大井七右衛門外四名連署起請文
慶長四年五月朔日 / 冊子 379頁
大井七右衛門ら五名が、鞍馬へ移った幸侃の妻子の居所へ連絡しないこと、小傅次兄弟のもとへ国元の者が出入りすれば親類でも報告すること、番勤中の見物・社寺参詣を慎むことなどを誓う。さらに小傅次兄弟の家中との交通、公用以外で他方の者と会うことを禁じ、違反すれば神罰を受ける旨を記す。
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慶長四年五月朔日 / 冊子 379頁
大井七右衛門ら五名が、鞍馬へ移った幸侃の妻子の居所へ連絡しないこと、小傅次兄弟のもとへ国元の者が出入りすれば親類でも報告すること、番勤中の見物・社寺参詣を慎むことなどを誓う。さらに小傅次兄弟の家中との交通、公用以外で他方の者と会うことを禁じ、違反すれば神罰を受ける旨を記す。
(慶長五年)九月廿一日 / 冊子 583~584頁
伊勢貞成が大井七右衛門尉・酒匂式部少輔へ、奥様の下向に伴う御番衆として富隈の人数を留め置いたことを伝える。佐方の船手には水主を欠く船が多く世間体にも関わるため、両人に他の人数と同様の手配を頼み、有川助兵衛尉の手元にある二百石の米から百五十石分を渡すよう指示する。
(慶長四年)四月十四日 / 冊子 374~375頁
上原尚張が、当地に異変がないことを伝え、留守中に子の居役所として与えられた場所の普請が整っていないため、見苦しくならないよう堅く見回ることを頼む。また日向国に関する先年の知行の話について、福永殿・野村殿らの件を内々に聞き合わせ、今後も自身に関する用向きで助力するよう求める。
慶長四年四月廿一日 / 冊子 375頁
伊勢貞成が、御勢揃いの道具代銀に四匁一分五厘の不足が生じたことを届ける。現在手元にある算用帳だけでは判明しないため、受取状などで後日調査し、どこでも清算できなければ自分が納めると申し出る。
文禄4年3月11日 / 冊子 869頁
小西行長が、島津義弘が当地に滞在して虎狩りを行い、二頭を仕留めたことを「奇特」と称賛した書状。義弘から鹿の枝角二十を贈られたことにも謝意を示す。 詳細は七右衛門尉に伝えさせるとしており、虎狩りの成果が朝鮮在陣中の大名間で共有・祝賀されたことが分かる。
文禄4年6月5日 / 冊子 889頁
小西行長は、二、三日中に日本へ向かう便船が出るため、必要な用件があれば承ると家久へ知らせる。 前日に日本から到来した滝七右衛門尉へ口上を託しており、詳しくは同人から聞くよう求める、渡海便を利用した連絡状。
文禄4年7月25日 / 冊子 903頁
小西行長は、家久からの礼物を受けた謝意を述べ、四か所の陣を取り壊した後の材木処理を七右衛門尉に命じたと知らせる。 讃岐殿の城米の扱いにも触れ、陣所撤去後の資材と兵粮を調整する実務連絡。
(慶長四年)八月十日 / 冊子 425頁
島津義久が小西殿に、高麗から引き続き在京し、このほど帰国した長年の辛労をねぎらう。源次郎の楯籠に関して度々の書状と瀧七右衛門の二度の派遣に謝し、討伐を企図したところ内府の使者が下着し、まず下城を勧告するよう命じられたと説明する。源次郎側も上方を恐れて申し出た現状なので、国元について心配はいらないと伝える。
(慶長五年)正月七日 / 冊子 496頁
島津義弘(惟新)が宮原左近入道に、出水表の在番を特に労い、城の普請に念を入れて在番衆へ毎日怠りなく務めさせるよう命じる。普請がやむを得ない場合は太田吉兵衛丞・白坂七右衛門と相談して諸在郷へ課す一方、百姓をみだりに召し使うことは一切禁じると伝える。
八月廿九日 / 冊子 384~385頁
