島津氏久宛行状
正平十二年四月廿日 / 冊子 4頁
島津氏久が田代次郎に、大隅国串良院弁分上条・立小野村と鹿屋院内高隈村の弁分を兵粮料所として宛行い、先例どおり知行して軍功を励むよう命じた宛行状。
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正平十二年四月廿日 / 冊子 4頁
島津氏久が田代次郎に、大隅国串良院弁分上条・立小野村と鹿屋院内高隈村の弁分を兵粮料所として宛行い、先例どおり知行して軍功を励むよう命じた宛行状。
正平十三年十一月九日 / 冊子 11頁
島津氏久が姫木又次郎に、自方へ参じたことを受け、本領の知行に相違がないことを保証した書下。
延文六年七月十一日 / 冊子 21頁
島津氏久が祢寝次郎入道に、大隅国佐多村の庶子女子二人跡について、関東・六波羅の下文や施行状、現知行を示す文書を確認したうえで、相伝知行に相違がないことを保証した書下。
康安二年七月廿一日 / 冊子 28頁
島津氏久が称寝孫次郎に、深河院内北方半分を兵粮料所として計らい、先例に任せて沙汰するよう命じた宛行状。
貞治六年六月廿七日 / 冊子 47頁
島津氏久・基久が河上次郎左衛門尉に、申談の内容に基づいて市来院内河上村地頭職を安堵し、領掌に相違がないよう定めた連署安堵状。
貞治六年七月四日 / 冊子 48頁
島津氏久が彌寝孫次郎に、大隅国西俣村の地頭職・弁分を兵粮料所として預け置き、先例どおり領掌するよう命じた預ケ状。
建徳二年五月廿七日 / 冊子 57頁
島津道壱(親忠)が若次郎丸へ、伊作庄南方の日置吉利田島・熊枯田に属する田畠、山野、川海の権益を永代譲与した譲状。重代相伝の所領を一括して継承させ、若次郎丸の知行と後代への相続条件を定めて、他者の妨害を防ごうとする。
応永五年十二月廿五日 / 冊子 178頁
田代清久が、島津氏久から七郎入道清久および左衛門尉へ与えられた五通の書下と、串良院上条・鹿屋院の地頭職・弁分を列挙し、宗次郎の後代がこれに従って知行するよう定めた置文。
応永五年十二月廿五日 / 冊子 178~179頁
田代清久が、大隅国田代内の宗次郎分について、遊喜田村・土橋村・原村・有里小野村・山野などの境界と自作分を列挙し、知行すべきことを示した譲状。
応永五年十二月廿五日 / 冊子 179頁
田代清久が、大隅国田代内の宗次郎分について村・山野・自作分・屋敷などを列挙し、違乱する者は清久の子孫と認めないとして知行の維持を定めた置文。
応永九年十月廿三日 / 冊子 206頁
直久が蒲池左衛門次郎へ、忠節により蒲池郷本名内蒲生十三町と瀬高五町の知行に相違がないことを認め、一家中への振舞いや奔走への対応も伝えた安堵状。
応永十四年六月廿五日 / 冊子 226~227頁
平田親宗が田代宗次郎へ、日向国柏原保内原村を二十五貫文で譲り渡し、三年後の請戻し条件を置いた譲状。村は蒲生方の祈所として給付された所を親宗が買得したものと説明する。
応永十七年三月廿一日 / 冊子 237頁
島津玄忠が田代宗次郎に、島津御庄大隅方田代村を本領として宛行い、先例どおり領知するよう命じた宛行状。巻末目録標題は『島津玄仲宛行状』とする。
応永十八年三月廿三日 / 冊子 245頁
島津玄忠が田代宗次郎の大隅国田代村内の知行分について、縦天役を含む万雑公事以下を特に停止することを証した証状。
応永廿年九月廿五日 / 冊子 282頁
島津久豊が樺山次郎三郎に、日向国山東諸県庄内の嵐田四十町を給分所として宛行い、先例に任せて領知するよう命じた宛行状。
応永廿一年六月廿五日 / 冊子 289頁
島津久豊が祢寝孫次郎に、今度の忠節と初参を賞し、闕所が生じた時には二十町を宛行うと証した文書。
応永廿二年十月十四日 / 冊子 292頁
将軍足利義持が島津鍋次郎丸の加冠に関して発給した御教書。本文は正文所在、年紀、将軍御判と加冠対象の注記を中心とする。
