神戸五兵衛覚書
年月日未詳 / 冊子 629-630頁
井尻弥五助が島津方の書状と孔雀の尾羽二羽を徳川家康へ届け、良い返事を得た。帰路、水口で厳重な検問を予想して書状を焼き判だけを隠したが、不審者として二十日間拘留された。伊勢参詣と島津義弘(兵庫頭・惟新)の家臣松岡勝兵衛との関係を説明して釈放され、拘留に耐えた奉公を賞され、のち伏見城攻撃でも働いた。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
54 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 2
年月日未詳 / 冊子 629-630頁
井尻弥五助が島津方の書状と孔雀の尾羽二羽を徳川家康へ届け、良い返事を得た。帰路、水口で厳重な検問を予想して書状を焼き判だけを隠したが、不審者として二十日間拘留された。伊勢参詣と島津義弘(兵庫頭・惟新)の家臣松岡勝兵衛との関係を説明して釈放され、拘留に耐えた奉公を賞され、のち伏見城攻撃でも働いた。
七月廿三日 / 冊子 46頁
有馬純房が、伏見城をめぐる戦況と自身の奉公について知らせた書状。内府の内衆が籠城する伏見城を諸軍が昼夜攻撃し、惟新以下が戦う中、自身も大坂から召されて城際に配置され、鉄砲による負傷者が出たことを報告し、千代丸兄弟の養育も依頼する。
(天正19年)7月20日 / 冊子 510頁
大仏造立用の銅・地金・材木と木食上人との談合、国役負担、伏見城番の人数召集、大膳部少輔への関役一件を奏聞させる件、関屋七郎の勤仕、馬に関する礼などを列挙した覚書。中央の造営・城番負担と家臣・馬の処置を同時に整理している。
年月日未詳 / 冊子 760頁
秀吉が秀頼への天下継承を考える一方、秀次の立場が残るなかで隠居所を計画し、大和多聞から交通に便利な城州伏見へ築城地を変更した経緯を記す。増田長盛・石田三成が候補者を選び、六人の普請担当者を定めた。 伏見城築城の政治的背景と、城壁・道路・宿・茶屋まで含む大規模普請の編成を伝える記事。
文禄4年正月19日 / 冊子 863頁
北原勘右衛門尉が持参した書状と口上を受け、石田三成にも披露して返答させたと伝える。伏見城普請は前年十二月二十日まで行い、正月三日から再開したという。 朝鮮在陣の労苦をねぎらい、高麗から返納する米や蔵米の処置にも触れる。中央政権の普請と朝鮮在陣側の兵糧処理を結ぶ実務書状。
年月日未詳 / 冊子 889頁
義弘が乗船して日本へ到着したのち伏見城へ上り、秀吉に拝謁してその健勝と平安を祝ったことを記す。 朝鮮から帰還した義弘が、ただちに豊臣政権へ出仕した動きを簡潔に示す譜記事。
慶長元年九月七日 / 冊子 43頁
慶長元年九月七日、豊臣秀吉が伏見城で大明勅使を引見し、対面を遂げたことを記す島津家久譜の記事。金印・冠服・誥書と五十余具の冠服を授受し、明の礼法に従って美麗な饗膳を整えた冊封儀礼の様子を伝える。
慶長三年八月十八日 / 冊子 218頁
慶長三年八月十八日、前関白太政大臣従一位豊臣秀吉が伏見城で六十三歳で死去し、京都東南の阿弥陀峰に葬られたと記す。
慶長三年八月 / 冊子 228~229頁
『島津義弘譜』が、麻貴ら明軍が蔚山の加藤清正と対峙し、島津義弘・忠恒が一万の兵で泗川・新寨周辺の諸塁を守り、近隣諸邑へ軍事行動を行った状況を記す記事。豊臣秀吉は伏見城で没する際、死を当面秘し、浅野長政・石田三成を筑紫へ急派して朝鮮在陣諸将を帰国させ、撤兵が難しければ徳川家康・前田利家の遠慮により十万の兵を異国の枯骨としないよう遺言したとする。
年月日未詳 / 冊子 232頁
『島津家久譜』が、八月廿五日付の朱印状は後に虚偽と判明したと記す記事。豊臣秀吉は同月十八日に伏見城で没しており、死を当面秘して浅野長政・石田三成を筑紫へ急派し、朝鮮在陣諸将を帰国させること、撤兵が難しければ徳川家康・前田利家の深慮により十万の兵を異国の枯骨としないことを遺言していたため、五奉行の快気通知も真実ではなかったとする。