島津龍伯が、白坂七右衛門尉を介して加治木御蔵入の前年収納分の進上が遅れている件を伝え、下代への処置と般若院への指示を急がせる。あわせて伊集院宮内少輔を差し上せる旨などを示し、処置と報告を求めた書状。
八月十一日 / 冊子 49頁
瀧七右衛門の口上を了承し、近日日本へ人を遣わす件に伴って相談したい事情があるため同人を差し向け、捕らえられた者の様子も尋ねたうえ、近く対面して話すとした書状。
年月日未詳 / 冊子 557頁
吉利氏元祖秀久の二男久起の娘が白坂七右衛門と離別後に壱岐幸則へ再嫁し、その娘の子が幸則家を継いだ経緯など、婚姻と家督継承を記した吉利氏系図抄。
慶長十一年四月一日 / 冊子 63~64頁
瀬戸口勧之丞ら三名が、預け置かれた御物について内容を漏らさず、命令に忠実に取り扱うことを誓った連署起請文。違背した場合は梵天・帝釈・四大天王、九州の諸社、霧島・八幡などの神罰を受けるとする。
天正八年~十五年 / 冊子 671~672頁
天正八年から同十五年まで、島津家がたびたび軍事評議のため召し寄せた外城の武辺・功者五十四人を、日向・高山・蒲生・小林・志布志・大口・川内など所属地別に列挙する旧記。蒲生衆湯田鶴右衛門の旧記から写したとする。
(慶長五年)五月十七日 / 冊子 543~545頁
島津義弘が又八郎殿に、神五郎の狂気・不行跡と処分について留守居衆の報告や竜伯の意向を照合し、事情を詳しく調べて適切に措置するよう求める。旅庵の報告が神五郎の振る舞いを十分に伝えていないと批判し、出水の置目、狩猟禁止、土地処分、農民・百姓の居住と耕作、水利、米銭の配分などを役人衆と相談し、恣意的な取り扱いを避けるよう細かく指示する。
六月廿日 / 冊子 90頁
朝鮮情勢が固まる前に龍伯が速やかに渡海すべきと促し、後発兵の乗馬準備が不足していることを叱責し、毛利家では五、六十石の家臣も騎乗すると例示して、供衆の馬と指物を整えるよう命じた書状。
八月五日 / 冊子 289頁
病気が良くなれば相談のうえ出向くよう勧め、寺沢志摩守へ書状を送るのは太閤の命に関わるので当然としつつ、今後は十分に分別して書状を出すよう忠告した小西行長書状。
天和元年九月四日 / 冊子 195~198頁/原整理番号 120
『横山慶左衛門日記』延宝八年正月の記事。十二日の春山初御狩には近在の衆中が前日から参集し、日記はこれを『御関狩』と記す。同日鹿児島で大火が起こり、筆者の家も焼失し祖母が亡くなった。後続の記事は被害・死者の報告や救済の米支給を記す。季安は行間注で『御関狩』の呼称の古例を列挙し、この年の狩りと火災を結び付けて考証する。
年月日未詳 / 冊子 438頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0932
寛文元年を中心に、朝倉六兵衛・藤井四郎兵衛らの殉死、長谷場十郎兵衛純堯・山内七右衛門・関田次郎右衛門らの戦傷・死亡について、日付や主家関係を付して列挙した記事。
天明四年三月二十二日 / 冊子 739頁/原整理番号 2085/整理ID 2085
松平薩摩守の持病による冷えと、発症時の足袋使用を御用番田沼主殿頭に伺って許可された旨を、使者を通じて大目付・目付へ伝え、同役中にも申し伝えるよう求める。三月二十二日付で千田七右衛門・中嶋直八・有川與左衛門を使者として記し、附書に各使者が書付を届けた先を列挙する。
(貞享三年)七月廿七日 / 冊子 772~773頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2014
