本田親存書状
三月七日 / 冊子 155~156頁
本田親存が高崎民部少輔・新納小右衛門佐に、蒲生城米の借用に伴う受状について述べた書状。本来は伊地知対馬守の管掌だが、関係する三人を自ら下知して取り成したため未処理であり、使者に持たせて進上すると伝える。上納時に改めて連絡し、自身は加治木普請の見回りで多忙なため書状で済ませる。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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三月七日 / 冊子 155~156頁
本田親存が高崎民部少輔・新納小右衛門佐に、蒲生城米の借用に伴う受状について述べた書状。本来は伊地知対馬守の管掌だが、関係する三人を自ら下知して取り成したため未処理であり、使者に持たせて進上すると伝える。上納時に改めて連絡し、自身は加治木普請の見回りで多忙なため書状で済ませる。
正月廿八日 / 冊子 453頁
年頭の使者と太刀一腰・馬一疋を遠路から贈られたことへ謝意を示し、詳しくは新納右衛門佐が伝えるとした島津光久書状。
(天正18年)5月17日 / 冊子 460頁
町田久倍・平田歳宗が、乗馬を梅北宮内左衛門尉に預けて使用させるという飯野からの命令を伝えた連署状。 馬の扱いをめぐって関係者が十分に相談し、油断なく管理するよう川上・町田両名へ求めている。
二月廿日 / 冊子 452頁
前年秋の耕作と物成が例年より良好だったことを喜び、従来の仕方にこだわらず良い制度へ改め、配当を早く実施するよう命じる。代官を入念に監督し、無調法者は交代させるよう指示した島津光久書状。
正月八日 / 冊子 453頁
年始の使者と太刀一腰・馬一疋を遠路から贈られたことへ謝意を示し、詳しくは北郷佐渡守が伝えるとした島津光久書状。
天正20年5月4日 / 冊子 557~558頁
島津義久が、義弘・久保父子の渡海後、自身も名護屋へ参陣するため、高麗への補給、名護屋在陣、京都での調達・執代を重臣たちに協議させた書下。 長年の在京で領国が困窮するなか、各担当が昼夜油断なく職務を果たし、留守中の国政を支えるよう命じる。
天正20年5月4日 / 冊子 558頁
前文書とほぼ同じく、義弘・久保の渡海と義久の名護屋参陣に伴い、高麗への見継ぎ、京都・名護屋での調達、領国内の執務を家臣団へ分担させた書下。 交付先を別の家臣群にした同文系統で、島津家が複数の重臣へ同時に留守国統制を命じたことが分かる。
年月日未詳 / 冊子 520頁
同日、加治木右衛門佐が横川から祁答院へ出軍して合戦となったが敗れ、一族の次民部少輔・彦二郎・鍋倉五郎らが討死した経過を記す譜記事。
天正十一年二月十二日 / 冊子 754~755頁
宇久純玄が伊地知重秀へ、以前から島津家の意向を受け、諸事が望みどおりになったことを祝して太刀一腰・馬一疋代を贈り、使者貞方右衛門佐の取りなしを依頼した書状。
天正十一年五月二十四日 / 冊子 755頁
天正十一年五月二十四日、上井覚兼が出仕すると、島津義久から忠平を八代へ移して名代とし国政を裁判させる構想について意見を求められた日記。老中・使衆・地頭衆を必要に応じ八代へ移す案を協議し、あわせて宇久純玄の使者貞方右衛門佐が書状・太刀・織物を持参したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 74頁
天正十三年秋、島津家久が肥後・筑後での軍功後も高知尾進出を図った記事。家久は高知尾の大友方勢力を警戒しつつ吉田右衛門佐・高崎越前守らを派遣し、小崎城への人員・兵糧の集積と現地勢力の服属を進めた。高知尾を島津方の軍事拠点へ組み込む過程を伝える。
