足利義詮御教書
貞治元年十一月二日 / 冊子 31頁
足利義詮が細川右馬頭に、島津道鑑が申す讃岐国榊無保地頭職について、鎮西にいる道鑑の知行に支障が生じないよう沙汰することを命じた御教書。
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貞治元年十一月二日 / 冊子 31頁
足利義詮が細川右馬頭に、島津道鑑が申す讃岐国榊無保地頭職について、鎮西にいる道鑑の知行に支障が生じないよう沙汰することを命じた御教書。
(大永三年)十一月六日 / 冊子 645頁
島津忠朝が土持右馬頭に、新納忠勝の動向、北郷・庄内をめぐる争いと調停経過を述べ、助力を求めた書状。
(大永五年)六月十六日 / 冊子 653頁
島津忠朝が土持右馬頭に、伊東方の企てと来秋の蜂起への警戒を伝え、これまでの助力に謝意を示して今後の支援を求め、薄板一端・花瓶一対を贈った書状。
(天正14年)7月 / 冊子 184頁
島津義久が毛利右馬頭へ、大坂に派遣した使節が関白殿との対談と懇ろな承諾を得たことを喜び、毛利方の取り成しに謝意を示した書状案。今後も関係を疎略にせず、細部は五戒房が説明すると伝える。秀吉政権との交渉を毛利氏の仲介で継続しようとする外交文書である。
年月日未詳 / 冊子 442頁
島津義弘が右馬頭へ、妙谷寺について下命を受け、使僧を通じて申し入れたところ、早く上洛するとの返事を得たと伝える。 上洛の遅延を案じる一方、山里で催された茶会に武衛・長谷川藤五郎・羽柴左衛門督らが参会した近況も知らせ、早期の上洛を促した書状。
慶長四年三月五日 / 冊子 356頁
島津忠恒が右馬頭以久に、種子島の繰替えに対する返地として所領を宛行い、そのうち一千六百八十七石を加増分とする。以後も先例に従い、一千七百石を無役、残る九千九百八十七石を役儀負担として勤めるよう命じる。正文は向島衆萩原右京に伝来したと注記する。
十一月廿六日 / 冊子 94頁
近衛尚通が島津右馬頭に宛てた書状。京都で思いがけない騒乱が起こり諸士が頼る先を失っているため、匠作へ使札を送り、この機会に尽力してもらえればありがたいと依頼し、詳細は進藤筑後守に託している。
七月四日 / 冊子 346~347頁
島津忠良が右馬頭へ、安父子の調停を頼もしいと評価し、加治木境の争乱への対処を論じた返書。若衆とも密かに相談し、一途に判断すること、先方へ事情を申し渡すことを求め、正興寺・大年寺を介した働きかけにも触れる。
八月七日 / 冊子 350頁
島津貴久が右馬頭へ、先日の合戦で弓をもって働いたことと佐左・五ヶ瀬川合戦の勝利を賞した書状。北原からの返事はこの勝利によるものとみて、使僧を遣わして調略し、北原を味方に召し出したいと述べる。
九月一日 / 冊子 350頁
島津貴久が右馬頭へ、加治木で働く相手方の人数の苦労を聞き、使者を立てて礼を述べた書状。自軍の行動が遅れていることを詫び、尾州から和議の意見が度々届くなか、油断による遅延ではないと説明する。
(天正六年)十二月十日 / 冊子 366頁
島津義久が毛利右馬頭に、上洛に際する使書を謝し、東北の士卒による忠勤や来春の豊後・筑前方面での戦い、日向表の敵への対処を述べ、今後も親交を求めた書状。
慶長三年二月 / 冊子 195頁
島津忠恒が島津以久へ、以久が御家の家督に関し、龍伯・武庫と同様に忠恒へ末永く別心なく忠節を尽くすと神前に誓ったことを喜び、今後も相談して家の相続を図ると約した起請文。以久側に違背がない限り、忠恒も少しも処遇を変えないと誓い、偽りがあれば梵天・帝釈、薩州新田八幡、諏訪上下、開聞正一位、霧島、春日、稲荷など諸神の罰を受けるとする。
