島津忠恒家久書状
(慶長十年)三月十九日 / 冊子 8頁
島津忠恒が藤次郎へ、妹を関東への質人として上国させた忠節を賞し、その恩賞として阿多のうちに知行地を宛行い、確実に領知するよう命じた書状。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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(慶長十年)三月十九日 / 冊子 8頁
島津忠恒が藤次郎へ、妹を関東への質人として上国させた忠節を賞し、その恩賞として阿多のうちに知行地を宛行い、確実に領知するよう命じた書状。
二月廿七日 / 冊子 86頁
明真が斎藤次郎左衛門尉に、島津殿に関する用件で使節に選ばれたため、急いで渡海・参向するよう求めた書状。松浦山代方へも書状を送り、決して等閑にせず対応するよう念を押す。
二月十七日 / 冊子 245頁
明真が、島津領内の倉上に関する措置に伴って使節に指名されたため、急いで赴いて引き渡しを行うこと、松浦・山代方へも特に書状を遣わしたので心得て等閑なく勤めるよう斎藤次郎左衛門尉へ命じた書状。
天明三年十月廿二日 / 冊子 706頁/原整理番号 1991/整理ID 1991
島津重豪が島津愛二郎の加冠に際し、仮名を藤次郎とするよう定めた書出。天明三年卯十月廿二日付、御判。正文は島津主計にあるとの保管注記を伴う。
弘化元年十二月三日・十二日・十三日(印刷枝番3~5の各通) / 冊子 66~68頁/原整理番号 105の3/整理ID 105-2
廣大院法号の国元安置に関する三通を収める。印刷「の3」は半田嘉藤次が辰十二月三日付で主水へ宛てる首尾書。阿部伊勢守・御用人山岡衛士の表示を付し、御勝手へ書付を持参して服部九十郎と相談し、御用人へ提出、帰宅後に結果を知らせる旨を伝え、西筑右衛門がその夕方に勤めたと報告する。「の4」は同じ半田が十二日付で主水へ報告する。御用人中の切紙により本日中に一人が出向き、付札のある御書付を阿部伊勢守の御用人町野平助を通して渡すこととなり、半田らと留守居付役川崎四郎左衛門が勤めた。追記で、その夜と翌朝の御請、御目付家への出向き、留守居付役名簿の備中守への提出、久世出雲守への法号承合も述べる。「の5」は十二月十三日付で留守居付役勤淵邊仁右衛門が半田へ宛てる首尾書。浅井傳八郎と出会い、久世への伺と前夜の付札を説明し、法号一枚を受け取って差し上げると報告する。追記では表方の使者を通した御請に加え、自分も勤めて帰ったため、別の御請使者は不要と伝える。
(慶長十一年)六月十九日・六月二十八日 / 冊子 78頁
島津家久譜の記事。島津義久(龍伯)・島津義弘(惟新)の評議により、島津図書入道紹益の嫡子・河内忠倍を当家の人質として伏見へ赴かせることとし、島津藤次郎久賀の妹が主命と国家への忠節を重んじて忠倍を導いた。旅支度が整い、六月十九日に忠倍が鹿児島を出発して上国へ向かったこと、同月二十八日に家久が理性院を訪問し、これに関して院主が書状で謝意を述べたことを記す。
(寛永七年)五月十一日 / 冊子 166頁
藤次郎が若くして不慮に死去したことを夢のようだと嘆き、遺族の悲嘆と後の弔いを案じ、豊後守にも触れて慰問した島津家久の仮名書状。
(寛永七年)五月十五日 / 冊子 166~167頁
豊後守が安元へ赴いた労苦をねぎらい、子息藤次郎の不慮の死を聞いて意外の仕合に驚いたことを述べ、詳しい弔意は使者から伝えるとした島津家久の書状。
年月日未詳 / 冊子 167頁
島津朝久を祖とする豊州家の系譜を示し、久賀・忠次・藤次郎・久守・久邦・久元らの続柄を図示する。注記では、書状中の藤次郎を久賀の長男とする。
