島津吉貴袖判寄附状(高二百石)
享保六年二月二十七日 / 冊子 457頁/整理ID 1227
島津吉貴が大隅正八幡宮別当寺の彌勒院へ高二百石の社領を寄附し、その所領を認める書付。
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享保六年二月二十七日 / 冊子 457頁/整理ID 1227
島津吉貴が大隅正八幡宮別当寺の彌勒院へ高二百石の社領を寄附し、その所領を認める書付。
9月6日但馬;当日向井新兵衛取次注 / 冊子 386頁/原整理番号 548の2/整理ID 548-1
桂右衛門を大目附へ役替えし、役料二百石を与え、席順は島津主殿の次とする九月六日但馬の通知。表方・奥掛御勝手方へ知らせるよう求め、当日向井新兵衛取次の記載を持つ。原注は桂右衛門を久武、島津主殿を久光の男とする。任命、役料の規定と席順の指示を別に示し、実支給済額や実際の在任期間は記されない。
明治2年八月17日知政所 / 冊子 691~692頁/原整理番号 905/整理ID 905
通達留。勅命により従来の家格を廃し士族と称することとし、別段の会釈として島津珍彦殿から種子島弾正までの群に世禄千五百石を下賜する。川上東馬から続く名簿群には三百石限を定める。嶋津織之介等の群と川上勘解由等の群は三百石限に加え、祖先勲功の取扱いにより高百石の蔵米を年々与えるとする。次の嶋津一二と読める名から相良治部までの群は二百石限と定め、関係先へ伝える。明治二巳八月十七日、知政所。各群の氏名は原画像通読の台帳に保持し、字形が不確かな名は留保する。世禄本体・限度と祖先勲功米を区分し、役称や注の姓名を現代名へ統一せず、受給総額・実支給人数や支給完了を補わない。
天正20年12月20日 / 冊子 619頁
隅州正八幡領のうちから二百石を樺山入道へ宛行い、別紙目録に従って確実に領知するよう命じる。 まとまった石高を明記した島津竜伯の知行宛行書状で、朝鮮出兵期の家臣処遇を示す。
(慶長元年)二月六日 / 冊子 6~7頁
龍伯が島津又八郎へ、在陣衆への加増は十石程度を基本として百石に及ぶ者があるか尋ね、過分な約束を戒めた。幸侃からの加増案は又八郎の帰朝を待って決めるとし、当家の存続や武庫上洛前の国元処理より当面の京都での勤めを優先するよう説く。武庫側近や伊勢孫九郎への百~二百石の宛行、田数帳を渡海後に渡すこと、替衆を早く派遣することなどを指示した書状。
(慶長元年)三月二日 / 冊子 10頁
石田三成が島津又八郎へ、又八郎の弟の知行について二百石を与え、今回の割当ても十分に取り計らったと伝えた。なお不足を感じる場合には相手を煩わせてでもよく配慮し、又八郎も心得るよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 301頁
鮫島氏伝が、鮫島筑右衛門が五百石相当の軍役で朝鮮へ出陣し、出陣前に二百石、唐島で五代少左衛門らと奉公した褒美に百石を受けた経緯を記す。帰朝後に残り二百石を願ったが、もとは田二段を持つ身であるとして給付を抑える裁定が示された。あわせて、過去に渋谷家または伊東方として敵対した二渡・壱岐両氏も二百五十石を相当とする鎌田政近の口達を載せる。
慶長四年三月七日 / 冊子 356頁
島津忠長が本田六右衛門尉に、川辺宮下村二百八十七石余と柏原内中別府村四百十二石余、合計七百石を宛行う。このうち五百石は加増、二百石は先年の配当時に知行不足のため上地した分の返地とする。
年月日未詳 / 冊子 386~387頁
