樺山久高・鎌田政近連署感状
慶長十年七月十七日 / 冊子 24頁
樺山久高と鎌田政近が田中伊豆守に、前年以来の長い在京勤務に加え、物方の代官として引き続き留まることを承諾した忠勤を賞した連署感状。今後恩賞を与えるとの上意を伝え、引き続き疎略なく勤めるよう命じる。
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慶長十年七月十七日 / 冊子 24頁
樺山久高と鎌田政近が田中伊豆守に、前年以来の長い在京勤務に加え、物方の代官として引き続き留まることを承諾した忠勤を賞した連署感状。今後恩賞を与えるとの上意を伝え、引き続き疎略なく勤めるよう命じる。
慶長十二年八月八日 / 冊子 128頁
慶長十二年八月八日、在京・在江戸で長く奉公した功に対する恩賞として、田中伊豆守へ知行五十石を宛行った連署状。田畠の所在地・字名などは別紙による。
(寛永十一年)五月六日 / 冊子 422~423頁
町田久則が高崎伊豆守へ、勝連島に置かれた平田太郎左衛門の出家した子を四月十二日に成敗したことを報告し、付き人一人・小者一人と押収道具の処置について指示を求めた書状。
四月七日 / 冊子 153~154頁
新納久饒が本田伊豆守に、駿河からの使者が前日に到着し、駿府の情勢は早晩勝ちに向かう見通しであると報じた書状。軽率に構えず賢慮を求め、その旨を伊勢兵部少輔にも書き送ったこと、自身は病後で直接申し上げられないため、本田から披露してほしいと依頼する。
(慶長七年)ニ月二日 / 冊子 805-806頁
本多正信が田中吉政へ、前年の下向に際する尽力への礼を述べる。島津義久・義弘父子への入魂により今後の不安はないとの見通しを伝え、島津方から礼使を遣わす件を伊奈昭綱と相談するよう求めた。
六月十五日 / 冊子 210頁
祝意を表して太刀一腰・馬代銀子五枚と季節の品五つを贈り、以前遠路から使者を受けた懇志へ十分に返礼できず申し訳ないと述べ、詳細を使者に託した書状案。
(寛永十一年)五月九日 / 冊子 423~424頁
伊勢貞昌が、琉球から唐へ銀子を送る初めての任務で尽力した川上又左衛門尉の働きを賞し、今後の奉公や子の召し仕え、知行百石の加増と奉公米の扱いについて談合・通達を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 109~110頁
新納忠元が若年期に高崎伊豆守能乘から和歌を贈られたことや、武功・奉公の経歴を記す勲功記事。七十八歳の忠元が唐津城主寺沢志摩守正成を訪ね、旧交や贈答、忠元の働きを回想する。
(慶長十四年)七月廿六日 / 冊子 239頁
七月二十六日、本多正信が島津家久に、家久の屋形作事のため前年から滞在した田中伊豆守が尽力して工事を残りなく整え、まもなく上るので、その苦労を取り成してほしいと依頼した書状。
慶長十九年八月七日~十月朔日 / 冊子 543~544頁
慶長十九年八月七日から十月朔日までの御日記抄。島津義弘(惟新)からの伝言をはじめ、島津家久(奥州様)の川内通過と長崎出立、村尾源左衛門尉入道・新納次郎四郎らの長崎出立および出立人数の編成、奥州様への茶の進上、鎌田左京亮による使節と焼葉壺三つの進上、小城権現座主職への善乗院任命、本田伊豆守の鹿児島への使い、新納次郎九郎の見舞いなどを記す。
(寛永十年)三月廿七日 / 冊子 362~364頁
島津久元・伊勢貞昌が、高崎伊豆守・伊東二右衛門尉から検地の報告を聞いたうえで、旧検地の不正や悪役人を調査し、訴えのある土地を公平に再検分して実際の耕地を正確に把握し、関係者を処置するよう国元へ指示した連署書状。
年月日未詳 / 冊子 422頁