五月十一日 / 冊子 178~179頁
藤次郎の身に起きた不幸を夢のようだと嘆き、先ごろ少し具合が悪いと聞いて案じていたものの、若く世の中もまだ十分見ないうちの出来事だけに残念で、遺された者の悲しみを思いやった弔意の書状。
永正十三年八月廿六日 / 冊子 612頁
石塚種延が清水楞厳寺へ、大門口一町内の田二段などを寄進し、本物は宇大鳥丸貫文・洪武二貫文・米一斗であると記した寄進状。
正徳四年四月廿八日 / 冊子 140頁/整理ID 343
島津吉貴が比志嶋藤次郎に加冠を許し、右兵衛の名乗りを与える。文末に吉貴の判を付す。
年月日未詳 / 冊子 416~417頁
太閤蔵入・治少蔵入の収納、寺院、上米、般若寺、島津龍伯・義弘・忠恒の上洛供衆、忠恒の越年、浜之市・蒲生への移住者、軍役、地頭私領、藤次郎母や福永宮内少への知行、伏見屋形などの懸案を箇条書きにした覚書。
天保2年2月4日(年次は朱注、月日は本文) / 冊子 858頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2425
半田嘉藤次が松平榮翁へ、従三位昇進の礼として公方様・内府様・大納言様・御臺様・御簾中様に差し上げる品を列挙し、附女中衆への贈物を何分に配分するか伺う。太刀、巻物、銀などの品目と、喜代姫君・永姫君ほか奥向きの相手先を掲げ、同じ形式または減額とする案を示す。二月四日付、年次は朱注。
天保2年2月4日(年次は朱注、月日は本文) / 冊子 858頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2427
半田嘉藤次が松平榮翁へ、従三位昇進の御礼に際し、女使を通じて公方様・内府様・大納言様・御臺様・御簾中様へ献じる品と、喜代姫君・永姫君らへの差上物の配分を伺う。二月四日付、年次は朱注。2425とは別番号の伺書として保持する。
天保2年2月7日(年次は朱注、月日は本文) / 冊子 858~859頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2428
半田嘉藤次が松平榮翁へ、従三位昇進後の着服について伺う。熨斗目・麻袴または小袖麻袴、紅紫色を避けた他の色、白綾の内衣などの使い分けを示し、いかなる着用が御内意にかなうか問う。二月七日付、年次は朱注。本文は次頁上段まで続く。
天保2年2月8日(年次は朱注、月日は本文) / 冊子 859頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2430
半田嘉藤次が松平榮翁へ、従三位昇進後の御礼申上げに伴う席次・礼式を伺う。正月二日以後の使者、御内書の御渡し、三季の献上物、城中での登城礼と大広間での席順、諸席との前後関係などを列挙し、従三位に伴う位階の取扱いを含めて差図を求める。二月八日付、年次は朱注。
〔天保八年〕五月十七日(年は目録による) / 冊子 5~6頁/原整理番号 10の5/整理ID 10-5
半田嘉藤次が央様に、島津斉興の誓詞提出について受け取った書付を報告する。水野越前守の用人伊藤八太夫から、その日中に一人が来るよう切紙で呼ばれ、翌五月十八日朝六時過ぎに少将が越前守の邸へ出て誓詞を行う旨の書付を渡された。追記では、表方の使者で受諾を伝え、誓詞・前書等は翌朝八半時までに半田のもとへ届けるよう求める。
〔天保八年〕五月十八日(年は目録による) / 冊子 7~8頁/原整理番号 10の10/整理ID 10-10
