島津義弘書状
(天正19年)2月16日 / 冊子 500頁
島津義弘が新納伊勢守へ、次郎四郎の暇乞いが石田三成の都合で遅れていること、伊達政宗の突然の上洛で京都が静謐となったことを知らせる。屋形造営、旧来の借物返済、又一郎夫妻の在京処置を鎌田出雲守と熟談し、栗野留守居にも配慮するよう求めた実務書状。
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(天正19年)2月16日 / 冊子 500頁
島津義弘が新納伊勢守へ、次郎四郎の暇乞いが石田三成の都合で遅れていること、伊達政宗の突然の上洛で京都が静謐となったことを知らせる。屋形造営、旧来の借物返済、又一郎夫妻の在京処置を鎌田出雲守と熟談し、栗野留守居にも配慮するよう求めた実務書状。
十一月廿六日 / 冊子 137頁
近衛尚通が上井伊勢守に、初めて書状を送り、今度の京都での不慮の錯乱により諸事に対処し難いため、匠作への使札について然るべく取り成すよう依頼した書状。品三本を送ったことを付記し、詳細は進藤筑後守から伝えるとする。
二月廿九日 / 冊子 137~138頁
伊勢貞知が上井伊勢守に、先の使者への謝意を述べ、家門からの書状と品十本を取り次いだことを伝えた書状。近く参上する意向を示し、以前からの交誼を懐かしみ、今回会えなかったことを惜しんで、関の小刀五本を音信として贈る。
九月廿八日 / 冊子 138頁
有馬晴信が伊集院右衛門大夫・上井伊勢守に、相手方の堺への着陣と二国掌握を祝し、自身が西目へ渡海して各地を調略したことを報じた書状。大村丹後入道の子を長崎まで出して懇望を受け入れたこと、伊佐早・津境方面の処置と援兵を求め、少人数でも派遣されれば当国の静謐は速やかに実現すると訴える。
九月十三日 / 冊子 139頁
近衛前久が上井伊勢守に、豊薩の和睦についてたびたび申し越していたが、春以来の大坂での奔走により返答が遅れたと述べた書状。織田信長のため伊勢因幡守を下向させることを伝え、双方が同心するよう取り成すこと、大鷹を差し上げることを求め、扇十本を送ったと付記する。
九月一日 / 冊子 209頁
先に使者を送ったところ、返礼として遠方から使札を受け、かえって恐縮したと述べた。毛利伊勢守が駿府・江戸へ見舞いに参上して首尾よく用を果たしたことを祝い、詳細を使者に託した書状案。
六月十七日 / 冊子 491頁
伊勢守貞宗が島津又三郎に、京都静謐の際に他者が占有した五条町樋口間の屋地について、早く申請して還補を受けるよう勧めた書状。
年月日未詳 / 冊子 774頁
天文八年三月二十八日、日新公が川辺古殿へ赴き、高城主鎌田加賀守の降服を受け入れたこと、四月朔日に本城へ戻って新納伊勢守に凱歌を教えたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 801~802頁
種子島時堯父子の不和をめぐり、島津貴久が伊勢守を将として派遣し、軍船で種子島へ渡らせた経過を記す。交渉によって父子を和解させ、軍勢を帰還させた。
年月日未詳 / 冊子 802頁
種子島父子の争いに際し、貴久が新納伊勢守を大将として二百余騎を船で派遣したことを記す。交渉で父子を和解させ、軍勢は無事帰帆した。
年月日未詳 / 冊子 802頁
天文十一年三月二十三日、種子島父子の争いを鎮めるため、貴久が新納伊勢守を大将として軍勢を派遣した経過を記す。父子の和解後、軍船は帰帆した。
年月日未詳 / 冊子 110頁
北原家中の宗論と離反により白坂美濃守らが島津方へ付き、栗野・吉田・馬関田・吉松へ番兵を求めた経過を記す。横川城の北原伊勢守・新介を攻めて数百人を討ち、城を落としたのち、貴久・義久は忠勤への恩賞として横川を菱刈氏へ与えた。
元亀元年正月五日 / 冊子 231頁
永禄十三年正月五日、新納伊勢守が隈城を受け取り、入来院氏が百次・平佐・高江・宮里・天辰・碇山を、東郷氏が水引・中郷・湯田・西方・高城を差し出した。清敷と東郷を両家に残し、宮里を平田狩野介、川向こうの諸地と山野城を義虎へ与えた。評定後、貴久は加世田へ、義久は鹿児島へ帰還した。
元亀元年正月 / 冊子 232頁
元亀元年、渋谷党が押領地を差し出して降参したため、義久が罪を許し領地を再編した。隈城を新納伊勢守に受け取らせ、入来院・東郷両氏には清敷・東郷を残した。宮里を平田狩野介、高城・水引・中郷・西方・京泊を義虎へ与え、家久を隈城地頭に任じた。
