島津師久預ケ状
貞治五年八月廿三日 / 冊子 45頁
島津師久が二階堂隠岐守に、闕所となった阿多郡内観音寺・白河村を公方の処置が決まるまで預け置き、先例どおり知行するよう命じた預ケ状。
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貞治五年八月廿三日 / 冊子 45頁
島津師久が二階堂隠岐守に、闕所となった阿多郡内観音寺・白河村を公方の処置が決まるまで預け置き、先例どおり知行するよう命じた預ケ状。
貞治五年八月廿三日 / 冊子 45頁
島津師久が二階堂隠岐守に、闕所となった智覧院名主職を公方の処置が決まるまで預け置き、先例どおり知行するよう命じた預ケ状。
(文禄元年)4月11日 / 冊子 542頁
長寿院盛淳が、島津義久の上洛中、神前で毎日油断なく祈祷するよう二之宮隠岐守へ伝えた書状。祓についても怠りなく行い、何か不足や問題があれば事前に知らせるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 512頁
文明十六年十二月三日、伊作式部大輔方が南郷城へ押し寄せ、城壁を切り崩して攻撃した経過を記す。山田・早崎・堀口諸氏を含む守兵が抵抗し、双方に戦死者が出た。危急を受けた和泉隠岐守が近江守へ急使を送り、援軍を求めた。
年月日未詳 / 冊子 512~513頁
島津忠昌が家中へ守護方への参陣を命じたが従わない者があり、敵方が城を攻撃した経過を記す。忠福・和泉隠岐守・伯州末弘十郎三郎らが守備し、入田・片野坂氏を含む諸勢が各所で戦闘した結果、戦死者と退却者を出した。家中分裂下の防城戦を伝える。
年月日未詳 / 冊子 598頁
永正七年十二月二十三日、島津忠治が伊東大和守尹祐の娘を妻に迎え、垂水隠岐守が使者として引き渡しを担ったことを記す伝記事。
年月日未詳 / 冊子 811頁
天文十二年三月二十八日、伊東義祐が豊州方の鵜戸烏帽子形城を四方から包囲・攻撃した戦況を記す。下田隠岐守・薩摩坊頼運ら城方が抵抗し、伊東勢は直ちに攻略できなかった。攻城側・守備側の武将の働きと双方の損害を具体的に伝える。
寛永十四年十二月五日 / 冊子 704~706頁
「覚」として、幕府が十一月二十六日付の奉書により肥後・薩摩勢へ天草一揆の鎮圧を命じたことを受け、有馬方面で一揆が起きた際の即応、一万人のうち動員できる兵数、川尻に進出した肥後勢との歩調、薩摩勢用の船の準備を問い合わせる。天草平定後の早急な報告、一揆勢の首級を目付衆に見せるため捨てないことも指示する。さらに松平隠岐守の条書、松平伊豆守らへの兵粮・音信、渋谷知兵衛尉の派遣、天草一揆が長引き上洛延期となる場合の報告に言及する。吉利織部祐が署名し、使者を川越三右衛門尉とする。寛永十四年十二月五日付。
十一月廿七日 / 冊子 162~163頁
伊勢貞昌が敷三十らに、茶の進上と隠岐守・志摩守の来訪が首尾よく済んだことを喜んだ書状。初雪に際して黄門様が詠んだ歌と、それに和した漢詩を書き送り、慰みとして披露する。
十一月廿七日 / 冊子 135頁
前日の献茶と隠岐守・志摩守の出席が首尾よく一同満足したことを祝い、先方からも来訪を受けた礼を述べた。初雪に際して黄門が詠んだ和歌と漢詩を書き送った書状。
二日 / 冊子 326頁
隠岐守が六日か八日に当地へ来るよう相談していると聞き、その意向を尋ね、来訪すれば満足だと誘った島津家久書状。伊勢鶴らを待っていることも記す。
年月日未詳 / 冊子 513頁
文明十六年十二月廿二日、敵勢二千余騎が陣へ押し寄せたため合戦となり、伯耆守豊久ら守備側が戦死者を出しながら防ぎ、翌日敵が退散した経過を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 513~514頁
師走三日から続いた南郷城攻めを城内外の視点から詳述する。酒谷・和泉・北郷・樺山・伊集院・入来院・片野坂諸勢の布陣、飫肥・庄内へ通じる道の争奪、戦死・退却を記し、夜間の攻防後に敵陣も退いて戦闘が一段落した経過を追う。
(寛永十五年)三月二日 / 冊子 785~786頁
有馬表がなお静謐に至らない状況を踏まえ、家中の役目・人員配置や江戸への急派、相続・諸手当などについて指示し、遅滞なく処置するよう求めた松平定行の書状。
(寛永十五年)三月二日 / 冊子 786頁
大隅守の死去を悼み、薩摩守の心中を察して弔意を伝えるとともに、事情により自ら伺えないことを述べ、中納言の長患いにも触れて見舞いと自愛を求めた松平定行の書状。
