島津忠恒書状
(慶長四年)六月廿七日 / 冊子 392~393頁
島津忠恒が中務大輔に、その方面で多数を動員して尽力し、山田城を切り崩した働きを賞する。討死・負傷した手勢の軍労にも言及し、さらに攻め詰めることが肝要であるため、川上左近将監と伊勢兵部少輔を派遣して協議させると伝え、慰労の印として刀一腰を贈る。
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(慶長四年)六月廿七日 / 冊子 392~393頁
島津忠恒が中務大輔に、その方面で多数を動員して尽力し、山田城を切り崩した働きを賞する。討死・負傷した手勢の軍労にも言及し、さらに攻め詰めることが肝要であるため、川上左近将監と伊勢兵部少輔を派遣して協議させると伝え、慰労の印として刀一腰を贈る。
(慶長四年)十二月廿四日 / 冊子 479頁
徳川家康が島津忠豊(豊久)に、庄内方面へ人数を出して加勢に尽力したことをもっともであると評価し、今後も油断しないよう命じる。詳細は寺沢志摩守が伝えるため、書状では詳述しないとする。
(慶長四年)十二月廿四日 / 冊子 479頁
寺沢正成が島津忠豊(豊久)の側近へ、各人が山田方面へ加勢に向かったことを内府徳川家康へ報告したと伝える。寒天で兵糧などを届けにくい時期なので過分な人数は不要とし、以前に述べたとおり上下合わせて百人ほどが適当だとする。忠豊自身の出陣については改めて連絡するとし、家康の直書を添えた旨を知らせる。
(慶長四年)八月廿日 / 冊子 394頁
徳川家康が島津中務大輔忠豊に、伊集院源次郎忠真がなお下城しないのは不届きであるとし、寺沢志摩守を派遣したので相談のうえ自ら出陣し、忠真を討ち果たすよう命じる。詳細は寺沢の口上に委ねる。
年月日未詳 / 冊子 637-638頁
関ヶ原合戦当日の深い霧の中、島津勢が二備で敵を待ち、赤崎丹後の進言により敵を十分引き付けて一斉射撃したのち乱戦となったことを述べる。山田有栄らは島津豊久(中務大輔)の所在を求めて馬印を見付け、少人数となった島津義弘(惟新)勢に合流し、木脇刑部左衛門らと敵を防ぎながら約一里を切り抜けた。
年月日未詳 / 冊子 663頁
別説として、山田弥九郎と赤崎丹後は関ヶ原で島津義弘(惟新)と別れ、敵中を突破した。島津豊久(中務大輔)が乗ったと思われる血染めの馬を見て戦死を疑い、一度敵中へ引き返したが、一本杉の馬印を見つけ、義弘がなお無事と悟って敵を切り抜け、ようやく供奉したと伝える。
年月日未詳 / 冊子 691-698頁
関ヶ原前日の布陣から本戦、島津義弘(惟新)の敵中突破と伊勢路への退却を、黒木左近兵衛・平山九郎左衛門らの証言で整理する。島津豊久(中務大輔)・山田有栄・木脇休作らの戦闘、伊吹山方面での義弘との合流、殿軍の交替、住吉・堺での潜伏と出船、大坂の夫人方の救出、豊後沖での船団被害、十月三日の帰着までを詳述する。
年月日未詳 / 冊子 634-637頁
慶長五年九月十五日の関ヶ原合戦について、朝霧の中での物見の遭遇から東西両軍の布陣、福島正則勢を先頭とする攻撃、西軍諸隊の応戦を叙述する。徳川家康方の総攻撃、小早川秀秋らの内応による大谷吉継勢の崩壊、平塚為広らの戦死を経て西軍が敗走し、島津義弘(惟新)・豊久勢が包囲を突破して伊勢方面へ退いた経過を記す。
寛文三年十一月十日 / 冊子 641頁
山田昌巌が木脇刑部左衛門の求めに応じ、その父が関ヶ原合戦で挙げた戦功について回答する。昌巌自身の見聞に加え、黒木左近兵衛から聞いた話として、木脇刑部左衛門が長刀を持ち名乗りを上げて敵を討ち、島津義弘(惟新)の退却にも従った働きを証言する。
明和二年三月二十六日 / 冊子 76頁/原整理番号 181の40/整理ID 181-40
