豊臣秀吉朱印状
(天正16年)5月3日 / 冊子 387頁
豊臣秀吉が嶋津又七(島津豊久)へ、鉄砲に関係する品四十三が到来したことを確認し、喜ばしく思うと伝えた朱印状。詳しい用件は山中山城守(山中長俊)から申し伝えるとしており、九州平定後の豊久と秀吉政権との間で、軍需品の受領と取次が行われていたことを示す短い文書。
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(天正16年)5月3日 / 冊子 387頁
豊臣秀吉が嶋津又七(島津豊久)へ、鉄砲に関係する品四十三が到来したことを確認し、喜ばしく思うと伝えた朱印状。詳しい用件は山中山城守(山中長俊)から申し伝えるとしており、九州平定後の豊久と秀吉政権との間で、軍需品の受領と取次が行われていたことを示す短い文書。
(文禄元年)4月28日 / 冊子 553~554頁
秀吉が島津豊久へ、名護屋に三十日ほど滞在する間に先勢を渡海させ、その後に本隊を進める構想を伝えた朱印状。各自の船を慎奉行とともに名護屋へ差し上げ、兵力をまとめて一方面二万人ほどで高麗へ進み、準備や軍勢の状況を注進するよう命じ、拙速な渡海を戒めている。
(文禄元年)7月19日 / 冊子 580頁
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、炎天下での朝鮮渡海の辛労をねぎらい、現地での働きについて情勢を見極めて精を入れ、油断なく指揮するよう命じた朱印状。詳しい指示は松井藤九郎と侍中貞右衛門尉から伝えるとしている。文禄元年七月十九日付で、朝鮮出兵中の豊久に対する秀吉の直接命令を示す。
(文禄元年)11月10日 / 冊子 613頁
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、長期在陣と寒天の苦労をねぎらい、小袖二重を与えた朱印状。翌春に自ら渡海して一気に平定すると告げ、それまでは性急な軍事行動を避け、城々を堅固に守り、兵糧を十分に集積するよう命じている。No.989の島津義弘宛と同日付だが、豊久に対しては城郭守備と軽率な出撃の抑制を重点的に指示した点が特徴。
(文禄2年)正月3日 / 冊子 662頁
豊臣秀吉が島津豊久ら各地の留守居衆へ、高麗から私用のため帰航させた船に、船主の兵糧・荷物を期限までに積み、速やかに再渡海させるよう命じた朱印状。美濃部四郎三郎と松井藤介を奉行として派遣し、浦ごとの船数と兵糧量を案内者とともに調査・記録させ、空船には名護屋で米を支給すると定める。朝鮮出兵を支えた船舶・兵糧輸送の実務統制を具体的に示す史料。
(文禄2年)2月28日 / 冊子 675頁
在番交代として福島正則を派遣するため、城普請を丈夫に仕上げ、小勢でも籠城できる態勢を整えるよう島津豊久へ命じる。兵粮は春中に追加輸送するとし、長期在番の労をねぎらう。 No.1072と同趣旨だが、宛先が島津義弘ではなく豊久で、年次も文禄二年と記された朱印状。
(文禄2年)5月朔日 / 冊子 688頁
豊臣秀吉が島津豊久の長期在陣の辛労をねぎらい、帷子を下賜して今後も精勤するよう命じ、仕置について別書を遣わした朱印状。
(文禄2年)5月朔日 / 冊子 688頁
泉又太郎が島津豊久の与力に命じられながら、仮病を装って船に留まり、軍役に加わらなかったことを秀吉が「前代未聞」の違反と断じる。 本来は成敗すべきところ命は助け、知行を没収して小西行長に預けるよう命じた、朝鮮在陣中の軍役忌避に対する具体的な処分状。
(文禄2年)5月3日 / 冊子 691頁
