掲げるが、全文は前にあるとして省略する。大事件・外夷の衆議の命令も前文を参照して省略し、用事があるので早く上京するよう求める残りの命令を記す。続く十月の圖書・右衛門・帯刀・伊勢・龍衛・内膳の六署通知は、別紙の朝廷命令により太守が近く上京することを承知するよう求め、日限は追って通知するとする。卯十月廿七日に申し渡されたとの後記を付す。引用の省略部分とこの項の現存本文、上京の方針と未定の日限を区分する。
(寛永9年)6月5日 / 冊子 4頁/原整理番号 5
島津家久が島津久慶に、薩摩守光久の男子誕生を祝う使者と脇太刀一腰・馬一疋の到来を喜び、謝意を伝える。加藤肥後守父子の処置について、肥後殿は出羽国、子息豊後守殿は飛騨国へ遣わされ、女房衆まで流罪となったと記す。詳しくは帰国時に面談して申し伝えるとする。
〈宝暦元年〉十二月十二日 / 冊子 345頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1015
松平右近将監武元が十二月十二日、松平大隅守継豊へ返答する。公方・大納言が機嫌よく過ごしていることへの喜びを了解し、同氏薩摩守重年の家督以後の帰国に伴って安否を尋ねられた件を宿次の書状で伝え、御肴拝領をありがたく思う旨も承知したと記す。御礼として使者を送った紙面の趣は、各人で相談して上聞に達したと通知する。本文は以宿次奉書相達とし、宿次で書状を送ったことを表す。継豊公御譜中・正文在文庫の注、署名と宛名を備える。
〈宝暦元年〉十二月十六日 / 冊子 346~347頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1019
西尾隠岐守忠尚が十二月十六日、松平大隅守継豊へ返答する。公方・大納言の機嫌がよいことへの喜びを了解し、同氏薩摩守重年の家督以後の帰国に伴う安否照会を宿次の書状で伝え、御肴を拝領したことをありがたく思う旨を承知したと記す。御礼として使者を差し越した紙面の趣を令承知候と結ぶ。継豊公御譜中の出典表示、西尾署名と大隅守宛名を備える。
〈宝暦二年〉二月十八日 / 冊子 354~355頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1054
松平右近将監武元が宝暦二年二月十八日、松平薩摩守重年へ返答する。公方・大納言の機嫌がよいことへの喜びを了解し、家督以後の初帰国に伴う安否照会を宿次の書状で伝え、御肴を拝領した件を扱う。御礼の使者が御前へ召し出され、拝領物もあったことをありがたく思う旨を了解し、紙面の趣は各人が一覧したと伝える。重年公御譜中・正文在文庫の注を持つ。
〈宝暦二年〉二月十八日 / 冊子 355頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1055
秋元但馬守凉朝が宝暦二年二月十八日、松平薩摩守重年へ返答する。公方・大納言の機嫌がよいことへの喜びを了解し、家督以後の初帰国に伴う安否照会を宿次の書状で伝え、御肴を拝領した件を記す。御礼の使者が御前へ召し出され、拝領物を受けたことへの謝意を了解し、紙面の趣を承知したと結ぶ。全上としてNo.1054と同件を扱うが、各一覧ではなく令承知である。拝領物の品目・数量は記されない。
正月十三日(原年無記載、付注に卯年) / 冊子 272頁/原整理番号 723/整理ID 723
