島津忠平書状
天正十一年四月十六日 / 冊子 755頁
島津忠平が帖佐彦左衛門尉へ、長期にわたり現地へ滞在し籠城の窮屈に耐えた軍労をねぎらった書状。海陸の交通が不自由で連絡が途絶えたが疎意によるものではなく、今回の軍功を今後も忘れないと伝える。
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天正十一年四月十六日 / 冊子 755頁
島津忠平が帖佐彦左衛門尉へ、長期にわたり現地へ滞在し籠城の窮屈に耐えた軍労をねぎらった書状。海陸の交通が不自由で連絡が途絶えたが疎意によるものではなく、今回の軍功を今後も忘れないと伝える。
(元和元年)二月廿日 / 冊子 571頁
前年、五左衛門尉が細工修業のため上方へ赴いた際、正阿弥彦左衛門から鑢など刀工の技術を多数教えられたことに謝す。国元の重宝となる技術伝授への礼として品を贈った義弘書状。
六月廿六日 / 冊子 97頁
本田宗親が帖佐彦左衛門尉に宛てた書状。長年の在陣・在京や関ヶ原以後の困窮、子の在京による借銀増大を訴え、現状では知行を受けても軍役を果たせないため、知行目録を召し上げるよう取り次いでほしいと依頼している。
寛永四年二月廿三日 / 冊子 31頁
沢永澄が社殿修理に要した大工手間を列記した覚書。御宝殿の縁・柱、獅子狛犬に関わる板、四所宮・武内殿・左右の建物の板敷などを修理し、請負外の追加分として大工合計十八人を計上する。
享徳二年十二月十三日 / 冊子 429頁
大寺彦左衛門が島津忠国の命を受け、三俣院南方内の上さり河という所と、とび松うたを宛行う旨を伝えた施行状。
年月日未詳 / 冊子 458頁
帖佐彦左衛門が、小田原征伐に従う島津久保の軍勢について、将軍役・軍資金、川越えに備えた兵糧や渡河用具、軍馬の準備と配分を記した日記。 身分に応じて馬を割り当て、不足時には先陣の馬を回すことまで定めており、長距離遠征を支えた装備・輸送・馬匹管理の実務を具体的に知ることができる。
元禄2年10月21日 / 冊子 258頁/原整理番号 209の4
切支丹類族が病気または死亡した際に親類・子から代人を出し、宗旨改帳記載の者を同様に扱うよう上町年行司らへ命じる町奉行所達。病死時の報告、親類の監守、帳面・書付の相渡しを定める。
寛正二年十一月廿四日 / 冊子 441頁
島津立久が、河上又八郎方と大寺彦左衛門の間で扱われた所領について、違乱がないよう安堵した文書。
寛正二年十一月廿四日 / 冊子 463頁
島津立久が、河上又八郎方と大寺彦左衛門の間で扱われた所領について違乱がないよう安堵した文書。本文はNo.1400と同文のため省略される。
(永禄十年)九月七日 / 冊子 167頁
島津義久が、この時期の軍事行動はいったん延期するのがよいと伝え、その詳細は白坂彦左衛門尉へ申し聞かせたとする書状。義弘の意向も同じであることを確認し、細部の記述を省く。
文禄3年10月2日 / 冊子 812頁
島津義弘家臣の帖佐彦左衛門尉が、釜山浦で城米四百五十四石四斗五升四合を受け取ったことを証明する請取状。 受領場所・米の数量・受取人が明記されており、朝鮮在陣中の島津軍へ供給された兵糧米の規模と受領実務を具体的に確認できる。
(慶長十五年)八月廿五日 / 冊子 290頁
慶長十五年八月二十五日、島津義弘が島津家久に、関ヶ原退却の際に近江国本山付近で道案内をした入道道珍の所在を帖佐彦左衛門尉から聞いたと知らせ、通行の折に召し出して格別に謝礼するよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 411~415頁
