高原城攻出陣賦
天正四年八月 / 冊子 489頁
高原城攻めに際する軍役賦課を記す。田方一町につき一人、主従二人と詰夫・送夫馬を出し、自弁の飯米に加えて、手甲・楯・立木・鎌・鍬・鋸・鑿・鉈・もっこ・縄などの普請具を携行させた。町高の換算に関する後世の注記も付す。
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天正四年八月 / 冊子 489頁
高原城攻めに際する軍役賦課を記す。田方一町につき一人、主従二人と詰夫・送夫馬を出し、自弁の飯米に加えて、手甲・楯・立木・鎌・鍬・鋸・鑿・鉈・もっこ・縄などの普請具を携行させた。町高の換算に関する後世の注記も付す。
天正四年八月朔日 / 冊子 489頁
高原城攻めの出陣賦として、田方一町ごとに主従三人と送夫馬を出し、寺社・後家衆にも負担させること、無足衆は武人一人に詰夫を付けることを定める。飯米の自弁期間や普請具の算用方法も規定する。
(天正15年)5月7日 / 冊子 319~320頁
島津義珍が、高原の城主・吉田某を庄内へ退かせる件と、高原・飯野の防備を指示した書状。飯野は手堅く保持し、高原は城が弱いため敵が埋草を用いて攻め寄せた場合の対応を説く。また日州安堵が実現すれば宮崎を霧島へ寄進し、高原も同様に寄進するとの立願を示しており、軍事防備と信仰上の誓願が一通に併記される。
慶長十七年十一月廿八日 / 冊子 386頁
慶長十七年十一月二十八日、霧島六所大権現下宮宝殿一宇の建立を記し、大檀那島津忠恒、遷宮導師、御名代、奉行衆などを列記した高原佐野宮棟札。
9月(日不記、朱注明治3年)知政所 / 冊子 759頁/原整理番号 978の2/整理ID 978-2
梶山・勝岡を合郷として上庄内地頭の管轄へ移し、高原・高崎を合郷として小林地頭の管轄とする。合郷について別に申し渡したとおり、管轄も変更する旨を関係向々へ知らせる。九月知政所、明治三年の朱注がある。
9月20日(朱注明治3年)知政所 / 冊子 759~760頁/原整理番号 978の3/整理ID 978-3
往古の三俣院の内にある三俣の郷名を上三俣へ改め、合郷とする梶山・勝岡の郷名を下三俣へ改める。高崎は高原郷の内から延宝年間に分割されていたが、以前のとおり高原へ合併する。高原内の水流村は上庄内へ召し付け、三俣内の東霧嶋村は高原へ召し付ける。郷境が混乱していたためこのように定めた旨を地頭と関係向々へ伝える。九月廿日知政所、明治三年の朱注がある。
年月日未詳 / 冊子 764頁/原整理番号 815
市来八左衛門宗友を中取、岩切信尭・川上久康を物奉行、平田宗直・是枝快温を船奉行として米津に詰めさせたことを記す。川越三右衛門重能は京泊に詰め、舟手・兵糧を担当する。この日、高原士某が供夫一人を伴い米津に到着したと付記する。
天正四年八月十九日 / 冊子 489頁
天正四年八月十九日の高原城合戦に従軍・軍労した者を、竹崎表・霧島越山路などの大将と各地域別に列挙する交名。北郷時久、新納忠実、上井覚兼、樺山久高、柏原勝監らの名を載せ、後の戦死地などを注記する。
天正四年八月十六日~九月 / 冊子 490~493頁
義久の鹿児島出発から高原城攻囲、開城、戦後処理、帰陣までを日次で詳述する軍記。門壁を破って水路を断ち、人質交換後に伊東方が退城、周辺諸城も帰属した。野尻への示威、三山での勝鬨と義弘への宛行、相良・天草の祝使、白鳥権現参詣を経て鹿児島へ凱旋した。
天正4年8月朔日 / 冊子 71~72頁/原整理番号 63の2
天正四年の高原城攻めの出陣賦。一町衆は一町一人・主従二人、二町衆は主従三人とし、寺社・後家等の負担、送夫馬・普請用具を定める。陣中30日は自飯米、その後は公儀支給とし、小高の衆への支給も区別する。後評では町高・石高や土地尺度の諸説を比較し、一町30石・35石・25石などの差を考証する。
天正四年八月十六日 / 冊子 235頁/原整理番号 15
高原城攻めの出陣に際し、旗役を三原右京亮が務めたことを記す。日向への進軍、城攻めと帰陣の経過の中から、旗役に関する記事を抜き出す。
元亀三年五月四日 / 冊子 268~273頁