松木三郎五郎宅の討手について、物頭・普請奉行・引纏人数・左門役儀の者、討ち果たされた者、戦死・負傷した討手、焼死者、三太夫の妻子・三郎五郎の母ら関係家族、焼失家屋を列挙した書付。
(貞享三年)七月廿八日 / 冊子 773~775頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2015
七月二十六日の松木三郎五郎宅討入りについて、負傷者とその後の死亡者、討ち捨てた三十四人、灰燼内外で確認した者、三太夫らの妻子・奉公人、七月二十八日に斬罪とした十二人を列挙した書付。
年月日未詳 / 冊子 145~146頁/原整理番号 489
宮之城の肝付七右衛門家の系図。肝付兼賢(初め兼延)以下、兼種・兼明・兼孝らの分岐を示し、兼明が永禄四年七月十二日に戦死して法名を寛心浄円居士としたこと、兼孝が同日忠節のため切腹したことを記す。後段は島津紹益への付人、加藤左衛門家への婿入り・跡目相続、婚姻・養子関係を経て兼郷・孫三郎へ至る。
宝暦五年九月二十二日~宝暦六年五月二十三日 / 冊子 579~580頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1724
宝暦五年九月二十二日、月直老中本多伯耆守正珍が忠洪の家臣を呼び、江戸留守居岩下佐次右衛門方峯が正珍邸へ出向いた記事。正珍は忠洪の幼少を理由に、使番京極兵部高主と目付青山七右衛門成親を薩府へ遣わして国政を監督させる幕命を伝えた。その日のうちに留守居佐久間源太左衛門盛邦を正珍邸で御請に当たらせ、翌朝は島津淡路守久柄が名代で謝恩した。ほかの老中・若年寄にも御請を述べ、江戸家老島津主鈴久郷・伊集院十藏久東らが相談して薩府へ報告し、継豊に伝えるとともに二人の旅館を府下の客舎内に整えた。翌宝暦六年四月五日、高主・成親が江戸を出発した。本文は両人に従う家老・用人・近習・給人・徒士・足軽・中間らの氏名や人数を列挙し、留守居岩下方峯、使番佐久間新左衛門村央、目付堀孫太夫興央らも江戸から同道したと記す。東海・伊勢路を経て十六日に伏見、十七日に大坂へ着き、薩府から出迎えた大脇孫五右衛門が船奉行として航行を警固した。風雨で海上が不穏なため木津川口に三日船を繋ぎ、二十二日に出航して五月九日に小倉へ着き、翌十日から九州を陸路で進んだ。十七日に出水へ入り米之津に泊まり、忠洪・継豊の命で樺山左京久智が慰労に赴いた。十八日高尾野・野田、十九日西方、二十日中郷・東郷・山崎、二十一日中津川・山筒野金山を経て川上、二十二日石原・加治木を経て脇本に泊まり、高橋縫殿種壽が慰労に赴いた。二十三日に鹿府へ入り、家老・若年寄・大目付・寺社奉行・勘定奉行・與頭・番頭らが旅館で迎え、諸役人が接待した。出典は重豪公御譜。
宝暦五年九月二十二日~宝暦六年十一月三日(記事) / 冊子 619頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1832
前年宝暦五年九月二十二日、執政本多伯耆守正珍が台命を伝え、忠洪が幼年であるため、京極兵部高主・青山七右衛門成親を国目付として薩府へ派遣することを命じた記事。元注は高主を使番、成親を書院番とする。二人は宝暦六年五月十七日、肥後州から薩州出水へ入り、水引・山崎・加治木・重富などを経て、同月二十三日に鹿府の客舎へ到着した。同年十一月三日に任務を終えて江戸へ帰ったと記す。継豊はあらかじめ国中へ心得を命じ、その内容を次文書へ続ける。出典は継豊公御譜。
宝暦十一年六月十二日~九月二日(記事) / 冊子 848~849頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2529
