島津光久書状
二月廿日 / 冊子 452頁
前年秋の耕作と物成が例年より良好だったことを喜び、従来の仕方にこだわらず良い制度へ改め、配当を早く実施するよう命じる。代官を入念に監督し、無調法者は交代させるよう指示した島津光久書状。
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二月廿日 / 冊子 452頁
前年秋の耕作と物成が例年より良好だったことを喜び、従来の仕方にこだわらず良い制度へ改め、配当を早く実施するよう命じる。代官を入念に監督し、無調法者は交代させるよう指示した島津光久書状。
九月朔日 / 冊子 459頁
稲葉淡路守が疑心から無実の者を多数処刑し、城中を固めたとの上方からの注進を受け、公儀は恨みがないため弁明を命じる奉書を送ろうとしたが、到着前に本人が自害した経緯を老中の上意として伝えた松平定政書状。
正月廿八日 / 冊子 54頁
島津光久が、年頭の使者と太刀一腰・馬一匹の贈物が遠方から届いたことを喜び、謝意を述べる。詳しくは新納右衛門佐と鎌田源左衛門尉が伝えるとする書状。
(寛永六年)十一月廿六日 / 冊子 125~126頁
将軍御成の進上用腰物について、新納右衛門佐らによる選定、相国・将軍・雅楽頭・大炊頭向けの品、箱・巻物・道具の調達と運送、道中の宿や路地の手配を報告した書状。
(寛永九年)八月廿二日 / 冊子 312~314頁
島津久元・伊勢貞昌が、吉利下総守・新納右衛門佐を通じて伝えた国元軍役の談合状況を問い、武具兵具の調達、道具用意、知行高に応じた具足・馬・武具の賦課、御城の総高六拾万五千石を基準とする軍役などについて、早急な決定と報告を求めた連署書状。
八月十一日 / 冊子 355頁
新納右衛門尉を介して聞いた案件について、早朝までの返答を求められているものの、十分に思案して翌朝回答すると伝え、往復の用件に備えて当所に滞在する旨を述べた島津忠恒書状。
四月十九日 / 冊子 452頁
領内の諸法度執行を新納右衛門佐に任せているため、その命令に少しも背かず、北郷式部太輔配下の江戸詰衆へも申し渡すよう命じる。新納にも遠慮なく指揮するよう伝えよとした島津光久書状。
正月廿八日 / 冊子 453頁
年頭の使者と太刀一腰・馬一疋を遠路から贈られたことへ謝意を示し、詳しくは新納右衛門佐が伝えるとした島津光久書状。
年月日未詳 / 冊子 592-593頁
十月三日、島津忠倍らは海陸から進み佐敷浦へ船を出したが、加藤方の井口伊賀が十八艘の兵船で襲来した。竹内備前守実康父子の小舟一艘と合力して戦い、忠倍は名と年齢を記した矢を放って敵二人を倒したが、忠倍をかばった蒲尾勘解由貞清が鉄砲で討死し、ほかにも負傷者が出た。夕刻に双方が退き、十二月には忠倍父子が宮城へ移った。
「寛永十八年」十一月廿日 / 冊子 172~173頁
島津光久が新納久詮へ、川上久国にも書状を一覧させ、以前に書面で申し置いた筋目に従って諸事を遠慮なく指図し、その内容を久国にも知らせるよう命じた書状。現地や本人の無事を問い、不明な事柄は久国と相談して処理し、油断なく勤めるよう求めている。
慶長十一年十二月廿二日 / 冊子 102頁
慶長十一年十二月二十二日、新納忠元が大口の大田市兵衛尉に与えた知行坪付。篠原千束町・合田島の田地について、面積、分米、高、納入分および永代買得分を列記する。
二月十七日 / 冊子 258頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0559
伊東祐玄が五名の役人へ、鎌田筑後に関する評定所方文書の件が聞き届けられ、島津図書と同様に呉国方・宗体方の留役として万事を図書と相談させる扱いになったので、その旨心得るよう伝えた書状。