伊東義祐が島津氏の伸長を恐れ、元亀三年五月四日に大軍で飯野・加久藤を攻めた木崎原合戦を長文で叙述する。島津義弘は少数の兵を励まして横撃し、退却を装う戦法と援軍によって伊東文次郎・加賀守らを各陣で破り、自ら柚木崎丹後守を討った。伊東方の多数の戦死者、遺族や国人の動揺を記したのち、林翁粛の諫言や落書を引き、伊東義祐の佞臣偏重・賄賂・奢侈・苛政が敗北と国政混乱を招いたと論評する。
元亀三年五月四日 / 冊子 274~279頁
日向側の記録として、元亀三年五月四日の木崎原合戦と敗戦後の状況を詳述する。伊東方は加久藤を攻めた後、統制を失った退却中に島津義弘の横撃を受け、伊東加賀守ら諸将が次々に引き返して戦死した。所属別の戦死者名と、加賀守・別府宮内少輔・荒武兄弟・柚木崎丹後守らの最期や遺言を収める。敗戦後に起請文を確認すると従来の軍規と異なり、最初から一所討死を誓っていたとの不審も記す。
永禄七年四月廿日 / 冊子 133頁
薩摩・大隅・日向の境目について、伊東方が近年押領した真幸院内の地として三野山郡、三之山内の高崎・高原・野尻を列挙した書付。飫肥境の押領地は遠方のため後に報告するとし、宗檜が神力坊を使者として進上したNo.292の別紙に当たる。
永禄九年十月十九日 / 冊子 156~157頁
永禄九年十月十九日、島津貴久の使者伊集院下野守が、高原所領を霧島六所大権現へ寄進する旨と祈念を伝えたことを記す私覚。高原は神代以来の神地であるとし、証跡として太刀を座主に渡した後、頼継が日数を置いて返進したこと、使者の子が冠嶽和光院の僧となったことも書き留める。
天正四年 / 冊子 470~471頁
天正四年の記事を編年で記す。近衛前久の鹿児島滞在と犬追物・和歌連歌、高原城攻めと伊東方の開城、三山・須木の降伏、肝付方の南郷敗戦と志布志・櫛間の守備、下大隅巡行と地頭配置など、島津氏の軍事・外交・文化活動を収録する。
天正四年 / 冊子 471~472頁
天正四年、高原・小林の守備配置と境目の治安維持を記す。上野隼人佐が小林、のち吉田へ移され、内山出雲守・木嶋玄蕃らと野心ある者を討ち、求麻から来た牢人も白坂右近将監とともに討ち取った。
天正四年 / 冊子 472頁
天正四年の主要事件として、近衛前久の三月二十九日鹿児島下向と六月二十六日出立、八月の高原城開城・小林城放棄、太守の入城祝儀を記す。また四月、小坂から住吉・天王寺へ走った一向宗徒が討たれたことを載せる。
天正四年四月・八月 / 冊子 478頁
天正四年四月、近衛前久下向中に義久が初めて催した歌合へ新納忠元も召された。八月の高原城攻めでは十三歳の嫡子忠実が大手城戸口から先駆けて負傷し、敵将にも称賛された。落城後の三山城勝鬨では忠元が太刀を進上した。
(天正四年)八月十二日 / 冊子 482頁
島津義久が義弘に、庄内方面へ三百人を送る計画は通路・橋の備えや案内人の報告が想定と異なるため今回は見送ると通知する。高原口の判断を優先し、川上左京亮・雅楽助を十六、七日ごろ派遣して詳しく相談させるとした。
天正四年八月十九日~廿八日 / 冊子 483~485頁
天正四年八月の高原城攻めを詳述する。義久は霧島祭祀と領内防衛のため出陣し、城の水路を断って攻囲、家久・忠長らが鎮守尾に陣した。人質交換後に伊東方が開城し、高原・三山・須木など八か所が島津領となり、義久は三山を義弘に与え、上原尚近を高原地頭とした。
天正四年八月十九日~廿八日 / 冊子 485~487頁
島津義弘の視点から高原城攻めを記す。義弘が伊東方の越境を止めるため出兵を義久へ提案し、諸軍を率いて進発した。門壁攻略と断水の後、家久・忠長を中心に人質交換を整え、伊東新二郎以下が退城、高原・三山・須木など八か所を獲得し、義弘は三山城に入った。
天正四年八月十九日~廿三日 / 冊子 487頁
天正四年八月十九日の高原城攻めで、家久が義弘・歳久・征久・忠長と軍功を挙げたことを記す。二十一日には忠長と鎮守尾に陣して敵将の降伏申出を義久へ伝え、人質交換を行い、二十三日の退城後、三山城で凱歌を唱えて散軍した。
天正四年八月 / 冊子 487頁