六月十二日、家重が江戸西城で五十一歳で死去して惇信院と諡され、二十九日に薩摩へ訃報が届き、重豪は三原源五左衛門を江戸へ遣わして香奠銀三十枚を献じた。西国巡見使の青山七右衛門・神保帯刀・花房兵右衛門が六月二十二日に出水米之津へ入り、阿久根・永利・宮之城・金山・蒲生・加治木を経て、二十八日に重富で重豪が応接し、家老・若年寄・大目付が侍座した。七月に今和泉・山川・大根占・大姶良を経て志布志へ進んだが、神保が病で残り、他の二使は飫肥へ向かったため、重豪は家老・用人・医師らを派遣した。神保は八月の記事中の脇注で「此月十日」に死去し、同使の命で喪を伏せたとされ、二十九日に喪を発して成願寺へ葬り、二使は九月朔日に肥後へ出境し、神保の従者は翌二日に米之津を発った。
安永九年七月~安永十年正月九日(使節出発は安永九年八月二十七日) / 冊子 600頁/原整理番号 1697/整理ID 1697
大納言家基公の凶報が前年九月に琉球へ届き、安永九年七月、中山王尚穆は渡嘉敷親方に弔書を持たせて薩府へ送った。重豪は新番の岸良貞右衛門兼平を継使、歩行士の遠矢金右衛門良起を宰領とし、軽卒二人を添えて八月二十七日に本府から江戸へ発たせた。一行は十月四日に江戸へ着き、十一日に兼平が月番老中阿部豊後守正允と御側用人水野出羽守忠友へ重豪の副簡と尚穆の弔書を呈した。十一月十九日、月番老中田沼主殿頭意次が兼平に奉書を授け、忠友も留守居へ返札を授けた。新番千田七右衛門貞仲と歩行士郡山五郎兵衛員将が軽卒二人を伴ってこれを国元へ運び、二十二日に江戸を出発、翌安永十年正月二日に薩府へ到着した。九日、渡嘉敷親方を対面所に召し、家老・若年寄・大目付が列座する中、月番家老が趣旨を述べ、奏者番から老中奉書・忠友返札・重豪書を渡した。親方は琉球へ帰って尚穆に届け、先例に従い奉書と返札の写しを薩府へ献じ、真書を琉球に留めた。弔書を重豪自身が作成したとの記載ではない。
11月28日 / 冊子 428~429頁/原整理番号 401の3
十一月二十八日、四右衛門・与四右衛門・七右衛門・三之丞・又左衛門・藤吉・次郎四郎・析右衛門・孫市の九艘について、船型、舟頭・水手人数、赤米支給量を列記する。同日以後二十日分を舟頭一人一日一升、加子七合五勺で算用して各人へ渡すよう命ずる。与四右衛門船は総員八人・舟頭二斗に対して「加子四人・赤米一石五升」とあり、人数と算用の食い違いを推定訂正せず残す。
明和五年戊子(年次記事、翌年の注あり) / 冊子 185頁/原整理番号 457/整理ID 457
明和五年の年次記事。元日は既に首途を済ませたため賀正を受けず、御座間で公族と三官に会い、外庭稲荷を拝した。正月十三日は護摩所・福迫・稲荷、二十日は大雄・松峯・玉龍を訪れ、鷹が捕えた鶴の賜りを十八日に拝受したことも記す。二月六日に府城を発ち、家老川田伊織国福・仲久健、用人・納戸奉行・使番らが同行する。大里から海路で坂越へ向かい、座船住吉丸と他の船を挙げ、小字注では船の総計を三十九艘とする。三月二日に大坂邸、六日に伏見邸、二十九日に芝邸へ到着。四月朔日は大家の使者が来て「守宮」を与え朝観を賀し、二日は閣老各邸を訪ね、護摩所の不動へ還謁する。七日は関山金陣を使わした。兒玉主左衛門利容らが購入した千字文・唐詩選・字林集等と、草菴・蒙求・和歌類題・古今集・天狗藝術論等を備え、親覧したと記す。八日は近衛公が諸大夫を遣わして賀正、十三日は大家の使いの閣老が邸で慰労し、十五日に朝観礼、十六日に大円寺、二十三日に高輪五社、二十四日に増上寺、二十九日に一橋邸を訪れた。六月朔日は朝から酒井雅楽頭邸を訪問し、近侍の高崎納右衛門ら及び有川・伊東・山田・林・相良・柏の陪席や召しにも触れる。七月十九日には大家が使者を遣わして雲雀を賜り、鷹が捕えたものと記す。二十五日には高橋此面種寿の家老職を、旨に逆らったため免じた。十二月十六日は使番興津左京が鶴を携えて邸に来たが、重豪は少し病んでいたため相良近江守に迎拝を託した。この鶴も鷹が捕えたものという。冬に福昌寺の新作を命じ、翌年秋に完成したとの小字注を付す。