(承応四年)四月十一日 / 冊子 259頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0564
島津久頼・久茂が五名の役人へ、当日八つ半時に松平信綱が上使として来て島津綱久に帰国の暇が与えられたと知らせ、江戸出発日や東目・西目の旅程は決まり次第追って知らせると伝えた連署書状。
四月十一日 / 冊子 259頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0565
島津久茂が五名の役人へ、供立に入っていた伊地知六郎兵衛が江戸詰めへ振り替えられ、留守番が一人不足するため、六郎兵衛を早々に召し上げるよう命じた書状。封面注記は、同月十一日に綱久が帰国の暇を得たとの報が二十六日夜に薩摩へ届いたと記す。
(承応四年)四月十六日 / 冊子 261頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0568
島津久茂が五名の役人へ、自身に弓に関する役目が仰せ付けられた件を報告し、同日暁七つ頃に御姫が誕生したので祝儀を申し上げ、伊東祐玄を使者として派遣したと伝えた書状。
(明暦元年)八月八日 / 冊子 263~264頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0575
久茂が国元役人五人へ、綱久から太守光久への書状一通を送る。国元の静謐を察し当地も無事と報じる。綱久が鳥を拝領した礼使として三原九兵衛が到着したが、芝の姫の疱瘡により登城を遠慮したため、今月朔日の綱久登城に合わせ九兵衛も出して奉書が出たという。
(明暦元年)九月廿二日 / 冊子 265~266頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0582
島津久頼・久茂が五名の役人へ、綱久の御機嫌や江戸での対面・進物、船荷と琉球・阿波方面の取扱い、役人の召出し・処分、翌年の江戸参府など複数案件の経過と指示を詳しく伝えた連署書状。
(寛文八年)一月十六日 / 冊子 543頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1242
鎌田政有・島津久茂が家老らへ、若子の七夜祝儀が済み、松平隠岐守が『徳寿』と命名して来国俊脇指の折紙物を、島津少将が盛光の脇指を贈り、髪立は隠岐守奥方へ依頼したと報じた連署書状。
応永廿一年四月二日 / 冊子 453頁/原整理番号 257
吉田刑部少輔兼起の書状。国元の社法に関する書付や贈り物を受け取ったことを伝え、社法を整える意向を述べる。
「寛永十七年」六月十九日 / 冊子 120~122頁
島津光久が国元の重臣らへ、金掘りの方法を調べるため、佐渡などで経験を積んだ松平隠岐守家中の者から新納右衛門佐・五代正介・山田十左衛門に詳しく聞かせたことを伝えた書状。あわせて薩摩の作法や家中の仕置が悪化しているとして、松平隠岐守らとの相談、家老・親類・家臣の処分、申合せと秘密保持を厳命し、必要時には新納加賀守・勝目助左衛門尉らを付けた人数を派遣する手順まで示している。
年月日未詳 / 冊子 198~199頁
新納氏古日記の寛永十九年六月の記事。六月三日に島津光久が日光参詣へ出発し、新納右衛門佐以下の供奉者を記すほか、六月二十八日から七月十五日頃にかけて道具衆が持ち下ったことと、御曹子島津綱久の元服に関する事項を記録する。
「寛永十九年」十二月朔日 / 冊子 219~220頁
島津久通ら三名が、翌年に金山を停止する件を伝えた連署書状。新納右衛門佐が阿部対馬守へ出向いたところ、金山を直接停止する旨を告げられた一方、領国内の者には採掘させたいとの従前の申出もあったため、酒井讃岐守と相談して改めて上聞に達することとなった。北郷佐州へも伝え、他国人を翌年早々に帰国させるよう厳命することを求めている。