(慶長四年)四月四日 / 冊子 373頁
島津義久が忠恒に、去月十八日付書状を今月朔日に受領したと伝える。徳川家康への礼に際して義弘には馬、忠恒には鷹が贈られたことを喜び、家康の伏見城移転を祝う使者が厚遇され、忠恒の下国も許されたらしいため、近日の帰着後に詳しく話したいと述べる。
(慶長五年)五月五日 / 冊子 541~542頁
島津惟新が少将殿に、山口直友の上洛に伴い入来院又六と善載坊を使者として送り、口上を受けて大坂から内府へ報告したと伝える。庄内の平定、源二郎の召し出しと知行二万石、茶碗拝領を喜び、奥州出陣時に少将が伏見城番を命じられる見込みであるため、堅固な留守番衆を整えるよう善載坊を通じて指示する。
年月日未詳 / 冊子 552頁
島津豊久が五月十一日に佐土原を船出して上方へ赴き、伏見に在城したのち、関西諸侯の帰国と東西対立に遭遇した経過を記す。義弘は徳川家康との盟約を踏まえて伏見城入城を求めたが守将に拒まれ、石田方の勝算を危ぶみながらもやむなく一揆に随った。八月朔日に伏見城を先陣し、美濃洲俣・大柿を経て、石田・毛利・長宗我部らと駒野で評議し、関ヶ原で東軍を待って一戦を決するに至ったという。
(慶長五年七月) / 冊子 555頁
島津義弘(惟新)が、伏見城本丸・西丸の間の在番、豊臣秀頼のための相談、安国寺恵瓊の留置、伏見・大坂の警固、増田長盛からの書状を小堀へ遣わすこと、同名中務太夫(島津豊久)の召置き、奉行衆一人の伏見在番などを箇条書きにした覚書案。七月十二日夜半に旅庵を大坂へ下して渡した条書の案文と記す。
七月廿三日 / 冊子 556頁
有馬純房が宿許へ、伏見城に徳川家康の内衆が籠城し、諸軍勢が昼夜攻めていること、島津義弘(惟新)以下が軍労していることを報じる。自身は大坂に召し置かれていたが人数の一部を伏見へ寄せ、城際まで進んで鉄砲傷の者を出したものの自分は無事であり、奉公に励む覚悟を述べる。あわせて千代丸兄弟の手習いなど家中のことを頼む書状。
七月廿九日 / 冊子 557~558頁
島津義弘(惟新)が、本田右衛門尉・伊集院左衛門尉へ、徳川家康が豊臣秀吉の置目に背いて上杉景勝征討のため東国へ出馬し、秀頼のために好ましくないことが多いため諸将が一同に武装したと説明する。伏見城攻防のさなか人数不足で忠節を尽くせないと嘆き、身分を問わず心ある者を急ぎ上洛させること、両名は在国して動員を整えることを命じる書状。
年月日未詳 / 冊子 558頁
樺山紹剣が、徳川家康の東国下向中に石田三成が謀叛の張本となり、伏見城を攻め落として美濃へ退いたこと、福島正則が石田方の企てを家康へ知らせ、関ヶ原で防戦して石田方が敗れたことを記す。島津勢は残兵をまとめて追撃を退け、伊勢・伊賀・大和・河内・和泉を通り、船で瀬戸内を経て日向細島へ帰着したという。
年月日未詳 / 冊子 558~559頁
神戸久五郎の聞書として、徳川家康が大坂から江戸へ下向する際に島津義弘(惟新)へ伏見城在番を頼んだが、鳥居・内藤・落合らが本丸を引き渡さなかった経緯を記す。石田方の攻城時には松丸口の仕寄を久来院又七・久留休斎・松岡勝兵衛らが担当し、敵近くまで築いた仕寄の働きにより、勝兵衛が義弘から賞賛と饗応を受け、一命を捨てて奉公すると決意したという。
年月日未詳 / 冊子 559頁
慶長五年八月朔日の伏見城攻撃で、有馬藤七兵衛純房が戦死し、その従者・小者やともに討死した者を列挙する記事。善七・善六・白坂助六篤次・井尻甚六・福永助十郎・四本人兵衛忠次・東郷源四郎重信・和田仲蔵義音・松元市右衛門・小川平左衛門・牧喜助らの名と一部の戦死事情を記す。
年月日未詳 / 冊子 560頁
大重平六が、石田三成の挙兵に際し島津義弘(惟新)が徳川家康との特別な関係を理由に同心を拒んだこと、伏見城への籠城を申し入れたものの城方に拒まれたことを記す。井尻弥五助を江戸へ遣わしたが、家康の返書を携えた帰途に近江水口で襲われ、返書は判のみを残したという。