年月日未詳 / 冊子 431~432頁/原整理番号 403
『平田宗直船賦帳』所収。市来湊から出す六端帆五艘の舟頭・水手人数を列記し、児玉主計助を上乗一人とする。続いて串木野から出す五枚帆・四枚帆・六端帆など九艘について船頭と人数を列記し、近間内膳正・春田大左衛門を上乗二人として、両船団を出水へ出船させる。末尾の総船数・総舟頭水手数の欄には数値の記入がない。
11月28日 / 冊子 432頁/原整理番号 404
市来湊・串木野で天草行きの船を仕立てた賦帳。本船賦帳からの書抜きとし、船主・船頭・加子を船ごとに列記する。市来湊の船別名簿に続き、串木野で仕立てた大小九艘、加子・舟頭計六十六人をまとめ、そのうち五人は伊作小の原浦、一人は永吉之浦の加子と注記する。末尾に上乗衆の送状がある旨を記す。
年月日未詳 / 冊子 733~736頁/原整理番号 772
正月十七日を中心に米津へ到着した各郷の軍勢を、人躰・卒者・小者・夫丸・玉薬持夫に分けて記す。都之城八十人と小者夫丸七十一人、吉松三十人と夫丸四十二人、栗野七十人と夫丸三十一人、国分八十五人と卒者夫丸百三十四人などを載せ、人物別の負担人数も列記する。後半には十八日条へ分載する旨を注し、十七日到着の大姶良・頴娃・飯野・高原・小林・清水・蒲生・高山などの士と従者を続ける。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 779
正月十八日を中心に、米之津へ参着した各郷の人躰・卒者・夫丸と、主だった者が連れた人数を記す。恒吉・日当山・飯野・曽木・加久藤・須木・馬関田・踊・高原・出水・山之口・小林・諏訪神・曽於郡・野尻・真幸吉田・志布志・清水・蒲生・百引・庄内高城・東郷・高岡・高山・横川・穆佐・串良・垂水・伊集院などを列記し、十日または二十日分の飯米支給を注す。高山の名簿に載る以益について白坂氏譜を引いて帰還時期を考証し、兵糧不足による減員帰還と読む。末尾は十九日条への分載と十八日着津者の補記。
寛永13年9月 / 冊子 80~81頁/原整理番号 17-8
寛永十三年九月の鹿児島衆中屋敷帳から、松崎采女正について『下屋鋪四せ』『下々屋敷四せ廿三分』と記す抄録。続いて松崎貞悦の慶安五年以降の奉公歴を掲げる。慶安五年に上洛を命じられて三月六日に鹿児島を立ち、四月二十五日に江戸へ着いた。承応二年には琉球からの将軍継目祝使である国頭王子に関わり、島津光久に召し連れられて日光参詣へ供奉した。万治二年には進上用の腰物を選ぶため、堀尾正宗・貞宗・左文字・兼光・則光などを江戸へ持参した。寛文三年とみられる光久の上洛には道中跡払いとして供奉し、大坂・江戸の御番割に入った。六月には国許への急用使として江戸から鹿児島へ往復し、九月に再び江戸へ参着した。同年十二月には島津綱久から将軍への寒中伺候使者となり、酒井雅楽頭や老中阿部豊後守・稲葉美濃守・久世大和守を訪ね、江戸城で七島鰹節を進上した。その後も寛文四年の下向供奉、同五年の秋月佐渡家来欠落事件に関する使者、延宝二年の大坂町奉行石丸石見守への使者を務めた。
年月日未詳 / 冊子 431~432頁
