殉国名薮
元亀二年九月廿七日・十一月廿日 / 冊子 256頁
元亀二年の島津方戦死者を日付別に記す。九月二十七日に島津五郎四郎忠俊、十一月二十日に萩原又左衛門・武石見守・和気与左衛門らが戦死したことを掲げる。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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元亀二年九月廿七日・十一月廿日 / 冊子 256頁
元亀二年の島津方戦死者を日付別に記す。九月二十七日に島津五郎四郎忠俊、十一月二十日に萩原又左衛門・武石見守・和気与左衛門らが戦死したことを掲げる。
(慶長元年)五月五日 / 冊子 23頁
島津義弘が宰相殿へ、高野から下った萩原寺の僧を通じた供養について報じた。賀参・紅生・宗江が志を寄せ、純香一種の到来によって四十九日の法要や法華経頓写などを整えたこと、高野の不慮の火災で先祖の日新・伯囿・妙安の位牌が焼失した一方、一部の位牌は焼失を免れたことを伝える。僧らが金子一枚を志として納めて下向したことに義弘は満足し、宰相殿も同様であろうと述べた書状。
慶長四年三月五日 / 冊子 356頁
島津忠恒が右馬頭以久に、種子島の繰替えに対する返地として所領を宛行い、そのうち一千六百八十七石を加増分とする。以後も先例に従い、一千七百石を無役、残る九千九百八十七石を役儀負担として勤めるよう命じる。正文は向島衆萩原右京に伝来したと注記する。
年月日未詳 / 冊子 13頁
島津忠恒の上洛に供奉した又吉常久の旅程を記す譜記事。三月二十四日に日置の私宅を発って京泊に着き、二十七日卯刻に出帆、同日晡時に肥前樺島へ到着した。その後、長門・周防を経て安芸へ進み、四月七日には伊予国津和で繋船した。島津忠恒が萩原法師秀玄を使者として、前日上覧に供した子昂(趙孟頫)の真蹟を常久へ返し、法師に酒を強いて酔わせるよう戯れに命じたことまで記している。
九月四日 / 冊子 124頁
相手領内の御上が寂しく過ごしていると聞き、自領へ招いて慰め、軽い食事を差し上げたいと申し入れ、紀州とも内々に相談のうえ返事を求めた案文。使者は萩原万吉。
(明暦三年)十月廿一日 / 冊子 359~360頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0762
萩原三郎右衛門らが、阿久根への便船、村内の人員配置、切支丹宗門関係者の吟味・身柄、長崎役所への報告、使者の取扱いについて詳細を伝えた書状。
明暦二年十月廿一日 / 冊子 495~496頁/原整理番号 628-1
萩原三郎右衛門が、大村領矢次村の兵作が長崎酒屋町の利左衛門にキリシタン信仰を勧め、訴えによって大村で多数が捕縛された事件を詳報する。薩摩側から使者を出すべきかを関係者と相談し、海路遠方のため借船で阿久根まで書状を送り、宿次で国元へ届けるよう手配した。編者は『旧記雑録追録一』758号と同一文書と注記する。
(元禄十年)四月晦日 / 冊子 273~274頁
元禄十年、記録奉行の求めに応じて加久藤の噯役四人が提出した木崎原合戦由緒書。伊東方が槍掛口から加久藤城へ攻め込み、樺山常陸坊父子と城番衆が戦死したのち、不動寺の僧が鉄砲で米良筑後守を撃って敵陣を崩したとする。島津義弘の木崎原での奮戦、五代勝左衛門による伊東加賀守討取、粥餅田での柚木崎丹後守討取までを伝える。
三月廿六日 / 冊子 415頁/原整理番号 209
鉄炮五人の割当てを記した書付。池田内膳殿に五人、山田主水殿に同数を配し、夫賦や寺・家臣の名を列挙する。寛永十四年十一月十七日付。
5月19日(本文。前年12月の命令に対応) / 冊子 194頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0044