(寛永十五年)六月十日 / 冊子 810頁
薩摩守が十三日に家督相続の御礼を滞りなく申し上げ、首尾よく済んだことを祝し、祝儀の使者を遣わすとともに、帷子五つのうち一つを贈った松平定行の書状。
宝暦十年四月二十七日 / 冊子 760頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2322
重豪が四月二十七日、松平隠岐守定喬への返書で、公方・右大将の健勝をともに喜ぶ。隠岐守も健勝で大坂に滞在していること、お榮殿が長途の旅を滞りなく終えて到着し、初めて対面したことを聞き、大いに喜ぶ。早速知らせてくれた心遣いに礼を述べ、自身も無事であると報告する。
寛政4年8月5日(年次は朱注) / 冊子 38頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0121
島津斉宣が父・重豪の持病再発を理由に、国元の温泉療養のため約1年の御暇を願う願書。重豪は去る未年に願い出て国元で入湯し、快復して出府したが、その後も時々再発して難儀しているため、再び温泉療養を求めるとする。許可されれば当年9月初旬に江戸を発ち、御暇の期間中でも快復した時は届け出て参府する意向を記す。8月5日付、松平豊後守名義。朱注によれば、当日に松平隠岐守を先手として、御用番松平伊豆守へ留守居から提出された。願いの内容と提出経路を別々に示す。
宝暦九年十一月十一日 / 冊子 741頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2253
重豪が十一月十一日、亡き高祖父上総入道吉貴の妹は先松平隠岐守定英の妻で、当隠岐守の出生後に離縁して国許にいると説明する。先隠岐守の存命中に文通・対面を許されたが、遠国のため対面は実現していないと述べる。来春の伊勢参宮と当隠岐守の参勤を機に大坂で対面させたいと願い、高齢で今後の対面機会が見通せないことを理由に挙げる。付紙は伺いどおりと認め、十一月二十日に下され、書付は山澤小左衛門を通じて縫殿殿へ差し出されたと記す。
二月九日 / 冊子 710頁
東郷重朗が肝付方に、久しく無音であった事情と通路の確保、今後の進退・協力について申し入れた書状。
永禄十一年八月八日~廿四日 / 冊子 199頁
永禄十一年八月、島津忠親が北郷氏と肝付氏の和睦を進めた経過を記す。八月八日、北郷右衛門尉・土持美濃守と忠親の使者餅原越後守入道が末吉へ赴き、肝付一族らと会談して和議を成立させた。二十日に肝付刑部少輔が都城へ祝賀に来訪し、二十四日には北郷久臓が串良へ返礼に赴いた。
(寛永四年)十一月廿八日 / 冊子 47~48頁
島津久元・伊勢貞昌が、島津家久の到着と将軍の鷹狩、江戸での勤務交代、狩野永甫をめぐる処置、参勤時に必要な乗馬衆の人数と配置、霧島からの材木手配など、江戸滞在中の諸案件を詳しく協議・指示する。
宝暦九年十二月二十九日 / 冊子 745頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2269
重豪が十二月二十九日、松平隠岐守定喬へ、書状を受けて相手の健勝を喜び、自らも無事であると返答する。お栄殿に対面したいという意向を受けて願い出たところ、滞りなく許されたことをともに喜ぶ。その礼として使者が目録どおりの品を届けたことに謝意を述べる。
宝暦十年五月一日 / 冊子 760頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2323
重豪が五月一日、松平隠岐守へ、健勝であろうと挨拶する。大坂でお榮殿と初めて対面した件について、先に書状を寄せてくれた心遣いに礼を述べ、その意を伝える。
宝暦十年五月五日 / 冊子 761頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2329
重豪が五月五日、松平隠岐守への返書で、公方・右大将の健勝をともに喜び、隠岐守も健勝で大坂のお榮殿とゆっくり対面したことを喜ぶ。使者を通じて目録のとおり品物を贈ってくれた心遣いに礼を述べる。付記には、この返書を送ったまもなく隠岐守が参府したため、改めて使者を遣わして挨拶し、返礼の品を届けたと記す。
〈宝暦五年〉六月十三日(目録。の七の本文は六月のみ) / 冊子 537~538頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1612