正月廿八日 / 冊子 54頁
島津光久が、年頭の使者と太刀一腰・馬一匹の贈物が遠方から届いたことを喜び、謝意を述べる。詳しくは新納右衛門佐と鎌田源左衛門尉が伝えるとする書状。
(寛永六年)十一月廿六日 / 冊子 125~126頁
将軍御成の進上用腰物について、新納右衛門佐らによる選定、相国・将軍・雅楽頭・大炊頭向けの品、箱・巻物・道具の調達と運送、道中の宿や路地の手配を報告した書状。
(寛永九年)八月廿二日 / 冊子 312~314頁
島津久元・伊勢貞昌が、吉利下総守・新納右衛門佐を通じて伝えた国元軍役の談合状況を問い、武具兵具の調達、道具用意、知行高に応じた具足・馬・武具の賦課、御城の総高六拾万五千石を基準とする軍役などについて、早急な決定と報告を求めた連署書状。
四月十九日 / 冊子 452頁
領内の諸法度執行を新納右衛門佐に任せているため、その命令に少しも背かず、北郷式部太輔配下の江戸詰衆へも申し渡すよう命じる。新納にも遠慮なく指揮するよう伝えよとした島津光久書状。
年月日未詳 / 冊子 646-647頁
駒野で島津義弘(惟新)が花色の木綿衣を着け、同色の手拭で髪を包み、矢野主膳が用いた鞍に敷き替えて馬に乗ったことを記す。伊勢平左衛門が先導し、山間の道を夜通し進んで住吉へ至った。大坂屋敷にいた相良日向・吉田美作入道・新納孫右衛門・上原右衛門佐らも船で兵庫へ追い付き合流した。
「寛永十八年」十一月廿日 / 冊子 172~173頁
島津光久が新納久詮へ、川上久国にも書状を一覧させ、以前に書面で申し置いた筋目に従って諸事を遠慮なく指図し、その内容を久国にも知らせるよう命じた書状。現地や本人の無事を問い、不明な事柄は久国と相談して処理し、油断なく勤めるよう求めている。
年月日未詳 / 冊子 80頁/原整理番号 130-2
山田右衛門佐が諸大将の被官へ披露を求めた孟春下旬の矢文。四郎時貞らを成敗して乱を鎮めるため、切支丹方へ強制的に加わった百姓八百人を説得済みであるとし、城攻めの際に防戦を装って放火し、味方へ合流して小船で四郎を捕える計画を示して赦免を願う。
寛永十五年三月廿九日 / 冊子 378~381頁/原整理番号 481
『山田右衛門佐口達』は、松右衛門・善右衛門・宗意・源左衛門・山善左衛門らが四郎を大将に立て、島原・天草で役人を殺して住民を動員し、本戸・富岡を攻めた後、原城へ籠った経過を述べる。口之津の蔵米約五千石を運び、天草から約二千七百人が加わり、籠城者は男女計三万七千人、鉄砲五百三十挺とする。弾薬は正月二十日頃、兵粮は二月十日頃から乏しくなった。山田は有馬左衛門佐の矢文に応じて内応を図ったが露見して拘禁され、二月二十七日の攻撃時に妻子を失い、小笠原右近勢へ矢文を示して救われたと、寛永十五年三月二十九日に述べる。
(天正18年)1月17日 / 冊子 74~75頁/原整理番号 63の8
町田久倍・平田歳宗が川上大炊助・町田右衛門佐へ、関東立の際に梅北宮内左衛門尉を乗馬させる旨を飯野の意向として伝え、梅北と相談するよう指示する。又一郎の出立は今月十七日に決まり、油断なく備えるよう求める。後評は別に、出立・大坂着の経路と唐入り当初の軍役予定、朱印による一万人、慶長二年の増兵免除などを考証する。
「寛永十七年」六月十九日 / 冊子 120~122頁
島津光久が国元の重臣らへ、金掘りの方法を調べるため、佐渡などで経験を積んだ松平隠岐守家中の者から新納右衛門佐・五代正介・山田十左衛門に詳しく聞かせたことを伝えた書状。あわせて薩摩の作法や家中の仕置が悪化しているとして、松平隠岐守らとの相談、家老・親類・家臣の処分、申合せと秘密保持を厳命し、必要時には新納加賀守・勝目助左衛門尉らを付けた人数を派遣する手順まで示している。
