太政官符
(延暦廿二年二月廿日) / 冊子 1頁
太政官が、国の規模に応じて公廨稲から国儲へ割り置く額を定め、その用途を朝集使・税帳大帳貢調等使の粮料などに限定した官符。国司の公廨配分は官等によらず使務に応じて扱い、違反して私用した者は官物横領と同様に処罰するとした。年紀は玉里島津久光旧蔵本による補記。
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(延暦廿二年二月廿日) / 冊子 1頁
太政官が、国の規模に応じて公廨稲から国儲へ割り置く額を定め、その用途を朝集使・税帳大帳貢調等使の粮料などに限定した官符。国司の公廨配分は官等によらず使務に応じて扱い、違反して私用した者は官物横領と同様に処罰するとした。年紀は玉里島津久光旧蔵本による補記。
年月日未詳 / 冊子 1頁
神亀元年三月甲申、七道諸国に国の大小に応じて正税稲四万束以上二十万束以下を割り取り、毎年出挙して得た利息を、朝集使の在京費用や臨時の差使、運調庸以外の上京担夫の粮料に充てさせた記事。
年月日未詳 / 冊子 1~2頁
天平宝字元年十一月乙卯、国司交替時に公廨をめぐる争いが続いたため、太政官が公廨の処分順序を定めた記事。まず官物の未納を補い、次に国の備蓄分を割き、残額を長官六分・次官四分・判官三分・主典二分・史生一分などの割合で配分し、同月丁卯には国の大小に応じた論定数も制定した。
長久二年十一月十二日 / 冊子 2頁
大隅国司庁が郡司に対し、臺明寺山辺の雑木を伐り運ぶ者を制止し、違反者を捕らえて進上するよう命じた庁宣。御願寺として法華三昧を修する同寺は大風で堂舎が倒壊し、再建用材として山内の雑木を確保しようとしていたが、里辺の者が禁制に従わず伐採していた。
長久四年八月十一日 / 冊子 2頁
大隅国司が郡司に対し、先の符に従って臺明寺の傍示内にある山野での狩猟を改めて禁じた国符。同寺の僧侶が鎮護国家を祈る一方、禁制を恐れず狩猟する者がいたため、違反者を捕らえて進上し糺決するよう命じた。
年月日未詳 / 冊子 2~3頁
『続日本後紀』巻十一。承和八年二月、天平勝宝四年の勅符を引き、寺辺の殺生禁制が年月とともに弛緩し、勢家豪民が寺内で馬を走らせ仏前で鳥獣を屠り、国司・講師も取り締まらない状況を問題視する。「釣して網せず、弋して宿を射ず」と仁慈の趣旨を説き、五畿内七道諸国司に寺辺一里以内の殺生を厳禁。違反者は六位以下を違勅罪、五位以上を録名奏上とし、黙認を禁じた。同年三月には大和国添上郡の春日大神神山内での狩猟・伐木も、国司・郡司に厳禁させた記事。
長久。六年八月八日 / 冊子 3頁
大隅国司が郡司に対し、臺明寺の傍示内にある山野で狩猟する者を禁じた国符。同寺の住僧の訴えを受け、寺域での殺生は仏法興隆と国家鎮護を妨げるとして、違反者を強盗・窃盗に準じて捕らえ進上するよう命じた。
年月日未詳 / 冊子 3頁
天喜二年、高麗の賊が辺境を侵したため、朝廷が諸社へ奉幣して鎮護を祈った経緯を記す。大宰府の源朝臣資通の命により、大隅国の官人が国内諸郡の大小神名を神位記に付して一巻に写し、神司であった調所恒範へ渡したが、原本は長年月を経て一部の郡が欠けたという。
天喜弐年二月廿七日 / 冊子 4~5頁