重年の病状悪化と家督継承に関する七件の書付。病気が重く大切な容体になった旨の届書と、急変した場合に当年十一歳の嫡子松平又三郎へ跡式を相違なく継がせてほしいとの願書を収める。施療医師名書は武田長春院・井上交泰院・村田長庵・森宗乙の四人の薬を服用したと記し、別に望月三英を掲げる。縁者一類名書は容体を知らせる相手八名を列記し、容体書は四月中旬の疝積発病から薬を替え、草臥れが増して大切になった経過を述べる。山澤小左衛門の首尾書は、酒井左衛門尉の用人関茂太夫を介する病気届一通の提出と受領を報告する。相馬宛ての伺書では、帰国も難しい病状のもと、又三郎への家督・琉球国を含む領地の継承を願い、幼少の又三郎に不慮のことがあれば家中が安気でなくなるとして、実弟嶋津中(久珍、二十四歳)を又三郎の末養子とする案と琉球国の処置を一類とも相談し、事前に内々の意見を求める。
宝暦八年五月十九日 / 冊子 684頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2037
西尾隠岐守忠尚が五月十九日、松平大隅守継豊へ、公方と大納言の機嫌がよいことを伝える。三月十八日、竹姫君が西丸へ入る際に初めて召し連れた菊が、大納言と御簾中への御目見を許され、拝領物もあったことについて、継豊の感謝を受け止める。書面の趣旨は各々一覧したと返答する。
「寛永十七年」六月十日 / 冊子 117~119頁
島津光久が国元の下野守へ、細川越中守の帰国に伴う饗応や所望品への対応、肥後から求められた駄馬十疋の扱い、国元の仕置を松平隠岐守らと相談することなどを指示した書状。京都町人井上太郎兵衛尉が前年に琉球から来た糸を銀子と引き替えた件では、長崎割符の直段との相違による損失や糸の受渡しをめぐる処置を詳しく述べ、家中の悪事や遠島・死罪に及ぶ者への対応も命じている。
「寛永十七年」六月十九日 / 冊子 120~122頁
島津光久が国元の重臣らへ、金掘りの方法を調べるため、佐渡などで経験を積んだ松平隠岐守家中の者から新納右衛門佐・五代正介・山田十左衛門に詳しく聞かせたことを伝えた書状。あわせて薩摩の作法や家中の仕置が悪化しているとして、松平隠岐守らとの相談、家老・親類・家臣の処分、申合せと秘密保持を厳命し、必要時には新納加賀守・勝目助左衛門尉らを付けた人数を派遣する手順まで示している。
寛永二十年五月十四日 / 冊子 238~239頁
島津光久が留守中の奥向きと台所運営を定めた条書。奥方へ来る町人の女房らへの過度な振舞いを禁じ、隠岐守・備後守方への年中の音信や節供品の回数・内容を定める。女客の接待、魚・野菜などの購入、膳所・台所の支出を吟味し、品物や費用を適正に管理するよう納殿衆へ命じている。
(明暦二年)六月十二日 / 冊子 294頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0636
政有が国元役人七人へ、金山再開の訴訟の進展、隠岐守・神尾備前守への謝礼と内密の取扱いを求める。再開後の両替座には、現在銀座に住み銀二、三千貫目ほどの資力を持つ糸屋十右衛門を用いて金小判を上げる案を伝える。糸屋の口上書を証人奉行へ渡したこと、島津大膳の願いが上聞して認められる見通し、国元から四人への参書を相談することも記す。
(明暦二年)六月十七日 / 冊子 295頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0638
島津忠廣・鎌田政有が国元の役人らへ、松平隠岐守・神尾備前守が老中へ長野金山再開の訴訟を取り次いだ経過と良好な応答を報告し、返書・謝礼の手配や関係者の病状を伝えた家老連署書状。
(明暦三年)二月十日 / 冊子 325~326頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0698
久松清左衛門勝成が島津家の役人らへ、江戸大火後の屋敷再建に用いる杉板・杉戸板などの材木について、調達先・品質・寸法・進上の可否を相談し、隠岐守方への飛脚と書状の取次ぎを求めた書状。
(寛文八年)一月十六日 / 冊子 543頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1242
鎌田政有・島津久茂が家老らへ、若子の七夜祝儀が済み、松平隠岐守が『徳寿』と命名して来国俊脇指の折紙物を、島津少将が盛光の脇指を贈り、髪立は隠岐守奥方へ依頼したと報じた連署書状。