『殉国名薮』は、慶長四年の庄内合戦で戦死した島津方の武士を、月日・戦場・所属や続柄とともに列挙する。六月一日の中田十郎をはじめ、山田城・恒吉・安永・高城・北郷・神田橋など各地で討死した町田新助忠玄、長野藤兵衛、平田三五郎、上井仲五兼政ら多数を掲げ、六月から翌年正月に及ぶ戦没者の記録をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 324~325頁
為俊を追悼する一連の和歌。武士としての名残、春の花、水の清さ、夢路、月などに寄せ、故人への哀惜と追善の思いを各人が詠む。
九月十日 / 冊子 325頁
島津義久(龍伯)の御歌と六名の詠草。米と水、春風、夢路、花、月などを題材に、変わらぬ忠節と主君への思慕を唱和する。
二月六日 / 冊子 82頁/原整理番号 134
国分友知が野間口彦左衛門尉へ、琉球船の件を承知したと答える。薩州様が東目筋を下ると聞いて庄内へ出たが島原へ直行するため戻ったこと、八日に出立するので当衆中を八・九日に参着させること、三人につき日用夫一人を立てる手配などを命じる。
宝徳二年十二月五日 / 冊子 422頁
牛屎院内光吉の水田について、せとくち門・三反井・小山下・山下のならひなど各所の面積を列挙し、合計を示した坪付。村田経房・大寺光貴・町田胤久が署判した。
(永禄十年)七月八日 / 冊子 165~166頁
島津義久が先の談合に際して義弘が急ぎ来訪したことを喜び、その後無沙汰したことを詫びた書状。ある一箇条の処置について内々の検討を求め、自身は病気が再発して歩行も不自由なため諏訪祭礼への参詣が難しく、企てが延期される場合は名代を立てる意向を伝える。
年月日未詳 / 冊子 121頁
『島津常久譜』から、宇多与右衛門尉が上京して安宅三河守へ訴状を提出したため、五代右京亮らを招いて糾明した経過を記す。関係者の申状・答書を京都へ送り、太守兄弟から与えられた書状もあわせて記録したとする。
年月日未詳 / 冊子 353~354頁
上原氏二代目の源右衛門は国分で島津義久に近侍し、平田狩野らと兵具方を勤めたため、他の者が高麗へ出陣して加増を受けた際にも義久のそばに留め置かれた。忠恒への代替わりに際して墨色の「あめの御旗」を持つ使者を務め、その加増として五十石を与えられ、義久は本来百石を与える意向であったと伝える。
年月日未詳 / 冊子 685頁
桐野掃部が関ヶ原で島津義弘(惟新)の側に奉公し、九月十五日から駒野越え、伊勢路、土山、伊賀、山城、住吉、堺を経て二十一日に乗船し、帖佐まで供奉した経路を記す。途中では負傷者の処置、米の調達、田辺屋道春への迎え依頼や堺の見聞を担当し、他の御側衆同様の加増を願い出た。
正月18日 / 冊子 749頁/原整理番号 785
兵糧が不足するため、別紙で示す外城衆を天草へ渡さず、出水に留め置くよう命じる。すでに渡海した分はやむを得ないが、まだ残っている者は留め、その様子を追って知らせるよう求める。正月十八日、出水の岩切六右衛門・川上彦左衛門宛。
正月廿九日 / 冊子 34~35頁/原整理番号 49
正月二十九日、川上久国と本文署名「宗庸」が川上彦左衛門尉・市来八左衛門尉・岩切六右衛門尉へ送った連署書状。薩州様が十三日に暇を得て十七日に駿河へ着き、直ちに有馬へ向かうとの命令を受けたため、この書状を早船で陣へ送り、陣道具も順次急送するよう求める。公儀用の楯板を当地の用にも転用できるとし、後発人数が順次帰るとの情報を伝え、近隣衆を召し寄せ、遠方衆には送夫を遣わして急ぎ参集させ、有馬へ送るよう指示する。本文中の十三日・十七日は経過日であり、文書の年月日は目録どおり正月二十九日とする。
二月七日 / 冊子 90頁/原整理番号 148