「寛永十九年」二月七日 / 冊子 192~193頁
川上久国・新納久詮が国元へ、例年の四国浦廻上使として小笠原安芸守・向井右衛門佐が下向するとの情報を受け、相良主計助が両名に確認した結果を報告した連署書状。出立は同月二十~二十一日頃、巡見の方角は大坂で蔵奉行らと相談して決める見込みとし、国元へ早く知らせるよう求める。あわせて大名家の誕生祝儀・振舞、参府、虎寿の無事、銀子や屋敷の件にも触れている。
年月日未詳 / 冊子 196~197頁
寛永十九年、西国浦巡見の上使である小笠原安芸守・向井右衛門佐が下向し、薩摩国の京泊津に着船したのち甑島へ渡り、五月二十八日に加世田片浦へ来着して領内海辺を巡見し、六月十五日に領外へ出たことを記す。あわせて島津光久の帰館に触れる。
年月日未詳 / 冊子 198~199頁
新納氏古日記の寛永十九年六月の記事。六月三日に島津光久が日光参詣へ出発し、新納右衛門佐以下の供奉者を記すほか、六月二十八日から七月十五日頃にかけて道具衆が持ち下ったことと、御曹子島津綱久の元服に関する事項を記録する。
「寛永十九年」十二月朔日 / 冊子 219~220頁
島津久通ら三名が、翌年に金山を停止する件を伝えた連署書状。新納右衛門佐が阿部対馬守へ出向いたところ、金山を直接停止する旨を告げられた一方、領国内の者には採掘させたいとの従前の申出もあったため、酒井讃岐守と相談して改めて上聞に達することとなった。北郷佐州へも伝え、他国人を翌年早々に帰国させるよう厳命することを求めている。
(寛文八年)四月十五日 / 冊子 545~546頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1252
東福門院方の右衛門佐が島津光久へ、書状の内容を女院へ詳しく申し上げるとともに、新院御所の疱瘡が軽く、その後も機嫌良好であることを伝えた女房奉書。
年月日未詳 / 冊子 14頁/原整理番号 13
『平塞録』の記事。二十七日に松平右衛門佐が島原へ着陣したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 80頁/原整理番号 130-1
『寛明日記』六日条。城中の会津刑部・坂部源八・山田右衛門佐が有馬左衛門佐へ内通して謀反を企てたが、返矢文が別の番所へ射込まれて発覚した。会津・坂部は同夜成敗され、山田は拘束されて落城時に小笠原右近大夫へ生捕られたと記す。
年月日未詳 / 冊子 80~81頁/原整理番号 131
『藤掛集書』。会津刑部・坂部源八・山田右衛門佐らの有馬方への内通計画が返矢文の誤射で露見し、会津・坂部が殺害され山田が拘束・生捕りとなった経緯を記す。山田の妻子の処刑、宗門による一揆勢の結束、二月に松平信綱が強攻を望んだ一方、江戸上使が兵の損耗回避を命じたことも述べる。
二月七日 / 冊子 84頁/原整理番号 139-2
林丹波守克政が長岡佐渡守興長へ、国元から持参した鐘一口について、前夜に松平信綱から松平右衛門佐忠之へ貸し渡すよう命じられたため、興長の了承後に引き渡すよう求める。
年月日未詳 / 冊子 150頁/原整理番号 264
『平塞録』。十八日、旧冬以来約三十万人が原城を包囲して大筒を撃っても一揆勢が屈しないため、有馬右衛門佐が日向から金掘十人を呼び、峯十郎兵衛・三原半太夫を付けて海手の堀から地雷坑道を掘らせた。しかし城方が横坑を掘って侵入者を鉄砲で討ち、鍋島信濃守方の坑道にも不浄物を流し込んだため、計略は失敗した。忍者の潜入も成果なく、城方の結束と防備の堅固さを記す。
