井伊直政書状
十一月十三日 / 冊子 612頁
井伊直政が羽柴兵庫頭こと島津義弘(惟新)へ、以前の書状の到着を問い、今度の情勢がやむを得ないものとなったなかで身上に関する釈明をなぜ遅らせているのかと促す。早急に釈明を申し立てるよう勧め、自身もできる限り奔走するので希望があれば詳しく知らせるよう伝える。
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十一月十三日 / 冊子 612頁
井伊直政が羽柴兵庫頭こと島津義弘(惟新)へ、以前の書状の到着を問い、今度の情勢がやむを得ないものとなったなかで身上に関する釈明をなぜ遅らせているのかと促す。早急に釈明を申し立てるよう勧め、自身もできる限り奔走するので希望があれば詳しく知らせるよう伝える。
十一月十三日 / 冊子 613頁
本文はNo.1281と同文のため省略されている。井伊直政が羽柴兵庫頭こと島津義弘(惟新)に対し、身上に関する釈明を早急に申し立てるよう促し、自身も取りなしに尽力する旨を伝えた書状である。
(慶長元年)四月十九日 / 冊子 17~18頁
近衛前久が兵庫頭(島津義弘)へ、ある馬は早馬ではないが、よく調教すれば相応にはなるものの、義弘の馬の脚には及ばないと評し、あわせて草花一本を贈った。先に会って以来義弘を懐かしく思い、暇な時の来訪を望む。また、関東衆からもらった珍しい馬は疲れているが、義弘が吉田前馬場へ出る折に見せたいとして、日取りは相手の都合に任せると伝えた書状。
(慶長四年)後三月三日 / 冊子 365頁
伊東祐兵が羽柴兵庫頭(島津義弘)へ、たびたびの書状を喜び、当地の様子は当分変わりないと伝える。詳しい事情は町田勝兵衛に申し含めたので書状では省略するとし、近況を簡潔に報じる。
(天正15年)5月13日 / 冊子 329~330頁
福智三河守長通が兵庫頭へ、羽柴秀長が翌十四日に都於郡を出発し、中務殿も同行する予定だと知らせた書状。秀長が兵庫頭の病状を案じているため、可能なら鹿児島へ赴き、難しければ子息を出頭させるよう勧める。使僧へ自分の考えを残さず伝えたので、その説明を聞いて判断してほしいとも述べる、豊臣方との接触を調整する実務連絡。
(文禄元年)6月20日 / 冊子 572頁
細川玄旨が、翌日に義久と同道して下向するため慌ただしいと伝え、渡海以来、島津兵庫頭から一度も直接の注進がないことを注意する。 高麗へ渡った前後の衆からは報告が届いているとして、便船がない事情を考慮しつつも、今後は軍事情報を怠らず届けるよう求める書状である。
(慶長元年)十二月十三日 / 冊子 60頁
島津義久が兵庫頭に、今後の命令に従う旨の誓紙を受け取ったことを伝え、その変わらぬ忠節を賞した書状。
九月三日 / 冊子 207頁
近衛前久が島津兵庫頭に、帰洛を命じられた件への無念を述べつつ、義久との相談と出陣準備、和泉逗留中の義虎との協議、軍勢の差配について伝えた書状。被申留の扱いと出馬命令を慎重に進めるよう求める。
十二月四日 / 冊子 226頁
足利義昭が豊臣秀吉との対立を憂慮して和睦を望み、一色駿河守を派遣したので交渉成立に尽力するよう島津兵庫頭へ求めた御内書。
二月廿六日 / 冊子 227頁
足利義昭が、和平についての言上を神妙と評価し、秀吉の存分を詳しく申し含めて昭秀を派遣するので、合意成立に力を尽くすよう島津兵庫頭へ求めた御内書。詳しくは昭光が申し伝えるとする。
十一月二日 / 冊子 408頁