慶長八年に母堂御平が死去すると、島津忠栄は義久の命により、御平の遺領である大隅国桑原郡中津川村の知行高千二百石と、付属する家人六十余人を相添えて拝領した。忠栄の旧来の知行は五百石で、相続を伝えた使者は伊集院伴右衛門尉久共であったと記す。
慶長十五年七月十日 / 冊子 550頁
滝聞伝右衛門尉と渡辺市左衛門尉が連署し、高二百石に対する七分出銀と殿役分を受け取ったことを証する請取状。鳥目四十六貫八百三十三文、銀子二百八十一匁を、定日外のため倍算用とし、七分・殿役とも皆済したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 590-591頁
慶長五年十月十日、関ヶ原からの帰陣後に島津義弘(惟新)が感状を与えた人数と給付石高を列挙する。頴娃弥市郎・山田民部少輔の各二百石、本田源右衛門百石をはじめ、諸士へ五十石・三十石などを与えた記録である。
慶長五年十月十日 / 冊子 591頁
島津義弘(惟新)が頴娃弥市郎へ、関ヶ原合戦で粉骨し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経て帰国するまで片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行二百石を与える。あわせて、同文で石高のみ異なる感状を多数の随従者へ与えたことと、その宛名・石高を列記する。
年月日未詳 / 冊子 596-597頁
桂忠昉は、石田三成が徳川家康に対抗して関西諸国の軍勢を美濃へ進めると、島津義弘(惟新)に従って関ヶ原へ赴いた。西軍敗北後も義弘の側を離れず、大軍中を突破して帰国するまで忠功を尽くしたため、二百石を与えられた。
慶長五年十月十日 / 冊子 597頁
本文はNo.1230と同文のため省略されている。桂忠昉譜の記事に対応し、島津義弘(惟新)が桂忠昉の関ヶ原合戦と帰国路での忠功を賞して二百石を与えた感状である。
慶長五年十一月二日 / 冊子 609頁
島津忠長ら四名が本田助左衛門尉へ、薩州知覧の西別府村百二十三石六斗八升五合と、庄内末吉の深川村七十六石三斗一升五合、合計二百石を加増として宛行う。
(慶長六年) / 冊子 740-741頁
本田助允(元親)が自身の知行内訳と加増約束を記した案文。本箇所はNo.1453と同文のため本文省略。永吉村など計百八十石、勝次郎の次男分の新地、京都への領国安堵使節の功による加増二百石の約束を内容とする。
慶長六年正月十九日 / 冊子 743-744頁
本田助允(元親)が自身の知行を整理した覚書。永吉村・入来裏名村・帖佐舟津村・蒲生久徳村・馬越徳満村など計百八十石の内訳と、勝次郎の次男分としての新地、京都への領国安堵使節を重ねた功による加増二百石の約束などを記す。
慶長六年正月廿四日 / 冊子 744頁
八幡新田宮執印吉左衛門尉の知行二百石について、各田地の坪付を列記した文書。このうち百石は京都・高麗で忠節を尽くした功による恩賞として与えられたことを記す。
慶長六年十二月廿六日 / 冊子 796頁
比志島国貞と平田増宗が連署し、白鳥山の造営中に知行二百石を付与し、造営期間中に得る収益には諸公役を課さないと定めた宛行状。
(慶長八年)正月廿四日 / 冊子 880頁
島津忠恒が新納旅庵へ、和睦成立のためたびたび上洛して尽力した忠節を賞し、知行二百石を与え、今後も奉公に励むよう命じた。
慶長十五年七月十日 / 冊子 282頁
慶長十五年七月十日、滝聞傳右衛門・渡邊市左衛門が本田助丞に、高二百石に対する四分出銀について、鳥目・銀子の総額や東国使節下向時の給分を差し引き、すべて納済みであることを証した受取状。