九月十三日 / 冊子 16~17頁
真幸境での勝利を祝い、書状と脇差一腰の贈答に謝し、今後の防戦と兵船の渡海を求め、手火矢一丁を送った書状案。
「天文廿三年」十一月十三日 / 冊子 928頁
右馬頭某が、大隅国宮内の龍波見知行について、小法橋から譲られた所を改めて安堵した文書。
二月廿日 / 冊子 514頁
山口直友が濱市で進む交渉は一両日中におおむね決着する見込みだと報じ、その間は軍事行動を控えるよう要請する。竜伯父子にも同様に伝え、濱市へ戻って現地の状況を追って知らせるとする。
天正15年7月20日 / 冊子 351~352頁
福智長通が島津義弘方へ、上井伊勢守と同名の右馬頭のもとに「白唐犬」と「白野牛」がいると豊臣秀長が聞き、両方を所望していると伝えた書状。両人宛の書状を伊下野殿に託して依頼したが、まだ動物が到着しないため、書状が届かなかったのか、そもそも該当する動物がいないのかを確認するよう求める。入手できれば佐土原へ届けることとし、又七殿にも取り次ぎを頼んでいる。
年月日未詳 / 冊子 442頁
伊地知季安が、島津義弘から新納武蔵入道へ下された草案中の「右馬頭下向」「安宅三郎兵衛尉の馳走」という語句を検討した考証記事。 文言と人物関係から、文書の年代を天正十七年から十八・十九年頃と推定しており、編者による年代比定の根拠が分かる。
年月日未詳 / 冊子 916頁
義弘譜は帰国後の領内再配置として、栗野から帖佐への移動、北郷氏の荘内から祁答院への移転、島津右馬頭の種子島移住などを記す。 豊臣政権下の所領替えが島津一門・有力家臣の居所を連鎖的に変えたことが分かる短い記事。
(慶長三年)十一月二日 / 冊子 271~272頁
島津以久(右馬頭)が(慶長三年)十一月二日付で島津図書頭忠長へ出した書状。江南の軍勢数万騎が襲来したとの報に心配して加勢を命じたが、島津勢の大勝と忠長の手柄を聞いて祝う。自身は病気のため出仕できず、早く祝意を述べられないことを惜しみ、代わりに少人数を派遣して軽微ながら銀子二枚を贈る。
十月八日 / 冊子 589頁
鎌田政近・比志島国貞が、豊後へ差し遣わす鉄砲衆について、富隈・鹿児島方・北郷殿・右馬頭殿などから出す人数を列記する。ほかに鹿児島から五人を加え、合計三十挺を早急に召し集めて豊後へ派遣するよう命じる。
年月日未詳 / 冊子 840頁
北郷久村譜は、慶長七年八月の野尻で伊集院忠真を討った際、島津右馬頭が率いる軍勢に久村が加わったことを記す。忠真方の激しい抵抗を破って攻撃し、久村の家臣十余人が戦死した。
(慶長八年)五月廿五日 / 冊子 894頁
山口直友が上方に変事はないと伝え、北賀州の下向や右馬頭の上洛について連絡する。七月の秀頼の祝言に諸大名が上洛するため、忠恒も祝言の時期に合わせて上洛するのがよいと勧めた。
十月十三日 / 冊子 299~300頁
十月十三日、山口直友が河上六郎兵衛に、佐土原をめぐる訴訟は本多上野介らの取り成しでほぼ決着し、翌春に右馬頭が領地を受け取る予定だと報じた書状。それまで在城衆と地下人の争いを防ぎ、又四郎に治安維持を命じるよう求める。
(寛永九年)七月十七日 / 冊子 296頁
大野久武が、佐土原へ人を遣わして確認した軍勢の通過状況を相良左助へ報告した書状。加藤右馬頭・伊東氏・秋月氏らの出立、乗馬五十四、五騎および八十七騎、旗五十六本・鉄砲四百挺・弓三十張・槍四百本、夫雑約四千人という兵力と道具の数量を伝える。
十月晦日 / 冊子 2~3頁