九月七日 / 冊子 352~353頁
川上久国の書状。島津兵庫頭家中の白坂納右衛門が加治木を退去して興国寺に籠居し、親類や複数の家臣が帰参を説得しても拒み続けた経緯を報告する。重罪を受けても加治木へ戻らないとの本人の意向を踏まえ、再度の説得と処置について相談している。
天正十三年九月二十九日・十月朔日 / 冊子 273頁/原整理番号 24の26
『上井覚兼日記』天正十三年九月二十九日条から、堀切より新納右衛門佐の書状が到来し、宝満・橘・筑紫方を切り取り、筑後表の戦況を報告した記事を抄出する。十月朔日条も引き、戦功に対する御礼が筑紫殿へ使僧を通じて伝えられたことを考証する。
天正十五年六月十五日 / 冊子 557~560頁/原整理番号 95
天正十五年の上洛中の見聞を記した日記。新納右衛門佐と京都へ向かい、聚楽の小路の高札、北野大茶湯、寺社・町中の見物、関白豊臣秀吉への出仕や御殿での饗応、細川氏の宿所への帰着などを日次で記す。
正保二年十二月十四日 / 冊子 31頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0051
島津久通が、島津大和守の流罪と家来らの処罰について、旧臣が刺傷されるなどの事情を述べ、関係者への寛大な処置を新納右衛門尉に願った書状。
二月十六日 / 冊子 148~149頁/原整理番号 261
川上久国・三原重庸が仁礼頼充・鎌田政有へ、薩州様が到着したら、どこへ早く赴くかを次飛脚で逐次報告するよう求めた書状。追而書で、この書状を新納右衛門佐に見せたうえで早々に源左衛門へ回し、油断なく注進するよう命じる。
寛永二十年五月十四日 / 冊子 237頁
島津光久が留守中の政務処理を定めた条書。金銀の出入は物奉行と相談し、江戸役人や屋敷内の者を遠慮なく吟味すること、小事は家老衆へ逐一尋ねず処置することを命じる。火事などの騒動時には人員を指揮し、御城で新たな動きがあれば直ちに報告する一方、確定しない雑説は注進しないよう定めている。
正保二年三月二十九日 / 冊子 9頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0015
『図書頭久通譜中』。江戸からの書簡により島津久通の家督相続と加判役就任が伝えられ、久通はいったん継目・加判役を辞退したが、父祖以来の職掌を継ぐよう諭されて家老となった経緯を記す。
(寛文三年)正月十八日 / 冊子 461頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1011
鳴津筑前ら六名が協議し、北郷又次郎への申渡しは示された口上どおり行うのがよいと判断して、そのとおり申し渡したことを記す文書。
「寛永十七年」四月十二日 / 冊子 105~106頁
島津光久が国元の島津久慶へ、備後朝日で上使佐々権兵衛と会い、江戸到着後に松平信綱の使節を迎えて登城・拝謁を済ませたことを報じた長文書状。久慶の病気療養、細川忠利らの使者への過度な饗応を避けること、琉球方や他国との応対、御納戸借銀の利息返済、兄弟衆家中の女性数、膳符など公儀法度の遵守を指示し、東市正・安藝守には狩より学問を勧め、頴娃左馬助・野村大学助・新納右衛門佐の奉公状況にも触れている。
正保四年十一月十三日 / 冊子 92頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0173
図書頭久通譜中。冒頭に荒木元満から久元・元政を介する馬書共九冊免状と久通への伝授、正保四年冬の返進を記す。続いて、十一月十三日に光久が王子村で張行した犬追物を家光が台覧し、久通・新納右衛門らが射手となったと述べる。十六日は登城・白書院での礼と衣服三重、十二月二日は二丸で衣服二重を賜り、後に太守からも宝刀を受けたという。