天正二年九月廿八日 / 冊子 345頁
天正二年九月二十八日、天草氏の使僧来迎寺が太刀・厚板物・馬代を携えて来訪し、先代以来の隣好回復を求めた。義虎の使者伊勢守も滞在していたため、島津側は義虎と天草氏の和睦を提案したが、義虎方が天草領一所の割譲を条件とし、天草方が拒否して双方は帰国後に復命することとなった。
年月日未詳 / 冊子 50頁
天正十三年四月二十四日、島津義久は町田出羽守・伊地知伯耆守を使者とし、上井伊勢守・鎌田出雲守・山田新介らを介して忠平へ命令を伝えた。前年春から忠平を義久の名代として八代へ移し、国政裁判を担わせようとしていたが、忠平は固辞を続けていたため、二十六日に重臣五名へ書状を託して再度説得させる。肥後支配を担う人事が、忠平の辞退と家臣団の仲介を経て進められたことが分かる。
年月日未詳 / 冊子 137頁
天正十三年十二月、島津家久・上井伊勢守らが宮崎方面へ進み、高知尾からの情報を受けて豊後勢と戦った経過を記す島津義久譜。敵兵を多数討ち取る一方、退路や補給に苦しみ、家久が高知尾へ援兵・兵糧を求め、入田氏にも働き掛けた。豊後方面の前線での苦戦と補給要請を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 233頁
七月十四日、吉利下総守が三城から宮崎へ至り、国境に異変がない旨を上井伊勢守へ報じたこと、井尻伊賀守が八代から封物を携えてきたことを記す。さらに長寿院・大善坊を京都へ遣わし、前年に鎌田刑部左衛門尉を介して関白へ伝えた件を再度説明しようとしたが、鎌田の病で果たせなかったという。国境情報と京都外交の連絡経路を併記した記事である。
天正15年7月20日 / 冊子 351~352頁
福智長通が島津義弘方へ、上井伊勢守と同名の右馬頭のもとに「白唐犬」と「白野牛」がいると豊臣秀長が聞き、両方を所望していると伝えた書状。両人宛の書状を伊下野殿に託して依頼したが、まだ動物が到着しないため、書状が届かなかったのか、そもそも該当する動物がいないのかを確認するよう求める。入手できれば佐土原へ届けることとし、又七殿にも取り次ぎを頼んでいる。
(天正19年)12月19日 / 冊子 522頁
島津義久が琉球国王へ、琉球船の遅滞について京都から重ねて厳しい催促があり、従来の疎略を看過できないとして早急な履行を求める。唐入りと名護屋普請はいずれも天下一統の国役で、九州・端島まで責任を負うべきだと諭し、詳細は新納伊勢守に申し含めた書状。豊臣政権の出兵・普請負担を琉球へ及ぼす内容。
九月廿六日 / 冊子 138~139頁
差出人不詳の覚書。日州への使者、安国寺からの書状、島津忠棟の納得を前提とする礼物・役人への依頼、京都周辺での金銀借用などを条々に記す。京都の薩州関係者や飫肥方面の動向、福地・福田との交渉、畿内へ向かう船便、日州口の防備について上井伊勢守側の判断と早急な対応を求める。
十一月三日 / 冊子 86頁
歳暮の小袖一重を贈り、大御所が鷹野に滞在していること、薩摩屋敷の門などが立派に完成したこと、自分の娘綾が田町の水谷伊勢守と近く祝言を挙げる予定を報告した書状。
文禄2年11月15日 / 冊子 753頁
町田久倍が、九州・中国衆の朝鮮在番命令を受けた追加軍役と名護屋普請の負担について、国ごとの調達内容を記す。あわせて京都で借りた銀の返済では、唐目・日本目や後藤判の秤量差が問題となったことを挙げる。 軍役負担と銀の計量・決済という二つの実務問題を整理し、後日詳細を伝えるとした覚書。
慶長九年二月 / 冊子 927頁
琉球国王宛ての書状案。琉球商船が逆風で奥州へ漂着した際、徳川家康の命により薩摩を経て送還したことや、平戸に漂着した琉球官船を新船に替えようとした恩を列挙する。一方、琉球が豊臣秀頼への礼や薩摩の使者・朱印への返答を欠いたことを厳しく戒め、甑島に船を留置し乗員二、三人を帰す旨を述べる。
元禄二年四月三日 / 冊子 835頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2200
島津綱貴が高木伊勢守・藤堂伊予守の家臣へ、江戸および関東筋の川舟に付す極印を改める旨の書付を受け、その内容を承知したと回答した書状。