三月十八日 / 冊子 653頁/整理ID 2242
松平隠岐守定直が三月十八日、薩摩守吉貴へ、先に家督後初帰国を使札で祝ったことに対し、使者、太刀・馬代と目録記載品を贈られた遠境からの厚意に謝する。口上は使者に申し含めたと記す。
延享三年十二月十七日 / 冊子 959頁/整理ID 2562
松平薩摩守宗信に、御用があるため翌十八日四つ時に登城するよう命じる十二月十七日付の通知。本多伯耆守・西尾隠岐守・堀田相模守・酒井雅楽頭の名を記す。No.2563の官位昇進の儀礼に先立つ登城の指示である。
宝暦五年六月十二日 / 冊子 532~533頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1608
宝暦五年六月十二日、西尾隠岐守・松平右近将監・酒井左衛門尉・堀田相模守の四名が、松平薩摩守重年へ連署で通知する。御用のため、翌日五ツ半時に、重年の名代として一類の者から一人を登城させるよう命じる。重年公御譜中の文書で、正文が文庫にあるとの注を伴う。
〈宝暦五年〉六月十三日 / 冊子 537~538頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1612-4
宝暦五年六月十三日、重年名義で容体を知らせる相手を列記した名書。松平隠岐守・松平越中守・阿部伊豫守・鳥居伊賀守・松平河内守・柳生采女・水野肥前守・嶋津淡路守の八名を掲げ、相詰めている一類を含むと記す。署名は「御名」と記す。
宝暦五年九月六日 / 冊子 549頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1649
島津久馬・鎌田政昌が九月六日、伊集院十蔵・島津主鈴の書状と別紙に返答する。本文と張紙の趣旨を御聴に達し、途中に義岡相馬から届いた知らせについて改めて尋ねても張紙の内容と変わらなかったと記す。隠岐守への挨拶を漏らさず手配するよう求め、幼年であるため今後の跡目を心配しなくてよい旨の内意を知らせる。内用の件は別紙で申し越すと付記する。
宝暦九年二月二十日 / 冊子 715頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2149
西尾隠岐守が二月二十日、松平薩摩守重豪へ、歳暮の御内書を渡すため、翌日五半時に家来を登城させるよう通知する。
宝暦九年七月二日 / 冊子 728頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2206
西尾隠岐守忠尚が七月二日、松平薩摩守重豪へ、今朝献じた琉球布一箱、砂糖漬天門冬一器、赤貝塩辛一器、琉球泡盛酒二壺について返答する。献上品を披露し、一段の御仕合であったと知らせる。
宝暦九年七月二日 / 冊子 729頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2208
西尾隠岐守忠尚が七月二日、松平大隅守継豊へ、公方の健勝と四月二十九日の増上寺御霊屋参詣を聞いた恐悦の旨はもっともと返答する。書面の趣旨を各々申し談じ、上聞したと伝える。
宝暦九年七月六日 / 冊子 731頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2217
西尾隠岐守忠尚が七月六日、松平薩摩守重豪へ、生見玉の祝儀として献じた黄金十両について返答する。献上品を披露し、一段の御仕合であったと知らせる。
宝暦十年三月七日 / 冊子 751頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2296
重豪が三月七日、「亡高祖父同氏上総入道」の妹について、今春大坂で松平隠岐守と対面することは前年に許可されたと届ける。高齢で余寒もあるため出立を見合わせていたが、二月末に薩州を出る予定という知らせが来たと記す。大坂到着は四月頃になろうかと見込み、あらかじめ承知しておくよう伝える。
明和八年七月八日 / 冊子 288~289~290頁/原整理番号 763/整理ID 763