川上久国・三原重庸が川上彦左衛門尉らへ、引付を持たない者には船を渡さないよう追伸し、薩州様の有馬直行、米之津・獅子島の仮屋、紫尾・川内筋の帰路を相談する。琉球船は先着三艘、続いて二艘、さらに十四・五艘を見込み、山川から直送させ、加勢人数と船の配分決定を求める。
寛文元年後八月十二日 / 冊子 30頁/原整理番号 6-49
鎌田政直は、諸外城から提出された文書、御家の系図、御記録草案を平田清右衛門から引き継ぎ、御文書倉に収めるよう日高主膳と川上彦左衛門へ命じた覚。受取と保管の対象を三種に分けて列記する。
正月15日 / 冊子 708頁/原整理番号 736
舟奉行一人を天草へ、もう一人を兵糧輸送に当て、物奉行と相談するよう指示する。二十日分の飯米支給、出水・加世田方面の御蔵米、船と人数の手配、輸送完了後の舟の帰還を求める。天草陣にも便ごとに連絡し、奉行間で事情を通じて調整することを重視する。正月十五日、次飛脚で送る書状。原史料に欠字が多く、数量・対象の欠落部は補わない。
正月17日 / 冊子 732頁/原整理番号 769
軍衆と水手が合計三万近くになり、兵糧が続かず手持ちの米も少ない状況を伝える。先に二番立の者の帰還を検討し、後続人数を呼び留めるよう相談する一方、有馬城攻めが急に始まる場合への備えも必要とする。当面は城攻めの沙汰がないため先発人数を戻すことが重要と述べ、関係者間の協議を求める。正月十七日付。米数量などの欠字は補わない。
正月廿六日 / 冊子 9頁/原整理番号 5
川上久国が岩切六右衛門尉らへ、有馬・天草への渡海衆以外の三千三百六十八人が米之津に残る件について、長陣では兵糧が続かないため帰すのがよいが、必要人数は陣と協議して定めるよう指示する。米二百八十石の配分、楯板の早急な送付、天草の兵糧切れへの対応、有馬宛書状の早送も求める。
正月廿六日 / 冊子 12~13頁/原整理番号 11
川上久国が岩切六右衛門尉らへ、有馬・天草への渡海衆以外の三千三百六十八人が米之津に残る件について、長陣では兵糧が続かないため帰すのがよいが、必要人数は陣と協議して定めるよう指示する。上使十人へ米二百八十石を進める件、楯板の早急な送付、天草の兵糧切れへの対応、有馬宛書状の早送も求める。
二月十日 / 冊子 116頁/原整理番号 184
川上久国・三原重庸が岩切信堯・川上久康・市来宗友へ、当地へ向かう軍衆のうちこちらの手形を持たない者には船も兵糧も与えないよう命じる。違反は軍法の妨げとなり後日処分の対象になると警告する。
天保2年8月9日(本文) / 冊子 887頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2486
重豪公御譜中の記事。天保二年八月九日、将軍家から使番大久保彦左衛門忠良が芝邸へ遣わされ、重豪に御鷹による雲雀一羽を賜った。島津筑後守忠徹が重豪に代わって受領し、同日、老中邸へ赴いて謝意を述べた。入力表題の崩れを原本と目録に基づいて訂正する。
天保4年正月28日(年次朱書、月日本文) / 冊子 946頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2664
松平大隅守が、同氏栄翁の病気の悪化を届けた書。栄翁が病気で養生しているが、臥床が増した旨は一昨日届けた通りであり、今朝に至っても快方に向かわず、軽くない容体であることを申し上げる。正月二十八日付、朱書天保四年、松平大隅守署。控えの正文は家老座にあるとの出典注を伴う。末尾の朱書注によれば、書付はその日、留守居本田六左衛門を通じて御用番松平和泉守へ差し出され、受領された旨を取次の大山彦左衛門から聞いた。先行届から二日後の容体報告と、その日の提出・受理を記す。本文の病状は幕府への表向きの届出として扱い、実際の死去日をこの日としない。