飯野士壱岐七右衛門家に伝来した写本をもとに、飯野衆中の諸士名を列挙した別系統の名書上。 冊子431~432頁にわたり、No.562と重なる家名を含みつつ人名の配列・収録範囲が異なる。飯野家臣団名簿の異本比較、同名人物の識別、系譜調査に利用できるが、細字のため個々の人名は要照合。
二月廿九日 / 冊子 769~770頁
高尾野衆の失衆を列挙した注文。牧田主馬允・前田少兵衛尉・山口納右衛門尉・細山田内蔵助・児玉七右衛門尉らを挙げ、原城攻撃での射撃・首級処理や働きに関する注記を添え、宮原又左衛門・税所助兵衛が証した。
宝永六年丑九月廿四日 / 冊子 869頁/整理ID 2855
堀興昌が琉球国国司へ、琉球方から仮屋へ届く寄物の一番・二番・三番品を帳面二冊で照合し、渡唐船の品と混同しないよう命じる。唐船改奉行の七月廿八日付書付と三司官の八月三日付書付を踏まえ、後から届く品も在番奉行と中神七右衛門方で確認し、帳面を返送させる。
宝永七年五月二日 / 冊子 899–900頁/整理ID 2936
琉球国司尚益が御老中へ、先国司の跡職を相違なく命じられた厚恩に謝意を述べる。清水弥兵衛・中神七右衛門を介して霊社の神文を提出し、同じ内容を七右衛門方にも伝えたと報告する。
宝暦五年九月二十二日 / 冊子 580頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1725
幕府が松平又三郎忠洪へ、幼少であるため国許へ目付として京極兵部・青山七右衛門を遣わすので、その意を承知するよう伝えた書付。付記は九月二十二日、御用番本多伯耆守に岩下佐次右衛門が召し出され、この書付を渡されたと記す。
宝暦五年十一月二十五日 / 冊子 594頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1757
酒井左衛門尉忠寄が十一月二十五日、松平大隅守継豊の礼状に返答する。公方・大納言の機嫌がよいことを知らせ、又三郎が若年のため国目付として京極兵部・青山七右衛門を派遣するとの命令について、継豊の謝意を承知する。書状の趣旨をすべて見たと答える。
宝暦五年十一月二十五日 / 冊子 594頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1758
秋元但馬守凉朝が十一月二十五日、松平大隅守継豊の礼状に返答する。公方・大納言の機嫌がよいことを知らせ、若年の又三郎のため国目付として京極兵部・青山七右衛門を派遣するとの命令について、継豊の謝意を承知する。書状の趣旨を承知したと通知する。
宝暦六年正月五日 / 冊子 599頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1774
島津主鈴・伊集院織部が正月五日、国元の五家老へ御旅宿絵図の手直しと手配を求める。昨年十二月五日の飛脚で受け取った絵図を同月二十四日に岩下佐次右衛門が兵部・七右衛門へ提出すると、家中の誰の屋敷かと問われ、家来小屋を描かないのは不備であるとして、以前の巡見上使の居所や家作も尋ねられたと報告する。同月二十八日に佐次右衛門を呼んで絵図を調べ、塀・中門の締りと家来の籠居小屋を整え、部屋の押札に従って居所を取り決めるよう求められたと記す。絵図を添えて急飛脚で送り、継豊へ伝え、押札どおりに手配するよう申し渡して、結果を知らせるよう依頼する。
宝暦十一年七月二十三日 / 冊子 855頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2535
重豪が七月二十三日、巡見上使の青山七右衛門・花房兵右衛門は私領内の巡見を済ませ、二十日に伊東豊後守の領内である飫肥へ移ったと届け出る。神保帯刀は病気のため私領内に滞在していると知らせる。松平薩摩守の名で署し、独立した宛名は記されていない。