朝鮮在陣の奉公人が勝手に帰国した場合は成敗し、匿う者や処分を妨げる者も報告して厳罰に処すよう島津豊久へ命じる。 No.1113と同趣旨ながら、島津豊久の配下に対して軍紀維持の責任を負わせた宛先違いの朱印状。
(文禄2年)5月3日 / 冊子 691~692頁
朝鮮在陣者の無断帰国を禁じ、違反者と庇護者を厳罰に処すよう島津豊久へ命じた朱印状。 永吉邸蔵本に伝わる同内容の別写であり、同一軍令が複数系統の史料に残されたことを確認できる。
(文禄2年)5月19日 / 冊子 695頁
帰朝使者から在陣地の様子を聞いた秀吉が、島津豊久に家中の番替、知行支配、兵粮の継続確保を命じる。 御蔵米を勝手に消費せず、古米は入れ替えながら帳簿上の員数を守るよう求めた、No.1122と同趣旨の宛先違いの朱印状。
文禄2年8月23日 / 冊子 726頁
島津豊久から鹿皮三十枚が届いたことを喜び、遠路からの厚意と長期在番の苦労をねぎらう。 近く帰朝を命じる予定なので、それまでは引き続き在城に励むよう求め、詳細は長束大蔵大輔正家から伝えるとした朱印状。
文禄2年8月27日 / 冊子 732頁
見舞いの使者を派遣し、朝鮮の現地が静穏であるかを島津豊久へ尋ねる。 長年の在番による苦労をねぎらい、さらに状況を知らせるよう求めた、義弘宛のNo.1187と対になる秀吉朱印状。
文禄2年11月4日 / 冊子 752頁
豊臣秀吉が嶋津又七郎(島津豊久)へ、朝鮮現地に在番として残り、長く苦労を重ねていることを察するとねぎらい、近頃はいよいよ静謐になったとの報告を喜んだ朱印状。特別な用件はないが使者を派遣し、詳しい指示は追って伝えるとしている。戦況報告や命令だけでなく、長期在陣中の豊久への気遣いが読み取れる短い文書。
文禄2年12月26日 / 冊子 757頁
豊臣秀吉が嶋津又七郎(島津豊久)へ、縫工一人を進上したことを喜び、手配に力を尽くして送り届けた働きを「神妙」と評価した朱印状。詳細は長束大蔵大輔(長束正家)から伝えるとしており、朝鮮出兵期に技術を持つ職人そのものが贈答・人員供給の対象となっていたことを示す珍しい史料。
文禄2年12月27日 / 冊子 757頁
豊臣秀吉が嶋津又七郎(島津豊久)へ、歳暮の祝儀として秀吉用の呉服一重と北政所用の呉服一重が届いたことを喜び、受領を伝えた朱印状。詳しい返答は長束大蔵大輔(長束正家)に託しており、豊久が秀吉夫妻へ同時に歳暮を贈った、豊臣政権下の贈答関係を具体的に示す文書。
文禄3年正月16日 / 冊子 761頁
豊臣秀吉が長期在番の辛労をねぎらい、島津豊久へ小袖一重を下賜した朱印状。毛利豊前守・平野新八からも詳細を伝えるとしている。
文禄3年9月23日 / 冊子 810頁
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、居城の普請をいっそう入念に進め、頑丈に整備するよう命じた朱印状。大明との和議を真の「無事」とは見なさず、九州勢に現地の城々を在番させた上で、再び諸勢を渡海させて「赤国」を攻め、大明が詫びを申し出るまで油断しないよう指示している。No.1381の島津義弘宛と同日・同趣旨で、島津軍の有力者に再出兵方針を並行して伝えたことが分かる。
文禄3年11月17日 / 冊子 828頁
豊臣秀吉が嶋津又七郎(島津豊久)へ、献上された弟鷹一羽が届き、念を入れて運んだため尾羽に損傷がないことを「無類」と高く評価して、格別に喜んだ朱印状。あわせて、寒い時期まで長く在陣している豊久の苦労をねぎらい、詳細は長束大蔵大輔(長束正家)から伝えるとしている。鷹献上の品質評価と在陣慰労が一通に収められた特徴的な史料。
文禄3年12月26日 / 冊子 831頁