『調所氏文書』所収の大宰府符。天喜二年二月二十七日、大宰府が大隅国に対し、祭祀は興国の基で敬神を怠るべきでないとして、長徳三年の例により管内の大小諸神を一級ずつ増爵するよう命じた。付載の神位記は、肝属・馭謨・熊毛など各郡の神々を従二位・従三位・正四位下・従五位上等の位階別に掲げ、中宮国玉・下津宮・武塔・神崎・加茂・御崎・三宅・山宮・津宮・賀茂・赤志・剣歳など多数の神名と「一前」「五前」「九前」「十八前」等の員数を列記する。国に承知・施行と官への申請を命じ、疎略を禁じた、平安期大隅国の神祇秩序を示す資料。
天喜三年七月廿五日 / 冊子 5頁
大隅国司庁が郡司に対し、歴代の庁宣に従って臺明寺山の四至内での狩猟を永久に停止するよう重ねて命じた庁宣。禁制に背いて狩猟する者は捕らえて進上し、姓名と事情を報告して現世の処罰を加えるとした。
天喜四年六月廿九日 / 冊子 5~6頁
橘成友が、臺明寺山の殺生禁断の境界とされた山内で、今後狩猟しないことを誓った起請文。寺僧から境界内での狩猟停止を命じられ、その制止に従う旨を記している。
康平三年二月廿六日 / 冊子 6頁
大隅国司庁が郡司に対し、臺明寺山内で遊猟し生類を殺す者を制止するよう命じた庁宣。禁制後も違反があれば事情を報告し、その身を捕らえて進上するよう求めた。
延久元年二月十五日 / 冊子 6頁
大隅国司庁が郡司に対し、歴代の庁宣に従って臺明寺山四至内の狩猟を永久に停止するよう命じた庁宣。違反者は捕らえて進上し、姓名と事情を報告して処罰するよう重ねて指示した。
年月日未詳 / 冊子 6頁
延久元年二月廿三日、寛徳年間以後に新設された荘園を停止し、それ以前の荘園でも立券が不明確で国務を妨げるものは停止するとの宣旨が下された記事。閏二月十一日には記録荘園券契所を設け、寄人を任命して荘園券契の審査を開始した。
応徳四年二月八日 / 冊子 6~7頁
『権執印文書』所収。応徳四年二月八日、正八幡宮が永遍大徳を権惣検校職に補任した文書。惣検校法師大和尚位と執印兼講師伝燈大法師位の判を掲げ、権惣検校・祝部検校・主神検校・宮主僧に加え、御供所・修行所・御馬所・御前の各検校、辨印、検校、別当、執当、権座主ら多数の関係者を列記する。補任の承認者と、供御・修行・神馬・御前奉仕など宮内諸部門の職掌を一文書内に示し、正八幡宮の僧職・神職組織と人員構成を把握できる。
大治五年十二月廿八日 / 冊子 7~8頁
宗岡重武が、必要な代価を得るため、曽於郡二条二里廿七坪にある一町の相伝所領田を成心房へ永年売り渡した売券。後日の証拠として沽券を作成し、旧本領主らの確認・加署を伴う。
天承元年九月十七日 / 冊子 7~8頁
正八幡宮執印僧行賢が、臺明寺で毎年九月中旬に三日三夜修する不断念仏の燈油・仏聖・僧供料として、水田などを寄進した文書。往生のため西方念仏を修し、念仏僧の供料を永続させる趣旨を述べ、関係文書五通を副進した。
保延元年二月一日 / 冊子 8~11頁
加治木郡内宮永の社役・武内宮御修理役を配分した支配状。中津河・山田・是国・小濱・妙篦・大田・竹内・久楽・秋次・友永・恒久など多数の名・地名を並べ、記載面積や課役区分に応じて米を斗・升・合・勺等の単位で細かく割り当てる。表は段別米・棟別米など複数の課目ごとに各名の負担を示し、別表では配賦額をさらに分単位まで細分する。末尾に「加治木郡内宮永」「右、目録支配如件」と記し、保延元年二月一日付で修行が確認する。中世神社領における名単位の耕地把握と、祭祀・修理費用の賦課方法を具体的な数値で示す帳簿資料。
保延元年二月二日 / 冊子 11~12頁