伊東方が高原城を拠点に霧島山を越えて侵入したため、天正四年八月、義久・義弘が薩隅軍を率いて攻囲した。門壁を破り水路を断つと城兵は二十三日に降伏退去し、その間、忠長は義弘・征久・歳久・家久・北郷時久らと軍務に尽力した。
天正四年八月十九日~廿八日 / 冊子 487~488頁
天正四年八月十九日、義久が大軍を率いて高原城を攻め、征久が義弘・歳久・家久らと軍功を挙げた。二十三日に城兵が降伏退去し、二十八日には三山などの敵城が義久の手に入ったことを祝して太刀を献じた。
天正四年八月十九日~九月三日 / 冊子 488頁
北郷時久が一万の兵を率いて江平へ進み、高原城南口を攻めて家臣数十人を失ったこと、三山・須木・奈佐木が降伏したことを記す。戦後、上井覚兼が三山へ来て時久の武功を賞し、田野城攻略の人数・敵情と神慮を探るよう命じた。
天正四年八月 / 冊子 488頁
高原城攻めの初対陣で、城内の勇士落合豊後守が若い樺山久高へ弓を引いた。傍人が、美しい若者を殺して得るのは一時の名声にすぎず後世に非道の評判が残ると諫めたため、落合は弓弦を切り、久高は命を救われた。
天正四年八月 / 冊子 488頁
天正四年の領域変動を簡潔に記す。島津氏が高原・三山を領有し、伊東氏は野尻を保持した。さらに福島・志布志を得た一方、肝付氏は高山・姶良・内之浦・岸良を残し、禰寝氏に姶良・西俣を与え、鹿屋・串良・大崎は島津方が掌握した。
天正四年八月十九日・十月朔日 / 冊子 489~490頁
高原城合戦で天正四年八月十九日に戦死した三原重房・入佐郷久震・野村良綱・四本半忠次・宮原越中守らを列記する。続いて十月朔日の南郷合戦で戦死した新納忠氏・忠盈、安楽兼治・兼清らも収める。
天正四年八月十六日~九月 / 冊子 493~496頁
上井覚兼が高原城攻めの出陣・陣立・交渉を日記体で記す。覚兼は城方の肥田木河内守から断水による降伏意向を聞き、喜入季久らと人質交換を調整した。開城後は三山での勝鬨や諸将の太刀進上を記し、北郷時久へ田野城攻略の可否を問い、霧島で神慮を伺う方針をまとめた。
天正四年八月~十月 / 冊子 496~497頁
肝付兼護が三百余兵で高原城攻めに従軍したが傍観したため、伊東方への内通を疑われた。忠節を示すため十月に飫肥へ出兵して南郷で伊東軍と戦うが大敗し、新納忠氏兄弟ら数百人が戦死した。福島城は鎌田政近・島津征久の援軍で守られた。
天正四年八月~十月 / 冊子 497~498頁
伊東氏との長年の抗争から高原城攻めに至る経緯を叙述する。義久・義弘・北郷時久らが城を攻め、双方に多数の死傷者を出したが、断水と人質交換により伊東勘解由が退城し、高原・高崎・三山・須木など八か所が島津方に属した。戦後、覚兼が時久へ田野城攻略を諮問した。
天正四年八月十九日~十月 / 冊子 498~499頁
樺山玄佐が、高原城攻めの出陣・攻囲・断水・開城と、小林・須木など周辺諸城の帰属を回想する。孫の忠助・久高も戦ったとし、続いて肝付勢の飫肥出兵と大敗、志布志・福島の島津方接収、肝付領削減を記し、日新忠良の娘が肝付家にいたため家を残した慈悲と説明する。
天正四年八月十九日以後 / 冊子 499~500頁
高原城攻めを叙事的に記す自記。島津軍が諸口から門壁を破り、多数の死傷者を出しながら断水して城を孤立させた。伊東援軍は猿瀬に陣したが救援できず、城兵は降伏して退去、三山・小林・温水・須木も放棄され、義久・義弘は番兵を置いて凱旋した。
天正四年八月十九日 / 冊子 500頁
天正四年八月十九日、島津方が高原城を攻め取った後、上原長門守尚近を地頭とし、衆中三百五十人を付けて移住させたことを記す。後に日向一国領有時には尚近を飫肥地頭としたが、豊臣秀吉の下向時に飫肥城は伊東氏へ与えられた。
天正四年八月 / 冊子 500~502頁
竹崎の白坂式部丞の内応を契機とする高原城攻めを記す。島津軍は諸口で激戦し、新納忠実が先駆け、樺山久高は落合豊後介に助命された。多くの戦死者を出したが、夜日詰めと断水で城兵を降伏させ、三山・温水・小林・須木も帰属、上原尚近を高原地頭とした。
天正四年八月 / 冊子 502頁
高原城を詰めた際、友野元真が市来玄蕃左衛門・谷山佐渡介・四本越中守とともに垂之口から城を越え、敵方の肥田木河内守と対した奉公を記す。