(万治三年)五月廿九日 / 冊子 421頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0874
伊勢貞衡が島津光久へ、幕府が古来の鎧と腹巻の仕立てを隠密に調べており、島津家に古物があれば二種とも詳細を書き上げて進上するよう求めた書状。将軍の上覧となる可能性にも触れ、鎌田蔵人・新納右衛門は覚えていないと伝える。
明和五年戊子(年次記事、翌年の注あり) / 冊子 185頁/原整理番号 457/整理ID 457
明和五年の年次記事。元日は既に首途を済ませたため賀正を受けず、御座間で公族と三官に会い、外庭稲荷を拝した。正月十三日は護摩所・福迫・稲荷、二十日は大雄・松峯・玉龍を訪れ、鷹が捕えた鶴の賜りを十八日に拝受したことも記す。二月六日に府城を発ち、家老川田伊織国福・仲久健、用人・納戸奉行・使番らが同行する。大里から海路で坂越へ向かい、座船住吉丸と他の船を挙げ、小字注では船の総計を三十九艘とする。三月二日に大坂邸、六日に伏見邸、二十九日に芝邸へ到着。四月朔日は大家の使者が来て「守宮」を与え朝観を賀し、二日は閣老各邸を訪ね、護摩所の不動へ還謁する。七日は関山金陣を使わした。兒玉主左衛門利容らが購入した千字文・唐詩選・字林集等と、草菴・蒙求・和歌類題・古今集・天狗藝術論等を備え、親覧したと記す。八日は近衛公が諸大夫を遣わして賀正、十三日は大家の使いの閣老が邸で慰労し、十五日に朝観礼、十六日に大円寺、二十三日に高輪五社、二十四日に増上寺、二十九日に一橋邸を訪れた。六月朔日は朝から酒井雅楽頭邸を訪問し、近侍の高崎納右衛門ら及び有川・伊東・山田・林・相良・柏の陪席や召しにも触れる。七月十九日には大家が使者を遣わして雲雀を賜り、鷹が捕えたものと記す。二十五日には高橋此面種寿の家老職を、旨に逆らったため免じた。十二月十六日は使番興津左京が鶴を携えて邸に来たが、重豪は少し病んでいたため相良近江守に迎拝を託した。この鶴も鷹が捕えたものという。冬に福昌寺の新作を命じ、翌年秋に完成したとの小字注を付す。
寛永十五年正月廿九日 / 冊子 37~40頁/原整理番号 55
寛永十五年正月二十九日の島原出陣に際する御備・軍勢・奉行・輸送・兵糧等の割当帳。冒頭に「正文在文庫」「二重除之」とある。御備は昇100本、外城衆の鉄砲300挺・弓200張、御兵具衆の鑓200本、馬乗衆50騎、御陸衆150人、召立乗馬50騎とする。有馬3,262人のうち782人、天草5,201人のうち1,624人が帰還し、両地の残留総数を6,057人とする。御供、兵糧・船手、兵具・送夫馬・普請・諸調、法度、船手・先備・玉薬・持道具・番道具、火番・合印、武器別備頭、使番、仮屋、代官、絵書、荷物、医師、祈念、評定所筆者、納戸、進物、陣僧などの担当・準備事項を列挙する。鉄砲備頭5人・小指物1,050本、弓備頭3人、鑓備頭3人、惣備奉行10騎、御備直し20人、仮屋見舞衆3人等も定める。二月朔日の項では幕・進物蔵・送状、朱書の宿泊地等を扱い、二月七日には両条を新納右衛門佐へ申し渡す。さらに当地に必要な殿役・船・普請・町・蔵・兵具・馬屋・物奉行等を列挙する。編者は『旧記雑録後編五』222号文書と同一と注記する。末尾の「晦日甲午」は次の日次見出しである。
年月日未詳 / 冊子 50~51頁/原整理番号 70
島原出陣に伴う諸役の賦課・準備をまとめた頭書。二月朔日条で十文字幕・段子幕の調達を新納右衛門佐久詮へ申し渡し、出立衆の送状、阿久根・西方・向田・市来湊・宮之城・蒲生での宿泊・昼休と賄いを定める。続いて殿役・船・普請・町・高・蔵・兵具・馬屋など、出陣時に編成すべき奉行・役衆を列挙する。