私領は長崎と関わる事が多く、長崎で異変が起これば、常の手当ての人数を除いて、指図があり次第、遅滞なく人数を差し出す立場にあると述べる。しかし自分をはじめ家来も長崎の様子を心得た者がいないので、当年、暇を賜って国元へ行く際、長崎へ立ち寄り見分したいと願う。正月十三日付、署名欄は「御名」と記す。朱書の付札は「可為願之通候」である。添付の張紙は、別紙二通について内意を得たところ願書を簡略にするよう指図があり、卯正月十三日、御用番松平右近将監へ留守居佐久間新左衛門をもって提出したとする。同十五日、留守居が召され、中村与太夫が出向いたところ、朱書の付札を付けた願書を渡されたという。写の正文は右筆所にある。
明和八年正月十三日 / 冊子 274頁/原整理番号 733/整理ID 733
私領は長崎に関わる事が多く、長崎で異変が起これば、常の手当ての人数を除き、指図があり次第、遅滞なく人数を差し出す立場にあると述べる。しかし自分をはじめ家来に長崎の様子を心得た者がいないので、当年、暇を賜って国元へ行く際、長崎へ立ち寄り見分したいと願う。年は明和八年の朱注、正月十三日付、松平薩摩守の署を備える。朱書の付札は「可為願之通候」である。付注は、寅十二月十九日、松平右近将監へ二通の書付を留守居佐久間新左衛門をもって提出して内意を得たところ、願書を簡略にするよう指図があり、本願書を提出したとする。同十五日、留守居が召され中村与太夫が出向いたところ、朱書の付札を付けた願書を渡されたという。正文の控は文庫にある。
明和八年正月十八日(目録は二月十八日) / 冊子 275頁/原整理番号 735/整理ID 735
公方様・大納言様の御機嫌がよいことを喜び、当年、暇を賜って帰国する際、長崎へ立ち寄り見分したいと願ったところ、願いのとおりに申し渡されたことをありがたく思うと伝える。その旨を知らせる書状で、明和八年の朱注、正月十八日付、夏目和泉守様、人々御中宛を備える。宛所には長崎奉行・信政との人物注がある。正文の控は右筆所にあるという。
明和八年二月二十一日 / 冊子 275頁/原整理番号 738/整理ID 738
公方様・大納言様がますます御勇健であることを喜ぶ。先に知らせたとおり、当年、暇を賜って帰国する際に長崎へ立ち寄り見分することが願いどおり許され、当地での挨拶と阿蘭陀屋敷・唐人屋敷を見置きたい旨を伺ったところ、手前方で相談するよう申し渡されたので、その旨を知らせる。二月二十一日付、年は明和八年の朱注、夏目和泉守様、人々御中宛を備える。正文の控は右筆所にあるという。
明和八年五月二十一日 / 冊子 286頁/原整理番号 758/整理ID 758
先に願い出たとおりこのたびの帰国途中に長崎へ立ち寄って見分し、それが済んで同地に滞在している旨を飛札で報告すればよいかと伺う。付紙に「可為伺之通候」と朱注し、伺いどおりとする返答を伴う。五月二十一日付、年は明和八年の朱注、署名表示は御名で、独立した宛所はない。控の正文は右筆所にある。
卯11月14日(原ママ)/傍注「イ十月トアリ」 / 冊子 412頁/原整理番号 590の2/整理ID 590-2
臣慶喜が皇国の政権の沿革を述べ、相家から武門へ政権が移り、徳川の子孫が二百余年その職を奉じたが、政刑に過ちがあり今日の形勢は自身の薄徳によるとする建白。外国交際が盛んになるなか朝権を一途にしなければ綱紀が立たないため、旧習を改め政権を朝廷へ返し、天下の公議を尽くして聖断を仰ぎ、同心協力して皇国を保護し万国と並立したいと述べる。慶喜が望むのはこれだけだとし、見込があれば諸侯から申し聞かせるよう伝えて、謹んで奏聞する。原日付は卯十一月十四日でママ注と「イ十月トアリ」の傍注がある。政権返上と外交・公議の方策は建白の提案として示し、日付の異同を保持する。
正文年月日不記(目録の10月) / 冊子 415頁/原整理番号 592の1/整理ID 592-1