琉球在番奉行町田久則が高崎伊豆守へ、勝連島に置かれた平田増宗の二子について上命に従う配置・処置を、前月二日に琉球三司官と協議したことを知らせた記事。
寛永十四年十二月五日 / 冊子 704~706頁
「覚」として、幕府が十一月二十六日付の奉書により肥後・薩摩勢へ天草一揆の鎮圧を命じたことを受け、有馬方面で一揆が起きた際の即応、一万人のうち動員できる兵数、川尻に進出した肥後勢との歩調、薩摩勢用の船の準備を問い合わせる。天草平定後の早急な報告、一揆勢の首級を目付衆に見せるため捨てないことも指示する。さらに松平隠岐守の条書、松平伊豆守らへの兵粮・音信、渋谷知兵衛尉の派遣、天草一揆が長引き上洛延期となる場合の報告に言及する。吉利織部祐が署名し、使者を川越三右衛門尉とする。寛永十四年十二月五日付。
(寛永十五年)四月朔日 / 冊子 796~798頁
薩州様(島津光久)が帰府するまで御番を務める件を確認し、大坂から届いた品の送状を火災後の分と照合して、見つかった分を三札にして送る。桑畑藤右衛門尉・大脇正右衛門尉の到着、光久の参府見込み、野村勘兵衛尉を松平伊豆守へ遣わしたことを報告する。有馬一揆の城が先月二十七、八日に落ちたが、銀不足のため祝儀使者を差し止めたこと、山田民部少輔・新納加賀守ら薩摩勢が約二百の首級を挙げたとの情報を記す。江戸・京・大坂で借銀できず、借銀の利息さえ払えない窮状を述べ、銀子の送付を求める。新納勘解由が奉行する大廻船の仕出しや屋敷の無事も伝える。島津久慶・鎌田政統の連署で、島津久元・伊勢貞昌・川上久国・三原重庸・山田有栄宛。寛永十五年四月朔日付。
寛永十一年二月十六日 / 冊子 411頁
検地後に家中の知行支配を改め、知行地の遠近と衆中各人の石高を踏まえ、地頭・衆中が相談して親疎なく公平に配当するよう命じた名寄帳奥書。
寛永十一年二月十九日 / 冊子 411頁
的野寺関係の寺社屋敷を検地帳に載せつつ先例により免許し、門前田畠などには軍役を課して、以後諸士と同様に諸役を勤めるよう定めた寺社屋敷帳奥書。
(寛永十一年)四月廿三日 / 冊子 419頁
正八幡の神領総高のうち三分一を中途で配当し、社家中の持高十石までを算用に応じて配分し、小高の者は所中で配分することなど、神領の上地・返地と知行配当を定めた連署覚書。
(寛永十五年)二月三日 / 冊子 749~751頁
阿久根宿泊に際し、地頭衆の滞在で不自由が予想されるため、四郎左衛門を帰すか地頭衆を戻すか相談するよう指示し、出水までの宿泊・昼休みの割付を別紙で送る。黄門様の容体がこの三日軽快していること、薩州様の船が大雨で遅れていること、迎えの者を順次派遣したことを伝える。天草在番衆に油断なく警戒させ、富岡の状況を詳しく注進するよう求める。軍衆の祈念として六十六本の御神舞を行ったこと、兵粮を積めないため二千余人を召し戻す相談、天草番手を五、六千人とし江戸から三千人を遣わす案、百石につき三人の軍役を記す。さらに琉球船が米二百六十石・上布・焼酎などを積んで山川へ来たため、出水へ回航するよう岩切六右衛門へ指示した。川上久国・三原重庸の連署で、山田民部少輔・島津下野守宛。寛永十五年二月三日付。
(寛永十五年)三月六日 / 冊子 787頁
先月二十七日の原城本丸攻めと翌二十八日の残党追討により一揆を討ち果たしたことを報じ、共同出兵の戦功をねぎらうとともに、戦後処置や進上物などに関する意向を伝えた松平信綱の書状。
3月19日(本文、文化5年記事群) / 冊子 295~296頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0075
