朝鮮日々記
年月日未詳 / 冊子 540頁
秀吉の朝鮮出兵に伴い、日本軍が肥前名護屋から壱岐・対馬を経て朝鮮へ渡る航路、港間の距離、船団・軍勢の規模を記した日記。釜山浦への上陸までの行程と、加藤清正・小西行長・島津義弘ら諸将の配置を列挙し、渡海作戦の全体像を示す。
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年月日未詳 / 冊子 540頁
秀吉の朝鮮出兵に伴い、日本軍が肥前名護屋から壱岐・対馬を経て朝鮮へ渡る航路、港間の距離、船団・軍勢の規模を記した日記。釜山浦への上陸までの行程と、加藤清正・小西行長・島津義弘ら諸将の配置を列挙し、渡海作戦の全体像を示す。
年月日未詳 / 冊子 532~533頁
豊臣秀吉の朝鮮征伐命令を受け、軍勢・兵器・船の準備が整わないまま、島津久保が義弘とともに少人数で栗野を出立した経緯を記す。肥前名護屋・壱岐・対馬を経る航海では、船不足と強風による漂流、諸将の滞留、船団の分散が続き、朝鮮渡海初期の混乱と困窮を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 537頁
島津義弘・久保父子が三月上旬に大口へ出発し、肥前唐津で諸将の集結に加わったことを記す。渡海船が到着しなかったため唐津で日を重ね、般若寺別当坊に滞在して出航を待った、朝鮮渡海直前の足止めを伝える。
年月日未詳 / 冊子 217~218頁
朝鮮で討ち取った者の首級を運ぶ代わりに鼻や耳を切って京都へ送り、豊臣秀吉がこれを賞したと記す。その後、秀吉が鼻・耳を京都の大仏殿近くにまとめて埋葬させ、耳塚と称したこと、のちに朝鮮人が塚を訪れて祭文を捧げ、泣いて弔ったことを述べる。
年月日未詳 / 冊子 542~543頁
秀吉が朝鮮征伐を決めて筑紫へ向かうにあたり、群臣の諫言に対して国内統一後の対外出兵の意図を述べた経緯を記す。朝廷での奏聞、石清水での秘楽・祈祷、京都出発と各地の見物、名護屋への兵粮下賜、四十八万余の大軍と水陸諸将の動員までを連ね、朝鮮出兵を正当化する政治・儀礼・軍事動員の叙述となっている。
年月日未詳 / 冊子 527頁
島津義弘が文禄元年三月二十七日に栗野を発ち、肥前名護屋へ到着したのち、四月十二日に諸将と名護屋を出船し、五月三日に朝鮮慶尚道の釜山浦岸へ着いた経過を記す。領国出発から渡海までの日付と経路を追える、文禄の役初動の記事。
年月日未詳 / 冊子 175~182頁
「殉国名数抄」として、慶長の役で戦死・病死した島津家の家臣、諸士、従者らを列挙した戦没者名簿。氏名だけでなく、所属地・役職、親子・兄弟・孫などの家系関係、戦没地や年月日、蔚山・泗川・南原などでの戦死、船中・陣中での病死といった事情を小字で付記する。無姓氏の兵や朝鮮陣没者を含む、多数の犠牲者を家ごとに記録した史料である。
年月日未詳 / 冊子 214頁
慶長三年六月、朝鮮から帰った毛利秀元・宇喜多秀家らが伏見で豊臣秀吉への謁見を求めた。秀吉は諸将の軍忠、蔚山救援の遅滞、順天城を退こうとした議論の是非を調べ、責任を問うて当初は謁見を許さなかった。その後、秀元を召して軍功を慰労し、加藤嘉明には連年の武功を賞する感状を与えたと記す。
年月日未詳 / 冊子 217頁
慶長三年六月、毛利秀元・宇喜多秀家らが朝鮮を発って伏見へ赴き、豊臣秀吉に謁見したと記す。
天正20年正月 日 / 冊子 527~528頁
唐入りの陣中秩序を定めた条書。侍・中間・小者や人夫の逃亡について本人だけでなく、匿った者や主人・一類にも責任を負わせ、確かな墨付がなければ帰還を認めない。人足・飯米、遠国からの物資、給人の知行・夫役、軍役人数と奉公人の召集などを規定し、身分ごとの動員と兵站を厳格に管理する。