島津龍伯が兵庫頭へ、使者を亀山へ送り和田玄蕃助を添えて返事を待っていることを報告する。南蛮船の件で使僧を差し上せ、治少の濃州検地、三兵の判断、船元や幸侃をめぐる申し入れについて、念を入れて納得させることが肝要だと述べた書状案。
三月廿三日 / 冊子 410頁
島津義久が兵庫頭へ、筑州へ自ら出張する意向の有無を尋ね、島津忠棟から筑紫方が逆意を構えたとの報告を受け、討伐のため軍勢を急ぎ差し上せる件を税所新介から伝えさせると述べる。さらに鷹を多数京都へ届けるよう協力を求めた書状。
十二月十三日 / 冊子 412頁
島津義久が兵庫頭へ、今回申し出た件を承諾してくれたことを喜び、今後も忠勤に励むよう求める。また必要な書紙が届いたので神妙であると謝し、永く変わらぬ関係を願った書状。
(慶長八年)正月廿三日 / 冊子 879頁
小出秀政が義弘へ、白糸二十の贈物に礼を述べ、過年の軍功と無事の帰国が天下に知られていると称える。忠恒の上洛も首尾よく進むと見込み、小袖二領と綾二巻を贈った。
(慶長三年)七月廿八日 / 冊子 226~227頁
立花親成(宗茂、羽柴左近)が島津義弘・忠恒に、朝の使者への返答と亥刻の帰着を報じ、朱印の趣旨を石田三成に確認したうえで、名護屋以来の誼により内情を打ち明けた書状。順天方面への明軍行動に応じた対応を含め、内容を他所や小西摂津守へ漏らさず、相談どおり処置するよう求める。
(慶長三年)八月廿五日 / 冊子 231~232頁
増田長盛が島津義弘に、見廻りのため徳永寿昌・宮木豊盛を派遣し、従来から命じられている「御無事」の件について改めて事情を伝えさせた書状。両人の口上と覚書を踏まえて諸将と相談し、決着させるよう求める。また豊臣秀吉の病状はこの一、二日さらに快方へ向かっているので安心するよう伝える。
(慶長三年)九月廿七日 / 冊子 239頁
加藤清正が島津義弘・忠恒に、順天方面で明軍が活動していると聞き心配している一方、自陣にも九月廿一日に七、八万の敵兵が進出したと報告した書状。数度の戦闘で敵を討ち、敵は城際に陣取れず二十町ほど退いて対陣しているため、自陣については心配不要とし、義弘らの方面の状況を詳しく知らせるよう求める。
(慶長三年)十一月六日 / 冊子 277頁
島津竜伯義久が(慶長三年)十一月六日付で島津義弘・忠恒へ出した書状。泗川防戦の大勝と父子自身の働きを祝い、老中・奉行衆の感状を送る。戦場に白狐・赤狐が現れたことを稲荷神の霊験とし、鹿児島・富隈・京都の稲荷へ礼と祈念を行ったと伝え、上方の命令に従って早急に帰朝するよう促す。
(慶長三年)十一月十一日 / 冊子 278頁
立花親成宗茂が(慶長三年)十一月十一日付で島津義弘・忠恒へ出した書状。順天から早々に引き取ったとの注進を受け取ったことを伝え、かねて相談した内容どおりに事が運んだことを確認する。その他の事情は使者を通じて申し入れるとしている。
(慶長三年)十一月十六日 / 冊子 279~280頁
加藤清正が(慶長三年)十一月十六日付で島津義弘・忠恒・立花宗茂へ出した書状。十一月十二日付の注進を受け、順天が通路を断たれ兵糧も乏しく、長く籠城できないとの報告を重大視する。日本の年寄衆・奉行衆から撤収命令が出ているものの、自城を翌十七日に引き払い、諸将に加わって順天救援へ向かう覚悟を示す。
年月日未詳 / 冊子 417頁
昭高院如雪が、これまで直接の音信はなかったものの、旧来の由緒を踏まえて今後の交誼を望むと義弘へ申し入れる。 使者の口上を聞き届け、以後は隔意なく取り次いでほしいと頼んだ、島津義弘との関係構築を意図する挨拶状。