二月十五日 / 冊子 141~142頁/原整理番号 239
川上久国・三原重庸が渋谷四郎左衛門尉へ、薩州様の帰国行程に伴う宿泊・昼休・供奉を指示する。十四日ごろ有馬へ着船し松平伊豆守への礼後に川内筋を通る見込みとして、西方では仁礼主計助、向田では鎌田源左衛門尉・相良新右衛門尉、市来湊では新納右衛門佐らに手配させ、昼夜を問わず後報するよう求める。
巻六/冊子 88頁
関ヶ原合戦後、義弘が日向美々津へ帰着した時、伊東氏旧臣で清武の宰である稲津掃部助が黒田長政の命と称して兵を挙げ、穆佐城を奪おうとした事件を記す。稲津は使者が帰らないことを怪しみ、先に宮崎城を落として城代権藤平左衛門とその子らを討ち、穆佐内的野村へ侵入した。十月四日には穆佐城を攻めるが失敗して退き、追撃を受け、のち慶長七年に稲津父子三人が清武で処刑されたと注記する。後半では、加藤清正が小西行長領の宇土・八代を奪おうとしたため、小西美作守が義久へ救援を求める。義久は島津図書頭忠長・忠倍父子を水俣へ送り、佐敷浦で加藤方の井口伊賀介率いる船団と戦わせた。島津船の多くが散るなか、竹内備前守実房と甥納右衛門が小船で救援し、鉄砲を撃ち返して忠長父子を救った。関ヶ原後の日向騒乱と肥後水軍戦を併記する。
「寛永十八年」四月十九日 / 冊子 151頁
島津光久が新納右衛門佐久詮へ、伊勢兵部貞昌が四月二日夜に死去したとの知らせを受け、驚き悲しんでいることを伝えた書状。久詮の身を案じ、諸事にいっそう注意して勤めるよう求めている。本文注は貞昌がこの年に七十二歳で没したとする。
明暦四年六月十九日 / 冊子 370頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0794
鎌田政昭が新納右衛門へ、苦労銀の賦課方法と、身上が行き詰まった平田九郎左衛門・鎌田勘兵衛の各三十石の知行を公儀が買い取り、代銀返済後に返す処置を記した覚書。
「寛永十六年」八月十一日 / 冊子 32~33頁
島津久元が国元の重臣らへ、江戸城で早朝に火災が起こり、本丸天守は残ったものの二の丸などが焼失した状況を急報した書状。酒井忠勝・松平信綱らに出向いて事情を確認し、島津家からの見舞い・献上について相談し、必要なら材木などを用意する案を伝えて指示を求めている。
「寛永十九年」七月十九日 / 冊子 206~207頁
島津久通ら三名が江戸での幕府老中との折衝を伝えた連署書状。薩摩金山の前年産金四十貫目は献上を免じられ、礼として金子三千両を進上したこと、当年の産金は年末の進上に備え、翌年も九州の飢饉が続けば採掘停止を検討することを報告する。あわせて他国者森寺清左衛門の召抱え、浦廻上使の帰着、八重山に渡った使者と琉球からの切支丹不在の報告などを知らせている。
「寛永十九年」八月八日 / 冊子 209~210頁
島津久通ら三名が、甑島に潜んでいた南蛮人九人について幕府老中へ報告し、書付・絵図を提出した経緯を伝えた連署書状。島内に彼らを世話した者がいないか油断なく調べ、長崎で出身地や宗旨を尋問すれば事情が明らかになるとして、念入りな調査を求める。あわせて八重山番手の帰帆と交替要員の扱いに触れている。
(承応三年)十二月五日 / 冊子 249~250頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0529
島津家老四名が蓮金院の申し分へ答え、紀伊国内三十五石と薩摩国出水郡内百石の寺領寄附を示す旧証文二通を確認したうえ、寺の修営は寺領内で行うべきため通常の助成はしないが、先住以来の借銀の元銀五貫目は助成するとした覚書。今後は寺領収入内で人数・仏事を賄い新たな借銀をせず、島津家の祈祷と先祖の忌日供養を怠らないよう命じる。
承応四年一月廿三日 / 冊子 252~253頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0540