犬追物上覧式の旧記があれば書き出すよう、前年12月に井上美濃守から命令があった。当地では分からず国元へ照会し、今回届いたので当日、留守居附役平田次郎八が持参、用人・手又と藏で面会して説明し差し出したと報告する。美濃守は登城中なので帰宅時に申し上げるとの返答を受け、添書写を付して届ける。5月19日萩原龍右衛門署、勘解由宛。命令・照会・提出・受領側の返答を分ける。
享和元年10月晦日(朱注) / 冊子 198頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0636
豊後守隠居の松平栄翁の妾が病気で療養していたが養生かなわず、今日の寅中刻に死去したことを萩原龍右衛門が届け出る。子共の出生があるため、栄翁は日数3日の遠慮をする旨を申し上げる。十月晦日、松平豊後守内・萩原龍右衛門署名、享和元年の朱注。出典は控、正文在文庫。前635は側室登勢の死去記事だが、本届書の妾名は補わない。
文化6年7月廿日(表紙年・附書日) / 冊子 331頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0083
1033の3、手控書1通。隠居者の代から当年は国元御暇の順年に当たるが、御暇を願わなければ御暇は給されないため、表向の伺いを差し出す必要はないという伝達を記す。御用番牧野備前守の用人萩原要人を掲げる。用人からの切紙が到来したので今日、自分が御勝手へ出頭したところ、一昨日差し出した西郷八郎次名の内意書を返され、別紙手控どおりの内容を用人から伝えられた。相応の請けを申し上げ、別紙2通を差し上げると典膳へ報告する。7月廿日、桑山仲太夫、右一冊の表示。前附書の受領・追答予定と今回の回答・内意書返却を分ける。
享和3年12月規則、12月12日添書;享和4年2月10日受渡・納置(包紙) / 冊子 221~222頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0716
白木御文書六番箱96号、松平豊後守へ。唐物は安永8年亥に津口番所の改め等を申し達したが、その後も規定外の唐物が国外へ出る事例が続いたとする。京醒井魚棚下ル町の近江屋新兵衛が出所不正の唐物を薩州から大坂へ持ち登り、国許役人の免切手で改番所を偽って通ったこと、番人の改めが等閑だったこと、切手を出す役人・屋敷でも従前の不行届があったことを挙げ、改めて厳重に取り扱うよう急度命じる。今後同様の件があれば安永の申し達しと引き合わせ、通引合者のみならず次第により掛役人まで吟味して仕置く旨を得意するよう求める。十二月の達書に続く添書は、老中牧野備前守用人萩原要人が、役人の来訪と切紙到着後の手渡しを求め、別紙を用人から受け取り、桜田詰中小姓をもって差し上げた旨を桑山仲太夫が12月12日に勘解由へ報告するもの。勘解由側の追申は使者による受領を了承し、今夜は夜陰のため明朝出会いの用人へ申し達すと返す。包紙は唐物一件、享和4年子2月10日に市正殿から渡されたため白木六番箱へ納めたと記す。旧規則・違反具体例・以後の処分方針と、達書受渡・追申・後日の収蔵を分ける。
文化6年12月4日(同年冬) / 冊子 338頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1052
同年冬12月4日、家慶が使者松平壱岐守定剛を、御簾中が使者萩原金十郎を芝邸へ遣わし、重豪へそれぞれ干鯛1箱・御樽1荷を賜った。定剛には奏者、金十郎には実名闕・広敷用人との注。斉興が代わって恩旨を奉じ、ただちに老中の各邸へ謝礼した。家慶の婚儀が整ったためこの賜物があったと結ぶ。贈り手二人別の同品・同量を各1として採録し、献上と拝領、重豪の受領と斉興の代奉を分ける。