(寛永九年)六月十一日 / 冊子 277~278頁
島津家久が、軍役の知行高に応じた負担を厳守し、二百石以上の者は具足・馬・鞍道具を常備して書き上げ、検者の点検を受けること、家内の奢りより軍備を優先すること、百石取や無足衆でも馬を用意して騎乗奉公する者には知行を与えること、馬上での無礼・嘲弄を重科とすること等を定めた袖判条書。
(寛永九年)六月十一日 / 冊子 279~281頁
島津久元と伊勢貞昌が、家中の乗馬を五百騎と定め、四百十一騎が有分、御蔵入から五十騎を仕立て、残る八十九騎の不足を補うことや、高二百石以上を常時乗馬とすることを示した条書。先備・二番備・三番備・左右備、馬廻・使番、外城小給人の配賦を定め、乗馬の差物・馬具・腹巻、軍役衆の船賦、琉球からの合力銀、御座船、弓、鉄砲百挺とその口径、召立衆、兵道粮の人数、幟の紋など、国元の軍役・出陣準備を具体的に整えるよう命じる。
(寛永九年)六月廿二日 / 冊子 287~288頁
伊勢貞昌・島津久元が、将軍出陣時に即応する薩摩家中の軍役・出陣準備について命じた条書写。関ヶ原・大坂両陣等を参照し、五百石につき乗馬一疋、二百石取は主従八人、六・七百石衆の余高を二百石未満の者へ寄高とすること、父子が各々乗馬する場合の装備を定める。また、後家・幼少者の番代、軍役道具の提出と検者の点検、不足道具の調達、分限衆・諸地頭衆の馬印、古鉄砲、外城衆への玉薬、高付乗馬衆の騎乗者・被官名の届出、軍役と知行の均衡などを指示する。
寛永十九年正月廿八日 / 冊子 189~190頁
島津久元・山田有栄・頴娃久政が五代仲兵衛尉・三原五郎兵衛尉へ、高二百石を知行および御使役分として与え、両人で支配するよう命じた連署引付。寛永十九年正月二十八日付で、久元が印を据えている。
寛永廿年八月廿七日 / 冊子 244頁
川上久国ら三名の連署引付。新納加賀守に大口地頭分として三百石、新納勘解由に甑島地頭分として二百石を与えることなど、地頭職に伴う知行配分を記す。伊地知縫殿助の鹿児島高への組入れなど、関係者の持留知行の調整も定めている。
享保七年三月六日 / 冊子 527頁/整理ID 1362
享保七年三月六日、北郷作左衛門久嘉・伊集院蔵人久矩・嶋津内記久貫が戸田平次へ、高二百石の知行を与える目録。伊集院・始良・真幸吉田・蒲生・加世田・串木野の各内と記し、名寄帳は別冊とする。京都に差し置かれ高二百石の所務を与えていたところ、今回は地方で下すので全うに所務せよと命じる。
〈宝暦四年〉十月十八日 / 冊子 500頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1519
宝暦四年十月十八日、鎌田典膳政昌・義岡相馬久中・嶋津主殿久懋が正八幡宮別当弥勒院へ出した知行目録。高二百石について、隅州国分の内村、見次村、内山田村と各村の内を列記し、名寄帳は別冊にあるとする。故太守吉貴公が弥勒院を再建し、正八幡社領として寄附した土地で、享保六年二月二十七日に寄附状を下したという。その時には地面がまとまらなかったが、今回支配を確定したため、所務と祈祷を怠らないよう命じる。重年公御譜中に収め、正文は弥勒院にあるとの注を持つ。寄附は享保六年、地面・支配の確定は宝暦四年のことである。各村の高の内訳は本文に記されていない。
明和六年(目録)八月(日無記載、取次「今月十四日」) / 冊子 221頁/原整理番号 578/整理ID 578