半田嘉藤次が央様に、島津斉興の代替わりの誓詞提出を報告する。前夕に水野越前守から朝六時過ぎの出席を通知されたが、今朝は七半時に供が揃って出発した。半田は誓詞を紋付挟箱に入れ、中小姓や挟箱付の納戸与力らと先に越前守の邸へ行き、用人伊藤八太夫へ箱を渡した。斉興は誓詞を終えて退出した。前書の宛名には井伊掃部頭・老中三名を席順に記し、その次に一字下げて神尾豊後守を加え、案二通のうち一通を老中へ、一通を大御目付へ差し出したと説明する。持参用の本書は提出せず持ち帰り、留守居が右筆方へ納める手筈とした。井上逸作は終了後の挨拶を務めた。
〔天保九年〕二月廿一日(本文戌年、年は目録による) / 冊子 18~19頁/原整理番号 22の9/整理ID 22-9
半田嘉藤次が央様へ、少将島津斉彬の法令頒布への登城を報告する。五半時の登城を老中連名の奉書で命じられ、今朝六時に供が揃って登城した。目付大津主馬・柳生伊勢守の案内で大広間下段の四畳目に着座し、将軍出御後、太田備後守が法令頒布を伝えた。将軍退出後に御法令の文台が置かれ、林大学頭が読み上げ、諸侯は拝聴して挨拶した。斉彬は帰邸し、林の朗読時には担当老中太田備後守へ進んで恐悦を述べたという。西丸での祝儀については堀田加賀守・松平伊豆守らへ確認し、いつもどおり直に帰邸して使札で祝儀を伝える旨を触達した。法令・式書は星野求珉が持参したため写しを添付する。追記は、国元の太守が法令を承知した後に別の請書を出す予定とする。
〔天保九年〕十月十一日(本文戌年、年は目録による) / 冊子 23頁/原整理番号 32の2/整理ID 32-2
半田嘉藤次が央様へ、瑞輪寺から受け取った請書を提出した首尾書。霊龍院の位牌を谷中瑞輪寺へ安置する件について、五日に役僧旌壽院を呼んで別紙の内容を伝えたところ、瑞輪寺が別紙の請書を持参したため差し出すと報告する。戌年十月十一日付。役僧の院名は字形未確定。
弘化元年十二月十三日(本文辰年) / 冊子 68頁/原整理番号 105の6/整理ID 105-3
「右之通」勤めて申し出たとして、法号を差し上げることを報告する短い添書。辰十二月十三日付で半田嘉藤次が主水へ宛てる。末尾に「右一冊トス」の表示があり、廣大院法号安置一件の冊子終端に当たる。
寛政元年8月 / 冊子 134~135頁/原整理番号 75の4
六組相印は元文3年に主殿が定めたままとし、天明8年に石見殿が定めた小番赤地黒紋・新番白地朱紋・小十人与紺地朱紋、兵具方与力の炊貫輪、納戸与力赤・厩黄・船手青などを記す。元文3年以後の変更を本田孫九郎親孚が薗田与藤次へ照会し、寛政元年8月に得た答書の写。
天明7年12月15日 / 冊子 135頁/原整理番号 75の7
小番相印の紙形1枚と御書付2通を添え、伊地知嘉右衛門から本日受け取った旨を岩切嘉藤次が次渡する。申渡しは触支配の宅で行い、名代をもって承知した者には小番名代を出すよう既に伝えたと記す。天明7年12月15日、岡元十兵衛宛。相印の紙形図を付す。
天文7年、天正7年、慶長5年、承応3年、万治2年12月、天和3年7月18日、宝永2年、正徳5年、享保13年7月1日、元文元年10月2日、文化2年ほか / 冊子 293~296頁/原整理番号 114
上祖不詳で直重の裔族とする三原藤次流の系図。三原藤次は日新公に仕え、天文七年、日新公と島津実久の抗争時に加世田城で戦死し、その後の伊豆守は貴久公の納殿役を務めた。重長は貴久公の御荷内役・御納戸奉行を経て本府へ移り、牛根地頭職と三百石を与えられ、天正七年に家久が佐土原へ移封されると家久の家臣・家老となった。重長の二子は一人が山田城で、藤七が慶長五年に豊久へ従って関ヶ原で戦死したため、垂水の川崎内膳良光の嫡子・重正を後嗣に迎えた。重吉は山奉行となり万治二年に二百九石を知行し、般若院行者堂造営では普請奉行を務め、重時は御納戸奉行・物奉行、重矩(後の経明)は高奉行・御普請奉行寄役・小番を歴任した。後代は重共・経儔・経福・経豊・経載へ続き、児玉家への養子、長崎・入江・児玉各家との婚姻、出生・初見・分家時の四十八石などを記す。
