町田忠房坪付
天正四年三月 日 / 冊子 472頁
大隅国清水内の一か所を田中縫殿助に示した坪付。近衛前久の花押を据え、島津以久家老町田忠房家に伝来した文書である。
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天正四年三月 日 / 冊子 472頁
大隅国清水内の一か所を田中縫殿助に示した坪付。近衛前久の花押を据え、島津以久家老町田忠房家に伝来した文書である。
年月日未詳 / 冊子 256頁
島津久豊が伊地知縫殿助を碇山へ派遣し、久世忠朝方との和睦を進めた経過を記す義天譜。市来備後守家親も提携を歓迎し、久豊・久世・市来方は伊集院頼久を共通の敵として軍勢を統合した。碇山・市来・吉田周辺で交戦して敵を退け、島津一族間の和解を反伊集院連合へ発展させた。
年月日未詳 / 冊子 269頁
島津家久が府内に留まり豊後半国を掌握したものの、諸将の抵抗と兵糧不足で進退に窮したため、樺山忠助を三重の松尾城へ退かせた記事。天正十五年正月十八日、忠助が府内から三重へ到着し、新納縫殿助・平田狩野介らと守備に当たった経過を記す。
(慶長元年)七月廿六日 / 冊子 34頁
龍伯(島津義久)が忠恒へ、町田縫殿助から承った件は帰帆時に詳述させること、希望する鉄が調わず渡海を延期したこと、宿銀・本銀の返済手配を伝える。六月二十日付書状の到着を喜び、下知に背いた野村五郎二郎の組編成を指示し、重病説が流れた秀吉は快復して京都が静謐となったので安心するよう知らせた書状。
年月日未詳 / 冊子 45~51頁
慶長十年の国府衆中を家ごとに列記した大規模な交名。町田縫殿助(後の駿河守)をはじめ、各家の当主・子・兄弟・養子・婿・被官らの姓名、入道名、役職、親子・養子関係、居所・移住先、出仕・死亡などの注記を収める。
二月十三日 / 冊子 313~314頁
細川忠利が島津家久に、越前宰相松平忠直をめぐる江戸の情勢を報じる。忠直は病気と称して江戸下向を延期したが、国政を意のままにし、甚だしく酔狂であるとの風聞が幕府の不興を招いた。側近の若者らは、忠直が江戸へ下れば自分たちが処罰されると恐れ、種々申し立てて引き留めたという。将軍徳川秀忠は近藤縫殿助を見舞いに遣わしたが、近藤は帰途、大磯で落馬死した。忠利は、忠直の行動を天下への企てではなく「気の違い」とみなし、直ちに軍勢が派遣される様子はないが、いずれ江戸へ召し寄せられるだろうと推測する。また、有馬氏との境界争いでは島津側が紛争の火元とならず、絵図を添えて幕閣へ申し出るよう助言し、江戸城本丸普請の進捗も伝える。
年月日未詳 / 冊子 209頁
島津久豊が穂佐高城へ移り、池尻・白糸・細江の諸城へ勇鋭の士を配して守備を固めた経過を記す島津恕翁譜。伊東大和守祐堯方との対立から城郭戦が起こり、本田小太郎・綾縫殿助らが戦死した。複数拠点による防衛網の形成と、伊東勢の侵攻に伴う人的損害を伝える。
年月日未詳 / 冊子 205頁
島津国史の記事として、応永九年八月、鎮西の海賊が明国を侵したことを受け、幕府が海賊鎮圧と所領処置を命じた経緯を記す。久哲への書状、伊地知氏への措置、大隅方の所領関係を載せる。
永正十一年九月十四日 / 冊子 604頁
永正十一年九月十四日、鹿児島殿中で蘭窓(島津忠治)の代に初めて行われた犬追物について、参加者別の疋数と検見・喚次を記した手組。
天正九年八月十六日~十八日 / 冊子 693~694頁
相良義陽が北原・菱刈との戦いや大友氏の日向侵攻時に島津方へ敵対したため、島津義久が三州の軍勢を催して水俣城を攻めた経緯を詳述する。八景尾・銭亀尾・熊牟礼・軽石尾・井川比良に陣を置き、矢文の連歌を交わしつつ包囲し、義陽が芦北七浦と息子二人の人質を差し出して降伏を請うと、義久は受諾して囲みを解いた。
天正九年九月十六日 / 冊子 694~695頁