御記録奉行へ、大和に新地二百石を与えて新家を立て、島津の称号と久の字、敬次郎と同じ家格、敬次郎の次席、十文字崩の紋所を求めた伺いについて、別紙のとおり命じられたことを伝える。敬次郎家には正徳三年、二男まで称号と久の字を許していたが、現在の格式に合わないため、今後は二男から称号・久の字を避け、差し障りのない名字、このたび下された実名の以の字を用い、十文字崩の紋所は遠慮するよう命じたと記す。別紙写し二通と書状を添え、今月十四日の御使便桂織部へ差し越し、江戸で相手方の用人を呼んで渡す予定なので、後年の参考として記録しておくよう申し渡す。別紙三通を渡すとする。末尾は八月・左京の署で、正文の写しは文庫にあるという。年は目録の明和六年に対応し、目録の七月二十八日とは区別する。
文化13年3月16日(正文)/実文化14年(注)/文政5年1月(婚約)/天保3年2月25日・8月28日(入嫁・結婚) / 冊子 505頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1540
近秘野抄・重豪公御子・女子。貢姫を戸澤能登守正令夫人と掲げ、出羽新庄城主六万八千二百石との注を付す。出生正文は文化十三年丙子三月十六日高輪邸、実は十四年丁丑との注がある。母は田上氏。文政五年壬午正月、戸澤千代鶴への許嫁を記し、千代鶴は大和守正胤嫡子、即ち能登守政令との注がある。天保三年壬辰二月二十五日に戸澤氏へ適し、八月二十八日に結婚したと記す。出生年正文と実注、婚約・入嫁・結婚を分けて採録する。1539の母關金藏有富女と本件田上氏、表題の正令と注の政令の異同は無注で統一しない。
文化14年7月(年は朱書・日付なし) / 冊子 511~512頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1559
正文は文庫。右若を「二張紙本文」とする朱注付きで、清揚院霊屋等の再建に源壽院を派遣し帰山させる件、増上寺との住職人選・弟子の関東修学掛錫・寺禄格式の相談を掲げ、割注の応答を付す。不断光院は京都知恩院末寺・領内浄土宗一本寺で、正徳二年に清揚院位牌を造立し、大御隠居の思召により寺家を造替した由来を述べる。南泉院・福昌寺の荘厳、大乗院の国家祈願所・平等王院兼職・花尾山権現社別当、浄光明寺の五代廟所守護、一乗院の由緒・御室御所支配等を比較し、大龍寺・壽國寺や領内祖先位牌安置寺も参照する。不断光院の尊霊・寺格を引上げ門首列に付すことと、一乗院次・勅院頭の席順案(寺名字句留保)を伺う。当分二十石三斗二升八合では寺禄不足とし、百八十石程を重ね計二百石を給付する案、取揚高内からの給付を国許の治定・吟味に委ねる。住職は本山人選を求め、関東修学・掛錫の弟子の件も含め、家老が詮議して寺格を整え、なお支障があれば寺社奉行に吟味させ再度伺うとする。別紙二通を添えた伺で、文化十四年朱注七月、新納内蔵署。割注の記録奉行取次・伊集院名は留保。任命・再建・石高給付の完了とはしない。
文化14年7月7日(年は朱書) / 冊子 513頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1561
出典は全上、扣正文は家老座にあるとする。昨日、不断光院一件の仰出書付を差し上げた中では、従前の寺高の外に二百石を寄附する旨を申し置いたが、従前の高二十石余に今百八十石を重ね、都合二百石とする内容であるため、その通り取り計らうよう早く申し上げると記す。文化十四年の朱書、七月七日、伊集院隼衛署、新納内蔵殿宛。目録は伊集院兼当書状。昨日の書付の記載と本書の訂正内容を分け、二百石をさらに追加するとは扱わない。1560の書付処理指示に続く通知として整理し、実際の給付・引渡の完了日は補わない。