天正19年 / 冊子 495頁
「唐入」に備える島津勢の軍役人数を一万五千人とし、鉄砲・弓・手鑓・長鑓・幟などの数量と又一郎分の装備を列記する。朝鮮出兵開始前に、島津軍が人員と武器をどの規模で整えようとしたかを具体的に示す動員・軍備資料である。
目録年月日記載なし / 冊子 22~26頁/原整理番号 7
朝鮮出兵中の泗川戦や番船破船で亡くなった者と、その拝礼に列する子孫を諸士・郷士・家来などの区分ごとに列挙する。子孫不明・家断絶などの戦死者も別記し、泗川で戦死した市来家綱・瀬戸口重治と各子孫を挙げる。続いて妙谷寺での施餓鬼の勤行、僧二百人の賄い、位牌・供物などの手配案を記す。
目録年月日記載なし / 冊子 26頁/原整理番号 8
朝鮮泗川の戦死者と番船破船で亡くなった者を妙谷寺で祭り、子孫の拝礼、位牌・供物の手配を命じる。銀五十枚・白米五石を記す。
弘化4年9月12日(目録) / 冊子 26頁/原整理番号 9-1
朝鮮御陣中で戦死した者の子孫として、妙谷寺での御祭を命じられたことへの感謝と御礼を述べる。
弘化4年9月9日以降 / 冊子 27頁/原整理番号 10
九月九日に番御用人から伝えられた指示に従い、妙谷寺の戦死者御祭へ子孫を列席させる案と、その取扱いを笑左衛門へ申し渡す。
目録年月日記載なし / 冊子 27~28頁/原整理番号 11
妙谷寺での戦死者御祭に用いる位牌・供物等の配置を図示し、戦死者の子孫名簿と寺社方への取次を記す。
天正19年 / 冊子 73~74頁/原整理番号 63の6
唐入りに伴う島津家の軍役として人数一万五千を掲げ、義久・義弘に関する幟・槍の配当と鉄炮1500丁・弓1500張・小指物600本などを列挙する。長槍だけでは陣屋前の見栄えが悪いとし、装備にも配慮する。馬上は歴々だけでなく体格によっても認める一方、人数は未定とし、甲・具足の用意を求める。
島津義久代、朝鮮出兵期、島津家久への代替り時、原山御狩時 / 冊子 257頁/原整理番号 101
正本家蔵の上原氏覚書。本名字を伊作田入道甫済と伝え、市来の伊作田名と同所の小原城に由来する名乗りだが、系図がないため何代目から上原を称したかは不明とする。源右衛門の名は三代が相伝し、二代目は国分にいた島津義久へ特に奉公し、平田狩野、のち三原七左衛門・川上彦左衛門・川越三右衛門と兵具方を務めた。朝鮮出兵には義久の側に留め置かれたため出陣加増を得なかったが、家久への代替りに際して墨色の『雨之御旗』を運ぶ使者となり、加増五十石を受け、名寄も残るという。妻は吉田作州の娘で、一人娘が鹿嶋駿河守の妻となったため、弟源六左衛門―源兵衛の子・喜左衛門を兄方の養子とし、現源右衛門の父とした。原山の御狩では、本文に伏字を含む出来事で義久に働きを賞され、鉄砲・銀を拝領し、のち兼光作の長刀も受けたが、喜左衛門の江戸上洛中に二品とも家内から盗み出され、行方不明になったと記す。さらに大隅国曽於郡地頭となり、国中の城下ろしの際に城門道具を与えられた記事へ続くが、末尾は『自是切テ無し』として欠落する。
年月日未詳 / 冊子 494頁
豊臣秀吉が天下統一を成し遂げたのち、諸侯へ明朝への渡海と服属を迫る構想を語り、異論を許さない姿勢を示した記事。島津義久も異国渡海の支度を命じられ、その準備のため帰国を許されたが、長い旅宿で病を得て海路に苦しみ、天正十九年正月十四日に鹿児島へ帰着した。朝鮮出兵準備が島津家へ及ぶ最初期の動向を伝える。
記事 / 冊子 494頁