天保4年2月20日夜・24日(年次目録、月日本文、時系列留保) / 冊子 956頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2688
重豪公御譜中の、江戸からの凶報と領国での発喪の記事。本文は「二月二十日夜」、江戸から飛報が届いて重豪の凶信を伝えたと記す。その夜に家老・若年寄・大目付と家老座書吏等が登城し、翌日発喪して国中で密八音を奏した。二十四日、斉興の生母を江戸へ遣わすため、広敷番の頭田尻小次郎種常を派遣したと記す。一門・一族、家老・若年寄・大目付・一所持・一所持格・寄合・寄合並・諸有司へは、目付裁許掛の近藤彦左衛門正為を遣わし、本文注ではその行を馬廻が代行したとする。諸士の相中へは中小姓廻新蔵政備を遣わし、各門で斉興、老君溪山と庶子等の哀悼を伝えた。月日の本文記載を保持するが、後続する二月十二日付書状の通知到着記事などとの前後関係は疑義として留保する。推測で二月を正月に置き換えない。
天保4年2月12日(年次朱書、月日本文) / 冊子 956~957頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2689
諏訪治部が調所笑左衛門へ送った、重豪の死去通知の到着、機嫌伺と慎の取扱いについての書状。三日の逝去を同日の極急飛脚で伝えた詳細が一昨十日夜に届き、すぐ御内證へ申し上げたと記す。内證の機嫌に支障はなく、田尻小次郎・近藤彦左衛門・中小姓廻新蔵を機嫌伺の使に充て、明後十四日に遣わす。一門・大身分・奥表役人と月次礼に当たる者は本日登城して死去を披露し、家老へ太守・御隠居・若殿の機嫌を伺った。女中・大奥も同様とし、国元の機嫌を使者から伝えるよう求める。寺院の着座の者、他の寺社、諸郷寺院、琉球人、諸士・組与力、移地頭・地頭代と諸郷の機嫌伺の場所・日時・到着順を各条に定める。慎は直士の月代と殺生・鳴物を三十日、当請作事を十五日、漁猟・商売・家職の音高い仕事を七日後可とし、足軽・御口の者・壱身者の月代は三十日、町人・百姓にはその制限を及ぼさない。高輪・白金の付属者は五十日とし、諸郷・琉球・諸嶋には到達の日から慎むよう申し渡した。二月十二日付、朱書天保四年、諏訪治部署。三頁の各条を精読記録に保持し、死去日・通知到着・派遣予定・各区分の慎を分ける。
天保九年十二月(日は本文に記載なし) / 冊子 24~25頁/原整理番号 34の2/整理ID 34-2
松平大隅守島津斉興に、宰相昇進は今回限りの特例と伝えた沙汰書写し。斉興は正四位下中将であり、それ以上の昇進は本来沙汰し難いが、前年の慶事で御三家や縁柄の人々を特別に昇進させたこと、斉興には由緒があり大御所から厚い意向が伝えられていたことによって、格別の思し召しで宰相へ昇進させるとする。今後の家格には及ばない旨を明記し、承知したと返答するよう命じる。朱記は安房殿から得能彦左衛門へ書付写しを渡し、返答後、本書をその日のうちに安房殿へ差し出した経過を記す。
安政5年8月(第一通、年は外包から補);外包:9月9日 / 冊子 188~189頁/原整理番号 263/整理ID 263
宰相の御沙汰書二通。第一通は斉彬死去後の跡目茂久がまだ若年で、国務を放置できない事情を斉興が聞き、当分介助する旨を伝える。御取次は得能彦左衛門、八月の記載を伴う。第二通は薩摩守殿の死去を受け、若年の跡目を介助し、従来の領国・屋敷中の取締規定を忘れず家老以下が誠実に精勤するよう命じる。勝手向掛は無益な失費を細かく吟味し、風俗を政務の基本として文武・忠孝・律儀を守り、古国の士風を失わないよう求める。若年家督を理由に一同の心掛が緩み家法が弛むことを警戒し、その趣旨を深く伝達する。豊後・伯耆との包紙の記載があり、外包には安政五年九月九日、左衛門殿が格護を指示し青山弥兵衛が承知して白木御文書十番箱に収納した旨がある。