応永廿三年十二月十八日 / 冊子 296~297頁
沙弥崇重が次郎四郎兼善に、肝付郡岸良村の弁済使職と田畠・山野・狩倉などを譲り、父祖伝来の所領として子孫へ伝えることを認めた譲状。不孝・不孫の場合の処置も定める。
応永廿八年十月晦日 / 冊子 320~321頁
道慶が次郎五郎に所領を譲与し、後日の証拠として堀切正守を証人に立てた譲状。
正長二年二月十七日 / 冊子 346頁
ぬまの種正が薩摩国宮里郷内の九郎次郎旧宅地を代銭百文で萩之次郎五郎へ永代売却し、子孫の妨げを禁じた文書。
寛正三年四月十五日 / 冊子 443~444頁
市来院内の河上・いてのこは・牛の江・いむた・山の城・かきのほそり・なかやま・柳かまり・松下山野などの田地について、面積と四至を列挙し、河上次郎左衛門方に伝えた坪付。
三月十三日 / 冊子 567頁
島津忠昌が肝付次郎左衛門尉に、横川へ出張した敵へ早々に馳せ向かい勝利した働きを賞し、今後も油断なく対処するよう求めた書状。
(明応四年)六月廿九日 / 冊子 568頁
島津忠昌が肝付次郎左衛門尉に、加治木方が帖佐城へ攻め寄せたとの報を伝え、社家衆・本田氏・日置美作守らとともに防戦へ加わるよう求めた書状。
(明応四年)七月三日 / 冊子 568頁
島津忠昌が肝付次郎左衛門尉に、城之坂口での合戦で敵七人を討ち退けたこと、なお敵勢への備えが必要なことを伝え、加勢を求めた書状。
明応八年三月廿八日 / 冊子 574~575頁
沢永観が、水田四段などの所領処置と代替地、年貢・役負担の扱いを定め、土屋次郎左衛門尉へ伝えた仮名書きの証状。
天文六年九月吉日 / 冊子 758頁
薩摩国日置荘内の上原屋敷・穴の町などの坪付を列挙し、上原長次郎へ与えた署判坪付。
(天文十六年)九月十五日 / 冊子 843頁
日野町資将が本田又次郎に、左京太夫への取り次ぎと太刀一腰の献上について調進を求めた書状。
七月十五日 / 冊子 866頁
島津勝久が北郷小次郎に、山東越山の件を喜び、詳細は老臣から伝える旨を述べた書状。
永禄八年九月三日 / 冊子 141頁
本田親鑑が、父親辰の所領をめぐって弟宗左衛門尉が違乱した経緯を踏まえ、子孫の相論を防ぐため所領の継承を定めた置文。親鑑一代の後、伊集院下神殿内平原門三反と吉田宮裏神之薗門道下一反半、計四反半を次郎五郎へ譲るとする。
天正八年四月吉日 / 冊子 653~654頁
薩摩国市来の養母名・山田の内田崎名などの田地を懸命の地として川上孫次郎へ宛行った坪付。平田光宗と伊集院忠棟が連署する。
天正八年十月五日 / 冊子 677頁
島津義久が種子島左近次郎へ、島津家の字を用いたいとの願いは古今の例から容易でないが、先祖時尭以来、海上の危険をしのいで防戦に尽くした功が深いとして、特に使用を許可した証状。
(文禄元年)7月17日 / 冊子 586~587頁
島津歳久(晴蓑)が、「晴蓑めが魂の在り処を人が尋ねても、白雲の行方のように分からないだろう」と詠んだ辞世。 死後の魂の行方を白雲に託した簡潔な歌で、追討を受けて死を迎える歳久の覚悟と無常観を直接伝える。白浜次郎左衛門・比志島紀伊守宛の形で残る。
年月日未詳 / 冊子 683~684頁
朝鮮奥地での軍事行動が延期されたため、当面は前線の陣へ参着する必要はないと伊勢弥次郎へ知らせる。 ただし窮屈な状況はなお続くとして、人数を散らさず集結させ、いつでも動けるよう内々に準備しておくことを命じた書状。
文禄4年10月7日 / 冊子 919頁
川内の平佐村・天辰村・宮里村・高江村、入来院塔之原村、祁答院久富木村など、返地となる村々と石高を列挙する。 北郷宗次郎に宛て、所領替えに伴って返還すべき土地の範囲を数量で確定した連署目録。
慶長三年六月吉日 / 冊子 218頁
上井神五郎里兼が川上次郎左衛門尉に交付した加増分の知行方目録。薩州隈城西手村内の山下・山崎・中田・柿木原・瀬戸山などの田畑について、場所ごとに石・斗・升・合・勺で石高を列記する。