山口直友が島津義久(龍伯)へ、佐土原城の処置について島津方の内意を本上州と協議し、島津右馬頭が城を請け取ることになったと報告する。庄三太と引渡しを相談し、自身の使者を右馬頭に添えて下向させたほか、又四郎の伏見在府、右馬頭の子の関東下向を早急に進め、さらに和甚兵を派遣すると伝えた書状。
正月十日 / 冊子 141~142頁
年頭を祝い、左京亮の暇が許されない一方、右馬頭は安宅三郎兵衛尉の奔走と朱印拝領により下向が認められたと報告した。大口普請、鉄砲・大仏材木の調達、飯野留守の見舞いを督促し、内裏・大仏・院跡三か所の普請で諸大名に暇がない京都情勢も伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 202頁
源二郎が他国からの謀略書状を右馬頭へ届けて逆心を露見させたこと、鹿児島諏訪社前で龍伯に背く誓紙を作り帖佐では惟新の殺害を唱えたこと、惟新の富隈訪問前日に謀議したこと、少将書状を龍伯へ別様に説明したことなど、表裏ある行動を列挙した老臣覚書。
年月日未詳 / 冊子 624頁
島津忠将一流の系図で、忠将の初名・通称・官途、永正十七年の誕生、母が貴久と同母であることを記す。
慶長三年三月七日 / 冊子 197頁
島津以久が、龍伯・義弘・忠恒の三殿へ二心なく奉公し、その忠節を子孫にも守らせると誓った天罰起請文。親子兄弟であっても三殿へ逆心する者には同心せず、三殿から聞いた隠密を他言せず、世上の動きで注意すべきことは残らず報告するとする。また御家へ悪心を抱く者との誓紙交換をせず、進退について疑いを受けた場合は胸中を残さず糺明してもらうと約し、違反すれば諸神の罰を受けると誓う。
年月日未詳 / 冊子 355~356頁
慶長四年三月五日、島津以久が種子島から大隅垂水へ移され、島津忠恒から一万一千六百八十七石の知行に関する判物を与えられたことを記す。続く文面では、合計一万一千石のうち千石を無役、残る一万石を役儀負担とし、図書頭に勤務を命じる。
年月日未詳 / 冊子 913頁
島津以久譜は、島津氏の三州旧領と佐土原の沿革を詳述する。伊東氏の占領、豊臣政権下での島津豊久領有、関ヶ原での豊久戦死後の請願を経て、徳川家康が以久へ佐土原三万石を与えた経緯を記す。
(慶長八年)十月晦日 / 冊子 915頁
山口直友が島津忠恒へ、佐土原城を島津以久へ引き渡す決定と、そのため使者を以久に同行させたことを報じる。また又四郎を伏見へ在府させる方針を伝え、早々に上洛させるよう求めた。
3月25日 / 冊子 251頁/原整理番号 87-1
三月二十五日、島津義弘が右馬頭へ、妙谷寺を通じて下された命令を使僧から伝えたところ、右馬頭が直ちに上洛すると聞いて案じ、上洛を延期して義弘側を上洛させるのが下知の趣旨であり、私意ではないと念を押した書状。右馬頭がすでに途中まで出立していても必ず留めるよう求め、太守の意向どおり重ねて堅く申し届ける。
(慶長四年)三月廿五日 / 冊子 362~363頁
竜伯が又八郎に、大坂出船後の帰着、当所へ移す衆と屋敷配分、馬術に優れた入来院又六を当地に置く希望を伝える。荒地が多く当年の耕作が進まないこと、種子島左近大夫の知行を検地高五千二百余石と内検高八千五百石の中間である七千石(うち三百石加増)とする案、右馬頭の返地後に種子島を与える段取りを述べ、京都の息女の件を石田治部少輔や小西へ働きかけるよう依頼する。
(寛永五年)十二月朔日 / 冊子 73~75頁