六月一日 / 冊子 145~146頁/原整理番号 29
六月一日、島津義久(龍伯)が兵庫頭へ送った覚書状。萩原寺が兵庫頭のもとへ赴くと聞き、現地での談合を求める一方、石田殿から直接、諸事を幸侃(町田久倍)が分別するよう命じられているため、別人との談合は不都合だと注意する。幸侃が存松・税所越入を通じ、談議所寺中で捕縛された科人の件を申し出たこと、萩原寺が京都・高麗にも言上したとの風聞を記す。科人勘介については、超雲の女房との密懐を成敗しようとしたところ逃亡し、霧嶋を頼って談議所へ来たとの披露を伝える。萩原寺側から正式に聞いてはいないため処置を差し延べているとして、翌日の来訪後に相談のうえ返答するよう求め、詳細は川東善左衛門尉が述べるとする。末尾に龍伯の花押を据える。
年・月・日記載なし / 冊子 551~552頁/原整理番号 43
鹿屋周防入道(忠兼)が、大隅・薩摩・日向の三州に伴氏の流れが分かれた次第を、知る範囲で書き留めた覚書。大伴親王の後胤とする善男大納言が清和天皇の時に流罪となり、その末子兼貞が鵜戸参詣の途上で三俣院を通り、現地の『平たひけん』と仮名書される人物の家に逗留して娘を妻に迎えたという由緒を語る。兼貞の子として太郎肝付・二郎萩原・三郎安楽・四郎和泉・五郎梅北を挙げ、梅北をめぐる伝承、神柱大明神の金銅仏と伊勢の夢想、都城・梅北間の屋形や大堂宮から下された錦幡の伝来を述べる。幡の横幅三尺三寸・長さ一丈二寸五分、竿一丈五尺、幕の白黒の別、妙見を氏神とする記事も記す。年記・宛所はなく、本文末尾に鹿屋周防入道とある。
延享三年 / 冊子 918頁/整理ID 2459
奥向の豊岡らが松平上総入道吉貴へ返す連署の消息。吉貴からの文を喜び、大守の用向きや家中の様子を聞いて安堵したと述べる。今後も用件や近況を知らせてほしいと頼み、相手の健康と年中の無事を祈る。利根姫の訃報や儀礼ではなく、近況報告への返答。
年月日未詳 / 冊子 104~105頁/原整理番号 21
伴姓萩原家の祖系と下向由緒を記す導入系図。天智天皇について、推古三十五年誕生、舒明天皇の皇子・中大兄皇子、母は皇極天皇、即位・崩御・近江志賀大津宮・大安寺造営・藤原鎌足薨去などを記し、大友皇子と斯喜王子から光仁・桓武・嵯峨・光孝・宇多・醍醐の諸帝へ系線を引く。別伝として伊賀皇子、黒主王、葛野皇子・池辺王・小野祖、与多麿らを掲げ、大伴氏・伴氏の起源を説く。後半は伴宿禰以下、主麿・兼俊・兼行らの系譜を配し、兼行が安和元年に薩摩国守護を賜り、翌年鹿児島郡へ下向して神食江四十町に屋形を築き『伴様御館』と称したこと、村上天皇の勅命で舞鶴紋を賜ったこと、永観二年に大隅国肝属郡高山庄本城へ移ったことを記す。末尾は安楽豊前守・彦四郎の安楽庄受領へ続く。
宝暦五年六月十三日 / 冊子 536~537頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1615
義岡相馬・嶋津主鈴・伊集院十藏が六月十三日、嶋津主殿・鎌田典膳へ、重年の病状届と嫡子又三郎の跡式願の取次を急報する。容体は前日と同じながら草臥れが増して重くなったため、御用番酒井左衛門尉へ重病の届書を出し、一類への相談では異存のない返答を受け、堀田相模守へ隠岐守を通じて内談し、治定すれば嫡子の届書を出すよう指示された経過を記す。当夜は相模守との相談を踏まえ、萩原・岡田を介し淡路守が病状届を酒井へ出して受け取られ、跡式の御書付と別紙三通一結は御用人小笠原縫殿助を介して淡路守のもとへ出し、これも受け取られたと報告する。通融の方々や隣国長崎への通知は先例を相談して扱うよう求め、急飛脚を差し立てるので隅州・女中方へ伝えるよう依頼し、病勢を案じつつ別紙三通と留守居首尾書一通を添える。