元禄五年十二月十日 / 冊子 886頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2396
島津綱貴が高木伊勢守へ、領国内で鉄砲により猪・鹿・狼を撃った場合、害獣止めのため撃った頭数の証文を提出するよう命じられた件を了承した旨を届けた書状。
安政3年(外包)7月廿五日・7月・8月;外包:8月18日 / 冊子 170~172頁/原整理番号 237/整理ID 237
篤君の生母の表向きの取扱いと近衛家養女・君号名字の折紙に関する一件。向後恒姫を生母と定めるとの仰出を受け、伊勢守へ届替の必要、清書の文言、新御殿の実印、年寄・側役、御礼女使や平常文通の扱いを内々に問い合わせる。阿部からの達では、国元と系図にもその旨を記すよう申し渡す一方、この扱いを内事として心得ることを述べる。別段の願いは不要とする書取と、届書を差し出すに及ばない旨の七月廿五日付薩摩守宛書取を収める。生母関係には五通を一封とする注があり、右府の御口状も続いて六通の書取を包むと記す。右府口状は養女承諾に伴う君号・名字を伝え、使者は北小路刑部権少輔。八月の伯耆による御記録奉行への申渡では、近衛右府の養女承諾と使者による君号・御譜の折紙授与、本書は篤君が所持し写しを格護することを記す。外包には安政三年八月十八日、伯耆から格護を命じ、青山弥兵衛が白木御文書十番箱へ収納した旨がある。恒姫への指定は文書上の扱いであり、実際の出生関係とは区別する。
年月日未詳 / 冊子 508頁
文明十六年の薩摩・大隅・日向三州大乱を記す島津氏譜記事。伊作久逸・新納忠続らの対立に対し、島津忠昌が治部少輔・伊勢守・近江守らを介して仲裁し、近江守の移封、所領・兵糧配分を調整したが、諸勢の不満が収まらなかった経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 509頁
文明十六年、三か国の分裂を背景に伊作久逸・新納忠続側が島津忠昌へ訴えた内容を記す。忠昌は近江守・治部少輔・伊勢守らの使者を介して仲裁し、所領移転と和睦条件を調整したが、双方が譲らず交渉が不調に終わり、対立が継続した。
「天文四年」七月廿六日 / 冊子 735頁
日置伊勢守久参が山田殿に宛て、使者から得た諸方の動静を報告した書状。北郷・肝付・伊地知・入来院諸氏との連絡状況、各家の返答、領地と軍勢をめぐる相談を詳しく申し送り、情勢に応じた出兵・交渉について山田方の判断と協力を求める。
年月日未詳 / 冊子 801頁
天文十一年三月、島津忠良と貴久が伊勢守・樺山氏らの軍勢を率いて大隅方面へ進み、北原方との合戦に臨んだ経過を記す。敵味方に死傷者が生じる中、豪雨で進軍と攻城の継続が困難となり、部隊をまとめて帰陣した判断と損害を伝える。
元亀元年正月五日 / 冊子 231頁
元亀元年正月五日、新納伊勢守が隈城を受け取り、入来院・東郷両氏が百次・平佐・高江・宮里・天辰・碇山・水引・中郷・湯田・西方・高城などを差し出した。清敷と東郷は両家に残し、高城・中郷・西方・京泊・川向こうと牛尿院山野を義虎へ与え、各地の給分・地頭職を定めた。貴久は加世田、義久は鹿児島へ戻った。
年月日未詳 / 冊子 235~237頁
七月十八日に土持氏が県から宮崎へ赴き、上井伊勢守へ兵糧や国境情勢を報じた記事から始まる。大友方の動きと志賀氏らへの帰順工作を重ね、九月には肥後・日向・筑前など各方面の兵を動員し、島津義弘を中心に豊後へ進攻する軍勢と経路を整えた。兵糧の確保、使者・密書、諸将の配置、各城の攻略を連続して記し、島津軍が外交工作と大規模動員を並行して豊後侵攻へ移った過程を示す。
元禄三年十一月廿九日 / 冊子 865頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2326
綱貴の口上書に、領内の薩摩・大隅・日向の所々で猪・鹿・狼が田畑を荒らし、落し鉄砲でも荒らしが止まらないと記す。月番大久保加賀守へ申し上げ、鉄砲で打ち殺すよう申し渡すこと、打仕廻りの数寄等を証文で報告することを伝える。
享保六年十二月十一日 / 冊子 499頁/整理ID 1341
松平大隅守の妹(松平上総介養娘)と阿部伊勢守との縁組を願い出た書付。両家の取次人を列記し、後段に水野和泉守らによる縁組許可の伝達経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 499頁/整理ID 1342