樺山久高が、自家と父祖の軍役・知行・返地・加増の経緯を列挙し、右馬頭戦死後の処置、敷根境目の御座、春毛村・濱村などの領地、親族の奉公や処罰をめぐる事情を申し立てる。旧来の奉公と知行処分を根拠に、家の処遇を再考するよう求める長文申状。
慶安五年正月十一日 / 冊子 210頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0420
嶋津右馬頭の奥方が正月六日から病み、亀庵法印の療治を受けたが、八日から疱瘡と見られ駿河玄勝とも相談したこと、祈念の験もなく十一日昼に他界したことを町田久則が報じる。別件として町田助太郎が落馬により遠行したとの飛札を得たと記す。
年月日未詳 / 冊子 814頁
島津忠将一流の女子・男子と婚姻・子孫関係を系図形式で示す。天文十三年生まれの女子や入来院・北郷家との縁組を記す。
年月日未詳 / 冊子 10~11頁
弘治元年春、平松城を拠点とする島津方が帖佐を攻めた経緯を記す。三月二十七日、軽鋭の歩卒五人が高樋口で敵一人を斬り一人を捕え、島津尚久らが牛渡で敵を遮断して追撃、計二十六の首級を挙げた。尚久は城下放火の際に神社仏閣を厳しく保護した。四月二日夜、帖佐・新城・山田の敵が祁答院へ退去し、島津方が掌握した。
年月日未詳 / 冊子 11頁
弘治元年三月二十七日の帖佐攻めで、薩摩勢は別府川南、大隅勢は岩野原に布陣。島津尚久は薩摩南方衆を率いて牛渡で敵を遮り、自ら大太刀を提げて高樋橋口へ進んだ。強敵の鑓兵は家臣山本三河守が討ち、味方は城門を破って放火したが、尚久の厳命で神社仏閣は焼失を免れた。敵首二十六を挙げ、四月二日夜に帖佐・新城・山田の敵が退去した。
六月十九日 / 冊子 420頁
石田正澄が島津龍伯へ、大明との和睦に伴う朝鮮での通詞を勅使に付けて釜山浦へ渡すこと、その通詞の親弟が現地で夫役・地下役を課され困窮していることを伝え、代官衆へ諸役免除の墨付を出すよう求めた書状。
寛永十年十二月六日 / 冊子 417~434頁/原整理番号 213-1
新納仲左衛門忠雄日記の抜書。元和九年から寛永十六年まで、主君への出仕や江戸・鹿児島での行動、移動・宿泊、茶・酒・刀・馬などの拝領と贈答、家中の出来事を日付順に記す。
天正17年1月30日 / 冊子 251~252頁/原整理番号 87-2
天正十七年正月三十日、島津義弘が新納武蔵入道へ、右馬頭の下向について自分はまったく納得していないが、安宅三郎兵衛尉の奔走によって暇の件が決着し、右馬頭が直接御朱印を頂戴した以上は公儀に従うほかないと述べた書状案。附記は天正十七年から十九年の間に作成された草案の可能性を示し、本文が朱書で前文書の行間に記されていたとする。
延文元年7月10日(本文書。天保2年6月21日は後世の写置注記) / 冊子 662頁/原整理番号 146
延文元年七月十日、足利尊氏が島津上総入道貞久に、五月十日・十六日付の注進状を見たこと、中国方面には細川右馬頭頼之が発向したことを伝えた御教書。大隅・薩摩両国の地頭・御家人らが一向に参じないため再び催促し、なお承引しなければ報告を受けて特別に沙汰すると命じる。本文の後に、天保二年六月二十一日に写し置いたことや山門家古文書・別家所蔵を記す後世の注記がある。
天正16年9月10日 / 冊子 415頁
秀吉が島津右馬頭(以久)に対し、従来の本知・領地を以前どおり相違なく領有することを認めた判物。 以久が清水を彰久へ譲って上井城へ移った後も、その所領権を豊臣政権が正式に安堵した文書である。
(寛永七年)五月二日 / 冊子 165頁
近く帰国した折に詳しく申し伝える意向を述べ、土岐守の意向だけに任せないよう求めるなど、当面の取り計らいと心構えを指示した島津家久の仮名書状。