安永二年三月四日(墨正文、年は朱) / 冊子 357~358頁/原整理番号 1003/整理ID 1003
小松帯刀・山岡斎宮から五名へ送った三ヶ条の書状。御守殿の借地千五百五十坪余を直接太守の「御拝借地」としたいと、浄岸院が以前から別紙のとおり願っていたところ、去る十五日の月次登城の際、用番松平右近将監に用事があり、出仕後に居残るよう大目付萩原主水正・目付柘植三蔵から知らされた。白書院の縁頬で、右近将監が書付によって願いのとおりの指図を伝えたので御礼を申し上げ、そのまま西丸へ登城した。月次の祝儀には及ばず、拝領地の礼を奏者へ述べ、老中を廻勤、若年寄には番頭を使者として礼を伝え、側衆には表方の知らせ等を手配した。これに関連して、太守・御前から公方・大納言へ内証の御勤を済ませ、拝領地の引渡しのため去る十七日に普請奉行久松筑前守の下奉行・付役等が出向き、滞りなく引渡しを終えたので使者による挨拶もした。第二条は、拝領当日に太守・御前へ出る者は祝儀を申し上げ、役人は家老へ謁し、諸士は御帳に記して祝儀を申し上げること、その他の祝詞を相談して首尾よく扱うことを述べる。第三条は享保十四年の添屋敷拝領に際して京都・大坂の役場や長崎へ知らせた筋書が残るものの、今度はその通知に及ばず、隣国への知らせは相談することを述べる。屋敷拝領を喜ぶ旨を伝え、女中へ申し上げるよう求め、別紙の写しを添えて送ると結ぶ。末尾は三月四日、小松帯刀・山岡斎宮の連署で、朱に安永二年。
享和元年7月16日指示・29日送付書・晦日受渡(本文・注) / 冊子 194~195頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0046
別冊の通り享和元年7月16日に月番市正から直に渡され、当座で写して川上十郎左衛門へ渡す旨を本田孫九郎が承知、写1冊を作り同月晦日に孫九郎から十郎左衛門へ渡したとの覚書。続く7月29日御記録奉行署の送付書は、公儀へ提出した家伝犬追物上覧式の控え、平田次郎八添書、萩原龍右衛門首尾書、大炊の書付写を、後年の見合せ用に自分方で写して渡すと記す。指示日・送付書日・実際受渡日と四資料の写を分ける。
寛永18年2月12日 / 冊子 718~720頁/原整理番号 747の5
加久藤の検地寺領衆と一向宗寺領衆が自力で有馬へ出陣した名簿・日数差出。萩原藤介以下を帰還日別に列記し、正月十六日から二月八日・十八日・十九日、三月八日までの日数を計上する。寛永十八年二月十二日付、伊地知・谷口連署。後半には「合4人・一人53日」に対し「合106日」と記すなど、人数と延べ日数が一致しない箇所があるため原記載を保持する。
宝暦五年九月 / 冊子 573~574頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1708
松しまが萩原らへ、挨拶と取次への謝意を述べ、長寿を祝って今後もよく世話をするよう伝える。上様方と竹姫の機嫌がよいことを喜び、一ツ橋の姫との縁談がいよいよ進み、刑部卿が一ツ橋へ申し上げて喜ばれたと知らせる。内々の用件として、自分へ返答をもらい、御礼や次の指示を早く申し上げるよう頼む。昨日も折よく会ったとして、祝意を重ねて結ぶ。
九月19日本営報、列記は八月20日~九月15日等の戦死・病院死 / 冊子 597~599頁/原整理番号 779の1/整理ID 779-1