年月日未詳 / 冊子 172~175頁/原整理番号 293
出水士山本甚左衛門蔵本の「味方手負・死人之覚」。二月二十一日夜寅刻の原城方切出しに際する寄手側の討死・手負を、松平右衛門佐、黒田甲斐守、黒田市正、寺沢兵庫頭、鍋島信濃守らの家中別・人名別に列記する。味方損害の惣合は二百七十五人で、内六十九人を死人とする。続く「きりしたん首数目録」は松平・黒田・寺沢・鍋島・立花各手の戦果を掲げ、合首数二百九十二・合生捕七人と記す。味方損害と敵方の首数・生捕を別集計として扱う。
年月日未詳 / 冊子 190~193頁/原整理番号 315
『平塞録』の二十六日記事。松平伊豆守(信綱)の陣で諸大将が攻城を評議し、城内では鉄砲の発射が減り、竹木を薪にし、海藻を拾うほど糧米・玉薬が払底したとの報告を受け、二十八日卯刻から追手・搦手が一斉に総攻めする方針を定めた。松平右衛門佐が前後からの越矢を懸念したのに対し、妙解公は越矢は弱まり、多少の被害を恐れて攻撃を控えるべきでないと述べ、詳しい手配は翌日に定めることとなった。同日、籠城方の四郎太夫は困窮を理由に翌夜の夜討を決め、三千人と二千五百人の二備(計五千五百人)を諫早口から鍋島本陣へ向かわせ、うち場数を踏んだ二百人を時枝隼人・赤星主膳の指揮で先に潜入させて馬を放つ計画を立てた。さらに別働五千人を島原口から細川勢へ、水練百人を海上から寄手の後備へ差し向け、四郎太夫は大江口で松平右衛門佐陣への攻撃を装うとした。相印は右肩を脱ぎ新縄で鉢巻し、合言葉は「鼠か」に「猫」と答える。城内の虎口を固め、敵の潜入・放火を警戒して夜討に備えるよう命じた。
二月廿五日 / 冊子 199~203頁/原整理番号 321
『天草説書』に記された原城攻めの記事。二月二十六日に予定された城乗りは二十四日夕方から二十六日昼までの大雨で延期され、松平伊豆守は二十八日の総攻めを定めて諸大将を二十七日早朝に戸田左門氏鉄の陣所へ集めた。評定後の濃茶の席で物見櫓番が鍋島勢の突入を告げ、伊豆守が櫓から確認して諸将を各陣へ戻したため、予定外の攻撃に各軍が続いた。本文は鍋島勢の仕寄・竹束・梯子による攻撃、海手や各口からの諸勢の突入、榊原家臣らの戦闘を記す。黒田右衛門佐は天草丸への攻撃で退却しないと誓って諸卒を励まし、黒田美作が機を見て一度の下知で乗り崩したとする。黒田勢の損害は討死二百十三人、手負千余人。細川勢は三の丸を乗り崩して二の丸へ切り入り、酉刻に詰の丸東端を破って九曜旗を立て、敵前に柵木を詰め掛けて夜を明かした。この際の手負・死人は百人と記す。
二月廿五日 / 冊子 203~212頁/原整理番号 322
『藤掛集書』の「二月二十七・二十八日原之城落去之事」。二十七日朝、二十八日の城乗りを評定するため諸大将が戸田左門氏鉄の陣所に集まったところ、物見櫓番が鍋島勢の突入を告げ、松平伊豆守が確認して各将を陣所へ戻したため、諸勢が予定外の攻撃に続いた。本文は、軍法に背いた先行突入への批判、若年の近習・家臣らの戦功と戦死、証拠提出・褒賞の経緯を詳述する。また鍋島勢の先手三千人を二手とする編成、第二陣二千五百人、白布旗、梯子・竹束、海辺に潜ませた水練の達者百人などの攻城準備を記す。黒田右衛門佐が退却しないと誓って天草丸へ攻め、黒田美作が機を見て突入させた記事では、黒田勢の討死を上下二百人、手負千人余りとする。細川勢は二十七日巳の下刻、鍋島勢に続いて三の曲輪を破り、海手から二の丸へ入り、詰の丸東端を攻めて九曜旗を立てた。この時の手負・死人は百人。敵前に柵木を結って夜を明かし、二十八日早朝に四郎の居館へ入って焼き、天草四郎時貞の首を陣野佐左衛門が討ち取ったため、本丸一番乗りとして江戸へ注進したと記す。