年月日未詳 / 冊子 560~561頁
大重平六の覚書。七月十九日に伏見城攻撃が始まり、八月朔日に落城したのち島津勢が美濃へ向かい、大垣近くの奥窪・六之渡付近に陣した経過を記す。岐阜城陥落と石田勢の敗戦を受け、洲俣の人数をまとめ、新納弥太右衛門・川上久右衛門らが石田治部少輔の馬口を取り、島津豊久らと大垣城へ籠ったこと、家康が赤坂に陣し義弘が大垣に滞留したことを述べる。
年月日未詳 / 冊子 561頁
島津義弘(惟新)譜として、徳川家康の上杉景勝征討中に石田三成が残留大老を謀って関東に対抗し、義弘へ出兵を催促した経緯を記す。義弘は七月二日から十七日まで繰り返し拒み、伏見城への入城と守備を願ったが鳥居・内藤らに拒絶された。朝鮮出兵や伊集院忠真の反乱で兵が二百余人に減り、忠恒や義弘の妻を含む一族が大坂に人質としていたため、やむなく石田方に加わり、八月朔日に伏見城を落としたと説明する。
八月廿三日 / 冊子 568~569頁
福崎重親が、八月十四日に細島を出船し、同月二十一日に大坂へ着いたことを知らせる。島津義弘(惟新)は美濃の城を攻めるため大坂から奥へ進み、自分たちも二十四日に後を追う予定とする。京都・伏見・大坂の無事、先着・後船の薩摩衆や大坂残留者を報告し、伏見城が八月一日に陥落して福永弓左衛門・井尻甚六が戦死し、抜水与兵衛が負傷したことも伝える書状。
(慶長五年)九月朔日 / 冊子 572~573頁
長井利貢が伊地知勝左衛門尉らへ、大坂では諸大名屋敷の門番が厳しく、人の出入りや帰国用の船・帆道具にも支障があると報じる。七月晦日夜から八月朔日にかけて松之丸や石田屋敷へ内応者が入り、本丸が落ちたこと、伏見城を守った鳥居・内藤・松平の三名、石田方の動き、伊勢方面の城と大坂城内の騒ぎなどを伝える書状。
年月日未詳 / 冊子 581~582頁
石田三成が徳川家康に背き関西諸国を動員した際、島津義弘(惟新)は家康との盟約により伏見城を守ろうとしたが、鳥居元忠・内藤家長らに入城を拒まれ、やむなく石田方として関ヶ原へ出陣したと記す。西軍敗北で一族・家臣に多数の戦死者を出しながら義弘は帰国し、国中が動揺するなか、島津忠長と鎌田政近が赦免を評議した。翌年、政近を上京させ、本多正信・山口直友の仲介で義弘の赦免と誓書を得た経緯を述べる。
年月日未詳 / 冊子 582頁
石田三成の挙兵で東西が分かれた際、北郷忠能は在国したが、西郷孫一久永は七十五人を率いて伏見にあり、島津義弘(惟新)に従って伏見城攻撃に参加し、家臣和田仲蔵義吉が戦死したと記す。その後、北郷忠泰・久栄が数百兵を率いて上洛し、九月十五日の関ヶ原合戦では根占清右衛門尉・小杉頼長・知覧忠清・津曲兼親以下、多数の忠能家臣が討死したことを列記する。
年月日未詳 / 冊子 584~585頁
徳川家康が奥州の動きに対して東国へ出陣した隙に石田三成が挙兵し、島津義弘(惟新)は伏見城の警衛を申し出たものの入城を拒まれ、やむなく三成方へ加わったと記す。伏見城陥落後の関ヶ原合戦では西軍が敗れ、義弘は大坂にいた妻子らを伴って十月上旬に帖佐城へ帰還した。義久は家康との誓約に背いたことを厳しく責め、寺沢正成・山口直友から惟新と同意か否かを問う書状が届いたとする。
年月日未詳 / 冊子 626-627頁
帖佐宗辰は、徳川家康が上杉征討で関東へ出陣中に石田三成が反乱し、西国大名を動員した経緯を記す。島津義弘(惟新)は家康と事前に申し合わせがあったため石田方への加担をためらったが、供人数不足でやむなく石田方に属し、伏見城の鳥居元忠攻撃に参加した。
年月日未詳 / 冊子 630頁
伏見城落城後、島津義弘(惟新)一行は大津から船で佐和山へ向かったが大風で八幡山に宿泊し、翌日佐和山、続いて垂井を経て大垣へ入った。曽根を先手とし、河渡の守備兵が東軍に破られて大垣へ追い込まれ、岡山にも東軍が陣取ったため、味方が後手にならぬよう関ヶ原へ出て一戦する方針を定めた。
年月日未詳 / 冊子 642頁