大目付が三月二十六日、松平右近将監から渡された書付の写し二通を送り、その趣旨を承知して滞りなく順達するよう命じる。最後の受取人から池田筑後守方へ返却するよう指示する。宛先として松平陸奥守、有馬中務大輔、伊達遠江守、真田伊豆守、鍋島摂津守、秋月山城守、大田原出雲守、毛利能登守、織田丹後守、堀田梅之丞の十名を掲げる。朱書には、当日の朝に大目付池田筑後守から廻状と写し二通が届けられ、書付を有馬中務大輔へ順達して写しを差し出した旨を記す。
安永五年十一月二十六日(年は朱) / 冊子 518頁/原整理番号 1428の2/整理ID 1428-2
御用のため明日四時に登城するよう命じられたが、自分は風気があって登城できないので、松平中務大輔を名代として差し出すと届ける。十一月二十六日、御名という署名欄を置く。末の送達注は留守居を介して松平周防守へ提出したとする。
元亀三年~天正元年七月廿四日 / 冊子 311頁
肝付・禰寝・伊地知三氏の離反と廻城奪取、元亀三年の早崎築陣・小浜攻略を前史として、天正元年七月二十四日の早崎夜襲を記す。守将家久は川南式部左衛門と戦い、田之上清左衛門に救援されつつ全身八か所を負傷した。喜入久績も負傷しながら敵を退け、平田光宗らも力戦して、二十六歳の家久は危機を免れた。
天正六年十月廿日~十一月十二日 / 冊子 553頁
大友宗麟・義統の十万余騎が高城を包囲すると、島津家久は山田有信・吉利忠澄・鎌田政近・比志島国貞らと守った。十一月十二日、義久軍が根白坂で大友軍と戦うのに呼応して城内から突出し、疲労した敵を深淵へ追い込み、家久自身も単騎で敵中へ突入して将十余人を斬った。耳川まで追撃し、戦後に佐土原を与えられて移った。
三月八日 / 冊子 475頁
足利義教が、大友持直・大内新介らを討つため豊後国へ発向し、遅滞なく治罰を加えるよう命じた御内書。
年月日未詳 / 冊子 665頁
大田氏二代昌久の官途・号と、島津忠昌への川辺の居城献上、南郷・田布施への移住、大永六年十一月に島津忠兼から帖佐地頭職を与えられた経歴を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 621-624頁
慶長五年九月十五日の関ヶ原合戦を中心に、島津豊久・長寿院盛淳をはじめ島津勢の戦死者・殉死者を多数列挙する殉国者名簿である。九月十八日・二十三日、十月四日・二十三日など後続の日付の戦死者も追記し、各人の実名・役職・家臣や従者、戦死地・法名等を注記する。
年月日未詳 / 冊子 625頁
赤坂方面を望見した屋敷から陣屋へ戻った後、日没頃に関ヶ原方面へ陣替えした。夜に雨が降るなか、浜之市衆は島津豊久の手勢に付属するよう命じられ、備えに入ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 625頁
十五日未明に関ヶ原へ着陣し、地形を見て配置を定め、夜明けに島津豊久の備えを整えたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 625-626頁
石田三成が八十島助左衛門を使者として島津勢に敵へ押し寄せるよう求めた。島津豊久は各々が手柄次第に働くべきで石田方も同様に心得るよう答えた。石田は了承して戻ったが、まもなく軍勢が崩れ敗走した。
年月日未詳 / 冊子 626頁
敵勢が迫る前、島津方は敵を十分近くまで引き付けて戦うよう下知し、鉄砲を前方から撃たせず温存した。島津豊久が騎乗し、一斉射撃後は敵味方が入り乱れて鉄砲が使えず、刀を抜いて接戦となり、識別の合言葉さえ混乱したと記す。
年月日未詳 / 冊子 626頁
島津豊久が先行したため、山田晏斎は義弘の所在を探して合流し、わずかな供人数で従った。敗走する味方を追う敵勢の間を抜け、徳川家康本陣が進路へ向いた危険な状況も通過し、駒野へ出た後、大垣城籠城を避けて伊勢路へ向かう方針を定めた。
年月日未詳 / 冊子 628-629頁
国元から島津義弘(惟新)の陣へ後詰衆が多数到着した際、河田源兵衛と野村弥次郎が曽根の先手で敵を誘い出して交戦し、源兵衛が目立つ騎馬武者を鉄砲で射落とした。本田伊賀守も加勢し、翌朝、石田三成は若年の源兵衛の手柄を賞して腰物を与え、義弘も本田伊賀守へ腰物を与えた。