豊臣秀吉が嶋津又七郎(島津豊久)へ、歳暮の祝儀として秀吉用の呉服一重と北政所用の一重が届いたことを喜び、受領を伝えた朱印状。詳細は長束大蔵大輔(長束正家)から申し伝えるとしている。前年のNo.1246と同様、豊久が秀吉夫妻へ継続して歳暮を贈っていたことが分かり、豊臣政権下の年中贈答関係を示す文書。
文禄4年正月15日 / 冊子 858頁
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、年頭の祝儀として白鳥一羽が届いたことを喜び、受領の謝意を伝えた朱印状。詳しい返答は長束大蔵大輔(正家)から伝えさせるとしており、文禄四年正月の豊久と秀吉の贈答関係を示す。
文禄4年8月23日 / 冊子 908頁
島津豊久譜に収められ、正文が島津安芸守久雄家に伝来した秀吉朱印状。本文は別文書と同文として省略されており、この頁だけでは命令内容を復元できない。 伝来先と収録譜の情報を残す参照記事として整理する。
文禄4年12月20日 / 冊子 928頁
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、長期の在番と城普請の勤務を評価し、冬季は養生して健康を保つよう気遣った朱印状。大勢の部隊は三分の一、小勢は半数を現地に残し、下々は交代で帰国させて国元の用務に当たらせるよう命じている。さらに、秀吉が北の名護屋まで出馬し、筑前中納言・備前中納言を渡海させる将来構想を告げ、その際の奮戦と翌春の兵糧米輸送を指示する。在陣部隊の交代原則と再出兵計画を同時に示す重要史料。
(慶長元年)二月九日 / 冊子 8頁
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、浅野弾正少弼の派遣に伴い、船が揃い次第渡海するよう命じた。高麗にある船だけでなく領内各地からも船を集めて名護屋で引き渡し、一艘でも多く確保すること、部隊編成を整えること、兵糧の所持量を偽らず請目に記して供出することを指示し、渡海後の仕置は浅野が伝えるとした朱印状。
(慶長元年)十一月四日 / 冊子 51~52頁
豊臣秀吉が島津豊久(又七郎)へ、在番地に残って勤務を続ける辛労を察し、現地が静謐であるとの報告をもっともとした朱印状。特段の用件はないが使者を派遣し、詳細は追って伝えるとする。
慶長二年二月廿一日 / 冊子 84頁
豊臣秀吉が島津豊久に示した高麗再出勢の法度。先手の行動は加藤清正・小西行長以下が相談して定め、軍勢運用を統制するよう命じる。一般的な出勢規定とは別に、宛所が「嶋津又七郎とのへ」と明記される。
(慶長三年)十二月十六日 / 冊子 152頁
豊臣秀吉が島津豊久(又七郎)へ、従来どおり毛利壱岐守と相談し、一手となって行動するよう命じた朱印状。来春三月に秀吉自身が渡海して成敗・仕置を行う予定なので、それまでは陣所を動かさず、兵粮を城に堅固に備えて渡海を待つよう指示し、詳細は長束正家・木下吉隆から伝えるとする。
(慶長三年)十二月廿七日 / 冊子 153頁
豊臣秀吉が島津豊久(又七郎)へ、歳暮の祝儀として秀吉と北政所に呉服各一重が届いたことを喜び、詳細は長束大蔵大輔正家から伝えるとした礼状形式の朱印状。
天正15年6月10日 / 冊子 341頁
豊臣秀長が、島津中務少輔家久の突然の死を受けた島津又七郎(豊久)へ、生死は世の習いなので分別を失わぬよう慰めた書状。藤堂某を派遣して諸事を相談させ、豊久の覚悟次第で今後取り立てると約しており、父を失った若い豊久の後見と処遇を示す。
文禄2年8月22日 / 冊子 724頁