島津義久が数万の兵で相良義陽を攻め、義弘が八景尾の陣を守り、諸将が水俣城を包囲した経緯を記す。守兵は九月二十日に降伏して退去し、義陽は津奈木・湯浦・佐敷などを献じ、二十六日に佐敷で義久へ謝罪して息子兄弟を人質とし、阿蘇氏への出兵を申し出た。
天正十年正月以後 / 冊子 710~711頁
相良家が弱体化したため、八代老衆が八代を島津領とするよう請願した経緯を記す。義久は義陽戦死後の領地取得を辞退したが、他勢力に奪われれば相良・薩摩双方に害があるとの強請を受け、自八代両城から関・谷山・高塚・豊福までを領し、球磨一郡を忠房に安堵して相良家を存続させ、残る旧領を忠平へ与えた。
天正十年正月以後 / 冊子 711頁
相良家の勢力が朝露のように危うくなったため、八代老衆が八代を島津領とするよう願った記事。義久は再三辞退したが、八代が他人の手に渡れば相良氏にも薩摩にも害となるとして承諾し、八代から豊福までを領して後に義弘へ与えた。
正月七日 / 冊子 56頁/原整理番号 22-2
従来は御船手の水主屋敷であった一段二畦四歩の地を、頭殿の別火所屋敷にするため、関係者に支配させる引付。明暦三年四月二十七日付。
正月七日 / 冊子 56~57頁/原整理番号 22-3
御蔵入の塩屋村にある複数の屋敷地を、御船蔵地と水主屋敷に充て、船奉行方へ引き渡すよう命じる引付。各地片の面積と居住者を列挙する。明暦三年七月四日付。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):同九年壬申卯月二十四日 小字・補記(別層):(永正) 補記(正文と別層):(永正) / 冊子 135頁/整理ID KW1-G000104
忠昌公の御家老伊地知縫殿助重周が神文を尊重へ寄せたと記す。 その旨趣を下に掲げる。
「寛永十七年」正月晦日 / 冊子 97頁
島津光久が島津久慶へ、各方面に横目を二人ずつ置き、頴娃主膳・新納二右衛門にも同様の心得を伝えたとする書状。岩切縫殿助について久慶方の老若がどのように述べているか報告を求め、供衆に適任者が乏しいため黒葛原勝左衛門・田中内膳を派遣するので、両人が小身であることに配慮するよう頼んでいる。
寛永廿年八月廿七日 / 冊子 244頁
川上久国ら三名の連署引付。新納加賀守に大口地頭分として三百石、新納勘解由に甑島地頭分として二百石を与えることなど、地頭職に伴う知行配分を記す。伊地知縫殿助の鹿児島高への組入れなど、関係者の持留知行の調整も定めている。
元文元年十月六日 / 冊子 408頁/整理ID 949
徳川吉宗が小姓組番頭青木縫殿助を芝邸へ遣わして継豊の病気を尋ねたことを吉貴が大磯館で聞き、執政へ奉書を呈して謝意を示した。
延享二年二月廿五日 / 冊子 797頁/整理ID 2092
継豊は同氏薩摩守宗信について、今年は初めて国元へ帰らせたいので暇を与えてほしいと願い出た。小笠原縫殿助がこの願書を酒井雅楽頭方へ差し出し、取次が受け取った。No.2093は許可後の出立と旅程を記す。
〈寛延二年〉八月五日 / 冊子 185~186頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0525
寛延二年八月五日、嶋津主鈴・矢柄・主殿が樺山主計・伊勢兵部・鎌田典膳・平田靱負へ、嶋津兵庫の忌服・江戸への呼寄せと急使派遣を報じる。本田伯耆守の用命で留守居一人を小笠原縫殿助宅へ遣わすことになり、赤松甚右衛門が赴いたところ、太守様の死去の日から忌五十日・服十三月を受けるよう兵庫へ伝え、忌服の書付を追って差し出すこと、兵庫が江戸へ到着した際はその旨を知らせることを指図され、別紙書付を受けた。加賀守も伯耆守宅へ赴いて取次を通じ別紙のとおり御請を申し、小笠原へ伝えた。忌服の書付は翌日提出する予定とし、御守殿へ内々に申し上げるため用人衆を通じて櫻田へ知らせた。