年月日未詳 / 冊子 630-631頁
島津義弘(惟新)は大垣在陣中、石田三成から洲俣渡口の警備を求められ、渡河して一泊した。岐阜城方面の砲声と火災を確認後、石田との談合に少人数で出向くが敵が近く、後続も義弘を追った。黒具足の武者が迫るなか矢野主膳の退避連絡を受け、木脇休作らは舟で洲俣を渡って義弘のもとへ急行した。
年月日未詳 / 冊子 643-644頁
九月十五日の関ヶ原で東軍が迫り、宇喜多勢の敗走、大谷勢と東軍の攻防、小早川秀秋の帰順による大谷勢壊滅を経て島津義弘(惟新)が敵中へ切り込むまでを記す。義弘は長宗我部陣へ使者を送り、馬印・相印を捨てて東軍の大勢を突破した。後醍院喜兵衛が敵方の乗物へ島津義弘(惟新)の名を告げ、再会の証拠として命を助けた逸話も収める。
年月日未詳 / 冊子 652-654頁
九月十四日の大垣出陣から関ヶ原合戦、島津義弘(惟新)勢の敵中突破と帰国までを詳述する。大谷吉継勢の崩壊後に東軍を切り抜け、大垣の火災を見て伊勢路へ向かい、横山久内が義弘の鎧を着て運んだ。信楽・平野・住吉を経て船に乗り、豊後沖では黒田方の兵船と戦って死傷者を出したが、細島・佐土原などを経て十月二日に帖佐へ帰着した。
明和二年二月十七日 / 冊子 61~62頁/原整理番号 181の11/整理ID 181-11
大目付が二月十七日、松平右近将監から渡された書付の写二通を諸家の留守居へ送る。書付を承知し、遅滞なく順達した後、池田筑後守のもとへ返却するよう指示している。宛先は松平陸奥守、有馬中務大輔、伊達遠江守、真田伊豆守、鍋嶋摂津守、秋月山城守、大田原出雲守、毛利能登守、織田丹後守、堀田梅之丞の十家の留守居。
明和二年四月十日 / 冊子 81頁/原整理番号 181の51/整理ID 181-51
大目付が四月十日、来る十七日の紅葉山御宮参詣に際して予参を勤めるかどうか知らせるよう、各家の留守居へ廻状を送る。その旨の書付を明後十二日までに稲垣出羽守方へ差し越すよう求める。廻状は順達し、最後の受取人から出羽守方へ返すよう指示する。宛先は「御名」の家に加え、松平出羽守、松平土佐守、有馬中務大輔、上杉大炊頭、松平安芸守で、まとめて右留守居と記す。予参の意向報告と書付の期限、廻状の順達・返却経路を示す。
明和二年四月十三日 / 冊子 82~83頁/原整理番号 181の60/整理ID 181-60
四月十三日付の大目付廻状。日光山御法会に伴う紅葉山御宮での法会日割を、十五日卯上刻、十六日午上刻、十七日寅上刻と示す。阿部伊予守から渡された書付の写し一通を送るので、順廻の最後の受取人から大井伊勢守方へ返すよう指示する。宛先は御名の家と有馬中務大輔、真田伊豆守、秋月山城守、毛利能登守、堀田梅之丞、松平陸奥守、伊達遠江守、鍋島摂津守、大田原出雲守、織田丹後守の留守居。朱書には、今朝大井伊勢守から借り受けたため、本書を有馬中務大輔方へ順達し、写しを差し上げたと記す。法会の時刻通知、写しの送付・返却指示と、朱書による受領・本書順達・写上の記録を分けて示す。
二月十四日、朱注は二月十五日の写送(安永五年の文脈) / 冊子 485~486頁/原整理番号 1347/整理ID 1347
嫡子がいる方は、その付衆へも知らせるよう求める。大目付から廻状と書付の写一通を渡され、陸奥守・大膳大夫に各方への通達を申し付けられたため、数通の廻状を相認めて回すことを伝える。二月十四日、松平陸奥守内諏訪九郎左衛門・田坂源太左衛門を記し、次頁には菅野勝三郎・齊藤源次・吉田隼太の名と、御次第不同の宛書欄が続く。宛書は御名と、有馬中務大輔・伊達遠江守・松平土佐守の各留守居である。小字の受領注は、薩摩守・土佐守は国元へ伝えること、有馬側は中務大輔の国元へ伝え、越侯・上総介へも申し聞かせること、伊達側は承知したことを記す。朱注には本文が到来したので写して差し上げた旨、二月十五日有川勇馬・左中様への記載がある。
10月19日(本文年不記、安政6年の一件) / 冊子 221頁/原整理番号 302の2/整理ID 302-2