留守に置く家来が退役し、代わりの者の御目見を願う件は正徳の先例があると承知したが、その後も同じ例があるか調べるよう求める手控書1通を掲げる。照会は松平薩摩守名で、御用番松平伊豆守の用人新藤善八郎へ向けられる。続く桑山仲太夫の首尾書は、右の達しにより今日中に1人出頭するよう用人の切紙が届き、自分が出たところ、翌朝までに回答を申し出るよう重ねて命じられたと記す。何とか返答をもらいたいので、この手控書を櫻田詰中の小姓を通じて差し上げたと報告する。3月19日、桑山仲太夫、安房宛。照会内容と用人への出頭・回答期限・手控書送付の経過を分け、御目見許可の通知とはしない。
寛政4年8月5日(年次は朱注) / 冊子 38頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0121
島津斉宣が父・重豪の持病再発を理由に、国元の温泉療養のため約1年の御暇を願う願書。重豪は去る未年に願い出て国元で入湯し、快復して出府したが、その後も時々再発して難儀しているため、再び温泉療養を求めるとする。許可されれば当年9月初旬に江戸を発ち、御暇の期間中でも快復した時は届け出て参府する意向を記す。8月5日付、松平豊後守名義。朱注によれば、当日に松平隠岐守を先手として、御用番松平伊豆守へ留守居から提出された。願いの内容と提出経路を別々に示す。
寛政4年8月23日(年次は朱注。回答伝達は25日) / 冊子 38~39頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0123
斉宣が、弟の島津雄五郎も痛所があるため、帰国入湯を許された重豪に同行して温泉療養することを伺う書。雄五郎は先年届け出てある者であり、重豪が参府する時には雄五郎も再び召し連れて戻る予定とする。8月23日付で松平豊後守名義、雄五郎に忠厚の人物注を伴う。朱の付札は「可為伺之通候」として願いどおりを認める。別の朱注には、日付当日に御用番松平伊豆守へ留守居が持参し、御用人に取り次いだところ、25日に留守居が召され、付札の趣旨を申し渡されたとある。
寛政5年4月18日(年次は朱注) / 冊子 54頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0177
斉宣が、国元で入湯していた重豪の痛所が快方に向かったため、当年秋に参府へ向けて出発する旨を届ける書。去年申し上げたとおり弟の島津雄五郎もその際に召し連れる予定であるとの知らせを受けたので届け出るとする。4月18日付、松平豊後守名義で、雄五郎には忠厚の人物注がある。朱注には、当日に御用番松平伊豆守の御用人三輪十郎兵衛へ留守居橋口與三次から提出し、受け取った旨を御用人から伝えられたと記す。実際の発足や到着ではなく予定の届出である。
寛政5年4月18日(年次は朱注。先例は天明7年11月) / 冊子 54頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0178
重豪の参府御礼を申し上げる際、御臺様・若君様へも献上したいが先例がないため、差図を願う斉宣名義の伺書と献上物例書。4月18日付、松平豊後守署名で、年次は朱注による。朱の付紙は御臺様へ白銀五枚、若君様へ御太刀一腰・白銀三十枚を記し、このとおり献上するよう命じる。首尾注には御用番松平伊豆守の御用人へ留守居橋口與三次から提出し、受け取った旨を御用人から伝えられたとある。下段の先例書は天明7年11月、重豪の参府御礼に際して献じた品として、公方様へ御太刀一腰・縮緬十巻・御馬一疋(白銀三十枚の注)、蓮光院様へ白銀五枚を列挙する。今回の許可付紙と過去の例書では献上先と品目が異なるため、両者を別々に示す。