天正四年八月彼岸日 / 冊子 502~503頁
花林寺住持頼継が高原出陣の勝利を霧島権現と末社へ祈願した立願文。所領寄進、大節供を七年間勤めることなどを誓い、若宮八幡・有王二十一社・天神・荒神・善神・野神らへの祭田配分を列記する。
(天正四年)九月三日 / 冊子 504頁
近衛前久が八代滞留中、高原方面の戦勝を祝う。和泉滞在中に島津義虎と相談して出陣しようとしたが、義久が義虎を制止し、前久の出馬も負担になると聞いて遠慮した事情を述べ、加勢できなかった無念を伝えた。
天正四年八月~十月 / 冊子 507~508頁
天正四年八月から十月の軍事行動を記す。北郷時久が江平で敵五人を討ち、高原城南口を破って三山・須木・奈佐木の放棄に至った経過と出陣役を列記する。十月には肝付勢の南郷敗戦と二百余人の戦死、福島守備、志布志以下十三か所の島津方領有を記す。
天正五年十一月五日 / 冊子 524頁
福永丹波守の内通申出を受け、高原から野尻城へ馳せ籠もった従軍者として、新納四郎左衛門忠秀入道慶雲らを記す交名。
天正五年十二月七日~晦日 / 冊子 529~530頁
天正五年十二月七日から晦日までの日向進発を日次に記す。正八幡宮参詣中に福永丹波守の内応を知った義久が海路で出陣し、義弘の野尻入城、紙屋以下諸城の服属、正八幡宮への戦勝奉告、高原・紙屋・都於郡への進軍、福永への恩賞と鉄砲拝領、相良・佐伯方との使者往来、高城衆の降伏と人質収容を経て年を越した。
天正八年閏二月中旬 / 冊子 648頁
差出人不詳の書状案。長く音信が途絶えた理由を海陸遠隔のためとし、島津義久が元亀三年の根占・肝付服属、天正四年の高原城攻略、伊東氏の没落を経て三州を統一した経緯を述べる。さらに大友宗麟・義統が伊東氏復帰を図って高城を包囲したが、義弘を先鋒とする島津軍が大勝し家久を救ったとして、九州諸国が義久の仁化を求める情勢を伝える。
天正15年8月24日 / 冊子 352頁
島津義弘が霧島権現の神領として、高原七十町名内から毎年の俵物を寄進し、永代にわたり神事・祈念へ充てることを定めた寄進状。九州仕置直後にも霧島信仰の祭祀基盤を維持しようとしたことが分かる。
年月日未詳 / 冊子 831頁
文禄三年十二月十日、栗野で兵庫頭忠恒の御前に定められた人員移動と土地配置を記す覚書。上野彦九郎や吉田等松田弥蔵、飯野衆、多藤五郎などの移転先・召集・交代を列記する。 吉田・馬関田・小林・高原などの人々について、合計約百六十人をどこへ配置するかを具体的に示す。朝鮮出兵期の薩摩国元における家臣団の再編と土地支配を知る史料。
(慶長四年)七月十六日 / 冊子 403~405頁
島津義弘が少将に、伊集院源次郎の兄弟と母を佐竹方へ預け、近日中に関東へ送る予定を知らせる。山田城攻略や高原境・都之城周辺での勝利と多数の討取を称え、源次郎への対処を論じる一方、国元の情勢、兵糧・年貢収納、使者派遣、関係者の処遇などを詳しく指示し、今後も油断なく処置するよう求める。
慶長五年三月廿五日 / 冊子 527頁
島津忠恒が、国家泰平・武運長久・子孫繁栄と庄内退治に関する願いの成就を受け、日向国高原の蒲牟田村五百八石を霧島山へ寄進し、祭礼と社殿修理を怠らないよう定める願文。
慶長五年十一月二日 / 冊子 609頁
島津忠長ら四名が伊地知千代菊へ、薩州伊作の田尻村堂原屋敷二十五石四斗七升二合と、指宿十二町村上高原之門七十四石五斗三升、合計百石を加増として宛行う。
年月日未詳 / 冊子 822頁
時任義高の系譜記事。初名・法号、生年を記し、高原城攻めや大友軍との戦いで軍功を立てたこと、慶長十年に六十八歳で没したことと法名を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 214~215頁
島津忠栄の譜記事。天正二年に忠清の弟として生まれ、豊臣秀吉の西征時に人質となって細川幽斎に預けられ、小倉に滞在した。忠辰改易後は佐土原で島津豊久を頼り、その姉を妻としたが、関ヶ原後の家臣一揆を逃れて国府へ移り、龍伯公から母の領地を与えられた。高原・飯野・牛根などの地頭を務め、寛永十九年九月晦日に牛根で六十九歳で没した。