大目付平賀駿河守から呼び出され木幡松三郎が出向いたところ、用人を通じ書取一通を渡されたとする廻状。二通ずつ提出するよう同席の留守居へ伝える旨を聞き、陸奥守が各所へ通達するよう命じたことを述べる。各家が銘々駿河守へ早く明細書を差し出すべきとして、廻状数通を認めて持ち回らせる。十月十九日、松平陸奥守内の秋保清潔・橋本九八郎の名、修理大夫・有馬中務大輔・南部美濃守側の留守居宛を記す。
の5:未10月2日(前月25日仰出参照);の6:9月23日 / 冊子 225頁/原整理番号 307の5~6/整理ID 306-2
の5は手扣書一通を付した西筑右衛門の龍衛宛報告。先月廿五日仰出の法令写が阿波守家来へ渡され有馬中務大輔方から今日順達されたため、国許の太守へ知らせる旨の御受を、掛の老中間部下総守の取次田子百人へ持参して説明し差し出したと述べる。取次から追って申し聞かせると聞き、今夕の勤めと写しの到来を報告する。未十月二日。の6は太守が国許にいる場合は承知のうえ使者による御受を行い、嫡子が在府する家は附衆へ伝達する旨と、陸奥守・越中守が廻状と書付写一通を送った旨の廻状。九月廿三日、清田新兵衛・秋保清潔・橋本九八郎の名、修理大夫・有馬・南部の留守居宛を記す。
(天正14年)12月4日 / 冊子 267頁
足利義昭が島津家久へ、秀吉との武力対立を憂え、和睦成立のため島津義久へ進言するよう求めた御内書。一色駿河守を派遣するので交渉をまとめるよう促す。義久・義弘・伊集院忠棟らへの文書と一組で、島津一門・重臣を個別に説得した和平工作の一環である。
永禄十二年五月六日 / 冊子 219~220頁
羽月城を守る新納忠元・肝付兼寛から伏兵策への同意を求められた家久が、五月六日に戸神尾・稲荷山へ兵を伏せた。敵が城から出なかったため家久は大口城下で鉄砲を放って挑発し、雲霞のように追う敵を戸神尾西へ誘導、自ら敵首を取った。合図で伏兵が四方から攻め、百三十六人を斬り一人を捕虜として大口方を弱体化させた。
元亀元年春~元亀二年正月一日 / 冊子 232頁
元亀元年春、渋谷党の降参後、入来院・東郷両氏から差し出された諸地を義久が再配分し、家久を隈城地頭に任じ、串木野も与えて移住させた。翌年元旦、家久は家臣全員を甲冑姿で出仕させ、敵が祝日の油断を狙うことに備えた。
天正四年八月十九日~廿三日 / 冊子 487頁
天正四年八月十九日の高原城攻めで、家久が義弘・歳久・征久・忠長と軍功を挙げたことを記す。二十一日には忠長と鎮守尾に陣して敵将の降伏申出を義久へ伝え、人質交換を行い、二十三日の退城後、三山城で凱歌を唱えて散軍した。
天正十年六月二日以後 / 冊子 728頁
天正十年六月二日に織田信長が明智光秀に弑されて京都が錯乱したため、近衛信尹が進藤筑後守を使者として島津家久へ書状を送ったことを記す家久譜中記事。
天正十年~天正十一年正月十八日 / 冊子 730頁
島津家久が天正十年に肥後八代で軍務に従い、翌年正月六日に八代を出て鹿児島へ帰り、十八日に年頭を祝って太刀・馬代・酒肴を献じた記事。
天正十二年三月二十四日~二十七日 / 冊子 870~871頁
龍造寺隆信に三年にわたり圧迫された有馬氏を救うため、家久は豊久・彰久・忠直ら薩摩勢千五百を率い、有馬勢と合わせ三千で深江・安徳を経て島原へ進んだ。三月二十四日、数万の龍造寺軍を前に家久が決死の覚悟を説いて奮戦し、隆信を討ち取って敵首三千余を得た。豊久も強敵を討ち、家久は江里口正右衛門を討った。隆信の首は二十七日に佐敷で義久の実検を受けた。
天正十二年七月頃 / 冊子 921~922頁
歌道を好んだ島津家久が樺山善久入道玄佐を師として古今集の伝授を受けたことを記し、家久と玄佐の贈答書状を収める。家久は金十両・銀二十両と水田納の証文を贈り、玄佐は宗祇・近衛家から伝わる抄物を書写・伝授したと答えた。
年月日未詳 / 冊子 74頁