天保九年十二月廿五日 / 冊子 28頁/原整理番号 37/整理ID 37
三原藤五郎へ高二百石を与える知行目録。谷山中村、姶羅郡山田上名村、薩摩郡山田山田村、大崎井俣村、高城郡高城城上村などの村・門・浮免を列記し、名寄帳は別冊とする。亥年に御趣法替えを命じて以来担当し、抜群の精勤によって改革を成立させ、意向をよく受けて褒賞に値するため、特別の思し召しで与えると記す。天保九年十二月二十五日付で菱刈隆観・島津久浮・久風が署判する。
天保十年十月朔日(目録は十月一日) / 冊子 38~39頁/原整理番号 49の2/整理ID 49-2
碇山八郎右衛門へ高二百石を与える知行目録。市来養母村と同村永作浮免、姶羅郡山田上名村庄屋浮免、川辺小野村、鹿児島郡吉田本城村、志布志蓬原村、大村上手村などの領地を列記し、名寄帳は別冊とする。宰相転任に関する用事を担当して特に精勤したため、特別の思し召しで与えると記す。調所広郷・島津久備・菱刈隆観・島津久浮・久風が署判する。天保十年十月朔日付。
弘化二年(渡付年)。本文の日月記載なし / 冊子 69頁/原整理番号 110の2/整理ID 110-2
千眼寺へ高二百石を給付した記録。故三位重豪の寿像等の安置に当たり寺務が難渋したため、先に寺領高三百石を与え、寺の家廻りや手広の再建を取り継いだ経緯を述べる。さらに太守の寿像等を安置したことで年中の祭料などが難渋したため、今回二百石を重ね、合計五百石とした。所務は従来の寺高と同様に扱うよう命じ、弘化二年に笑左衛門殿から渡された旨を記す。
弘化三年十月十二日(目録)、同年十一月十日(外包受渡) / 冊子 74~75頁/原整理番号 120/整理ID 120
千眼寺へ高二百石を増付する知行目録。末吉深川村木之下門、大姶良大姶良村瀬筒門、高山後田村新原門の浮免、加世田川畑村上之門の浮免、伊集院大田村田中門、伊集院上神殿村柿内門、飯野杉水流村柏木門、樋脇市比野村大水流門の浮免、伊作中之里村久保門の浮免、財部南俣村八ヶ代門の浮免を挙げ、名寄帳は別冊とする。故三位重豪の像の安置に伴う寺務の難渋から先に寺領三百石を給付し家廻り等を再建したが、太守の寿像の安置で年中祭料なども難渋するため、二百石を重ねて合計五百石とし、所務を行うよう命じる。十月十二日付で久徳・久浮・久武が署判し、千眼寺へ宛てる。外包は十一月十日に将曹殿から奥勇蔵へ渡したと記す。No.119の記事の増付三百石とは数字が異なるため、本文の二百石と合計五百石を保持する。
十二月廿日 / 冊子 668頁
細川幽斎の懇意を踏まえ、隅州正八幡領内の目録記載地から二百石を宛行うので、全く領知するよう命じた島津義久書状。『旧記雑録後編二』No.110と同文。
二月廿三日 / 冊子 179頁/原整理番号 305
二月二十三日付の覚書。米二百石ずつと、ある場所にある米千石の内から早々に送るよう申し合わせた旨を記すが、欠字が多く、本文全体に斜線が引かれている。頭注は「此書物者不参候故けし候」と抹消理由を記し、傍注は有馬の山田民部少輔宛てに遣わす覚書で有川右近が持参したとする。抹消本文を有効な指示とは扱わない。
年月日未詳 / 冊子 394頁/原整理番号 498
『天草覚書』は、寛永十四年十一月のキリシタン蜂起と翌寅年春の原城落城を受け、正月から富岡に上使松平主税二万石、伊東大和守五万石、目付杉原四郎兵衛千二百石を城番として置いたと記す。松平・伊東は二之丸、杉原は出丸を守り、三人とも寅年六月まで富岡に滞在した。
年月日未詳 / 冊子 450~451頁/原整理番号 562-1