主殿は翌六日に道中を急いで出立するので、国元への到着時期は計り難いが発駕を延ばさぬよう手当を求める。今夜、海陸二手の急飛脚を差し立てることとし、御歩行の野村勘助と谷山衆中の田原辰之助を即夜派遣した旨を記す。関係する御方・尾張様・京大坂・隣国への通知も相談している。兵庫の出府に野村大右衛門などの留守居を付ける案を検討したが、人数が少ないため使番を供に付ける案を相談し、用人の供への影響も考慮している。国元から派遣する役の往返と出立について承知するよう求め、小倉筋を急いで道中の通り方を聞き合わせること、宿札は「薩州」と記して掛札は不要との留守居の見解を伝え、別紙二通を添える。
〈寛延二年〉八月五日 / 冊子 187頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0530
寛延二年八月五日、嶋津主鈴・矢柄・主殿が樺山主計・伊勢兵部・鎌田典膳・平田靱負へ、兵庫の定式忌服と出府について幕府側から書付による指図を受け、急使を差し立てたことを報告する。本多伯耆守宅へ召された小笠原縫殿助を通じ、別紙のとおり忌服を受けて江戸へ出府するよう書付を渡されたため、その内容を急飛脚で国元へ伝え、御歩行の野村勘助・田原辰之助を急いで派遣したと記す。この件を御聴に達し、早く出立するよう申し上げることを求める。両名をこちらへ差し返す必要はなく、国元に留め置くよう申し越し、別紙第一通を送る。
〈寛延二年〉十月三日 / 冊子 208~209頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0580
寛延二年十月三日、嶋津主鈴・矢柄が嶋津主殿・樺山主計・伊勢兵部・義岡左平太・鎌田典膳・平田靱負へ、兵庫の忌服と出府に関する届書・幕府への取次手続を報告する。八月七日に本多伯耆守から受けた指図は八日に知らせ、片道二十三、四日目の承知を見込んだ。その後、八月五日の小笠原縫殿助の指図も吟味して九日に申し越したところ、九月三日・四日の便で国元に届き、三日から十月二十二日までの忌と十三月の服を受ける旨が伝えられたため、その内容の届書を整えることを求める。八月五日の指図をもとにすると九月三日まで片道二十七日目となるが、勤事と余事では所要日数が異なるという朱書の返答を承知したとも記す。忌服・出府の指図への請は他方の扱いも照会し、御一類方の内から申し上げること、九月十三日の国元出立の届などを整えることを求める。兵庫の名書を整え、以前の指図に用いた小笠原縫殿助へ取次方式を岩下佐次右衛門を通じて相談したところ、縫殿助へ書付と忌服届書を内見に出すよう返答があった。前月二十九日、御用番の堀田相模守へ請書を持参し、無事に受け取られたことを佐久間源太夫が伝える。また、源太夫が兵庫の定式忌服・出府の指図書付を携えて参上し、九月三日に薩州で承知した旨の受けの書付と忌服届書を御用番へ差し出し、本多への報告のため書付写を御用人へ渡した経緯を記す。御守殿櫻田にも承知日と十三日の出立予定を知らせ、使番を通じて関係先へ伝えるよう依頼する。届下書、受けの書付写、留守居首尾書の三通を添え、隅州様と兵庫へ報告するよう求める。目録の連署人名と署名の実名には異同がある。
宝暦九年(日付不記・記事) / 冊子 743頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2260
十二月五日、家重が番使の谷縫殿助を芝邸へ遣わし、鷹が捕らえた鶴一双を重豪に下賜した。重豪はただちに老中各邸を訪れ、拝領の礼を述べた。
年月日未詳 / 冊子 755頁/原整理番号 795
十九日、飯野士の谷口大蔵卿・柏木縫殿助の供夫二人が米津へ到着したと記す短い記事。前の人数帳にある飯野衆の後着者を補う。