宮永の御修理役を郷・里・段ごとに定めた支配状。加治木郷内宮永・桑西郷・中津河・山田田・与楽などの名を掲げ、一寸・一分・二文などの単位で各所の負担を割り当て、保延元年二月二日付で配分を確定する。
年月日未詳 / 冊子 12頁
宮永に関係する両社の参間御修理役を配分した支配状。桑東郷・中津河・山田田・与楽・是国・秋次・妙蓮など多数の郷里・段を並べ、七尺五寸六分、三寸七分など寸法単位で負担額を個別に示す。
長承四年五月廿七日 / 冊子 12~13頁
正八幡宮御前検校僧厳禅が、曽於郡二条二里廿七坪字墓町の田一町を、必要な代価を得て財田稲富へ永年売り渡した売券。本領主宗岡重武の旧沽券を副進し、国判による領掌を前提としている。
長承四年六月日 / 冊子 13頁
財田稲富が国司に対し、曽於郡二条二里廿七坪字墓町の田一町について、前主厳禅と本領主宗岡重武の売券に基づく国判を受け、正式に領掌させるよう申請した解。厳禅の沽文と重武の旧沽券を添えている。
保延元年十月廿五日 / 冊子 13~14頁
院主石清水権寺主大法師が政所正信に対し、寺領田畠を無断耕作して負担を逃れる者を調査し、耕作者を確定して政所の沙汰に従わせるよう命じた下文。特に入来郡では公験がある田地でも長く沙汰が行われなかったことを問題としている。
康治元年九月廿日 / 冊子 14頁
正八幡宮執印僧行賢が、臺明寺衆集院阿弥陀堂の毎日の仏聖料として、贈於郡一条三里九坪にある万得領田九段を寄進した文書。日々の勤行や彼岸の法会を支え、寄進田を永く寺領として妨げないよう求めた。
天養三年正月日 / 冊子 14頁
薩摩国司庁が留守所に対し、官府の施行と先の庁宣に従って僧永修の妨害を停止し、国分寺を旧例どおり安楽寺領として、本寺使の指示により国分寺の沙汰を行うよう命じた庁宣。永修が官宣に背き、府使・寺家使を追い払ったとの訴えを受けた措置である。
久安三年二月九日 / 冊子 15頁
入来院弁済使別当伴信房が御庄政所に対し、度重なる下文に基づいて薩摩郡山田村の地頭職を認め、重ねて外題を与えるよう申請した解。信房は訴えのため京都へ赴き、車内での決裁と先例に従う証文を得たとして、相違なく地頭職を安堵するよう求めた。
年月日未詳 / 冊子 15~16頁
源義朝を中心に、義賢・義憲ら近親と、義平・朝長・頼朝・希義・範頼・全成・円成・義経ら子女の系統を枝分かれで示す源氏系図。通称、官職、位階、母系を付し、頼朝は久安三年四月八日生、母を熱田大宮司藤原季範の女、征夷大将軍・権大納言・正二位・右大将と記す。頼仲兄弟五人が舟岡山で誅されたこと、為朝を鎮西八郎とし腹を掻き切って往生したこと、夜叉御前の投身を記すほか、「被誅」「被刺殺」「被屠殺」「被謀戮」「戦死」「自殺」など各人の最期を注記する。一族の分岐、僧籍に入った人物、政治的・軍事的な死を一覧できる系譜資料。
久寿二年三月廿三日 / 冊子 16~17頁
源氏の発給者が下本田郷住人らに対し、藤原兼綱を郷司職に補任した下文。住人に兼綱へ従って年貢・課役を納め、命令に違反しないよう求めている。
年月日未詳 / 冊子 17頁
『御譜中 義朝伝』。保元元年、新院方の謀反に備えて東三条へ武士を集め、源義朝と源義康を内裏警護に配した経過を記す。七月十一日の院御所攻撃は夜半から暁まで決着せず、義朝は火攻めを提案。風下の法勝寺焼失を懸念する意見に対し、勝利後は再建できるとの勅許を得て放火し、西風による延焼で新院・左大臣方を敗走させた。功により義朝は左馬頭となるが、降参した父為義の助命は許されず、弟頼賢・頼仲・為宗・為成・為仲ら九人を船岡山で斬首。幼い弟四人と家臣六人が殉死し、母と乳母も桂川へ投身したと伝える。