年月日未詳 / 冊子 21頁
島津氏久の譜として、守護方と島山方が互いの隙をうかがって戦い、帖佐萩峰城の野本秀安と溝辺城の本田重親が相互に城を囲み、和睦して退いたこと、氏久が加治木土器園の要害を夜襲して陥落させたことを記す。
永正十一年九月十四日 / 冊子 604頁
永正十一年九月十四日、鹿児島殿中で蘭窓(島津忠治)の代に初めて行われた犬追物について、参加者別の疋数と検見・喚次を記した手組。
永正十一年十一月十四日 / 冊子 605頁
永正十一年十一月十四日の犬追物について、殿以下の参加者と検見・喚次を配列した手組。
永正十一年十二月九日 / 冊子 605頁
永正十一年十二月九日の犬追物について、殿以下の参加者と検見・喚次を配列した手組。
(慶長元年)五月朔日 / 冊子 19~20頁
島津義弘が宰相殿へ、平松の家作が粗末で雨漏りし、家中の者も難儀しているため、平松の役人に修築を申し付けたことを述べる。使者や家臣の動向、伊東孫八の書状到着、又八郎忠恒の帰朝・上洛と迎えの国分左京亮派遣、高麗への出船、求聞持修行や平田豊前の子の大峯入峰に祈念を命じたことなどを報告し、返書を求めた書状。
(慶長七年)十一月四日 / 冊子 859頁
島津忠恒が国元の家臣へ、上洛後に福島正則・山口直友や諸大名から格別の厚遇を受け、交渉が順調であると報告する。内府は関東へ下向中だが年内に上国する見込みであり、国元の諸事を念入りに処理するよう命じた。
年月日未詳 / 冊子 140~158頁
慶長十三年正月の加治木御日記。正月朔日から月末にかけ、島津家久のもとへ参上した家臣・僧侶・使者、各地からの年頭礼、太刀・馬・金銭・酒・茶・食品などの献上と返礼、饗応、祈願や使者の取次を日ごとに記す。
〔天保九年〕十月(年は目録による) / 冊子 23~24頁/原整理番号 32の3/整理ID 32-3
瑞輪寺が井上逸作・半田嘉藤次・近藤隆左衛門へ出した礼の請書。元文四年八月に霊龍院が寺へ入り、寛延元年の類焼で位牌を焼失したことを恐れ入り申し上げる。屋敷から遠いため再興せず、大圓寺へ安置されていたが、今回特別の思し召しで以前のように瑞輪寺へ位牌を安置し、さらに祠堂料として金百両を寄附されたことへの謝意を述べる。十月付。
元禄十四年六月二十九日 / 冊子 318頁/整理ID 1038
安藤駿河守次行が島津綱貴へ、甚暑のなか使者を遣わし、献上品の残りとして泡盛一壺・塩辛一器を贈られたことに礼を述べた書状。
長禄二年正月四日 / 冊子 113~133頁/原整理番号 28
慶長十三年正月朔日から晦日までの加治木御日記。惟新(島津義弘)のもとに参上する家臣・寺社・使者と年頭の進物・酒宴を日ごとに列記する。前年からの惟新の病状を案じる龍伯・奥州らとの使者往来、各寺社の祈祷成就と札・巻数の進上が繰り返し現れる。十五日には駿河普請に関する口達、二十五日には猿渡弥七郎の処罰、晦日には惟新の吉書を記す。末尾の注記は、この日記の儀式を隠居後の加治木城の式例とそのまま同一視できないと述べる。
建武三年四月十日 / 冊子 661頁
大隅国筒羽野村半分の地頭代官職について、東条藤次郎入道を補任し、当村半分で先例どおり所務を沙汰するよう命じた島津道鑑下文。
元禄十四年五月二十日 / 冊子 302頁/整理ID 995
元禄十四年五月二十日、島津藤次郎久智の室で江田国重の娘が武州芝邸で女子於奈百を出産した記事。於奈百は享保四年正月十日に没し、法名を常心玄円としたことも記す。