慶長四年閏三月三日 / 冊子 365~366頁
伊東祐兵が、伏見滞在中は相手のためになることを見聞すれば報告し、どのような事態でも同意して協力すること、国元へ下った後も引き続き相談すること、又八郎にも今後変わらず相手と同様に別心を持たないことを誓う。違反した場合は諸神の罰を受けるとする起請文。
(文禄2年)正月16日 / 冊子 665頁
京都から来た二、三人が持参した書状への返書を託し、伊東を介して壱岐守方などへ確実に届けるよう求める。京都への使者については、加藤清正の別紙を持たない者を不用意に通さず、信頼できる者をまとまった人数で送るよう指示する。 戦時下の書状輸送で、通行証・取次・護送人数を用いて情報と使者の安全を管理していたことが分かる。
文禄2年12月朔日 / 冊子 755頁
田野郡相房が、国元は平穏であること、京都や伏見で秀吉の屋形造営が進み、十一月二十一日に移徙が行われたことなどを報告する。長期在国の相手を案じ、京都周辺の普請・政務の近況を知らせる。 伏見城下整備と秀吉の移転を、島津家関係者の視点から伝える書状。
文禄2年12月28日 / 冊子 757頁
小西主殿助が、前日に届いた書状と見事な鉄砲一挺への礼を述べる。歳暮の挨拶に出向くべきところ、軍務で取り込んでいるため、来春早々に訪問して改めて礼を尽くすと約束する。 在陣武将間で鉄砲が贈答品となり、年末年始の訪問儀礼が重視されたことを示す書状。
年月日未詳 / 冊子 757頁
差出人が祈祷札と約束の品二種を受け取った礼を述べ、熊川方面への遊撃船の出動や、明後日に日本へ使者が渡る予定を知らせる。石田三成への用件があれば書状を託せるとも伝える。 軍事情報、渡海使節、書状取次を一通で扱った在陣中の連絡書状。
文禄4年正月19日 / 冊子 863頁
北原勘右衛門尉が持参した書状と口上を受け、石田三成にも披露して返答させたと伝える。伏見城普請は前年十二月二十日まで行い、正月三日から再開したという。 朝鮮在陣の労苦をねぎらい、高麗から返納する米や蔵米の処置にも触れる。中央政権の普請と朝鮮在陣側の兵糧処理を結ぶ実務書状。
文禄4年正月23日 / 冊子 864頁
立花宗茂と寺沢広高が、関係者から受け取った書物二通を送り、判形・継ぎ目・押紙に先例どおり印判を押して返すよう求めた連署状。 図書頭へ早急に渡し、石田治部少輔・増田右衛門尉にも了承を得るよう指示する。豊臣政権内で文書を回覧・認証する実務手続が分かる。
文禄4年10月6日 / 冊子 917~918頁
滝重時は上井仲五を介して京都での謁見や渡海、城替えの処置について指示を仰ぎ、遅滞なく進めたいと伝える。 加藤主計頭・毛利豊前守らの動向や現地の軍事情勢も報告し、使者から詳しく聞くよう求めた、朝鮮在陣中の長文連絡。
(慶長十八年)十二月十四日 / 冊子 428頁
慶長十八年十二月十四日、福島正則が六月二十五日付の書状に返答し、息女と孫の無事を喜び、自身の娘が江戸に在府していること、将来の帰国や奉公について気遣いを述べた書状。
(天正十二年)九月四日 / 冊子 226頁
足利義昭が帰洛に関する報告を了承し、柳沢新右衛門尉を派遣するので、島津義久へ伝えて奔走するよう求めた御内書。肩衣・袴を贈る。
(慶長元年)九月七日 / 冊子 41頁
豊臣秀吉が島津兵庫頭(義弘)へ、朝鮮王子を渡海させなかったのは不届きであるとして、朝鮮の各城の普請・番を堅固にし、手勢の半分を朝鮮各地へ詰めて在番させ、兵糧も確実に用意するよう命じた朱印状。