名護屋から秀吉朱印が届いたので内容を確認した後に返送し、兵糧米や諸道具を受け取る奉行人を急いで釜山浦へ派遣するよう命じる。 大谷吉継・石田三成が島津義弘・豊久ら四将へ連署で伝えた、朱印の回覧と補給物資受領の実務指示。
天正十二年三月二十四日 / 冊子 871頁
島津豊久は元亀元年六月、島津家久と樺山善久の娘との間に生まれた。天正十二年三月二十四日の島原合戦では十五歳で出陣し、強敵一人を討ち取った。
(天正15年)孟夏 / 冊子 386頁
島津豊久譜の記事。父の島津家久が佐土原で降参し、日向の居城・領地を差し出した際、豊久は羽柴秀長の帰陣に従って上京した。豊臣秀吉から佐土原城と周辺諸所を返し与える旨の台書を受け、兵庫頭義珍からの書状も伝来したという。翌天正十六年八月の朱印目録へつながる、九州仕置後の豊久家再建の経緯を示す。
年月日未詳 / 冊子 424頁
島津豊久が豊臣秀吉の命を受け、母とともに上方へ赴き、その後数年間京都に滞在したと記す譜の記事。 島津一門の若年当主と母が在京した事実は、豊臣政権による大名統制・人質政策を考える手掛かりとなる。
年月日未詳 / 冊子 553頁
豊臣秀吉は民間の出身ながら寛仁・勇猛で関白に昇り、四方の朝敵を討って天下を一統したが、なお満足せず明・朝鮮を掌中に収めようとしたと叙述する。肥前名護屋に陣営を築き、文禄元年春に二十余万の軍勢を集めたところまでを記し、島津豊久の従軍記事に先立つ朝鮮出兵の背景説明となっている。
年月日未詳 / 冊子 711頁
文禄二年六月、諸将が大軍で晋州城を攻めた際、島津豊久も城内へ突入したことを記す。 横目の片桐主膳正・藤懸三河守が戦況を記録し、味方の戦死者も出たという、豊久隊の晋州城攻撃参加を示す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 84頁
慶長二年、諸将が再び加徳島へ出勢するに際し、島津豊久が豊臣秀吉から全羅道方面の担当と行伍・軍勢編成を記した文書を賜ったことを記す島津豊久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 118頁
『島津豊久譜』から、朝鮮水軍が巨済島周辺へ数百艘を進めた際、日本側が七月十四日に迎撃した記事。島津豊久らの戦闘、藤堂方による敵船拿捕、加徳島方面での追撃と戦功を記す。
年月日未詳 / 冊子 131~132頁
『島津豊久譜』から、八月十五日の南原城攻めで豊久が敵陣へ攻め入り、首級十三を得た戦功を記す。家臣の戦死にも触れ、翌十六日に首級を日本へ送り、秀吉から賞賛を受けたとする。
年月日未詳 / 冊子 188頁
『島津豊久譜』から、明軍が蔚山城の外郭を破り本城を危機に陥れたため、島津豊久が泗川から船で救援に向かい、三日で蔚山へ着いた記事。到着時には敵が退いていたが城兵はまだ知らず、豊久は単騎で諸軍に先駆け、敵首二級を得て鞍輪に結び付けた。左耳の下に傷を負っても退かず、その後に加藤左馬頭・黒田甲斐守・鍋島信濃守らが到着し、豊久は先駆けの働きを浅野左京大夫・加藤主計頭から賞賛された。
(慶長三年)十一月十八日 / 冊子 283~284頁
島津豊久が(慶長三年)十一月十八日付で伊勢弥九郎へ出した書状。蔚山・西生浦の勢が十七日に撤収して無事到着し、この日に出船したこと、竹島・昌原も前日に引き払ったと伝える。順天方面の番船が追い払われたとの風聞を喜び、自身の在所には異変がない一方、見舞いの使者を出せない事情を説明する。
(慶長三年)十一月廿日 / 冊子 284頁