天明六年正月二十六日 / 冊子 850頁/原整理番号 2343/整理ID 2343
高崎藤次郎は、正月二十三日に芝田町一丁目裏通の松平隼人屋敷から出火し、薩摩守所持の番家一棟(四坪五合)、物置一棟(十五坪五合)と表通三か所の町並屋敷・町家が類焼したため、別紙絵図を添えて届ける。
文化12年9月14日(祝姫実生、生日は11月9日注)・12月28日(定姫生)/文化13年8月10日・明治13年11月16日(没) / 冊子 478頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1452
御系図の斉興公御子・男女五人のうち女子二人を掲げる。祝姫・候姫は智鏡院・常候とも記し、松平土佐守豊熙夫人。文化12年乙亥九月十四日生、十一月九日を生日としたとの注がある。母は「同斉彬」との参照表記。明治13年十一月十六日卒で、神道祭のため別に諡号を用いたとの注を付す。定姫・知姫は文化12年乙亥十二月二十八日生、母は岡田小藤次利武の妹。十三年丙子八月十日に天亡、法名智桂院殿妙雲幻香大禅童女。両人の母・没日・法名を取り違えず、実生と祝いの生日を区別する。祝姫の母の参照先は別途管理し、本文にない母実名は補わない。
文化14年10月24日(丁丑、出生) / 冊子 520頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1578
御系図、斉興公御子、男女九人のうち久光を記す。初忠教、普之進、又次郎、山城、周防、和泉、三郎の名乗りを掲げ、従四位下左近衛少将・大隅守、従四位上左近衛中将、参議、従三位、従二位、内閣顧問、左大臣、正二位勲一等、従一位大勲位を列記する。文化十四年丁丑十月二十四日生、母は岡田小藤次利武の妹。島津山城忠公の養子とし、忠公に越前家の傍注がある。官位の各叙任日や年、没日は記されていないため補わない。上段の出典・斉興御子の表示と下段の系譜を連結して採録し、後書1579にある種子島家への養子入りや帰還の経過は本書には移さない。
文政12年7月27日(本文は七月、記録注に年月日) / 冊子 811頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2290
島津但馬久照の申渡書。大年寄上席のおゆらは根来同心河村伊十郎の養妹として召し抱えられたが、実兄岡田小藤次の妹と帳面に記すよう内々の沙汰があったため、記録しておくよう御記録奉行へ命じる。文政十二年七月二十七日に久照から田原仲之丞へ渡され、白木御文書九番箱に納めたとの記録注を伴う。おゆらの出自表記、実兄・養家、記録処置、保管先を保持する。
天保2年2月16日(年次は朱注、月日は本文) / 冊子 866~869頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2443
猪飼尚敏が川上久馬ら四名へ、重豪の従三位昇進御礼に伴う十五日の名代登城から、幕府・大奥・公方様・御臺様・御簾中様・御隠居様らへの献上と挨拶までを詳しく報告する。兵庫頭を名代として五時に登城させ、書院への進物差出し、太刀・巻物・馬代金・白銀・干鯛等の相手先別の品目と数量、半田嘉藤次を介した手配を列挙する。近衛家や奥向きへの使者、先例・御内意の照会、御用人・留守居・表向きの名札や礼式、書札の受渡しも論じる。二月十六日付。本文は冊子866~869頁にわたり、末尾に四名の署宛を記す。
天保3年(本文。九月~十一月の使節記事) / 冊子 916頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2603