永正18年3月吉日; 大永6年12月27日 / 冊子 340頁/原整理番号 130-25
坪付本文をいずれも「末略」とした二件の抄録。第一は永正十八年三月吉日付で、大隅国重久名十七町四反の総面積を掲げ、忠基(末弘伯耆守かとの傍注)と桑波田讃岐守景元を記す。第二は大永六年十二月二十七日付で、薩摩国市来院伊作田名一町七反の総面積を掲げ、伊地知縫殿助重周・肝付越前守兼演・本田因幡守兼親が署判し、河上山城守・河上平次郎へ渡したもの。
年次・月日不記(島津忠隆の代) / 冊子 582~583頁/原整理番号 93
島津忠隆の代に渋谷氏が鹿児島へ参上した際の座配を示す記録。『主居』には忠隆と入来院又五郎重朝・伊地知周坊入道・祁答院又次郎、『中居』には東郷弥次郎と椛山藝州入道長久を配し、続く『上下』には高城秋月・伊地知縫殿助などの名を記す。人物名を単純に一直線の序列として並べたものではなく、主居・中居など席の区分と各区分内の配置を記した点が特徴。年月日・差出人・宛先は本文にない。
〈寛延二年〉八月三日 / 冊子 180~182頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0512
寛延二年八月三日、嶋津主鈴久郷・矢柄久寛・主殿久柄が、樺山主計・伊勢兵部・鎌田典膳・平田靱負へ、太守様(宗信)の病状悪化に伴う養子・家督相続の相談と願書提出の経緯を報告する。主殿が相続に関する書付を差し越し、姫君様への願いと菊姫様への申し進めについて村路を通じて取り次いだ。八月朔日夜、新御書院で荻原殿・お梅殿・岡田殿と差出人三人が会合し、療養を尽くしても効験が見えず衰弱が増すため、急変した際には当三月の下国前に仮養子として申し置いた嶋津兵庫の相続を願いたいこと、隅州様および一門の相談を経て願書を差し出したいことを伝え、姫君様・菊姫様も承知したと記す。関係者の名を列記し、柳生備前守は不快のため断ったと付記する。二日には芝屋敷で隅州様の相談について留守居を介して報告し、伊豫守・加賀守が養子願の案文を内見した。両者は万端の取計を引き受け、野村大右衛門にも伝え、大玄院病中の諸書付を見合わせて案文を整え、小笠原縫殿助・久世忠右衛門にも相談した。堀田相模守への内意照会では、病状の届はすでに二度上聞に達しているので改めて奉書を届けず、直接養子願を差し出すよう回答され、岩下佐次右衛門から春日井庄兵衛を通じて伝えられた。三日、願書を御用番本多伯耆守へ加賀守と小笠原縫殿助が提出し、若年でも不慮の事態を考慮して受け取る旨の返答を得た。加賀守は門外へ退出後に戻って受理の礼を述べ、櫻田の御守殿へ報告した。尾張様へは矢柄が使者として知らせ、嘉知姫様にも用人を介して伝達した。京・大坂の使番、関係する御方、御守殿付用人、近習役以上、家老座・諸役人・諸士への周知を記し、書付写五通を送って貴聞に達するよう求める。日付と周辺の宗信死去記事との前後関係には疑義がある。
寛延二年十二月二日 / 冊子 227~228頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0640
伊勢兵部貞起と嶋津主鈴久郷が寛延二年十二月二日、嶋津主殿・樺山主計・義岡相馬・鎌田典膳・平田靱負の五名へ送った書状。守殿の婚姻と奥方出府について国元の意向を二十八日の飛脚で承知し、堀田相模守の用人浅井八兵衛、岩下佐次右衛門を通じて相談した経過を伝える。「一昨廿九日之晩」に堀田から聞いた国元奥方の件について、太守からも急いで願い出るよう言われ、願書案文と奥方由緒書を出すことになったと記す。 案文を浅井に見せて文言に問題がないことを確かめ、堀田への翌朝の挨拶を手配した。清書を岩下から堀田方へ差し出し、用人岩瀧五兵衛を通じて、二日朝に提出することを重ねて頼んだ。小笠原縫殿助にも首尾よく受け取られるよう取持ちを依頼し、当日朝に堀田方へ出した旨の連絡を受けた。 この経過を隅州様へ伝え、女中方と島津大学久尚方への連絡、出府の手配や挨拶、一門への周知をどうするか相談する。許可後の挨拶を経て隣国へ知らせることも考えているとし、別紙の願書・由緒書を添えて急飛脚で報告する。冒頭は「重年公御譜中」、本文冒頭に「扣正文在文庫」。