島津義弘(惟新)が伏見城入城を再三求めたものの拒まれ、身を守るためやむなく石田三成方に従った事情を島津義久(龍伯)が酌量した経緯を記す。関ヶ原敗戦後に鞍馬山へ潜んだ新納旅庵・本田助丞も、山口直友の取り調べで同じ事情を説明し、徳川家康が義弘の不得已を認めたため、井伊直政・本多正信らが和議と上洛謝罪を仲介した。
年月日未詳 / 冊子 867-868頁
伊地知季安の考証。霧島山普門院への寄進状に続く時系列として、徳川家康が十二月二十五日に駿府から伏見城へ戻り、大坂の島津忠恒を召し、二十八日に忠恒が伏見へ赴いたこと、島津忠長ら五人が城内まで随従したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 869頁
島津義弘譜は、徳川家康が伏見城へ戻って大坂の島津忠恒を召し、十二月二十八日に福島正則の先導で忠恒が伏見城に登った経緯を記す。家康は忠恒に懇切に応対し、良馬二匹と俊鷹二連を与えた。
年月日未詳 / 冊子 882頁
島津家久譜は、慶長八年二月十二日に勅使が伏見城へ赴き、徳川家康が征夷大将軍に宣下され、牛車・兵仗を賜り、淳和院・奨学院別当および氏長者に任じられたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 18~19頁
五月十九日、島津忠恒が召しに応じて伏見城の営所へ登り、徳川秀忠から手ずから点茶を賜ったことを記す記事。茶亭で珍膳・茶碗・茶壺・名器・名画などを拝見し、退出後に登城して茶の礼を述べた。
年月日未詳 / 冊子 21頁
六月二十九日、島津常久が和久甚兵衛尉の案内で伏見城へ登り、大樹徳川家康に拝謁して太刀一腰・馬代五百疋などを献上したことを記す記事。退出後は太守の旅館へ報告し、宿所では身分を問わず多くの者から祝意を受けた。
年月日未詳 / 冊子 51~52頁
得能氏記録から、徳川家康・秀忠の伏見・江戸往来と秀忠の征夷大将軍任命、参内、諸大名・公家の叙位任官などを日付順に記した記事。家康の伏見城修理や江戸帰還までを収める。
(慶長十一年)四月十九日 / 冊子 68頁
慶長十一年四月十九日、島津忠恒が伏見城へ登り、徳川家康に拝謁して職務上の礼を述べたことを記す島津家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 646頁
伏見城で猿楽能が催され、家久を含む大名が台命により観覧し、その際に示された法度条書を家久が父義弘へ送り、国中へ周知したことを記す島津家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 701頁
元和五年五月二十六日、徳川秀忠が伏見城へ入った際、島津家久が山科まで出迎え、その行為が秀忠の耳に達して厚意を受け、のち旅館へ戻ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 701頁
元和五年六月朔日、島津家久が伏見城へ登り、幣物を献じて徳川秀忠に拝謁し、当年の慶賀と秀忠の上着を祝い、その後宿所へ戻ったことを記す。
元文五年十二月 / 冊子 618頁/整理ID 1558
家老座は家久の家督相続年月日・年齢はなお不明と届ける一方、慶長七年十二月二十八日に伏見城で徳川家康に初めて拝謁し、翌年二月に国元への暇を得て刀・馬・鷹を拝領したと報告する。慶長七年には二十七歳だったと記す。
年月日未詳 / 冊子 387頁
大仏造立用の唐金・地金を木食上人と相談する件、国役、伏見城番と供衆の人数、大刑少殿内の閑斎の弟の奉公、杵綱平六、出水瀬崎父馬への母駄給付など、複数の用件を列記した覚書。
六月十三日 / 冊子 36頁
毛利輝元の使者や西国衆の下国の噂を伝え、相手が伏見城を預かるという話の真偽と徳川家康の到着予定を尋ね、来訪と石田弥介への取次を求めた龍山こと近衛前久の書状。
(慶長5年)4月27日 / 冊子 83頁/原整理番号 63の26