二月廿八日 / 冊子 331~332頁/原整理番号 373
宮原又左衛門尉・税所助兵衛尉が、高尾野衆のうち「失衆」とされた一向宗の牧田主馬允・山口納右衛門尉・前田少兵衛尉・細山田内蔵助・児玉七右衛門尉について、新納佐左衛門尉・上原貞右衛門尉へ提出した注文。牧田は有馬の春之城への城乗りで首一つを射取りながら、失衆のため仁礼左近へ内証で見せて切り捨てたとし、他の四名は詰めていたが仕合を知らず、軍功をしなかったと記す。二月二十八日付。編者注は『旧記雑録後編五』二一五三号文書と同文とする。
慶長六年十月廿一日 / 冊子 785-786頁
島津忠長ら四名が連署し、薩摩国祁答院の大村にある楠原弥七右衛門尉屋敷三十石二斗三升を、井尻伝次へ加増として宛行った目録。
宝永六年九月十六日 / 冊子 868頁/整理ID 2848
吉貴公御譜が、島津吉貴が中城王子尚益に香奠白銀五十枚を贈り、琉球国在番の中神七右衛門頼常を介して授けたと記す。尚益は富山清右衛門を使いとして贈り物を差し出し、丹青二軸、花瓶一双などの品が挙げられる。
宝暦五年七月二十七日 / 冊子 548頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1646
七月二十七日、使者久柄が西尾忠尚から世子の襲封命令を受けたと記す。八月十五日には久柄が朝献し、家重へ太刀一腰・刀一腰・縮緬十巻・白銀百枚・馬二疋、家治へ太刀一腰・刀一腰・白銀百枚・馬一疋、御簾中へ白銀十枚・縮緬十巻を進め、白書院で両公に謝恩した。幼少当主の封国管理のため、九月九日に島津圖書久亮、十一月五日に高橋縫殿種、十一月二十二日に青山七右衛門成親を御家老とし、左京久智・鎌田隼人を大目付とした。十二月二十八日には給人の小笠原郷左衛門を大目付に任じる。
宝暦五年九月二十三日 / 冊子 580頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1726
忠洪が、幼少のため京極兵部・青山七右衛門を国許へ目付として派遣される件について、御礼の方法を尋ねる書付。同氏大隅守継豊が国許で承知したうえで、御礼をどのように勤めればよいか指図を求める。九月二十三日に本多伯耆守が留守居を呼び、この付紙を渡したと注記する。
宝暦五年九月二十三日 / 冊子 581頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1727
島津主鈴久郷・伊集院十蔵久東が九月二十三日、国元の三家老へ、幼少の太守のため京極兵部・青山七右衛門を国許へ派遣する命令を報告する。留守居が御請を述べ、留守居使者による御礼、加賀守・勝五郎方との相談、久柄名代の御礼を伝える。御守殿への内証の御礼と、公方・大納言・御簾中へ書状で謝意を伝える手順について指図を求め、京都・大坂・長崎の奉行や一門へ通知するという。派遣者の道中と国元での取扱い、留守居が参上して詳しい指図を受けることを連絡し、急飛脚と別紙書付で委細を報告する。
宝暦五年十月十八日 / 冊子 581頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1728
国元の島津主殿久馬・義岡相馬久仲・鎌田典膳政昌による十月十八日付の朱書き返答。江戸二家老の九月二十三日付書状にある、京極兵部・青山七右衛門派遣の命令と御礼・連絡の取扱いについて、本文の内容を承知したと答える。隅州へ伝えたことと、御女中へも報告したことを記す。