皇国の政権の沿革を述べ、武門へ政権が移り、祖宗以来二百余年にわたりその職を受けたが、今日の形勢は自らの薄徳によると述べる書付。外国交際の拡大のため朝権を一途にしなければ綱紀が立たないとして、旧習を改めて政権を朝廷へ返し、天下の公議と聖断を仰いで皇国を保護し万国と並立することを望む。ほかに見込があれば忌憚なく申し聞かせるよう求める。目録は慶喜親書とするが、正文に実名署名・日付はなく、自責や外交・公議の方策は本文の主張として示す。第590号の2と同趣旨だが、字句の異同を保持する。
10月正文/卯10月13日召呼・翌14日御渡・同26日到来注 / 冊子 418頁/原整理番号 593/整理ID 593
皇国の政権の沿革を述べ、武門が祖宗以来二百余年職を継いだが、今日の形勢は自らの薄徳によるとし、外国交際の拡大に応じて朝権を一途にするため旧習を改め政権を朝廷へ返す意向を説く。天下の公議と聖断により皇国を保護し万国と並立することを求め、ほかに見込があれば申し聞かせるよう述べる書付。末尾は十月で、諸藩重役が卯十月十三日に二条城へ呼ばれ、翌十四日に書付写を渡された由の趣が同月廿六日に到来したとの注がある。正文の意向と配付・到来注を分け、実際の政権の受容や原書の自筆をこの項だけで確定しない。
二月廿九日 / 冊子 836頁
日野町資将が本田紀伊守に、前年の下国時の厚意へ謝意を示し、家門再興のため諸事の周旋を求めた書状。
(天正七年)九月十九日 / 冊子 640頁
近衛前久が島津義久へ、在国時から約束していた『詠歌大概』を書いて送る。また大鷹を織田信長へ進上することを最優先とし、その機会に自分の分も含め数多く送るよう重ねて求めた。
天正十二年九月六日 / 冊子 925頁
島津忠平義弘が満足寺吟窓へ、上洛後は遠路のため音信が途絶えていたが、下向した俊覚坊から健在を聞いて喜んだと伝えた。当地へ再住する際は用向きがあるため、必ず住山を遂げ、帰国時に詳しく申し伝えるよう求めた。
天正16年5月6日 / 冊子 388頁
上洛の首尾、家中が心を一つにして家運が続くこと、又八郎の妻子らの留守中の無事を神前に願う。 道中の安全と義久・義弘・久保の早い帰国も祈り、帰国時には神殿造替と神領寄進を行うと誓った願書。
年月日未詳 / 冊子 418頁
島津義久一行が順風を待って上関を出帆し、日向国細島へ到着した航海記事。 女性たちを細島で下船させた後、旧臣宅に迎えられて歓待を受けた道程を記し、義久帰国時の海路と接遇を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 440頁
石田三成が島津義弘からの書状を拝見し、義弘の帰国時期は公儀の判断に属するため確約できないと返答した書状。 義弘の心情を気遣いつつ、早期の帰国が実現するよう働き掛ける意向を伝えている。
天正20年5月6日 / 冊子 562頁
島津義弘が、渡唐船が一艘も戻らない状況下で高麗へ渡海した船頭の働きを「粉骨無比類」と評価し、帰国時に栗野へ出頭させるよう伊勢長門入道へ命じる。 危険な朝鮮航路を担った船頭への褒美を約した書下で、渡海船員の功績認定を具体的に示す。
天正20年10月13日 / 冊子 610頁
石田三成が新納忠元へ、二度の書状と三郎兵衛の口上を受け取ったと返答し、長く京都にいる次郎四郎の帰国希望について説明する。 朝鮮出兵に伴い中国・九州から人質を再び召し上げているため、以前からの人質だけを今帰国させることはできないとする。一方、幽斎在国時の朱印では忠元への配慮が示されているとして、状況を踏まえた判断を求めた。
年月日未詳 / 冊子 301頁
二渡氏伝が、伊地知伯耆守の三男が二渡家の養子となり、二渡次兵衛を称したことを記す。朝鮮出陣前、五百石相当の軍役を自力で勤めれば帰国時に五百石を与えるとの命を受け、養父が取り立てて軍役を負担させ、次兵衛は渡海して軍功を立てた。その後、兵具奉行に任命されて勤務したとする。
(慶長五年)四月廿七日 / 冊子 537~538頁