(慶長四年)八月六日 / 冊子 420~421頁
島津義弘が伊集院源次郎に、内府使者寺沢志摩守の下向が予定されているので熟慮するよう求める。幸侃が悪心ゆえ成敗されたことはやむを得ないが、源次郎の進退は保障すると龍伯・少将が繰り返し伝えているのに、なお籠城していると指摘する。家中や加治木・吉田の者に神文血判どおり城を出て奉公させ、主人への加勢、親子夫婦間の悪事、食物・通用などを禁じて家中を統制し、山口勘兵衛尉を通じた和談に応じるよう諭す。
慶長四年九月十四日 / 冊子 436頁
島津忠恒が留主次郎三郎に、吉田佐多之浦村のうち高五十石を知行として寄進する。先年の立願が成就したため当家の祈願人である留主に付し、十月十五日の大放生会と中節供を旧規どおり神前に供えて、怠りなく祈祷に励むよう命じる。
慶長五年十二月十一日 / 冊子 722-723頁
伊勢貞成が、大隅国菱刈横邊村内の田畠について、地名・面積・分米や耕作者を列記し、合計分米・大豆三十石を本田勝次郎の領知として示した目録。
年月日未詳 / 冊子 723頁
島津義久の譜に、本田勝次郎へ大隅国菱刈横邊村内の領知を宛行ったことを掲げる記事。前掲の伊勢貞成署判領知目録に対応する。
慶長六年四月二十五日 / 冊子 760頁
島津忠長・比志島国貞・鎌田政近・平田増宗が、土持次郎九郎に南郷村内の五百石を加増し、所務を命じた目録。
(慶長八年)正月七日 / 冊子 876頁
島津忠恒が北郷次郎へ新年を祝し、旧例どおり届いた賀状と扇子二本を喜んで受領したと伝え、春中の多幸を祈った。
(慶長十年)三月十九日 / 冊子 8頁
島津忠恒が藤次郎へ、妹を関東への質人として上国させた忠節を賞し、その恩賞として阿多のうちに知行地を宛行い、確実に領知するよう命じた書状。
慶長十年卯月廿一日 / 冊子 14~15頁
島津忠恒が北郷次郎へ、見舞いの使者を早々に差し上げたことを喜び、徳川家康(大御所)の命により当年の関東下向が延期され、諸事も体面よく決着したので安心するよう伝えた書状。音信として届いた銀子三十両に礼を述べ、詳細は使者に含めている。
(慶長十年)十一月十一日 / 冊子 38頁
島津忠恒が北郷次郎に、石漕船がどの程度完成したかを問い合わせ、見回りのため使者を送った書状。詳しくは口上に含めたとする。
(慶長十七年)十月十一日 / 冊子 381頁
慶長十七年十月十一日、山口直友が脇本少次郎へ、古織肩衝の用件で使者が下されたこと、茶器・装束類の取扱いと関係者への引渡しを伝えた書状。
八月十一日 / 冊子 58~59頁
川上久隅が河上次郎左衛門尉に、久しく音信がなかったことへの案じと、上洛により延期された企てについて返答した書状。愚息左衛門尉の行末を頼み、贈られた中紙二束への礼を述べる。本文末尾は八月十二日、巻末目録は八月十一日であり、切り抜き照合により原資料内の日付異同と確認した。
七月廿五日 / 冊子 59頁
川上久隅が河上次郎左衛門尉に、次郎左衛門尉の役務が無事に整ったことを喜び、今後も励むよう求めた書状。途絶えかけた連歌を再興するため連衆を差し出したこと、日州の役務も御老中衆と相談して進めることを伝える。
二月廿七日 / 冊子 86頁
明真が斎藤次郎左衛門尉に、島津殿に関する用件で使節に選ばれたため、急いで渡海・参向するよう求めた書状。松浦山代方へも書状を送り、決して等閑にせず対応するよう念を押す。
二月十七日 / 冊子 245頁
明真が、島津領内の倉上に関する措置に伴って使節に指名されたため、急いで赴いて引き渡しを行うこと、松浦・山代方へも特に書状を遣わしたので心得て等閑なく勤めるよう斎藤次郎左衛門尉へ命じた書状。
年月日未詳 / 冊子 263~264頁
久豊が、譲状や家中の者の扱いに関する事情を述べ、関係者を一所にまとめて取り計らうこと、自身の意向に背かず将来の処置を慎重に進めることを錦次郎殿へ求めた書状。判読しにくい箇所を含む。