島津豊久が(慶長三年)十一月廿日付で伊勢弥九郎へ出した書状。順天方面の番船と交戦して味方の船も出たとの知らせを受け、家中の負傷者や現地の様子を案じる。加藤主計頭・黒田氏・鍋島氏が当地へ来たものの急迫した様子ではないと伝え、使者を送れないため、詳しい状況を返信で知らせるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 302頁
島津豊久譜が、日本軍に帰朝命令が下ったのを受け、慶長三年十二月に釜山浦を出帆した経過を記す。海路無事に筑前へ着いたところで豊臣秀吉の訃報を聞き、涙して喪に服した。その後ふたたび出帆して伏見へ上り、同地で越年した。
年月日未詳 / 冊子 371頁
慶長四年三月、島津豊久が中務大輔・侍従に任じられ、同月廿九日に佐土原へ帰着した。四月二日には富隈で龍伯に会い、幸侃誅殺を深く恨む忠真が庄内の十二外城を構え、兵と武器を集めていたため、和議に従わなければ太守が軍勢を発して討つとの密議を行い、佐土原へ帰ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 394頁
島津豊久譜は、豊久が精兵を率いて佐土原から庄内へ赴き、島津忠恒方と陣柵を構えて敵城を攻めたと記す。六月二十二日の山田城攻めでは、薩摩勢が本城を攻める間に豊久が新城へ乗り込み、旗を立てて守兵を置いたうえで本城を攻撃し、防御を崩して家臣らが多くの敵首を得た。その後は森田に布陣して志和池城包囲に従事し、徳川家康から寺沢志摩守と評議して伊集院忠真を討つよう命じる教書を受けたとする。
慶長五年三月十三日 / 冊子 523~524頁
伊集院忠真の降伏後、島津豊久が都城方面から帰陣したことを記す。各地の戦闘で三原九兵衛・野村藤蔵・坂元半兵衛・富山次十郎・前田大膳兵衛・野田覚内ら多数の家臣が戦死し、負傷者も数多かった。軍功により野々三谷を与えられたが、豊久は辞退した。
年月日未詳 / 冊子 552頁
島津豊久が五月十一日に佐土原を船出して上方へ赴き、伏見に在城したのち、関西諸侯の帰国と東西対立に遭遇した経過を記す。義弘は徳川家康との盟約を踏まえて伏見城入城を求めたが守将に拒まれ、石田方の勝算を危ぶみながらもやむなく一揆に随った。八月朔日に伏見城を先陣し、美濃洲俣・大柿を経て、石田・毛利・長宗我部らと駒野で評議し、関ヶ原で東軍を待って一戦を決するに至ったという。
年月日未詳 / 冊子 581頁
島津豊久が慶長五年九月十五日、関ヶ原で軍勢敗北の際に戦死し、享年三十一、法号を天岑昌運としたことを記す。家臣では中村源助・上原貞右衛門・富山庄太らが戦死し、ほかにも死者がいたが死所は不明とする。
二月十五日 / 冊子 193~194頁
忠恒の体調が快復したとの知らせを喜び、豊州が十七、十八日ごろに見舞いへ行く内意を承知した。ただし翌日から鷹狩りで竹島へ赴き三日ほど滞在する見込みなので、帰宅次第改めて日程を注進するとし、暦を使者へ渡した書状。
天正15年6月吉日 / 冊子 349頁
樺山玄佐久が正八幡宮に三か条を祈願し、黄金一つを寄進した願書。戦乱中に宝殿へ集め置いた品々の早期返還と、京勢に関わって国元を離れた人々、嶋津又七殿(島津豊久)の早期下国を願う。九州平定直後の混乱と豊久の動向を神仏へ託す心情が表れる。
(天正16年) / 冊子 384頁
若年の「又七」(時期から島津豊久か)について、高崎越前守から幾度も教諭するよう求める。続いて山内の処置を論じ、右松宗納・黒木入道らが関係するなか、日州の巣鷹を義弘が受け取るよう関白朱印で命じられ、その趣旨に従って山内の儀を処理したと説明する。 当事者間の朱印が前後しても後の朱印を実効あるものとし、兄弟間の事情より関白朱印を優先すべきだと説く、領地・権限調整の書状案。