尚育の謝恩使として豊見城王子を正使、澤紙親方を副使に立てた天保三年の記事。九月朔日に琉球使を送り、斉興は陸路、島津但馬久風らは船を監護したと記す。権崎で王子が病み十六日に没したため、尚育の命を伝えて宇治原親雲上を正使の豊見城王子とし、禄親雲上を謨議官に召した。宇治原には王子の弟善天、禄親雲上には官名変更と小禄の注がある。十七日に出帆、十月十一日に斉興が海田市で報告を受けて江戸へ急使を出し、十二日に国老猪飼央が半田嘉藤次齊を康任邸へ遣わした。十一月に琉球使が芝邸へ着いたと結ぶが、本文は「十一月日」で日を欠く。出典は近秘野帥斉興公。病没日はNo.2602の八月二十七日と異なるため、両記事の記載を分けて保持する。
天保4年2月3日(年次朱書、月日本文) / 冊子 952頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2678
松平大隅守が同氏栄翁の死去と祖父に対する忌服を届けた書。栄翁は病気で養生がかなわず、今三日卯刻に死去したと記す。表向きの二月三日の死去届として、正月十五日の実際の内報とは分ける。続いて溪山にとっては父、豊後守にとっては曾祖父に当たることを記し、各人の忌服を表に示す。大隅守は忌三十日(同日から三月二日まで)・服百五十日(同日から七月五日まで)、溪山は忌五十日(同日から三月二十二日まで)・服十三ヶ月(同日から「午二月迄」)、豊後守は忌二十日(同日から二月二十二日まで)・服九十日(同日から五月三日まで)とする。朱書注では、死去届と忌服の二通を当日、留守居半田嘉藤次を通じて御用番松平周防守へ提出し、受領された旨を取次井下勘十郎から聞いた。西丸へも同案二通を留守居本田六左衛門を通じて差し出したと記す。通常・AI各二頁で本文・全表・署名・提出注を確認した。
天保4年2月4日(年次朱書、月日本文) / 冊子 953頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2680
松平大隅守が、亡祖父栄翁の遺骸を先例通り国元へ送ることを願った伺書。遺骸を国元へ差し越したいので指示してほしいと求める。二月四日付、朱書天保四年、松平大隅守署。朱書の御付紙には「可為勝手次第候」とあり、希望通りに扱ってよい旨の返答を伴う。出典は重豪公御譜中、控えの正文は家老座にあるとの注を付す。末尾の朱書注では、この書付を当日、留守居半田嘉藤次を通じて御用番松平周防守へ提出したところ、同日留守居が呼び出され、嘉藤次が出向き、取次吉澤勇右衛門から付紙の通り申し渡されたと記す。移送の願いと返答、その日の伝達経路を保持し、遺骸がすでに国元へ着いたという記録とは扱わない。
天保4年2月5日(年次朱書、月日本文) / 冊子 953頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2681
松平大隅守が、亡祖父栄翁の遺骸を国元へ送る際の通行と人馬について願った伺書。東海道・美濃路を通行する予定であり、城州伏見の駅から西之宮までの通人馬については山崎道を通じて差し遣わしたいと求める。二月五日付、朱書天保四年、松平大隅守署。朱書の御付紙は「可為勝手次第候」であり、希望通りに扱ってよい旨の返答を付す。末尾注では、当日留守居半田嘉藤次を通じて御用番松平周防守へ提出したところ、即日留守居が呼び出され、付紙の通り申し渡されたと記す。西丸へも同案を差し出した。東海道・美濃路の通行、伏見から西之宮までの人馬、山崎道の指定、付紙の返答と当日の申渡を分け、実際の出発・到着をこの伺書から断定しない。
天保4年巳2月7日(本文) / 冊子 953~954頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2683