雑録中。会津攻撃に関わる死者を所属隊別に列記し、八月二十三日・二十六日・九月十五日の戦死、深手を負って三春病院等で死亡した者、八月二十日・二十一日の戦死を区別する。六番隊五人のうち川上彦八郎・園田勇吉・中嶋岩次郎は砲戦が激しく遺骸引揚ができていないとし、米良仲之丞・猪保壮七郎は八月二十三日戦死、藤崎勇藏は深手の後二十九日に会津城下の病院で死亡したと記す。「十七人」を会津城下明寺院に仮葬したとの記載を掲げ、後段の九人では七人が深手の後に死亡し、残る二人は戦死とまとめ、内龍穩院に葬ったとする。各人の遺髪は十九日出立の山下七郎に託して国許へ送り、到着後に親類へ渡し、先規の葬式料も処置するよう求める。九月十九日、会津在陣本営から御国許陸軍所・京都本営役所宛。戦死・負傷後死亡、遺骸未収容、仮葬、送付済みと到着後の指示を分けて記す。
十月4日京都本営送状、名簿は八月20日~九月17日等、降伏報知は9月22日 / 冊子 600~606頁/原整理番号 780/整理ID 780
雑録中の会津進撃に関する隊別死亡・負傷名簿と、京都本営の送状。九番・十一番・十二番隊等の戦死者を掲げ、十二番隊では三春の村人や庄屋支配下の者も含め、即死・戦死を記す。諸隊の死者には手負の後に三春病院で死亡した者があり、続く手負人数では深手・浅手・薄手と、負傷した日・場所を区別する。田村小太郎、伊佐敷金之進、加藤郷兵衛、上原正八郎らのほか、道案内、隊付夫卒、地元村人などを列記する。原文内の異日付や前の名簿との異同は残し、同名を別人として合算しない。末尾の十月四日京都本営送状は、戦死手負書一冊・降伏状一帖・問合二通を掲げ、去る九月二十二日に会津へ進撃して終に降伏したとの報知を述べる。通行允許を携えて到京した日須峯敬二郎ほか一人に封書を託して国許へ送り、披露等を取り計らうよう御国許陸軍所へ依頼する。死亡・負傷の区分と送付の叙述は各名簿・送状に帰属させる。
年月日未詳 / 冊子 355~356頁/原整理番号 325
阿多地域で島原出兵に備え、池之原伊与守・山田主水らへ配当する五匁・七匁鉄砲と人夫を列記した軍役簿である。武士だけでなく寺僧を含む人員を書き上げ、十一月十七日付で編成を確定する。
(寛永15年)正月11日 / 冊子 603頁/原整理番号 659
肥前国島原へ出立する馬関田衆の人名と若党・小者を列記し、合計十三人とした人数賦。
(寛永15年)正月17日 / 冊子 729頁/原整理番号 759
加久藤衆の島原立人数として人躰五十人、内衆四十二人等を記し、残る二十九人を伊地知弥右衛門ら十一名の人数に分けて列記する。十七日夜に米津へ到着したので飯米を引き渡してほしいと求める。伊地知杢右衛門尉から村田郷左衛門尉・猪俣猪右衛門尉宛。副本は加久藤地頭役屋に所在すると注記する。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 779
正月十八日を中心に、米之津へ参着した各郷の人躰・卒者・夫丸と、主だった者が連れた人数を記す。恒吉・日当山・飯野・曽木・加久藤・須木・馬関田・踊・高原・出水・山之口・小林・諏訪神・曽於郡・野尻・真幸吉田・志布志・清水・蒲生・百引・庄内高城・東郷・高岡・高山・横川・穆佐・串良・垂水・伊集院などを列記し、十日または二十日分の飯米支給を注す。高山の名簿に載る以益について白坂氏譜を引いて帰還時期を考証し、兵糧不足による減員帰還と読む。末尾は十九日条への分載と十八日着津者の補記。
永禄十一年二月吉日 / 冊子 191頁
霧島社領として寄進した大隅国曽於郡坂上之門の田地を列挙した坪付。岩尾田・池田・松之木田・田中田・萩原などの各筆と面積を記し、島津義久が書判を据える。
永禄十三年三月吉日 / 冊子 235頁
北辰大明神領として、大隅国曽於郡郡田名萩原門内の田地を記した老臣連署坪付。寺前の三反のうちに含まれる土地であると注記する。
天正五年二月吉日 / 冊子 512頁
戸柱大明神へ、薩摩国鹿児島内萩原名の原田源左衛門先三反を寄進した坪付。島津氏老臣五名が連署する。
慶長九年二月廿二日 / 冊子 926頁
島津龍伯義久の詠草。慶長九年二月二十二日に鹿児島護摩所で、家桜や春を題材とする歌、神への法楽として小萩原などを詠んだ歌を記す。