宝暦五年六月十三日 / 冊子 536~537頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1615
義岡相馬・嶋津主鈴・伊集院十藏が六月十三日、嶋津主殿・鎌田典膳へ、重年の病状届と嫡子又三郎の跡式願の取次を急報する。容体は前日と同じながら草臥れが増して重くなったため、御用番酒井左衛門尉へ重病の届書を出し、一類への相談では異存のない返答を受け、堀田相模守へ隠岐守を通じて内談し、治定すれば嫡子の届書を出すよう指示された経過を記す。当夜は相模守との相談を踏まえ、萩原・岡田を介し淡路守が病状届を酒井へ出して受け取られ、跡式の御書付と別紙三通一結は御用人小笠原縫殿助を介して淡路守のもとへ出し、これも受け取られたと報告する。通融の方々や隣国長崎への通知は先例を相談して扱うよう求め、急飛脚を差し立てるので隅州・女中方へ伝えるよう依頼し、病勢を案じつつ別紙三通と留守居首尾書一通を添える。
宝暦五年七月二十七日 / 冊子 547~548頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1643
宝暦五年七月二十七日、忠洪の名代の島津淡路守久柄が、御先手小笠原縫殿助持廣とともに老中西尾隠岐守忠尚の邸へ赴いた記事。堀田相模守正亮・松平右近将監武元・忠尚が列座し、大目付能勢因幡守頼次も同席した。忠尚が進み出て、亡父重年の遺領すべてを忠洪へ与え、幼少のため領国および琉球国の政務は継豊が先例に従って取り計らうとの幕命を伝えた。さらにその言葉を紙に書き、久柄へ渡した。久柄は芝邸へ戻って忠洪に幕命を伝え、その足で老中・若年寄各位の邸を訪ね、忠洪のために恩命への謝礼を述べた。小笠原持廣には用頼との元注が付く。出典は重豪公御譜。
正月廿八日 / 冊子 23頁/原整理番号 36
川上久国が大野久武・伊地知重順へ、有馬の件で薩州様が下向するとの知らせが上陣からあり、越中守・立花殿らには今月十二日に暇が出たため、薩州様も間もなく着船するだろうと伝える。大野と縫殿助は少人数を率いて細島まで迎えに出て、道普請と迎えの夫馬を怠りなく手配するよう命じる書状。
延徳二年三月廿六日 / 冊子 131頁/原整理番号 42
延徳二年三月二十六日の犬追物手組。殿十六疋、吉田治部太輔二疋、餌肥又八三疋、島津摂津守九疋などの配当を列記し、検見を島津十郎左衛門尉(義久)、喚次を餅原縫殿助とする。
永正十一年九月十四日 / 冊子 134頁/原整理番号 51
永正十一年九月十四日の犬追物手組。殿十二疋、伊地知縫殿助二疋、加治木又八郎二疋、竹田藤次郎三疋などの犬数を記し、検見を島津十郎左衛門尉(義久)・大寺宗左衛門尉、喚次を島津三郎四郎とする。
年月日未詳 / 冊子 301~302頁/原整理番号 138
久豊譜が、久豊は伊地知縫殿助と市来家親、本田安久を碇山へ送り、久世と和睦し頼久を討つ協議をしたと記す。久豊は満家・川田から平等寺へ進んだが、久世・忠朝は市来宮園にとどまり、久世は約束を変えて兵を出さなかった。頼久は千騎ほどで平等寺へ攻め寄せ、数日間の戦闘で久豊方は吉田・肝付と退陣を相談し、双方が退いた。夜の帰路、郡山の庶卒らが諸物・兵具・馬を奪って逃げたため、川田・比志島などに兵を置いた。久世は川辺を受け取り忠朝は隈城へ帰り、市来家親は久世らの不参を非難したという。
文書年紀:于時文禄二癸巳年三月廿四日 / 冊子 365頁/原整理番号 五八八/整理ID TMP-P02-NENE4F-D0588