保元元年八月廿二日 / 冊子 17~18頁
竹内十郎行実が朝廷への忠節によって鹿児島・谷山などの所領、合計百二十五町を与えられ、三年に一度進上物を納めることになった由緒を記す。あわせて竹内兄弟四人と谷山・伊作などへ続く系統を掲げる。
保元元年十一月朔日 / 冊子 18頁
菱刈氏の由緒として、九州の所領七百余町に関する伝承と、崇徳院方に属した悪左府、平清盛らとの関係を記した書上。遠国の所領と朝廷・藤原家の政治的関係を述べる。
平治元年七月十一日 / 冊子 18頁
大隅国留守所が臺明寺に対し、蔵人所召物使の解状に従って御用の青葉竹を沙汰し、使者へ引き渡すよう命じた移。召物使の解状一通を添え、遅滞なく調進するよう求めた。
年月日未詳 / 冊子 18頁
源義朝が平治元年十二月に藤原信頼とともに謀反を起こし、翌年正月三日、尾張国野間内海で長田忠致に殺害され、三十八歳で没したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 18~19頁
『御譜中 義朝伝』。平治元年十二月一日、藤原信頼の挙兵に源義朝が加わり、内裏を固め、三条殿を焼いて信西入道の一類を退治したと記す。恩賞として義朝は播磨守、鎌田正清は兵衛尉となり政家と改名。平清盛が密かに上皇・天皇を六波羅へ移したため形勢が逆転し、十七日の六波羅攻撃で義朝軍は敗走する。龍華越で負傷し歩けなくなった朝長は父に死を請い、義朝が殺したとする。東国へ向かう途中、青墓宿で数百人に襲われるが佐渡式部大夫重成が敵を射殺して退け、自ら腹を十文字に掻き切って死ぬ。義朝は案内人鷲栖光に導かれ尾張国野間内海の長田忠宗邸へ入り、忠宗の勧めで滞在したと記す。
年月日未詳 / 冊子 19頁
『御譜中 義朝伝』。永暦元年正月三日、長田忠宗が湯殿で源義朝を沐浴させ、金王丸が湯衣を取りに出た隙に勇士三人が侵入して義朝を刺殺したと記す。義朝三十八歳。金王丸は戻って三人を討つ。一方、忠宗に招かれ酒席にいた鎌田兵衛尉政家は変事を聞いて立とうとし、勇士から刀を奪って二度刺すが、忠宗の長男に首を斬られ、同じく三十八歳で没した。金王丸と玄光は多数の士卒を斬るものの、忠宗父子は逃亡し誅殺できず、二人は忠宗の肥馬に乗って落ち延びたとする。
年月日未詳 / 冊子 19~21頁
『島津家譜』所収の頼朝伝。平治元年十二月二十七日、十三歳の頼朝が敗走中、江州勢多で一行とはぐれ、森林の庵で源内兵衛尉真弘らに襲われるが、太刀髭切で真弘の顔を割り、別の襲撃者の籠手を切って脱出する。鎌田政家と合流後、不破関を避け雪中の小関方面をさまよい、落人を六波羅へ差し出そうとする村人から逃れ、老尼夫婦に匿われる。その後、平頼盛の家人弥平左衛門尉宗清に見破られて六波羅へ送られ、父兄一族が殺された事情を述べて生を望む。亡き子家盛に似る頼朝を哀れんだ池禅尼が平清盛へ助命を嘆願し、死罪を免れて伊豆配流となり、永暦元年三月二十日暁に池殿から東国へ出立したと記す。
永暦二年三月日 / 冊子 21頁
若宮不断経衆の僧兼賢が御庄政所に対し、師快賢大徳の遺言によって相続した田畠を肥後殿らに押妨されたとして裁許を求めた解。遺言時の証人や耕作の経緯を示し、師から譲られた田地を安堵するよう申請した。
永暦二年八月廿九日 / 冊子 21~22頁