延享四年一月二日 / 冊子 964頁/整理ID 2580
吉貴公の譜に収める延享四年正月二日付の書状。年が明けた祝いを述べ、寒さの中でも相手が健やかであることを喜ぶ。菊姫にもよろしく伝えるよう求め、年始の祝いが届いたことに謝意を示す。家中の者や御機嫌を気に掛けつつ、今年も身辺のことを知らせ、支障なく過ごすようにと記す私信。宛名には萩原・岡田らを挙げる。
宝暦五年九月六日 / 冊子 572~573頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1706
島津主殿・義岡相馬・鎌田典膳が九月六日、島津主鈴・伊集院十蔵へ、忠洪と刑部卿の姫保姫との縁組について相談する。菊姫と御守殿の意向を萩原から承知し、相馬の出立時に菊姫からも聞いているため、到着後に同席して相談し、その経過を継豊へ伝えるよう求める。近年の物入りで所帯が続き難く婚礼の手配も幼少の忠洪にはすぐ整えられないが、刑部卿方との合意後、時期を待たず早く縁組を取り組めるかを照会する。御守殿から忠洪・継豊への内々の通用と忠洪の意向を確かめ、当面の通用を控えること、菊姫から御守殿へ継豊の意向を伝えること、菊姫との内約の段取りも相談し、忠洪がまだ知らなければ申し上げて意向を聞くよう頼む。
宝暦五年十二月十五日 / 冊子 596~597頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1764
島津圖書・島津主殿・義岡相馬・鎌田典膳・高橋縫殿が十二月十五日、江戸二家老へ太守の縁談について連絡する。継豊の意向を求原とのに伝え、御守殿の同意を松島への書状で知らせた経過を承知し、御守殿の年寄や若御年寄、御部屋の年寄、御女中から御目付以下へも同じ内容を伝えるよう求める。継豊の喜びと婚礼・御地の相談は、刑部卿側からの御礼や挨拶に応じ、萩原を通じて各方へ伝えるよう述べ、菊姫から継豊への挨拶も取り次ぐよう依頼する。相馬が萩原の意向を承知し、縁談が成り合うよう相談して御請・御礼を整えることを求め、松島の書状は留め置いたと答える。
六月十八日 / 冊子 288頁
萩原寺へ加増地を与える件は当地で相談済みであり、滞りなく首尾が整うよう家久に配慮を求めた島津義弘書状。
八月六日 / 冊子 378頁
毎年の例により八月二十五日に萩原天神で法楽連歌があるため、萩を題とする発句を書き送り、遠慮なく意見を述べ、皆で入念に見分して良ければ点を付けるよう求めた島津家久書状。
年月日未詳 / 冊子 150頁/原整理番号 265-2
前文で有馬から帰された加久藤衆十二人の覚書。長山仲右衛門、赤川喜早兵衛内、前田内蔵内、萩原甚介内、萩原藤介、内田大学介、園田市右衛門、池田八千左衛門、久米万らの所属・人名を列記し、自力立の者も示す。
年月日未詳 / 冊子 105~111頁/原整理番号 21-1
冒頭に大原・平野・住吉三社を御姓神として本地仏と祖先下向以来の守護祈願を掲げ、兼経以下の肝付・萩原諸流を展開する神名書上兼系図。中世部では兼元の応永十七年島津元久上洛供奉・足利義持拝謁・河内守任官・加治木陣没、萩原城・萩原館・萩原庄主、高崇寺・帝釈寺などを記す。近世部では兼隆・兼義の川辺から加世田への移住と島津忠良への奉公、島津義弘の飯野移住への供奉・七十三石拝領、兼通の飯野から出水・軸谷外城への移住と物主役、禁制宗旨を理由とする宝暦五年の出水から高山への移住を述べる。末尾は高山新留村・下之門・宮下村の居住を経て、甚五左衛門が寛政十年十一月十三日に三十四歳で高山を出奔し、家系が断絶したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 111~113頁/原整理番号 22-1