松平大隅守の祖父隠居栄翁が病死したため、遺骸を棺に納め、江戸から薩摩国鹿児島の菩提所福昌寺へ送ることを証明し、箱根・今切の関所を支障なく通すよう命じた手形。大隅守殿内の半田嘉藤次が申し立てた通りであると記す。天保四年巳二月七日付。内匠・土佐・信濃・左近・甲斐の五つの印の表示を列記し、箱根・今切の人改中を宛先とする。先行する出典注には箱根・今切宛の書付二通であるとの朱書があり、本文では地名注を添えて両関所を記す。通常・AI各二頁で出典注と手形本文・印名・宛名を確認した。棺の関所通行を認める書類として整理し、この日までに両関所を実際に通過したと断定しない。
沙汰書本文に日付記載なし。追記は天保九年十二月十四日と翌十五日 / 冊子 30頁/原整理番号 39の3/整理ID 39-3
島津斉興の宰相昇進を今回限りの特例とする沙汰書写しと、その後の藩邸記録。正四位下中将からの昇進は本来難しいが、前年の慶事と縁柄・由緒、大御所の厚い意向によって特別に認め、今後の家格には影響しない旨を告げ、承知したと返答するよう求める。追記では奏者番本多下総守や大目付・目付を介して承知の返答を行い、大御所家斉、右大将家祥へも任官の礼をした経過を記す。口宣の受渡しについては、十二月十四日に老中から翌十五日五時の使者登城を命じられ、留守居半田嘉藤次が河野邊修徳を介して目付一色主水に到着を知らせ、躑躅之間の外で待った後、太田備後守から口宣御奉書を直接受け取ったとする。
九月十五日、嘉永六年十二月五日・十日・十四日など。共通包紙朱注は嘉永七年正月 / 冊子 144~146頁/原整理番号 212の1/整理ID 211-1
白木御文書十番箱中五十八番の道中行列鉄砲伺い一件の前半。包紙は上下の道中で鉄砲十挺を持つ伺書一通、留守居首尾書五通、江戸詰家老の問合書一通を列記し、嘉永七年正月の朱注を付す。本文の「の1~の5」は、近海の外国船来航に対する警衛命令を踏まえ、領内に置く鉄砲だけでは道中の急変に対応できないので行列内にも十挺を携行したいと願う書付と、その取次経過を収める。九月十五日の松平薩摩守の伺い、十二月十日の早川五郎兵衛による用番・用人への提出と御付札の受領報告、来年参勤に向け寅年二月中旬の国元発足に間に合う差図を求める十二月五日の内意、再提出・内見による催促の報告、十二月十四日の半田嘉藤次による箱根・福島等の関所への通達依頼が続く。報告は近江へ宛て、許可趣旨を国元へ知らせることや大御目付の留守居役名の申出も記す。
嘉永六年十二月十四日・十七日ほか。正月三日夜到来の朱注(翌年とみられる) / 冊子 146~147頁/原整理番号 212の6/整理ID 211-2
道中で鉄砲十挺を携行する伺い一件の後半。「の6」は半田嘉藤次が用番松平伊賀守の取次飯塚勝之助へ書附を持参し、演説して差し出したところ落手したと伝える十二月十四日の報告で、箱根その他の関所へ許可の趣旨を通達するよう求める。「の7」の書附は、近海の外国船警衛に伴い一万石以上の者が領内に鉄砲を備える触達を受け、道中上下でも十挺を持ちたいと願ってきた経過を述べる。九月十五日付伺いと阿部伊勢守への内見、用番松平和泉守の吟味、留守居への御付札、国許で正式に申し上げるよう求めたこと、十四日に伊賀守へ関所通達依頼を提出し落手したことを記す。朱注には正月三日夜到来・極々急飛脚便とある。末尾の嘉永六年十二月十七日付家老問合書は、島津右門久福・末川近江久平から豊後・筑後・石見・伊織へ宛て、留守居首尾書等六通を添え、願済みであれば表方の使者で御請して往返日程を調整するよう求める。右一冊終レリで一件を閉じる。