大隅国司が臺明寺に対し、府宣に従って住僧らを国庁へ参上させ、係争事項の事情を陳述するよう命じた牒。寺側の解状を検討したうえで、国庁の沙汰に応じることを求めている。
応保二年四月二日 / 冊子 22頁
僧真寂が子の不動丸へ、桑東郷などにある田地六段と畠を譲った譲状。先祖相伝の私領として譲与する一方、本役・公事は本名に留め、母を扶養しない場合は母の沙汰として領知させる条件を付した。
応保二年五月十五日 / 冊子 22~23頁
臺明寺の住僧らが大宰府に対し、正八幡宮執印行賢の寄進状と歴代国判に反して、当郡住人篤房が寺領の半分や燈油田を押し取ろうとしていると訴えた解。従来の寺領支配と証文を確認し、篤房の非理な沙汰を停止するよう求めた。
応保二年十月廿九日 / 冊子 23~25頁
大宰府政所が、臺明寺住僧らの訴えを裁決した下文。寺側は、篤房の祖父篤定らの田地を買得し、本券・寄進状とともに彼岸会の勤行、燈油祈祷、常行三昧の料所として七十余年間支配し、歴代国司の免判も受けたと主張する。これに対し篤房は、郡司職を継承していないのに阿多平権守を称し、武威を背景に「新開」を名目として寺田・寺園を押領、燈油田一段を分取し、住僧の山林利用を妨げ、寺辺で猪鹿を狩猟・殺伐したとされた。篤房が相伝を示す証文を提出できない一方、寺には国判・寄進状があるとして寺側の権利を認定し、押妨を停止して恒例仏事を勤行し、国家安寧を祈るよう命じた。
応保三年二月十日 / 冊子 25頁
臺明寺大衆が国司に対し、府宣に従う国判を与え、蔵人所召物使による非理な竹の徴収を永久に停止するよう求めた解。山内は仏法興隆の霊地であり、御用竹の伐採が寺域と神祭を損なうとして訴えた。
長寛二年六月一日 / 冊子 26頁
新田宮前執印桑田信包が、市比野浦の公験を携えて上洛したものの沙汰がなく、留守御房へ預けて帰国した経緯を述べた請文。公験を本家から取り戻し、改めて新田宮へ進上すると約した。
年月日未詳 / 冊子 26頁
永万元年春、二十八歳の源為朝が南島へ流され、その地の者が皆服従したと記す短い記事。
年月日未詳 / 冊子 26頁
仁安三年三月二日に像を造立したことと、大施主として散位平朝臣兼高らの名を記した、西生寺仁王像内から見つかった板銘。
年月日未詳 / 冊子 26頁
西生寺の仁王像内から発見された板銘について、仁安三年の銘文、造立年代、寺社の由来を検討した伊地知季安の考証。年紀や文字に疑問があるものの、古い板銘として珍重すべきだと評している。
嘉応元年十月九日 / 冊子 26~27頁
臺明寺住僧らが国司に対し、二季彼岸の勤行と燈油料に充てる田二町六段について、検田使の入部・勘徴を永久に免除するよう求めた解。仏聖料・祈祷料の寺領として歴代国判の保護を受けてきたと主張した。
承安二年十二月八日 / 冊子 27~28頁
入道西念が、薩摩国満家院内の四至で示した所領を大蔵義平へ永代譲与した譲状。関係証文を整え、他人の妨げなく領知し、子息らも処分帳に従って支配するよう定めた。
承安三年十一月十五日 / 冊子 28頁
臺明寺住僧らが国司に対し、二季彼岸の法会と燈油に充てる田地へ検田使が立ち入って勘徴する非理を停止するよう求めた解。古来の仏法興隆の霊地であり、歴代国判により免除されてきたとして保護を願った。
承安三年間十二月七日 / 冊子 28~29頁
僧兼賢が、病人の治療・看護に関わる中で譲与を受けた小田について、その経緯と証人、文書の書き改めを記した置文。病人の死後に兼賢が領知する旨と、後日の争いを避けるための証拠を残した。