伏見城を請け取り諸口が多いため、人数と兵糧を相談して急ぎ調えるよう求める。庄内在陣の侍も難儀しており、他勢は奥州出張で百石三人役だが、当方は留守番なので二人役なら調達できると述べる。後続説明は、慶長五年春の会津出兵に伴う惟新の伏見城番要請と、龍伯への四月二十七日書状の引用であることを記す。
巻六/冊子 86~88頁
関ヶ原合戦で義弘が石田三成方に属し、敗戦後に敵中突破して帰国した経過を記す。義弘は本来、家康と秀頼への忠節・相互不害を誓う起請文を交わし、伏見城を守ろうとしたが、鳥居元忠・内藤家長に入城を拒まれ、身を守るためやむなく石田方へ加わったと弁明される。九月十五日の関ヶ原では小早川勢の寝返りで西軍が崩れ、島津勢は二百人に満たない小勢となった。正面突破の退却で島津豊久が身代わりとなって戦死し、阿多盛淳も義弘を名乗って敵を引き受ける。川上忠兄弟らは追撃する赤備えの将を鉄砲で落馬させ、義弘を近江・伊勢・伊賀・大和・河内から住吉・大坂へ逃す。大坂では義久の娘、忠恒の母ら人質を船に乗せ、薩摩へ帰還した。西軍加担を義弘の本意ではないと説明しつつ、退き口での家臣の犠牲と武勇を顕彰する記事である。
記事成立日:未確認 記事内参照年紀:文祿四年乙未九月三日 記事内参照年紀:慶長五年庚子 記事内参照年紀:五月廿五日 記事内参照年紀:七月十四日 記事内参照年紀:同年九月十五日 記事内参照年紀:自十月朔日至拾一月六日共三十六箇日 記事内参照年紀:慶長七年正月十五日 / 冊子 199~200頁/整理ID TMP-P02-CONT-A75
文祿四年九月三日の先領七ヶ所返地、吉利村田數三千二百、在判目録に関する叙述を置く。本田下野入道三清・伊集院右衛門大夫入道幸侃の名があり、授受の細部は留保する。 慶長五年の伏見宅地警衛、五月廿五日の吉利出発、七月十四日の大阪到着、三成と家康卿との隙を記す。伏見城攻撃の先登戦功と、惟新君が川上久右衛門に伝えさせる感言に言及する。 同年九月十五日の濃州関之原合戦で関西軍が敗散し、重張が惟新君を離れ、喜入攝津守・新納族庵・本田助〔丞カ〕父子等と伊吹山へ退去したとする。頼實僧を含む四人、海津・江州小松への移動、寄宿拒否、穴居と捕縛・大阪への移送を述べる。省略主語・人数句の指示は留保する。 山岡修理亮殿、頼實の僧體・獄舍に係る句、重張の免除をめぐる訴えを記す。収監操作の主体と直接引用範囲は未確定。十月朔日から十一月六日まで三十六箇日の獄舍滞在、原免、泉州堺・藝州廣島への移動、文識房の学問・越年、慶長七年正月十五日の帰郷を述べる。学問の主語は重張へ補わない。
(慶長五年)八月十五日 / 冊子 562~563頁
毛利輝元が、七月十九日付書状への返書として、伏見では島津兵庫頭らの働きで城方を討ち果たし、伊勢方面へ人数を出して各所を処置していると報じる。徳川家康の上洛を見込み一戦を覚悟する一方、佐竹・最上・会津が一味したとの情報から上洛が不定とも聞くとし、当地は堅固なので安心するよう述べ、御方様の早い上国を待つ書状。宛所は原本で切れている。
年月日未詳 / 冊子 604-606頁
新納旅庵が、出水滞在中に上方の不穏を聞いて大坂・伏見へ向かい、島津義弘(惟新)に従って関ヶ原合戦期の軍事行動と退却を経験した経緯を記す。使者の往来や、龍伯・少将の上京をめぐる本田助之丞との交渉にも及ぶ。
年月日未詳 / 冊子 870-873頁
得能氏の記録が慶長七年の主な出来事を月日順に列挙する。徳川家康の動静、諸大名の任官・死去、各地の合戦・事件、島津忠恒の上洛・伏見登城と家康への拝謁、島津家臣の随従など、中央政局と島津家に関わる一年間の記事を四頁にわたり詳述する。
年月日未詳 / 冊子 921-923頁
得能氏記録は、慶長八年の年頭に諸大名が伏見・大坂で徳川家康と豊臣秀頼へ賀礼したことや、島津家への加増を記す。さらに関ヶ原後に薩摩へ潜伏した宇喜多秀家の発見・出頭、島津忠恒による助命嘆願、駿府移送を経た八丈島配流の経緯を詳述する。