天正十九年、九州衆が名護屋の普請に動員された際の樺山紹剣の自記。武庫様が高麗渡海の支度と普請を進めるなか、紹剣が先に奉公を果たし、帰国や今後の出仕をめぐって指示を受けた経過を記す。朝鮮出兵を目前にした築城・渡海準備と家臣の奉公調整を当事者の言葉で伝える。
(天正19年)閏正月 / 冊子 495~496頁
島津義久が又一郎へ、前年の関東長期滞在の苦労をねぎらい、今年は重ねて入唐の出立準備があると知らせた書状案。度重なる召集と諸国事情のため思うように進まない困難を述べながら、油断なく備えるよう求める。今後、義久個人へ役目が命じられた場合には相手方の配慮を得たいとも依頼しており、朝鮮出兵前の島津家内部の負担感が表れている。
年月日未詳 / 冊子 502頁
長谷場越前の自記。豊臣秀吉が高麗国王との取り決めが不首尾に終わったことへ憤り、和国の武兵を渡海させるよう命じたと記す。その船津として西国の肥前名護屋に石垣の城を築いた経緯を掲げ、朝鮮出兵前夜の対外認識と軍事拠点造成を伝える。
年月日未詳 / 冊子 504~505頁
豊臣秀吉が秀次への関白職継承と聚楽第行幸を進める一方、愛児鶴松の死を嘆き、明・朝鮮への征服構想を強めたとする島津義弘譜の記事。北京を帝都として日本を豊臣秀次に委ね、自ら大明へ進む意向を述べ、高麗国王の不服従を理由に諸国へ軍船・兵粮・兵員の渡海を命じた。朝鮮出兵の理念と巨大な動員計画を島津側の記録から伝える重要史料。
年月日未詳 / 冊子 505頁
天正十九年、豊臣秀吉が肥前名護屋城を築いた際、樺山規久も島津義弘に従い、築城・出兵準備に尽力したことを記す譜の記事。朝鮮出兵の拠点造成に島津家臣が動員されたことを簡潔に示す。
年月日未詳 / 冊子 513頁
豊臣秀吉が朝鮮出兵に備えて定めた諸大名の軍役人数を、徳川家康・前田利家以下、大名別に列挙する島津義弘譜の記事。島津・九州勢を含む全国諸将の割当兵数が並び、渡海軍を全国規模で編成した準備段階を数量面から示す。
年月日未詳 / 冊子 516頁
豊臣秀吉が朝鮮国征伐のため肥前名護屋に本営を築き、西国諸将を現地へ赴かせたことを記す島津義久譜の記事。竜伯も名護屋へ向かうことになり、朝鮮出兵の拠点整備へ島津氏が組み込まれた経緯を示す。
天正19年9月下旬 / 冊子 516~517頁
豊臣秀吉が来春の唐土征伐に向け、日限を定めて肥前名護屋へ参集するよう命じた朱印状。武具・馬具・鉄砲・銀、兵粮などを準備し、上方からの軍勢に先んじて九州勢が渡海の用意を整えるよう指示する。朝鮮出兵直前の全国動員と兵站準備を伝える重要文書。
(天正19年) / 冊子 518頁
名護屋城普請で島津方に割り当てられた石垣・屋敷の寸法と数量を記した次第。石垣の横幅・高さ、大石崩所、屋敷の間数などを具体的に示し、朝鮮出兵の本営建設で島津氏が負担した普請量を数量的に確認できる。
(天正廿年)正月19日 / 冊子 529頁
豊臣秀吉が大明国への発向に際し、琉球支配について先年の義久の取次と礼参を踏まえ、従来どおり島津方へ任せる趣旨を示す。あわせて渡海軍の一手としての編成、関所・陣所での裁判と軍役遂行を命じ、詳細は石田三成から伝えるとした朱印状。朝鮮出兵と琉球統制を結び付けた命令。
年月日未詳 / 冊子 543頁
文禄元年春、北郷三久が秀吉の朝鮮出兵命令を受けた島津義弘・久保父子に従い、朝鮮の陣に加わったことを記す。従軍中に数多くの城郭攻略へ参加して戦功を挙げたとする、三久の軍歴記事。
年月日未詳 / 冊子 553頁