寛政7年12月13日(年次は朱注。寛政2年5月4日は先例注) / 冊子 98~99頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0323
重豪が馬一疋の献上を首尾よく披露したとの知らせを受け、かたじけない旨を伝える返書。12月13日付、松平上総介の署名と重豪御判、松平伊豆守様人々御中宛、寛政7年の朱注年次を記す。写正文は右筆所所在。付された注は、寛政2年5月4日の不時献上では翌日留守居を呼び出して納めた旨を伝え、御奉書の沙汰に及ばなかった先例に対し、今回12月13日は御奉書が渡されたので、同日に御奉書受を差し出したと説明する。先例の日付を本書発給日としない。
寛政8年3月3日(本文。年次は朱注) / 冊子 118頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0356
松平豊後守が、芝居屋敷が手狭なため同氏上総介が高輪下屋敷へ移りたいと申し越したことを届ける。実際に移る時には家来から届けるとして、この段階では移転希望を聞き置くよう求める。3月3日付、松平豊後守署、寛政8年朱注、扣正文は右筆所に所在。次の印刷357に二通とも日付当日に御留守居から御用番松平伊豆守へ差し出したとの朱注があり、本届もその一通とする。
寛政8年3月3日(本文。年次は朱注) / 冊子 118頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0357
同氏上総介が高輪下屋敷へ移ることに伴い、今後何事かについて上使を下される際は、芝居屋敷でその命令を承る心得であると豊後守が届ける。寛政8年朱注、3月3日付、松平豊後守署。朱注は、前の届と本届の二通を日付当日、御留守居から御用番松平伊豆守へ提出したと記す。実際の移転完了報告ではなく、移転後に上使を受ける場所を届ける文面。
〔貞和二年〕八月六日 / 冊子 113頁/原整理番号 430
一乗院門跡覚実が、春日社兼一乗院領島津庄日向方飫肥北郷の収納使・弁済使職について、鶴一丸代久幸が訴える栄証法眼・子息忠政らの所務押領を上杉伊豆守に伝え、処置を求めた御教書。法印覚快が奉じ、〔貞和二年〕八月六日付。
正月十六日 / 冊子 288頁/原整理番号 95-3
島津元久が酒匂伊豆守へ、新春の吉兆と相手の返状を喜びつつ、伊作方の情勢を強く憂えていると伝える。実久が出向けば速やかに陣を引くよう相談し、探題方の事も知らせてほしいと求める。前年に弟次三郎山城殿を探題に供奉させたが、月が迫ってまだ報告がなく、京都の件は山北へ赴いて相談すると述べる。
応永十七年二月十三日 / 冊子 237頁
吉田了秀が、薩摩国谷山郡山田村内黒丸の水田四町を前伊豆守入道宜秀の菩提料として福昌寺へ永代寄進し、島津元久の加判を得て万雑公事・諸役を停止した寄進状。
年月日未詳 / 冊子 666~667頁
大永六年十一月十二日、島津忠兼が使者を通じ、忠良の長男虎寿丸を猶子として家督を譲る意向を伝えた経過を記す。忠良は村田越前守・土持伊豆守・梶原備前守らの仲介にも再三辞退したが、最終的に受諾し、虎寿丸が貴久として継承する。
年月日未詳 / 冊子 77~78頁
永禄三年夏頃、伊集院忠純の家臣の言動を発端に肝付兼続が島津貴久を怨み、鹿児島を去った経緯を詳述する。兼続方は廻伊豆守の城を奇襲して奪い、伊豆守を討ち、兼続自身も廻城へ入って島津方と対立した。
年月日未詳 / 冊子 346頁
伊東氏内部の変動と合戦を編年的に記し、伊東祐充の死去、福永伊豆守父子の切腹、北郷・北原・肝付・飫肥・新納勢との三俣・高城合戦、伊東武州の生害とその子の謀叛、義祐の日知屋退去、荒武氏らの離反、綾城・守永城の動向を列挙する。