(慶長二年)正月十五日 / 冊子 68頁
島津義久が兵庫頭へ新春を祝い、旧冬に上井甚五郎・旅庵から届いた書状を見たと伝えた書状。当年の赤国成敗は延期されたが、分国中の人数・兵具については石田治部少輔と相談して整えるので安心するよう述べ、歳暮の祝儀として縮三端を贈る。
(慶長四年)正月三日 / 冊子 345~346頁
島津義久(龍伯)が、石田三成側との往来や使者との応対、徳善院・増田長盛・長束正家への連絡、種子島などからの鉄砲調達依頼について経過を列記した覚書。血判を据えた誓紙のとおり別心はなく、疑いがあれば糺明を受けたいとの意向を、忠恒・義弘へ伝える。
慶長四年正月三日 / 冊子 346頁
島津義久(龍伯)が、徳川家康のもとへの参上や家康の私宅訪問について、密かな別心を抱いたことも聞いたこともないと誓った起請文。八幡・春日・愛宕山の神々に偽りのないことを誓い、疑義があれば糺明を受けたいとして、忠恒・義弘から詳しく申し上げるよう求める。
(慶長四年)正月廿八日 / 冊子 350頁
石田三成が義弘・忠恒へ、病後の養生のため帰還が延びているが翌日頃には下る予定であると知らせた書状。和泉の代官を早急に下すよう求め、図書を通じて伝えた件については義久へ十分に申し伝えることが肝要であると指示する。
(慶長四年)二月朔日 / 冊子 350頁
石田三成が義弘・忠恒へ、図書を通じて差し上げられた口上書を拝見したと知らせた書状。書面で返答するよりも、三成自身が下向した際に諸事を直接相談するとし、長く待たせていることと下向が遅れている事情は図書へ伝えたと述べる。
(慶長三年)九月五日 / 冊子 234頁
毛利輝元・宇喜多秀家・前田利家・徳川家康が島津義弘・忠恒に、「御無事」はまず加藤清正の筋で、難しければ他の筋でも遅滞なく決着させるよう命じた大老連署状。朝鮮王子の来航が望ましいが、来なくても調物の多少にこだわらず日本の外聞にかなう形で和議を成立させること、迎船として新造百艘と諸浦の二百艘、計三百艘を送ること、安芸宰相・浅野長政・石田三成と相談することを指示する。
(慶長三年)十一月三日 / 冊子 272頁
毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・前田利家・徳川家康の五大老が(慶長三年)十一月三日付で島津義弘・忠恒へ出した連署状。泗川で明軍二十万騎と江南大将九人を相手に大勝し、晋州河際まで追撃した父子と家中の働きを比類ないと称賛する。蔚山・順天の敵も敗退する見込みとし、敵が撤退した場合は諸将で協議して各城から釜山浦へ引き取り、そこから帰朝するよう命じる。
(慶長三年)十一月三日 / 冊子 273~274頁
宮木豊盛・徳永寿昌が(慶長三年)十一月三日付で島津義弘・忠恒へ出した連署状。二日に名島へ着岸し、浅野長政・石田三成へ島津方の意向と両人が見聞した戦況を直接伝え、両奉行から書付を得たと報告する。島津父子の働きには褒賞があるとの見込みを示し、帰朝は間近と伝え、詳細は使者に言い含めたとする。
〔慶長三年〕十一月六日 / 冊子 277~278頁
近衛前久が〔慶長三年〕十一月六日付で島津義弘・忠恒へ出した書状。明の数万騎を即時に切り崩して三万余を討ち取った戦功を比類ないと称え、竜伯の喜びとともに禁裏へ報告したところ叡感があったと伝える。日州で豊後勢六万余を破った旧功にも触れ、秀吉死後は在陣を続ける必要がないとして、勢いを保ったまま早々に帰朝するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 515頁