天正十三年秋、島津家久が肥後・筑後での軍功後も高知尾進出を図った記事。家久は高知尾の大友方勢力を警戒しつつ吉田右衛門佐・高崎越前守らを派遣し、小崎城への人員・兵糧の集積と現地勢力の服属を進めた。高知尾を島津方の軍事拠点へ組み込む過程を伝える。
(天正13年)12月9日 / 冊子 135頁
島津家久が入田殿へ、高知尾との緊密な関係を重ねて聞いていると述べ、今後は薩州へ二心なく忠節を尽くすよう求めた書状。周辺勢力への働き掛けを進め、神文を取り交わし、母の扶養にも配慮すると約束して、入田氏の島津方帰属を具体的に固めようとしている。
(天正14年)6月16日 / 冊子 183~184頁
島津家久が入田殿へ、大友宗麟下向の風聞を踏まえ、志賀氏一党との「入魂」を固めて豊後国内の味方をまとめるよう求める。京都に置いた使者や鹿児島への照会で返答が遅れた事情を説明し、近日中に加勢を三城表まで差し寄せ、高知尾へ逐次注進するよう促した。豊後国衆の調略と出兵準備を結ぶ書状である。
年月日未詳 / 冊子 241~242頁
島津義久が日向・大隅・薩摩・肥後・筑後の軍勢を動員して豊後へ向かわせ、義弘が肥後口から南郡へ、家久が日向側の険路から進んだ配置を記す。家久勢は城を攻め、敵の救援軍を河川・険路で迎撃して多数を討ち、府内方面へ追撃した。戸次川合戦を含む家久軍の進路、兵数、攻城と追撃を詳述する軍記記事である。
年月日未詳 / 冊子 269頁
島津家久が府内に留まり豊後半国を掌握したものの、諸将の抵抗と兵糧不足で進退に窮したため、樺山忠助を三重の松尾城へ退かせた記事。天正十五年正月十八日、忠助が府内から三重へ到着し、新納縫殿助・平田狩野介らと守備に当たった経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 290~291頁
天正十五年三月十八日、岡城主の軍勢が密かに襲来し、小牧と鍋田両城を陥れたことから始まる記事。島津方は多数の戦死者を出し、残兵が松尾城へ退いて防備を整えた。岡城勢の奇襲によって日向への退路が脅かされる局面を、戦死者と移動経路を交えて記す。
年月日未詳 / 冊子 325頁
羽柴秀長の大軍が日向高城を包囲すると、島津家久・豊久父子が根白坂の豊臣方陣地を攻めたが、後陣が進まず敗れて佐土原へ退いた。佐土原城も包囲され、藤堂与右衛門尉の勧告を受けて和議・開城に応じる。家久は野尻で秀長と会見して饗応を受けたのち重病となり、六月五日に佐土原で四十二歳で没したと記す。九州征伐最後の戦いと家久の急死を連続して伝える譜記事。
年月日未詳 / 冊子 326~327頁
島津家久の長女で根占右近大夫重張の妻となった女性について、天正十五年四月、父家久が羽柴秀長に降伏した際に人質となり、秀長の帰洛に従って上方へ送られたことを記す。上方に長く滞在し、のちに命を受けて豊臣秀吉へ拝謁した際、伊集院幸侃らわずかな随員だけが付き従ったという。九州征伐後に島津家の女性が政治的人質として扱われた事実を示す短い女性譜。
年月日未詳 / 冊子 371頁
慶長四年三月、島津豊久が中務大輔・侍従に任じられ、同月廿九日に佐土原へ帰着した。四月二日には富隈で龍伯に会い、幸侃誅殺を深く恨む忠真が庄内の十二外城を構え、兵と武器を集めていたため、和議に従わなければ太守が軍勢を発して討つとの密議を行い、佐土原へ帰ったことを記す。
明和二年四月十日 / 冊子 81頁/原整理番号 181の52/整理ID 181-52
有川勇馬が四月十日、大目付の廻状を有馬中務大輔の家から受け取ったため、写しを差し上げたことを報告する。本書は松平安芸守方へ順達したと記す。前の廻状の行間朱書として載り、受領元、写しの上申、本書の次の順達先を簡潔に記録している。
明和九年四月二十三日・冬十二月(編年、原「同年」) / 冊子 324~325頁/原整理番号 894/整理ID 894
同年夏四月二十三日、老中の奉書が重豪へ下り、松平陸奥守重村の勤めに代わって増上寺救火を命じた。冬十二月、浄岸院殿の病が重くなったためこれを免じ、有馬中務大輔がその勤めを代わったと記す。