文化5年2月廿日(朱年注) / 冊子 292頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0933
歳暮の御内書を渡すので、明日の五半時に御城へ家来を差し出すよう通知する。2月廿日、松平伊豆守署、松平榮翁宛。文化5年の朱注、重豪公御譜中、正文在文庫の表示を付す。書状日と翌日の受取指定を分け、本文署名の官名と目録の実名信明を区別する。
文化6年7月4日(朱年注) / 冊子 328頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1027
端午の御内書を渡すので、明日五半時に御城へ家来を差し出すよう通知する。7月4日、松平伊豆守、松平榮翁宛、文化6年朱注、重豪公御譜中・正文在文庫。通知日・翌日の受取予定と登城者が家来であることを分け、重豪本人が登城したとしない。
文化7年6月廿七日(朱年注) / 冊子 354頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1099
重豪公御譜中・正文在文庫。今朝、鰑1箱を献じられた件を披露したところ、一段の御仕合であったと返す。6月廿七日、信明判、松平榮翁宛、朱口裏に松平伊豆守信明、文化7年朱注。品名は魚偏に昜の鰑という掲載字形で採録し、外部の品名知識から別字や現代名へ置換しない。差出人自身が献上したという主体の取り違えを避け、1098内書受取通知とは用件を分ける。
年月日未詳 / 冊子 777頁
多田紀伊介が兄とともに伊集院大和守の近侍となり、稲荷宮修理をめぐる密談から謀計を察知して日新公へ報告し、城方の計略を退ける助けとなった経緯を記す。
天正元年十一月十三日 / 冊子 321頁
吉利氏の下総守忠澄の子孫を掲げ、三郎九郎長住・顧金らの名と花押を記す。長住は天正元年十一月十三日生まれで、母は上井武蔵守為秋の娘とし、忠紹は天正十六年生まれとする。
(天正二年)四月九日 / 冊子 338~339頁
相良方の老臣が、久しく無沙汰となったことを詫び、隅州方面が島津方の勝利となったとの知らせを祝う。今後も親密な関係を望み、詳細は福田寺が口頭で伝えるとする連署状で、差出人らの花押と裏書を伴う。
寛永十一年二月廿三日 / 冊子 411頁
松山郷正若宮八幡の神主・社家屋敷八か所について、検地帳に載せながら先例により免許し、門前田畠などには軍役・諸役を課すことを記した支配所社家屋敷目録の抄録。
寛永十一年二月十九日 / 冊子 412頁
清水北辰神社関係の屋敷名・間口等を記し、検地帳に載せつつ先例により免許し、門前田畠などには軍役・諸役を課すことを定めた支配所寺社屋敷目録。
(寛永十五年)四月十三日 / 冊子 799頁
先に申し入れた逃亡者の皆吉長右衛門尉・芦塚権右衛門は二十四、五歳ほどで、北郷式部の弟のもとにいるとの情報を伝え、詮議して召し捕り、小倉または大坂の奉行所へ送り届けるよう命じた松平信綱・戸田氏鉄の連署書状。
(寛永十五年)四月十五日 / 冊子 799~800頁
島原にある大筒・石火矢・鉄砲・玉薬などを薩摩船で大坂へ運ぶため、小笠原壱岐守・久留島丹波守・下曾祢三十郎から受け取り、大坂町奉行へ引き渡すこと、船数と船の大小を報告することを命じた連署書状。
(寛永十五年)八月六日 / 冊子 817頁
税所少兵衛尉から永代買いした高四十四石四斗五合について、新納加賀守の使者により高を改めたことを踏まえ、名寄帳の記載を改めるよう求めた高崎能乗・土持綱辰の連署引付。
明和二年二月十七日 / 冊子 61~62頁/原整理番号 181の11/整理ID 181-11