舒明天皇・天智天皇・大友皇子を起点に伴姓の祖系を示し、兼経・兼益以下の肝付氏と庶流を配する系図。萩原・救仁郷・安楽・検見崎・北原・和泉・岸良・野崎・川南・鹿屋・小野口・山下など各氏の分出を明記する。兼尚が鎌倉在府中、兼重が留守・番代を務め、その子秋兼が兼尚の養子となって嫡家を相続した経緯を載せる。後段では兼続(法号省釣)の永正八年誕生、永禄五年の松山・志布志知行、永禄九年十一月十五日の志布志での死去、良兼・兼勝・兼樹・兼包・兼政らの続柄を記す。兼政は早世した良兼の娘を妻として嫡家を相続し、慶長五年九月十五日に美濃国関ヶ原で戦死したとし、兼元の島津元久上京供奉や兼忠の頴娃拝領にも触れる。
成立年未詳(系譜内に嘉祥3年~安永8年の記事) / 冊子 561~566頁/原整理番号 63
天智天皇・大友親王から伴姓の善名・善男を経て鹿屋氏に至る系線を掲げ、兼俊を肝付城高山の領主、兼任を萩原、俊貞を安楽、行俊を和泉、兼高を梅北とする諸分流を図示する。宗兼が父兼石から鹿屋院の弁済使職を譲られ、鹿屋を家号としたという名字の由来が中心記事で、日州三俣院の領主領阿との関係も記す。永和の乱に宮方へ属した兼永と高城での戦死、兼雄の鹿屋院長谷山城での戦闘、忠兼の島津元久の家老職、兼好の加治木・千本方面での軍功、幼い兼健が伯父兼直の養子となり平田兼宗の口添えなどを経て高隈を領した経緯を添える。弘治2年8月17日の日州国合原の北郷氏・肝付氏戦では肝付氏に加勢した兼豊が戦死し、幼い兼清は鹿屋を離れて日州志布志に住んだことも記載する。後半は日州・隅州の地頭職、改名・法名、婚姻・養子と各家への分岐を追い、元禄・正徳・享保・宝暦・安永期の出生・死亡・居所まで記す。系図中の古い祖系・軍歴は本文に記された家伝として扱い、文書全体の成立年とは区別する。
万治二年三月十九日 / 冊子 280頁/原整理番号 45
萩原甚右衛門の名子の母が差し出した一向宗本尊は、一時永山村の市右衛門に預けられていたものと説明する。甚右衛門自身は宗門の行いをしていないと弁じる。
万治二年四月十三日 / 冊子 281~282頁/原整理番号 49
永山村の市右衛門が萩原甚右衛門の名子の母の一向宗本尊を預かった件について、前の利銀は母方に科し、今回は預け主にも科銀を命じたと報告する。
年月日未詳 / 冊子 647頁
建武三年正月、肝付兼重・兼重子金童丸・萩原太郎兵衛尉兼重らが佐城・慈円城・池内城周辺で伊東方と戦った経過を記す肝付兼重譜。宣栄の攻撃、城郭慈円・猪見城の焼討ち、敵の追落し、池内城への帰陣までを日付順に記す。
宝永七年四月六日 / 冊子 897–898頁/整理ID 2931
肝付主殿ら四名が南泉院権僧正智周へ、東照宮再興と南泉院修造のため吉貴が寄附した計五百石の内訳を示す。下伊敷村の萩原門・福地門・米蔵門など、平松村の追屋敷・折口門・曲迫門・深田屋敷などを門・屋敷ごとの石高まで列記し、修造所の寄附を確実に伝える。
宝暦五年十月十三日 / 冊子 572~573頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1707
島津主鈴・伊集院十蔵が十月十三日、島津主殿・義岡相馬・鎌田典膳の縁組相談に朱書で返答する。忠洪へ継豊の意向を萩原から伝え、姫君も同意したと記し、松嶋から届いた内々の伝言を取り次いだ一方、当面の通用は控え、御守殿は若年寄以上にのみ知らせ、そのほかへは漏らさないよう手配したと答える。菊姫への伝達後、刑部卿方の手配と、幼年の忠洪について一ツ橋へ内々に申し上げる件を松嶋から承知したが、まだ返答はないと記し、御礼や継豊の挨拶についても松嶋へ内々に頼んだと知らせる。忠洪・継豊双方の意向は役人から申し越すよう伝え、菊姫から御守殿への世話を願い、松嶋の書状を別紙に写して送ると結ぶ。