年月日未詳 / 冊子 265頁/原整理番号 335-3
前掲の味方手負死人覚を総括し、落城後の生捕り処置を記す記事。二月二十七・二十八日の討死を1,126人、手負を6,950余人、合わせて8,086人とし、板倉主水・石谷十蔵らの郎等や諸国浪人の死傷は含めないと断る。前年十二月二十日・正月元日・夜討の4,917人を合わせ、寄手の討死・手負は一万三千余人とする。落城後に連行された捕虜四人のうち山田右衛門佐を松平信綱が尋問し、供述が落人の話と一致したため助命して有馬左衛門佐に預け、のち将軍の上意で江戸へ召し、信綱家臣としたという。
年月日未詳 / 冊子 265~266頁/原整理番号 336-1
『天草説書』所載の記事。二月二十七日から二十八日にかけ、黒田右衛門佐の一手が原城の詰の丸を攻め、一揆勢の石礫・材木・火を付けた苫・鍋釜・弓・鉄砲による防戦を受けながら、七、八間の石垣を登ったと記す。黒田三左衛門・橋本市郎右衛門・吉田久太夫・内藤源之丞・高橋忠左衛門・二宮六郎兵衛・福山長助らが乗り込み、二十八日巳の下刻に詰の丸の敵を討ち果たしたという。後段では、黒田右衛門佐が二度自身で城へ乗り込んだ理由を問われ、家臣と生死を共にするためと答え、先手を検分して恩賞・扶持を命じたと伝える。
年月日未詳 / 冊子 266~267頁/原整理番号 336-2
原城落城時に寄手が討ち取った首数を諸将別に列挙した覚。細川越中守285首(小字に四郎時貞の首と陣佐左衛門の討取りを記す)、黒田右衛門佐576首、鍋島信濃守692首、有馬玄蕃頭125首、立花飛騨守157首、松倉長門守47首、小笠原右近大夫25首、同信濃守15首、松平丹波守13首、寺沢兵庫頭108首、有馬左衛門佐83首、戸田左門18首、松平伊豆守15首、諸家使者中15首とし、末尾に「合二千四百四十余首」、松平伊豆守の首帳にこのとおりと記す。読取可能な14明細の合計は2,174首で、原記載の総数2,440余首とは一致しないため、数値を改めず差異を留保する。
年月日未詳 / 冊子 267頁/原整理番号 336-4
寅年二月二十七・二十八日の黒田右衛門佐家中の討死・手負者を記した覚。討死者として濱田五郎兵衛、松岡作右衛門、梶川作左衛門、八田仁左衛門、林与左衛門、勝野伊右衛門、戸田角兵衛、丹野七右衛門、高館源左衛門、大石庄右衛門、立花弥兵衛、南畝太左衛門、野口万右衛門ら計17人を掲げ、続いて黒田三左衛門・井上半兵衛・黒田太郎介・北村頼母介ら手負者の氏名を列挙する。本文の日付は目録年月日欄へ補入しない。
年月日未詳 / 冊子 296~297頁/原整理番号 337-1
『藤掛氏集書』所載の黒田右衛門佐一手による天草丸・詰の丸攻撃記事。二十八日、石礫・材木・鍋釜・弓・鉄砲による防戦下で七、八間の石垣を登り、黒田三左衛門・鷲見市郎左衛門・吉田久太夫・内藤源之助・高橋忠左衛門・二色六兵衛・福山長助らが乗り込み、巳の下刻ごろに敵を討ち果たしたとする。右衛門佐は家臣と生死を共にするため自身も城へ乗ったと答え、先手を検分して褒賞し、忠義の士へ腰物を下したという。336-1の『天草説書』記事とほぼ同文だが、出典および鷲見市郎左衛門/橋本市郎右衛門、内藤源之助/源之丞、二色六兵衛/二宮六郎兵衛等の表記異同を保持する。
年月日未詳 / 冊子 298頁/原整理番号 337-4