9月(日不記、朱注明治3年)知政所 / 冊子 760頁/原整理番号 978の5/整理ID 978-5
黒田彦左衛門を上三俣・山之口・下庄内地頭に任じ、上三俣に在るよう命じる。関係向々にも知らせるよう求める。九月知政所、明治三年の朱注がある。
年月日未詳 / 冊子 320~322頁/原整理番号 290
『武野燭談』。板倉重昌の島原上使任命にまつわる僧・土屋宗蔵の逸話を批判的に検討する。酒井忠勝・大久保彦左衛門らの言説、宗蔵の讒言と処置、重昌の切支丹討死をめぐる風説を論じる。
年月日未詳 / 冊子 392~393頁/原整理番号 494
『盛香集』は、落城時に伊豆守の子松平甲斐守が抜駆して働いた逸話を記す。大久保彦左衛門は伊豆守に、軍法違反として子を勘当・追放した形を取り、密かに高野山へ送れば、無私の処置として父子双方の名誉となり、後に召し返しも期待できたと説く。伊豆守はそのように処置しなかったことを残念がった。
島津義久代、朝鮮出兵期、島津家久への代替り時、原山御狩時 / 冊子 257頁/原整理番号 101
正本家蔵の上原氏覚書。本名字を伊作田入道甫済と伝え、市来の伊作田名と同所の小原城に由来する名乗りだが、系図がないため何代目から上原を称したかは不明とする。源右衛門の名は三代が相伝し、二代目は国分にいた島津義久へ特に奉公し、平田狩野、のち三原七左衛門・川上彦左衛門・川越三右衛門と兵具方を務めた。朝鮮出兵には義久の側に留め置かれたため出陣加増を得なかったが、家久への代替りに際して墨色の『雨之御旗』を運ぶ使者となり、加増五十石を受け、名寄も残るという。妻は吉田作州の娘で、一人娘が鹿嶋駿河守の妻となったため、弟源六左衛門―源兵衛の子・喜左衛門を兄方の養子とし、現源右衛門の父とした。原山の御狩では、本文に伏字を含む出来事で義久に働きを賞され、鉄砲・銀を拝領し、のち兼光作の長刀も受けたが、喜左衛門の江戸上洛中に二品とも家内から盗み出され、行方不明になったと記す。さらに大隅国曽於郡地頭となり、国中の城下ろしの際に城門道具を与えられた記事へ続くが、末尾は『自是切テ無し』として欠落する。
年未詳12月22日(付属記事:慶長4年~同6年2月3日) / 冊子 267~268頁/原整理番号 107-7
年未詳十二月二十二日、伊集院右衛門入道幸侃が平田狩野介宗應と上原源右衛門尉尚氏へ、重久名の件が持合で未解決となり各所に難しい問題が生じているため、二人で談合して処理するよう求め、詳細は追って協議すると伝えた書状。付属する由緒記事は、慶長四年に島津義久(龍伯)が尚氏を兵具奉行とし、平田宗應・三原七左衛門・川上彦左衛門らと兵具方を掌らせたため、尚氏が朝鮮出兵を免除されたと記す。前年に島津義弘・忠恒が朝鮮から帰国し、忠恒が朝鮮での功により五万石を加増され少将任官と宝刀を受けると、龍伯は国政を忠恒へ譲る意向を強め、二月に尚氏へ時雨御旗を持たせて京都の忠恒へ届けさせ、忠恒は二十日に受領して謝恩した。尚氏は初め朝鮮へ出役しなかったものの、この使者勤仕を忠恒から賞され、隅州敷根小牧門三十二石五斗・末吉深川十八石を加増された。本文は加増を五十一石と記す一方、内訳の通計を五十石五斗とし、慶長六年二月三日に比志島国貞・平田増宗・鎌田政近・島津忠長が目録を授けたとする。龍伯は尚氏の使者勤仕には百石が相当で五十石では少ないと不満を述べたとの季安按も付される。