松平大隅守の妹と阿部伊勢守との縁組について、願い出のとおり仰せ付ける旨を伝える短い書付。
享保七年四月二十三日 / 冊子 534頁/整理ID 1379
吉貴が前年から養女を阿部伊勢守正福に配そうと望み、享保七年四月二十三日に婚姻の儀を整えたことを記す。
享保十四年閏九月十三日 / 冊子 931頁/整理ID 2357
松平上総介の名代阿部伊勢守が、竹姫入輿が済んだ後に御礼を申し上げる際は右の書付を差し出すべきことを、あらかじめ聞き置くよう伝える。
享保十四年十月二十七日 / 冊子 936頁/整理ID 2374
竹姫入輿の御礼として、松平大隅守の御待上臈から阿部伊勢守の妻へ差し上げる献上物を、使者を通して渡してよいか伺う。
年月日未詳 / 冊子 731~732頁
天文四年、川上昌久が誅された際に受久も危難に遭い、隅州正宮辺へ逃れて身を隠した後、赦免・召還を受けて再び奉公した経緯を記す。
天文五年三月十一日 / 冊子 747~748頁
新納忠勝が島津勝久に今後の身上処置を尋ねた伺書。豊州への渡海時期、居所と領地、旧領への入部、忠良方との和睦交渉、相州へ送る使者などを項目別に列挙し、自ら判断せず勝久の裁可を仰いで、帰属と行動方針を確定しようとする。
年月日未詳 / 冊子 796頁
天文十年、島津忠広の臣日置美作守が伊東義祐勢との戦いで討死したことを記す。日付を九月三日または三月三日とする異説や、同族新納氏の戦死者も挙げる。
年月日未詳 / 冊子 95~97頁
島津方が大牟礼・馬立・竹原山から廻城を包囲し、降伏をめぐる評議ののち、七月十二日に肝付勢の攻撃を受けた経過を詳述する。竹原山・馬立で忠将以下が戦死した一方、大寺大炊助・瀧聞美作守・梅北刑部左衛門らが奮戦し、敵を恒吉方面へ退けた。
永禄十一年八月九日 / 冊子 200頁
永禄十一年八月、伊東氏が相良氏と結び桶比良に陣を置いたため、島津義弘が飯野の守備を固めた。皆越六郎左衛門から伊東・相良両氏の加久藤・飯野攻略計画が遠矢下総守へ密告され、島津方は大明司へ虚報を流して対抗した。貴久は長雨のため桶比良攻撃を断念し、義弘は皆越夫妻を河原口で迎えて大川平を与え、九郎の後嗣として左近将監と改名させた。
天正二年七月廿日 / 冊子 342頁
天正二年七月二十日に催された『賦何船連歌』の連衆交名で、義久をはじめ僧俗の参加者と役・句数を列挙する。発句『ふく風やこ与ろの秋のま莱右』を掲げる。
天正二年十月二日~五日 / 冊子 345~346頁
天正二年十月二日、大乗院法印に法華経一千部を百十人の僧と十日間で読誦させたことを記す。続いて五日、菱刈氏の使者へ、蒲生救援、横川城・三山城・馬越城をめぐる過去の背反や義弘暗殺未遂を列挙して責め、再度の叛逆なら滅亡は免れないとして居所を替えるよう求めた。
年月日未詳 / 冊子 74頁
天正十三年閏八月十一日以降、島津忠長が義弘の肥後八代出陣に従い、堅志田方面で放火・城攻めを進めた戦闘記事。敵二百余を斬り、首級を挙げた一方で攻城側も損害を受け、梅北国兼らの軍が合流した。忠長は無衣無食に近い軍中で薄酒を与えて兵を励まし、翌日の攻撃に備えており、前線指揮の具体像が見える。
年月日未詳 / 冊子 143頁
天正十四年二月十六日、豊後の入田宗和が宮崎へ使者を送り、高知尾境の情勢と志賀道益の動きを報告した島津義久譜の記事。志賀方が大友方の拠点・所領を奪ったのち入田氏との盟約へ傾き、豊後国内へ進出しやすくなったと伝える。入田氏の帰属が豊後侵攻の足掛かりとして評価されたことが分かる軍情報である。
(寛永十三年)三月十五日 / 冊子 79頁
八重尾久重が、家から受け継いだ土地と八重尾の範囲・境界を記した覚書。山・谷・道・田畑をどの地点で区切るか、各所を誰が受け取るかを列挙し、過去の祈念や土地分配の経緯を後日の証拠として書き留める。
宝暦八年六月十五日 / 冊子 693頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2065
重豪の従四位下少将・松平薩摩守、寅年十四歳、生国薩摩、鹿児島居城などを記した書付である。領知は薩摩・大隅一円と日向の内、石高六十万五千石余とし、琉球国十二万三千七百石を「外」に別記する。縦九寸五分・横二寸八分の中奉書で二枚を調え、六月十五日に大目付分限方の大井伊勢守へ提出したと記す。