豊臣秀吉は民間の出身ながら寛仁・勇猛で関白に昇り、四方の朝敵を討って天下を一統したが、なお満足せず明・朝鮮を掌中に収めようとしたと叙述する。肥前名護屋に陣営を築き、文禄元年春に二十余万の軍勢を集めたところまでを記し、島津豊久の従軍記事に先立つ朝鮮出兵の背景説明となっている。
年月日未詳 / 冊子 556頁
朝鮮出兵中に死亡した島津家臣について、年月日・姓名・所属や死因の注記を列挙した戦没者記録。 尾崎新兵衛正義、持永右馬允盛政、野々村伝右衛門、伊集院関係者などを挙げ、島津軍の人的損失を個人単位で追える。
天正20年6月3日 / 冊子 566頁
豊臣秀吉が、諸将の代官所内に所領がある場合、代官の在陣・留守中はその郡の物成を収納して保管し、担当する代官所の法度を各自が厳重に申し付けるよう定めた覚書。朝鮮出兵で在地支配者が不在となるなか、年貢収納と領内秩序を維持するための留守居行政を示す。
天正20年6月3日 / 冊子 566~568頁
豊臣秀吉が、小西行長・加藤清正ら朝鮮出兵諸将を複数の先懸隊に分け、各隊の人数と指揮官を詳細に列挙したうえで、一日交替で進軍するよう定めた書立・法度。総勢十二万人規模の編成、三組による番替、軍律の遵守、後続部隊との連携を命じ、渡海兵を順次投入して明国へ進む構想を具体化した、朝鮮出兵初期の動員・作戦計画を知る重要史料である。
(文禄元年)6月9日 / 冊子 568~569頁
昭高院如雪が、生糸三斤の贈答に礼を述べ、高麗が早く平定されたことへの労いと、島津久保の内儀が上洛する際には相応の世話をしたいとの意向を鳥津入道へ伝える。 詳細は友枕斎に申し含めたとしており、朝鮮出兵の戦況認識と、島津家女性の上方移動をめぐる支援が同時に記された書状である。
年月日未詳 / 冊子 570頁
島津義久が名護屋で、「千種咲く野辺の中でも、紫色の一株がひときわ親しく感じられる」と詠んだ和歌。 「子細あり」と注記され、紫の花に特定の人物や縁を重ねた可能性を感じさせる、朝鮮出兵期の名護屋滞在中の詠草である。
(文禄元年)7月19日 / 冊子 580頁
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、炎天下での朝鮮渡海の辛労をねぎらい、現地での働きについて情勢を見極めて精を入れ、油断なく指揮するよう命じた朱印状。詳しい指示は松井藤九郎と侍中貞右衛門尉から伝えるとしている。文禄元年七月十九日付で、朝鮮出兵中の豊久に対する秀吉の直接命令を示す。
天正20年7月8日 / 冊子 582~583頁
島津義弘が、薩摩・大隅で検地を行うとの風説に対し、主だった者が留守のまま拙速に進めれば国衆の反発や混乱を招くとして、龍伯尊老(義久)へ慎重な対応を求める。 石田三成を頼りに検地を進める相談はしているものの、治部少輔の帰朝後に改めて協議すべきだとし、朝鮮出兵中の領国検地に対する義弘の警戒を示す。
年月日未詳 / 冊子 595頁
島津義弘が米良勝右衛門尉へ、予定していた当月の参陣は「此表」の軍事行動が翌春へ延期されたため、ひとまず延引すると通知する。 ただし内々に出陣準備を整え、改めて知らせが届いた際には油断なく渡海するよう命じる。朝鮮出兵に向けた待機と動員準備の具体的な指示である。
(天正20年)8月16日 / 冊子 600頁
島津久保が新納忠元へ、留守番のため現地に残っていると聞き、その苦労を察すると労う。持ち場を精いっぱい守り、油断なく番を務めるよう依頼した。 左京亮が格別に奉公していることにも触れ、朝鮮出兵で主力が不在となるなか、薩摩国内の守備を担う忠元への信頼を示す書状である。
(天正20年)8月20日 / 冊子 601頁