本文はNo.1036と同文のため省略されている。豊臣秀吉が朝鮮王子の来渡の遅れを叱責し、在番衆や兵粮を整えて朝鮮での仕置を確実に進めるよう島津義弘へ命じた朱印状の重複記事。
(慶長元年)九月七日 / 冊子 41~42頁
小早川隆景が義弘へ、唐人側の発言で和平が破れ、毛利壱岐・加藤主計・小西摂津が渡海を命じられ、翌年には四国・中国勢も渡海する触れが出たと伝える。朝鮮王子を渡さず礼を遅らせたことへの秀吉の怒りに触れ、義弘にも渡海命令が出るか尋ねる一方、自身は暇を与えられ、十四、五日頃に乗船して帰り養生する予定を知らせた書状。
慶長四年閏三月廿四日 / 冊子 369~370頁
相良頼房が、義弘・忠恒に疎略なく奉公し、現在は遠慮すべき事情があっても将来は父子に意を得て尽力すること、讒者があれば知らせてほしいことを誓い、違反時は諸神の罰を受けるとする。
(慶長三年)十一月二日 / 冊子 270~271頁
浅野長政・石田三成が(慶長三年)十一月二日付で朝鮮在陣の諸将へ出した連署状。徳永寿昌・宮木豊盛が名島へ着岸して現地の意向を伝えたことを受け、明軍が大敗した以上は諸城の城主がそろって帰朝するよう命じる。再攻撃で撤収できない場合は全城を翌三月まで保持して報告すれば援軍を送るとし、確実な講和や人質提出がないまま釜山だけを残す処置は日本の妨げになるとして退ける。
十月十日 / 冊子 593頁
井伊直政が羽柴少将こと島津忠恒(家久)方へ、天下の情勢が決着したことを受け、兵庫頭こと島津義弘(惟新)の下向に際して国元の事情を説明し、早々に出仕するよう促す。徳川家康とは以前から取次関係にあるので力を尽くすと述べ、用件を書き付けて送ること、詳細は山口勘兵衛直友が伝えることを知らせる。
年月日未詳 / 冊子 629-630頁
井尻弥五助が島津方の書状と孔雀の尾羽二羽を徳川家康へ届け、良い返事を得た。帰路、水口で厳重な検問を予想して書状を焼き判だけを隠したが、不審者として二十日間拘留された。伊勢参詣と島津義弘(兵庫頭・惟新)の家臣松岡勝兵衛との関係を説明して釈放され、拘留に耐えた奉公を賞され、のち伏見城攻撃でも働いた。
年月日未詳 / 冊子 663-664頁
島津方の人質を退去させる手形がないため、使僧を大坂城へ遣わした。仙秀坊は島津義弘(兵庫頭・惟新)が豊臣秀頼のため関ヶ原で戦死したと申し立て、人質を国元へ下すよう求め、返答が出るまで一日一夜城に詰めて手形を得た。出立時には後に残る者が必要となり、山田弥九郎が残留を申し出た。
(慶長元年)閏七月廿八日 / 冊子 35頁
島津義弘が宰相殿へ、兵庫頭を通じた伝言への謝意を述べ、高麗で本田讃岐が参陣し又八郎(忠恒)がよく働いていること、陣引の沙汰がなく兵糧も不足しているため、借用して三日中に船積みする手配をしていることを報告した。自身は帰朝を望む一方、老病と疲労により立居も難しく食欲もない状態を訴え、又八郎のため伊勢へ千日参りをさせていることなどを伝えた書状。
(天正17年)正月20日 / 冊子 435頁
豊臣秀吉が島津義弘へ、大仏造営に用いる島津義久・兵庫頭領内の杉・檜を、大小を問わず念入りに調査して注文へ書き上げるよう命じる。 寺社の神木であっても大仏造営を優先し、伐採・供出を滞らせず、材木の内訳を詳しく言上するよう求め、詳細な返答は長岡幽斎・石田三成に託した朱印状。