若君の四月元服に伴う奉行衆の振舞いへ西弥左衛門ら五人を召し寄せること、秋目地頭には港務に通じた者を置くことを求める。また従来は高三百石以上を乗馬とした軍役を、今後は二百石以上を乗馬、百石以上を小荷駄とする旨を申し渡す。本文は正保二年正月十八日付の新納久詮・北郷久加連署書状だが、目録は年月日空欄・標題を児玉利実覚書とする。
年月日不記(天正八年・文禄四年などは系図内記事) / 冊子 642~644頁/原整理番号 116
平姓祢寝氏の略系図で、重盛から高清・沙弥行西・清重へ続く系線を示す一方、清忠から重弘までの間に十五世を欠くと明記する。重良の条には文禄四年に祢寝を去り、吉利村三千二百石を賜って移ったとあり、重常は姉とともに近衛信輔の薩州からの帰京に従い上洛したと記す。後代の清雄は家老職に任じられて役禄二千石を賜り、島津大蔵久春の二男・清香と三男・清行については、吉貴の命で清行が清香の養子になった経緯を載せる。清行が表御用人や大御番頭を務めた記事も記す。
年月日未詳 / 冊子 803頁
秀吉の上使が薩摩・大隅・日向を検地し、北郷忠虎領では田中吉政らが都城・安永・高城・末吉・財部など十五か所、計六万九千二百余石を調査したと記す。 同年冬、忠虎は巨済城で寒気と軍務の疲労から病を得て、十二月十四日に三十九歳で死去した。鶴田貞明が殉死したことも記し、検地による領地確定と朝鮮陣中での最期を一続きに伝える家譜記事。
天正20年9月7日 / 冊子 604頁
霧島社領のうち田口所在分として、田方二十町・分米二百石を記した目録。島津義久が袖判を加え、町田久倍が署名している。 寺院目録が続くなか、神社領についても所在地・面積・石高を確定した例であり、検地後の霧島社領の一部を具体的に把握できる。
(慶長五年)九月廿一日 / 冊子 583~584頁
伊勢貞成が大井七右衛門尉・酒匂式部少輔へ、奥様の下向に伴う御番衆として富隈の人数を留め置いたことを伝える。佐方の船手には水主を欠く船が多く世間体にも関わるため、両人に他の人数と同様の手配を頼み、有川助兵衛尉の手元にある二百石の米から百五十石分を渡すよう指示する。
慶長六年五月九日 / 冊子 761-762頁
島津忠長ら四名が、白鳥権現の宮作成を理由に、白鳥山座主へ桑原之郡栗野之内など合計約二百石を付置した知行目録。
寛永六年九月廿一日 / 冊子 111~113頁
樺山久高が、かつて差し出して蔵入となった所領や、その後の上地・返地・加増・移封の経緯を述べ、他家と同様の旧領返還を求めた申状。出水への召移し、二百石・八百石の加増、鹿児島への移住なども説明する。
寛永十一年十二月七日 / 冊子 463~465頁
税所某が、親次郎右衛門・休心ら一族の知行二百石・千百石・五百五十石の継承、勘気による召上げと復帰、扶持・銀の貸付、奉公先などの経緯を詳述し、自身への知行・扶持と奉公の取り扱いを児玉筑後守へ嘆願した書状。
享保六年二月 / 冊子 457頁/整理ID 1228
享保六年二月、右膳が記録奉行へ、国分宮内別当寺彌勒院を再興し来迎院を住職とし、大僧都院家の格とする旨を伝える。彌勒院から御膳を進上した際、御前で院家衣の拝領を命じたが、南泉院の触下であるため南泉院への衣下賜と同じ方式にはせず、今回は自費で調達させる。住職・大僧都院家の御免の御礼として、上野・門主らへ白銀目録を贈ることを記す。以後も寺領二百石があるため自費調達とするが、高原神徳院が色衣の御礼の際に公費調達を命じられた先例があれば、彌勒院も同様に扱うよう申し渡す。
安永五年三月(日記載なし、年は朱)、宝暦八寅年の先規に言及 / 冊子 488~489~490頁/原整理番号 1354/整理ID 1354