島津義弘(惟新)が島津義久(龍伯)に、徳川家康へ出仕して庄内平定を祝賀したところ機嫌がよく、入来院又六と善載坊が召し出され御前で食事を賜ったと報じる。長尾殿の上洛延期の事情を確認するため伊那図書頭と奉行衆が使者を添え、善載坊が帰国時に詳報する予定であること、又八郎にも一連の事情を伝えるよう依頼する。
(慶長五年)十二月廿三日 / 冊子 725-726頁
黒田長政が筑前拝領と当月上旬の入国を報じ、相良・秋月の下国時に大坂から送った書状への返書を受領したことを伝える。島津家の今後について従来の交誼から意見を述べ、内府との関係を重視して慎重に対処するよう勧める。
年月日未詳 / 冊子 804頁
島津家久譜は、前年冬の鎌田政近帰国時、本多正信・井伊直政・山口直友が島津家との和睦を変えないとの誓紙を龍伯と忠恒へ贈ったことを記す。その真意を確かめるため、図書頭忠長を春に京都へ派遣した経緯を述べる。
(慶長七年)四月十日 / 冊子 807頁
島津義久が山岡道阿弥へ、享徳院下国時の書状に礼を述べ、先方の無事な上京を喜ぶ。自身の上洛について、御前で会う機会があれば適切に取り成すよう求め、度々の音信にも謝意を示した書状案。
十一月朔日 / 冊子 856-857頁
島津忠恒が惟新へ、書状を受け取った礼と自身の無事を伝え、福島正則・山口直友との会見や大坂の政治状況を報告する。内府の上国見通し、関東方面の動向、今後の上京と帰国時期についても知らせた。
(慶長八年)正月十九日 / 冊子 878頁
島津義弘が忠恒から届いた墨、瀬戸茶碗・水差し・皿などの贈物に礼を述べ、霜山法印への礼も依頼する。帰国時に迎えへ出す馬は、長途で疲れさせず近辺から差し出すのがよいと助言した。
(慶長九年)八月十四日 / 冊子 939-940頁
福島正則が島津忠恒へ、両御所前での首尾、銀子の拝領、帰国許可を祝う。上方滞在中は風聞を避けて使札で見舞わなかったと釈明し、自身の帰国時には国元から連絡すると伝え、留守中の屋敷の無事を報告した。
(慶長十一年)四月十四日 / 冊子 66~67頁
島津義弘が島津忠恒に、在京中の滞在・帰国時期、諸役人の任用、宿所や普請、材木・道路の手配について詳しく申し送った長文書状。福島正則らとの交渉、鹿児島方面の普請、山城の作事、使者や留守居の処置などを指示する。
(慶長十一年)七月十六日 / 冊子 83頁
島津惟新が島津家久に、帰国時の出迎えは指示に従い軽い者一人だけを差し向けたことを述べ、鹿児島からの早打使者により国元が平穏で竜伯の病状も軽くなったと知らせた書状。
(慶長十一年)十二月十一日 / 冊子 93頁
難波宗勝が島津家久に、南蛮の手巾三枚の贈物に謝し、家久の帰国時に暇乞いできなかったことを惜しんだ書状。翌春の上洛を待ち、蹴鞠などについて対面で語りたいと述べる。
「慶長十六年」三月廿二日 / 冊子 328頁
慶長十六年三月二十二日、市来家繁が伊地知重康に、二月二十六日付の命令を受けた後の検地・渡海事務を報告した書状。残米処理、役人配置、税所への書状、帰国時期について裁可を求める。
(慶長十六年)四月十二日 / 冊子 332頁
慶長十六年四月十二日、本多正純が島津家久に、徳川家康が前月十七日に入洛し、二十三日に参内して機嫌よく過ごしていることを報告し、前年の家久下国時の船旅にも触れた書状。
(慶長十六年)十二月廿八日 / 冊子 356頁
慶長十六年十二月二十八日、揖斐政長が伊勢貞昌へ、書状の到来を喜び、下向中の種々の饗応に謝し、帰国後に上聞へ達したことと来春の下国時に詳述する旨を伝えた書状。
元和三年三月廿三日 / 冊子 639頁
琉球の江洲・津堅・越来に関する知行の召上げと返進、遠島中の江洲の子息の帰還・本領安堵、津堅の暇状への帰国時の御判などを定めた連署条書。