水口之方の所領一段廿二分・一石三斗八升を挙げる。 田代の返地として税所縫殿助へ渡したことを証する。
文書年紀:于時天正廿一癸巳年貳月廿四日 / 冊子 365頁/原整理番号 五八九/整理ID TMP-P02-NENE4F-D0589
田代かへの内一段九斗二升六合、同所中村之前五畝二斗八升四合を列記する。 返地として税所縫殿助へ渡したことを重虎らが証する。
年月日未詳 / 冊子 752~755頁/原整理番号 794
村田市助家蔵の模本から、三原喜太郎・里村十左衛門や谷山・加治木・財部・末吉・大崎・志布志・頴娃・指宿・飯野・高原などの人躰、卒者・夫丸、個人別の随伴人数と着津日を記す。飯米は十日または二十日分を渡し、長嶋ふくら蔵元と米津で分けて支給する例もある。末吉衆中の検見崎兼堯について、家系・移住と島原出陣時の行動を元禄七年の系図申出により補注する。末尾は二十三日条へ続く旨の注。
文書日付:永和三年十月廿八日 日付留保:日付字面は永和三年十月廿八日を保持。年号前記号・年数細画・正文年紀と補注の区分は未確定。 / 冊子 254~256頁/原整理番号 三一四/整理ID TMP-P02-NENE2-D0314
将軍家御方として同心し忠節を尽くす。島津伊久・氏久の降参が治定した場合、今後の両人退治には改めて公方御意を請うとする。 両人が御方に参っていても、一揆人の知行への競望・合戦時には、公方御意を待たず現地に馳せて防戦する。 所領相論などは合議し、多分の議と理運によって扱う。契約違背者への対応と、本領再住・恩地入部に公方御意・衆議を要することを定める。 「一揆衆中お憑楚忽沙汰候時者」には合力しないとし、公方への訴訟は理運により共同で申し立てる。違反には神罰を受けると誓う。
天正二年二月廿五日 / 冊子 336頁
下大隅の戦が終息した天正二年二月二十五日、伊地知重昌が鹿児島へ参上した経緯を記す。垂水の辺りまで老臣らの出迎えを受け、船元では川上意釣に迎えられ、その夜義久に謁見して縫殿助の名を与えられ、伊地知家が繁昌したとする。
〈寛延二年〉八月五日 / 冊子 186頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0527
幕府が島津兵庫に、松平薩摩守宗信の死去の日から五十日・十三月の忌服を受けるよう指図する。忌服の書付は追って差し出すこととし、兵庫を当地へ呼び寄せ、到着後に届けるよう命じる。小笠原縫殿助に関する朱注がある。国元への伝達を実行した旨はこの文書にはなく、その承知と申越しは次の忠雅請書に記される。
〈寛延二年〉九月廿九日 / 冊子 209~210頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0583
小笠原縫殿助の九月二十九日付口上書。宗信死去に伴い兵庫が五十日・十三月の忌服を受け、江戸へ出府するよう指図されたことについて、兵庫が九月三日に薩州で承知し、同月十三日に出発したとの報告を申し上げる。正文の控えは家老座にある。
年月日未詳 / 冊子 223~224頁/原整理番号 333-5
藪図書助と佐分利加左衛門も三の丸一番乗りを申し出たが、その事実は不分明であると記す。未刻、戸田左門の対面所で休息していた上使衆・諸大将は、物見櫓から鍋島勢が出丸へ乗り入ったとの報を受けた。松平伊豆守は自ら櫓に上って確認し、諸勢は騎乗して城へ進み、三の郭へ乗り込んだ。記事後半は長岡佐渡勢の働きを記し、持筒頭らの鉄砲射撃、平破平太夫の一番槍、松野縫殿助・吉弘四郎太夫兄弟の首取りと証人を挙げ、長岡佐渡勢の働きについて杉山次郎太夫の差出があるとする。
年月日未詳 / 冊子 165~166頁/原整理番号 509