大目付が二月十七日、松平右近将監から渡された書付の写二通を諸家の留守居へ送る。書付を承知し、遅滞なく順達した後、池田筑後守のもとへ返却するよう指示している。宛先は松平陸奥守、有馬中務大輔、伊達遠江守、真田伊豆守、鍋嶋摂津守、秋月山城守、大田原出雲守、毛利能登守、織田丹後守、堀田梅之丞の十家の留守居。
明和二年三月二十六日 / 冊子 76頁/原整理番号 181の40/整理ID 181-40
大目付が三月二十六日、松平右近将監から渡された書付の写し二通を送り、その趣旨を承知して滞りなく順達するよう命じる。最後の受取人から池田筑後守方へ返却するよう指示する。宛先として松平陸奥守、有馬中務大輔、伊達遠江守、真田伊豆守、鍋島摂津守、秋月山城守、大田原出雲守、毛利能登守、織田丹後守、堀田梅之丞の十名を掲げる。朱書には、当日の朝に大目付池田筑後守から廻状と写し二通が届けられ、書付を有馬中務大輔へ順達して写しを差し出した旨を記す。
明和二年四月十三日 / 冊子 82~83頁/原整理番号 181の60/整理ID 181-60
四月十三日付の大目付廻状。日光山御法会に伴う紅葉山御宮での法会日割を、十五日卯上刻、十六日午上刻、十七日寅上刻と示す。阿部伊予守から渡された書付の写し一通を送るので、順廻の最後の受取人から大井伊勢守方へ返すよう指示する。宛先は御名の家と有馬中務大輔、真田伊豆守、秋月山城守、毛利能登守、堀田梅之丞、松平陸奥守、伊達遠江守、鍋島摂津守、大田原出雲守、織田丹後守の留守居。朱書には、今朝大井伊勢守から借り受けたため、本書を有馬中務大輔方へ順達し、写しを差し上げたと記す。法会の時刻通知、写しの送付・返却指示と、朱書による受領・本書順達・写上の記録を分けて示す。
文化11年7月19日(年は一件・目録) / 冊子 445頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0092
印刷(の5)。所帯向難渋につき供連の一部を減らしたい届の書付1通と、自分名義の内意書1通を列記する。勝手へ持参して内見後表向差し出したところ牧野備前守が御落手したと用人から伝えられ、内意書も勝手で同じ用人へ渡し受領されたとする。用人名は名兒耶寛左衛門候補として読字を留保する。今夕自分が行った首尾として報告、7月19日、早川渡、典膳様宛。追書は松平伊豆守(信明注)にも内見に入れたところ御存寄がないと、用人関屋斧右衛門を通じ聞いた旨を記す。二書付の提出と受領、伊豆側の意見回答を分け、御存寄無を正式な許可と断定しない。兼備は目録名義として保持する。
天明八年十二月十一日(年次朱書) / 冊子 1022頁/原整理番号 2760/整理ID 2760
亡祖父薩摩守の実母が十一月二十日に国元で病死したことに伴う忌服を届ける。松平豊後守は忌二十日を十一月二十日から十二月十日までとし、残日数がないため遠慮一日、服九十日を十一月二十日から翌二月二十日までとする。松平上総介は忌三十日を十一月二十日から十二月二十日まで、服百五十日を十一月二十日から翌四月二十一日までとする。十二月十一日付、松平豊後守。朱注は、この届書を本城源七郎によって御用番松平伊豆守へ差し出した旨を記す。
正月15日 / 冊子 699~700頁/原整理番号 726の2
国家に背くためや私欲による籠城ではなく、切支丹の宗旨を捨てられないためであると訴える矢文。改宗を迫る法度と迫害、後生への恐れから一度は改宗した経緯、なお信仰を守ろうとする理由を述べ、単に身命を惜しむ邪路ではないと弁明する。正月十五日付、松平伊豆守宛。異本の語句を多数付記し、時任氏日記本との関係も注記する。