朝鮮へ渡った島津義弘が新納忠元へ、薩摩から届く人数が少なく、現有兵力では軍役継続も明国への進軍も困難だと訴え、さらに兵を渡海させるよう強く求める。 自分と久保ら父子、左京は無事であると伝える一方、梅北一揆関係者が大口衆に捕らえられたとの国内情報にも触れる。朝鮮出兵で島津勢が直面した深刻な兵力不足を率直に示す書状である。
天正20年10月13日 / 冊子 610頁
石田三成が新納忠元へ、二度の書状と三郎兵衛の口上を受け取ったと返答し、長く京都にいる次郎四郎の帰国希望について説明する。 朝鮮出兵に伴い中国・九州から人質を再び召し上げているため、以前からの人質だけを今帰国させることはできないとする。一方、幽斎在国時の朱印では忠元への配慮が示されているとして、状況を踏まえた判断を求めた。
(文禄元年)11月12日 / 冊子 613~614頁
国内が北から乱れないよう替儀を禁じ、細川幽斎が在国中であるため、各人の知行に従って軍務・警固を厳重に勤めるよう求める。 朝鮮出兵で主力が渡海する一方、島津領国の留守と秩序維持を歳久に託した書状で、国内統制の緊張が分かる。
(文禄元年)11月13日 / 冊子 614頁
細川幽斎の遺失と国替えへの対応を伝え、翌春の渡海に向けて兵糧を加増し、城普請・船の準備を急ぐよう求める。 熊谷直盛・垣見一直と協議し、兵を国内に残さず渡海させることまで念押しした、奉行長束正家による朝鮮出兵準備の督促状。
年月日未詳 / 冊子 614頁
文禄元年冬、島津義弘・久保父子が諸将の評議に応じ、永平城や江原道金化方面の警備・移動に従ったことを記す。 北郷三久が両公に従軍した事績として、朝鮮出兵初年の島津勢の配置と行動を家譜に残した記事。
(文禄元年)11月14日 / 冊子 615頁
高麗王子兄弟と官人二百余人を捕らえた戦功を賞し、引き続き都へ押し進むよう加藤清正に命じる。 炎天下の長距離進軍を「武心棟梁」と称え、褒美として黄金五百両を与えると伝えた、朝鮮出兵初期の戦果評価を示す朱印状。
年月日未詳 / 冊子 622頁
文禄二年春、朝鮮で日本軍が後退するなか、島津勢が奉行衆の命を受け、敵を十里ほど追って夜襲した経過を樺山紹剣が回想する。 鉄砲を用いた敵を城戸から追い散らし、一人を討ち取るなど、朝鮮出兵の現場での追撃・夜戦を当事者の視点から記した自記。
年月日未詳 / 冊子 624~637頁
島津久保の死去をめぐる記述を起点に、新納忠増が国内の宿駅をたどり、海路で朝鮮へ向かう長い旅程を日記形式で記す。 道中の宿主・使者との応対、和歌、渡船や暴風雨、難航する船中での祈願、朝鮮到着後の島津義弘への伺候までが細かく描かれる。 朝鮮出兵の軍事行動だけでなく、移動・宿泊・航海の危険、従軍者の感情と信仰を当事者の言葉で伝える貴重な紀行史料。
年月日未詳 / 冊子 637~647頁
大島忠泰が、薩摩で仕えた島津義弘を頼って高麗へ向かう道中を、宿泊地・人々との応対・贈答・風景とともに記した紀行。 旅先で詠んだ多数の和歌、金剛経読誦や神仏への祈り、故郷や知人を思う心情が随所に入り、従軍の道程を内面的に伝える。 軍事記事だけでは見えにくい、朝鮮出兵期の主従関係、旅の不安、宿の交流、武士の信仰と文芸活動を知る上で貴重な長編史料。
年月日未詳 / 冊子 653~659頁
文禄初年、新納忠元が渡海軍の編成、兵糧・船舶の調達、留守役や家臣の派遣に奔走し、島津義久・義弘の命を受けて軍務を支えた経過を編年で記す。 船不足や家臣間の利害対立、讒言・虚偽の訴えによる処分、逆徒への対応など、朝鮮出兵期の島津家中に生じた深刻な混乱も詳述する。 忠元の忠節と軍功が最終的に認められ、後世に「薩摩の武蔵」と称された根拠を示す、戦功顕彰と名誉回復の性格を持つ長編記録。