正保二年十一月二日 / 冊子 29~30頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0045
島津久守が平山対馬入道へ出した正保二年十一月二日の証状。季久以下、忠康が平山を号した家系と、五代右馬頭久武が永禄二年四月十八日に日向松山城で戦死し、久次らも肝付方に殺され無嗣となった経緯を記す。義弘が松本主殿助に平山を継がせたこと、久賀が由来を問わせたことを述べ、現在平山を称していても忠康の子孫ではないとして、諱字と平山の称号を妄りに許すことはできないと証明する。
元文五年十二月二日 / 冊子 17頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0052(の7)
比志嶋隼人が十二月二日、樺山典膳へ、但馬守が以前から復姓を願いたいと考えているため、本人に問い合わせた旨を伝える。元祖従右馬頭から現在の但馬守までが授与された口宣には、藤原と記されているのかを問い、詳しい返答を求める。
元文五年十二月四日 / 冊子 17頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0052(の8)
樺山典膳が十二月四日、比隼人へ、但馬守家の口宣に藤原とあるかという問い合わせに答える。元祖右馬頭以久の口宣は以前から見当たらないが、二代目右馬頭忠興以来、現在の但馬守までの口宣はいずれも藤原と記されると知らせる。詳しく別紙に記し、但馬守とも話したと述べ、この旨を伝えて配慮してほしいと頼む。
安永六年丁酉十一月朔日(墓表)、同月癸亥(碑陰文) / 冊子 539~540頁/原整理番号 1501/整理ID 1501
題は太夫人島津氏墓表で、題の八字は本文の列にまたがって大字で掲げられる。既に葬ってから三十三年として、子の懋昭が墓表を立てたと記す。太夫人は諱都美、島津氏、右馬頭忠将の後裔で、家は代々垂水を領し麑府に居住した。父の名は貴儔、自称備前、老いて自号靜山翁、太夫人はその嫡女とする。先君に嫁いで二年で没し、延享二年十一月七日、十九歳、法名は正覺院殿貞範妙雅大姉、墓は隅州加治木の長年寺にあると記す。祖夫人から聞いた人物評として、温恭慈恵、上に仕え下を慈しみ、平居幽閑で言笑を慎み、操縵・書札を好み、世俗の紛華を好まなかったことを載せる。男子は懋昭一人で、母の没時には生まれて才二日だったと記す。その後の嗣位襲封と、母の慈顔を知るに及ばなかった悲しみを述べ、安永六年丁酉十一月朔日、男・従四位上中将薩隅日三州守兼領琉球国源懋昭記と署す。近侍掌務臣山田明遠が薫沐拜書したと記す。続く碑陰文は、墓表を作った公が知学事臣山本正誼に碑の陰を書かせたものとし、夫人は圓德公の元配で、公が初め公族島津久季の嗣となったためその邑加治木へ葬られたと説明する。公が爵を襲った後、夫人の主を福昌寺祖廟へ祔し、諸侯の礼で祭ったことを、母以子貴の義として述べる。末は安永六年歳次丁酉冬十一月癸亥、知学事臣山本正誼謹記。編者注は原碑による補入、原碑文十行と篆字の区別を示す。
(寛永9年)6月21日 / 冊子 13~14頁/原整理番号 13
江戸を六月四日に出立した右馬頭の早打が十六日に佐土原へ着いたこと、加藤肥後守父子の改易が五月二十九日に酒井雅楽頭の屋敷で申し渡されたことを記す。肥後守は酒井宮内預けで出羽庄内へ、豊後守は金森出雲守預けで飛騨へとする。上使・目付の六月十日江戸出立を町の伝聞として伝え、加藤右馬頭の案内と、隈本・八代の城番予定者も列挙する情報覚書。