原城落城時に寄手が討ち取った敵の首数を諸将別に列挙した覚。鍋島信濃守692首、黒田右衛門佐576首、細川越中守285首(内、大将天草四郎時貞の首を陣野佐左衛門が討ち取った旨を付記)、立花飛騨守157首、有馬玄蕃頭125首、松倉長門守47首、小笠原右近大夫25首、同信濃守15首、松平丹後守13首、寺沢兵庫頭108首、有馬左衛門佐83首、戸田左門18首、松平伊豆守15首、諸家使者中15首とし、総数を2,440余首、松平伊豆守の首帳に付けた内容とする。読取可能な14明細は計2,174首で総数と一致せず、原記載を保持する。336-2とほぼ同文。
年月日未詳 / 冊子 306~308頁/原整理番号 339-3
同刻、黒田右衛門佐の詰の丸を乗り取ったとし、伝聞として、二月二十七日晩に大江郭を崩した黒田勢二万が本丸を直ちに攻め落とすため、追手西の空堀から南の升形下の海手まで展開して矢・鉄砲を放ち、柵・屏を破り投石・火矢で攻め込んだ経過を記す。黒田勢を中心に細川・鍋島など諸勢も本丸へ突入し、城内各所で首を取り、昼頃に諸大将が本陣へ帰ったとする。
年月日未詳 / 冊子 146頁/原整理番号 30
『久保氏見聞秘記』から長崎警固の沿革を抄出した記事。寛永十八年までは長崎奉行のみで大番がなかったが、同年、筑前福岡城主黒田右衛門佐忠元が異国警固と西辺防護の任を初めて願い出て許可され、翌年には肥前佐賀城主鍋島氏も同職を願い出たため、以後両家が交替で長崎を警固したと記す。正保四年には当番でない年にも加番するよう命じられ、夏秋は在国で加番、冬に江戸へ参勤して翌春帰国し、その年は長崎在番を勤める仕組みとなったこと、同年に南蛮船来航の先例があったことを述べる。
延宝八年二月二十二日 / 冊子 223~224頁/原整理番号 5
猿渡信安が、安宅三郎兵衛の先祖敷根仲兵衛と自らの曽祖父猿渡掃部兵衛との高麗での関係について証した書付。文禄二年春、石田治部少輔・大谷刑部少輔・増田右衛門佐・加藤主計頭らが在陣するなか、掃部兵衛が書状・感状を携えて使者を務めた経緯と、失われた証拠書類を写しによって確認したことを記す。
天正十三年九月二十九日・十月朔日 / 冊子 273頁/原整理番号 24の26
『上井覚兼日記』天正十三年九月二十九日条から、堀切より新納右衛門佐の書状が到来し、宝満・橘・筑紫方を切り取り、筑後表の戦況を報告した記事を抄出する。十月朔日条も引き、戦功に対する御礼が筑紫殿へ使僧を通じて伝えられたことを考証する。
天正十五年六月十五日 / 冊子 557~560頁/原整理番号 95
天正十五年の上洛中の見聞を記した日記。新納右衛門佐と京都へ向かい、聚楽の小路の高札、北野大茶湯、寺社・町中の見物、関白豊臣秀吉への出仕や御殿での饗応、細川氏の宿所への帰着などを日次で記す。
十二月十二日 / 冊子 71頁/原整理番号 25
野村元綱が伊勢右京へ、新納右衛門佐が申立てを上聞する際に自身も添って、両人で然るべく申し上げると伝える十二月十二日付書状。贈答への礼も述べる。
十二月廿一日 / 冊子 71頁/原整理番号 26
野村元綱が伊勢右京へ、新納右衛門佐が前日に申立てを上聞し、返答の様子は両老へ伝えたと知らせる。まだ家久の意向が定まらず、明日また申達するという十二月二十一日付の返書。
二月十六日 / 冊子 148~149頁/原整理番号 261
川上久国・三原重庸が仁礼頼充・鎌田政有へ、薩州様が到着したら、どこへ早く赴くかを次飛脚で逐次報告するよう求めた書状。追而書で、この書状を新納右衛門佐に見せたうえで早々に源左衛門へ回し、油断なく注進するよう命じる。
「寛永十九年」五月廿九日 / 冊子 197頁
二階堂伊行が、西国浦巡見の上使が五月二十八日夜に片浦へ着津した経緯を報告した書状。上使は京泊を出船後、予定外に甑島の中甑へ渡って各所を見分し、その日のうちに片浦へ着いたこと、前年までの上使が見なかった鹿児島表の内海も今回は巡見する意向であることを知らせる。