信解院の去月八日の死去についての書付一通と、信證院が死去した際の届出の例書一通を掲げ、当朝の取次の首尾を報告する。まず松平右近将監方の公用人佐々木と面談し、淨國院(吉貴)の妹が先月八日に死去したが忌服はない件を届けるべきか尋ねた。信解院は享保二年に国元へ下向し、その後の伊勢参宮も太守から願い出ており、名が幕府へ伝えられていた方であること、先年の信證院の死去には忌服がなくても届けたことを述べ、例書で判断を求めた。例書を持参すれば内見させ、届書を提出してよいとする返答があり、書付・例書を内見したうえで用番へ例書を添え、都合のよいときに提出するよう伝えられた。続いて右近将監方からそのまま御用番板倉佐渡守方へ赴き、公用人酒井数馬に届出の次第を述べ、書付と例書を渡した。提出してよいとの返答があり、両通を受け取ったと酒井数馬から承知した。さらに佐渡守方から松平隠岐守方へ行き、留守居久左衛門と面談した。信解院の病状は当初軽かったが急変して養生が叶わず六月八日夜五時に死去したこと、老体で大暑でもあり養生や見舞いなどの配慮をしたが及ばなかったことを伝え、太守の悔やみの口上を述べた。隠岐守方も当初軽い病と聞いた後に急変・死去を知り、残念としたと返答し、今日用番へ届ける旨も承知した。途中から申し送られた説明を詳しく書きとめて久左衛門に渡したこと、松平豊丸・蓮壽院・於鐵の各方へも太守の悔やみの口上を伝えるよう久左衛門へ申し置いたことを記す。七月八日付、年は明和八年の朱注、有川勇馬の署と矢柄様宛を備え、それぞれ貞厚・島津久籌の注を伴う。写で、控の正文は家老座にある。
安永元年十二月五日 / 冊子 342頁/原整理番号 965/整理ID 965
浄岸院の病気は養生がかなわず、今日五日辰の上刻に逝去したため、自分からその旨を届けると述べる。十二月五日付、年は安永元年の朱注、松平隠岐守の名に定静との注を伴う。控正文は江戸家老座にあるという。
安永五年十一月十八日(年は朱) / 冊子 517頁/原整理番号 1426/整理ID 1426
冒頭から、有馬中務大輔の嫡子である有馬上総介の娘を、薩摩守の嫡子松平虎寿丸に再縁とする組合せを掲げる。有馬中務大輔の取次は戸田五介、松平薩摩守の取次は長谷川太郎兵衛とし、十一月十八日を記す。朱送達注は御用番松平周防守への用事を御先手長谷川太郎兵衛に頼み、日付当日に提出したとする。続いて松平薩摩守の娘と大膳大夫の嫡子奥平九八郎の縁組を願う組合せを記し、右之通縁組奉願候と結ぶ。十一月十八日、松平薩摩守の取次長谷川太郎兵衛、奥平大膳大夫の取次松平隠岐守を掲げ、同じ御用番へ同人を通じて提出したと朱記する。二組の願いと各家の取次、共通の提出先・送達を区別する。虎寿丸の再縁という原の表示を保持し、この願書だけを許可・婚礼の完了記録としない。
天明四年十月十八日 / 冊子 763~764頁/原整理番号 2141/整理ID 2141
浄岸院十三回忌法事の届出を受け、十月十日に西尾隠岐守が将軍から白銀三十枚、大納言から二十枚を香奠として伝えたことを知らせる。江戸側の取持ちは先例どおり済ませたので、国許でも京都・長崎・隣国への通知や法事準備を先例に従って整えるよう命じる。金山奉行渋谷甚八と小小姓八木源四郎を急ぎ派遣し、出水方面の通行・宿次・到着予定を連絡させる。香奠銀入箱は安房の切封で送る。十月十八日付、喜入安房と島津伊賀の連署書状。
文化14年6月29日(出生)/安政3年8月11日(卒) / 冊子 506~507頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1548
御系図中、斉興の男女十九人の枝に定穀を掲げる。初久博、勝之進、千松、刑部大輔、隠岐守の名・官称を記す。文化十四年丁丑六月二十九日生、母は島津樺嵐久尹の養女。松平隠岐守定通の養子となったと記す。本文は冊子五百六頁から次頁の卒日・法名へ続き、安政三年丙辰八月十一日卒、法名は隆聖院殿仁譽忠穆良温大居士。母が久尹の養女であることと、定穀本人が定通の養子であることを分け、養子日や各改名・任官日を本項にない日付で補わない。
文化14年6月29日(出生)/天保3年・6年(養子・入邸・改名等) / 冊子 507頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1549
近秘野抄、見出しは斉宣公御子。定穀にヨシの傍記があり、初名久博、勝之進、千松、刑部大輔、隠岐守を掲げる。文化十四年丁丑六月二十九日江戸生、母は島津樺嵐久迅の養女、実は橘川次郎兵衛時吉の女と記す。天保三年壬辰正月に久博と名づけ、七月二十日に松平隠岐守定通の婿養子となり、八月二十八日愛宕下邸へ入る。十月に千松、十二月に刑部大輔へ改め、天保六年乙未八月に隠岐守へ改めたと記す。1548の斉興系図と本件斉宣見出し、母の養父名久尹/久迅の表記差を残し、本文の出生年月日・婿養子・入邸・各改称を別段階として採録する。