下馬より下乗橋まで召し連れる人数を身分別に示す。四品および十万石以上、国持の嫡子は侍六人・草履取一人・挟箱持二人・六尺四人、雨天は傘持一人。一万石以上は侍五人または四人を分限に応じて召し連れ、草履取一人・挟箱持一人・六尺四人、雨天は傘持一人とする。下乗より内では、四品・十万石以上と国持の嫡子は侍三人。一万石以上は嫡子も侍二人、幼少の場合は別に介添一人を加えることを勝手次第とし、草履取一人・挟箱持一人、雨天は傘持一人とするが、挟箱は中御門外に残す。番頭・諸物頭・布衣以上の役人、中奥小姓衆、三千石以上の寄合は侍二人・草履取一人・挟箱持一人、雨天は笠持一人。三千石以下の寄合・布衣以下の役人・中奥番衆・惣御番衆は侍一人・草履取一人・挟箱持一人、雨天は笠持一人。医師は侍・草履取・挟箱持・薬箱持各一人、雨天は笠持一人。城に部屋のない者も挟箱を中御門外に残し、御役人はこれまで通りとする注を保つ。江戸の往還は小勢とし、国持でも騎馬一騎または二騎、供鎗二本または三本以内。侍は九千~五千石で七人または八人、四千~三千石で六人または七人、二千~千石で四人または五人、九百~三百石で二人または三人、二百石で一人または二人。押足軽は五千石以上二人、三千石より四千石まで一人、三千石以下は無用とする原区分を保ち、境界の三千石を一方へ補正しない。番頭・芙蓉之間の役人は押一人。軽輩の長柄傘は無用とし、陪臣もこの人数に準じて小勢にする。供の風俗を目立たせず、道を片付けて通行を妨げないよう命じる。先年の供廻規定がおろそかになったとして、宝暦八寅年に伝えた規定を堅く守るよう改めて示す。大名往還の先供・駕籠脇は一万石以上十三人または十四人、五万石以上十七人または十八人、十万石以上二十人まで。分限に応じ、国持も含めて先供・駕籠脇を二十四人または二十五人以内とし、徒歩の者だけでなく挟箱ほかの供の行列にも、およそ五、六尺ずつの間隔を置く。登城・御曲輪内の往来では騎馬供を無用とする。国持・溜詰・御三家庶流の従来の騎馬供は御曲輪外で一行を離して召し連れることを勝手次第とするが、一騎または二騎以内、鎗もその騎馬の者が持つ数とし、ほかに供馬を率いることは無用とする。前々から供馬・供鎗がある国持・溜詰・御三家庶流は別格とする一方、近来これを増やした場合は無用とする。旧来の者にも四品被仰付・大広間席不相成以前という条件で向後無用とする条項があり、この原条件を保って一律に許可されたとはしない。その他の供もこの規定に準じて小勢とし、登城・御曲輪内で混雑する際、快晴なら一行の合羽籠などを見計らって最寄りの途中に置くよう命じる。末尾は安永五年三月。場面別・身分別・雨天時・旧例の条件を保持し、人数を合算して実参加人数にしたり、尺を現代距離へ換算したりしない。
文化14年9月1日(同年九月朔日)/10月(下馬札) / 冊子 516頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1565
重豪公御譜中。同年九月朔日、不断光院を着座門首へ昇格し、その席を福昌寺の次としたと記す。寺へ田禄百七十九石六斗七升一合八勺八撮を給付し、元からの附田禄二十石三斗二升八合一勺二撮と合わせ二百石とする。冬十月、柵門表に下馬牌坊を建てたと記し、皆余意によると述べる。寄附の新高・従前高・合計を区別し、1561の合計二百石への訂正との対応を保持する。原数値の細単位には夕・撮(才)の表記があり、十進数に丸めず採録する。寺格・給付の九月記事と下馬札の十月記事を一つの日付に統合しない。