谷山の肝付伊左衛門家系図。古い系図は縫殿助の代の類火で焼失したため、それ以前は不明として略す。兼佳(縫殿助)は谷山で奉公し、島津大和守に従って正保二年十二月十一日に戦死、福昌寺戦亡帳にも記載されたという。男子のなかったため伊集院古左京亮の弟久兵衛尉の嫡子兼政を養子とし、兼政の子女、兼英・兼武・兼寛らの出生年月日と母方・婚姻を列記する。
(寛永十四年)十月十九日 / 冊子 682~683頁
家久周辺の内密な案件について、黄門様・奥方・野州老らへの対応、出仕や儀礼の手順を相談し、関係役人と連携して急ぎ処置するよう求めた連署書状。対象となる女性・屋敷内の事情や役割分担には難読箇所が多い。
〈寛延二年〉二月二十一日 / 冊子 143頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0396
宗信の妹菊と松平修理大夫重政の縁組について幕府へ願い出る短い連署願書。松平薩摩守・松平筑前守・小笠原縫殿助らの取次名が記される。
〈寛延二年〉十二月二日・四日 / 冊子 228頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0641
重年公御譜は十二月二日、重年が小笠原縫殿助持廣を堀田相模守正亮へ遣わし、家臣島津大学久尚の娘於村を夫人とする願いを申し上げたと記す。同月四日に許可され、その日に重年が執政らの邸へ出向き謝した。願いの提出は二日、許可とその御礼は四日で、No.642の妻女伺書に対応する記事である。
〈寛延二年〉十二月六日 / 冊子 229~230頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0645
伊勢兵部と島津主鈴が十二月六日、島津主殿・樺山主計・義岡相馬・鎌田典膳へ長文を送る。於村の件を二日の飛脚で委曲承知し、四日に堀田が小笠原縫殿助を召して妻女伺への回答を渡したので、太守から老中、京都諸司代・若年寄へ御礼を行ったと報告する。内証勤務、三御所・菊姫・大御所・姫様への礼を相談し、守殿が早い出府を望むため、翌年の太守帰国予定との兼合いを考えて急ぎ出府手続を整えるよう求める。奥向き女中の引取・新奥方への配置、国元から迎える女中、供人数、役人・手当を先例で相談し、一門・隣国への知らせ、御礼・献上物と内証勤め書状の扱いを添書と急飛脚で伝える。
〈寛延三年〉五月十三日 / 冊子 258~260頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0748
伊勢兵部・義岡相馬が寛延三年五月十三日、島津主殿ら五名へ継豊の国許湯治御暇を今年夏以降も延ばす願いと、その取次経過を報告する。二月二十三日の使便で受けた意向に従い堀田相模守へ内談し、五月三日に岩下佐次右衛門が浅井八兵衛へ案文を示した。五月六日朝、小笠原縫殿助を介して願書を提出し受領され、十二日に別紙の御付紙が伝えられたため、国許へ報じると述べる。許可後の御礼について、三御所宛の飛札・継豊の御書、菊姫の御礼、奥向・家老・一門・隣国への通知と祝儀を項目ごとに協議する。末尾には前年の例を踏まえ琉球物の軽品を贈る内談と、首尾書四通を送る旨がある。連署報告書で、湯治願書そのものや琉球使節の派遣記事とは区別する。
〈寛延三年〉五月六日 / 冊子 261頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0751
岩下佐次右衛門が五月六日、兵部様へ二件の取次首尾を報告する。一件は、継豊の御暇申次願いの御書付壹通を今朝、小笠原縫殿助を介して御用番堀田相模守へ差し出し、無事に受け取られたことである。これを縫殿助から聞いた相模守取次の道之内十兵衛が、挨拶使者の岩下へ伝えた。もう一件は岩下が御用番門前の附使者を務めた際の挨拶書付の受領である。