島津家老四名が、京都吉田家へ申し立てる神職の他国往来、祀場の左右方の調整、川内新田八幡・正八幡などの祀場と供物、河川・用水、屋敷荒神の神木伐採等を列挙し、国中の川・井戸を活用して春の田植えを進め、耕作時期を延ばすことも求めた事書。
記事 / 冊子 270~271頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0776
寛延三年夏、重年が宗信の遺髪を紀州高野山へ納めるため使者を遣わした。四月十九日暁、福昌寺で島津久亮が継豊の代わりに焼香し、覺門・覺淵らの読経、遺髪の護守と送り出しを行う。総監鎌田政昌、側用人菱刈實詮ほか一行を列挙し、五月朔日出帆後の風波による津々の滞泊、二十八日兵庫港着、二十九日難波着を記す。六月九日に大坂を発ち、十一日に高野山蓮金院で遺髪を仏壇に安置した。十二日は僧衆五十口の勤行と政昌の重年代焼香、十三日は五十口の大曼荼羅供を行い、奥院へ遺髪を納めた。銅製の遺髪箱を木箱に入れ、石の供檀に納めたとの注がある。同日の空輪堂で僧二十口三昧・供養・誦経を行い、霊塔を建立して銘を記した。
享和元年酉5月(書付末。旧行事は正保3~4年) / 冊子 191~194頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0042
大猷院の代、大隅守光久が家伝犬追物の上覧を願い、正保4年11月13日に武州王子村で行った旧記を、享和元年5月にまとめる。前年4月7日には試しとして老中・大名・旗本を芝屋敷へ招き二手組で実施。正保3年4月18日の国元への暇と帰国挨拶、翌年3月射手参府、9月12日の上覧命令・13日光久登城、18日会場普請の命令と家老・地引担当、28日の上覧許可再通知、11月3日射手の修行、10日の酒井讃岐守による図書召出しと13日実施決定を記す。光久側の膳進上願は不要とされ、射手は12騎ずつ三手に分け計36騎、別に射手以外の検見・喚次ら12騎と記す。会場は竹垣、東西42間・南北40間、三か所の口。烏帽子・素袍・小刀・籠手・鞢・行縢・沓、馬上弓・蟇目矢、奉行・記録役と二童子の装束を記す。己上刻、尾張・紀伊・水戸父子らが桟敷、光久・又三郎が御目見・献上、12騎ずつ三手組の犬追物を開始。一手組の追加希望も叶い、終了後は茶亭で再召、光久へ脇差、又三郎へ腰物、射手・掛役へ膳と時服を賜った。申上刻過ぎ帰還、16日に父子・家老・射手が登城謝礼し太刀等を献上、時服を頂戴、12月2日にも上覧御礼、二丸大納言への御目見・献上・腰物拝領を経て本丸へ登城した。各準備日、人数、寸法、当日の進行と複数回の謝礼を分ける。
寛永9年8月22日 / 冊子 32~34頁/原整理番号 32
島津久元・伊勢貞昌が喜入摂津守・川上左近将監へ、軍役準備の進捗を問い、急には調わない具足・馬・鞍の用意を督促する。大坂御蔵奉行衆と相談して注文の書立を送り、知行高や分限に応じた価格・品質を定めるよう求める。肥後のような不測の事態への備え、乗馬の用意不足、四国・中国・九州衆の参上予定、借銀返弁の催促と琉球表の相談状況も伝える。
年月日未詳 / 冊子 69~70頁/原整理番号 60
天正六年頃の島津義久代について、川上久時・伊集院忠棟ら老中八人と、新納・鎌田・本田・伊地知ら使衆八人を分けて列挙する。加治木衆大村市兵衛重頼の旧記から原文どおり写した交名である。
(寛永9年8月22日) / 冊子 96~97頁/原整理番号 67
島津久元・伊勢貞昌が喜入忠政・川上久国へ、薩摩国の軍役について、武具・兵具の整備、国高に応じた負担、四国・中国・九州勢への対応などを伝えた連署書状の抄録である。前件をすでに巻之一へ収録したとして、伊地知季安が詳細を省略している。