年月日未詳 / 冊子 268頁/原整理番号 107-8
二代目上原源右衛門が、島津義久の国分在住期にとりわけ奉公し、初め平田狩野、のち三原七左衛門・川上彦左衛門・川越三右衛門らと相役となって兵具方を務めた由緒書。源右衛門は義久の側近くに召し置かれたため高麗出兵に伴う加増を受けなかったが、島津家久(忠恒)への代替わりに際し、黒色の『雨の御旗』を奉持する使者を命じられ、その加増として知行五十石を与えられ、名寄も現存すると記す。国分へ帰って報告した際、義久はこの使者役には百石を与えるつもりだったのに少分しか下されなかったとの意向を示したと伝える。兵具方勤仕・朝鮮出兵不参加・御旗奉持・五十石加増を一続きの奉公由緒として説明する文書である。
寛正2年11月24日 / 冊子 336頁/原整理番号 130-19
寛正二年十一月二十四日、島津立久が河上山城守へ出した安堵状。河上又八郎忠塞方の大寺彦左衛門幸朝を通じて河上側の意向を詳しく承知したと述べ、所領等について今後相違の扱いをしないことを保証する。立久には島津氏十代当主との傍注がある。
5月9日 / 冊子 336~337頁/原整理番号 130-20
五月九日、大寺彦左衛門幸朝と河上又八郎忠塞が連署して河上殿へ差し出した起請文。二度の書状への返事が留守中のため遅れた事情を釈明したうえ、島津立久に二心なく談合するとの意向を「千秋万歳」「目出」と歓迎し、詳細は対面で伝えるとする。また所領については提示された坪付どおり異議はないとの回答を伝え、疑問があれば早々に尋ねるよう促し、虚偽なら日本国中の大小神祇の罰を受けると誓う。
寛正3年卯月15日 / 冊子 337頁/原整理番号 130-21
寛正三年卯月十五日、市来院内十五町三段の坪付について、個々の坪付本文を「末略」として総面積だけを掲げた抄録。平田右馬助兼宗・石井丹波守義忠・本田三郎五郎宗親・大寺彦左衛門尉幸朝が連署判を据えて河上山城守守家へ渡したもので、真本は家蔵と注記し、この年十一月に建竜雲寺が建立されたかとの傍注も付す。
天保四年六月七日~天保八年十月朔日 / 冊子 6頁/原整理番号 2
天保四年、島津久風(但馬)が長く停滞していた御家譜編集を再開させ、得能彦左衛門・有馬休左衛門に編纂を分担させ、平川宗之進らを補助にあてた経過を記す。天保八年には清書十四冊が上覧に供され、寛政三年から文化八年までの草稿十三冊も提出されたが、巡見使などの御用が重なるため編集は暫時猶予された。
二月廿一日 / 冊子 162頁/原整理番号 287
川上久国が岩切六右衛門尉信尭・川上彦左衛門尉久康へ、有馬宛ての文箱二つを送るので、その地から早船で一刻も早く送り届けるよう命じた二月二十一日戌刻付の書状。あわせて、黄門様の容体が一大事となったと報じ、次飛脚としている。
二月廿四日 / 冊子 189頁/原整理番号 311
二月二十四日付と目録に載る差出不明の書状。黄門様こと島津家久が病状回復せず、前夜四ツ時ごろ死去したことを川上彦左衛門尉へ知らせ、これに伴い有馬へ早く船を渡すよう求める。本文には複数の欠字があり、月は傍注で「二カ」とされる。
元禄十五年十一月二十九日 / 冊子 396頁/整理ID 1338
小坂昌朝ら三名が連署して島津大蔵ら四名へ、領分絵図の控を当地で渡すとの通知を了承し、十二月十一日か十二日頃に受取人を派遣すると答えた書状。絵図役人から受取人へ引き渡すよう頼む。
元禄十五年十二月七日 / 冊子 398頁/整理ID 1343
小坂昌朝・隈江昌興・小田知貞が島津久明へ、長門守領分絵図控を十二月十一日か十二日頃に渡すとの通知に応じ、受取人の恵利清八を派遣したと回答した。恵利への引渡しを取り計らうよう頼む。