島津氏久寄進状
貞治六年六月十七日 / 冊子 47頁
島津氏久が戦場で奇瑞があったことに報いるため、下大隅稲荷社へ同郡内の田地一町を寄進した寄進状。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
123 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 3
貞治六年六月十七日 / 冊子 47頁
島津氏久が戦場で奇瑞があったことに報いるため、下大隅稲荷社へ同郡内の田地一町を寄進した寄進状。
慶長十九年七月廿一日 / 冊子 535~536頁
日向国諸県郡内山村内の寺領を稲荷寺へ知行として宛行い、公役・寺役を滞りなく勤めるよう命じた四名連署知行目録。
年月日未詳 / 冊子 733頁
伯圓の代に谷山本城の寺山玉林坊から稲荷宮の籠を移し、神領として田三町ほどを寄附した由緒と、領主交替後も祭祀を継続する誓願を記す。
貞治六年七月十九日 / 冊子 48頁
島津氏久が凶徒退治の祈願として、下大隅稲荷社の拝殿を造営させる旨を定めた立願文。
元亀二年四月七日 / 冊子 243頁
島津義久が樺山兵部太輔に差し出した起請文の神文部分。天帝・四大天王、日本六十余州の大小神祇、惣社新田八幡、当地の鎮守である諏訪・稲荷大明神の照覧に任せ、誓約に偽りがないことを誓う。
慶長三年十月朔日 / 冊子 256頁
『旧記抄』が、慶長三年十月朔日の新寨攻防と狐の霊験を記す記事。明兵二十万が寄せると、義弘は城壁下へ近づくまで発砲を禁じた。白狐一疋が東門から敵中へ入り、続いて赤狐二疋も大軍へ走り込んだため、義弘・忠恒父子は氏神稲荷の加護と信じた。城門を開いて大勝し、戦場で死んだ赤狐を新寨に埋めて弔祭したとする。
(慶長三年)十一月五日 / 冊子 276~277頁
島津義久(竜伯)が(慶長三年)十一月五日付で山田有盛(弥九郎・茂六)へ出した書状。高麗から届いた報告を写し、泗川戦で大手から白狐一匹、水の手から赤狐二匹が敵へ向かい、赤狐一匹が戦場で死んだという前代未聞の出来事を稲荷神の霊験とする。勝利は神慮によるものとして、稲荷社で神楽を奏し、祈念所で本地供百座を行って礼を尽くすよう命じる。
(慶長三年)十一月六日 / 冊子 277頁
島津竜伯義久が(慶長三年)十一月六日付で島津義弘・忠恒へ出した書状。泗川防戦の大勝と父子自身の働きを祝い、老中・奉行衆の感状を送る。戦場に白狐・赤狐が現れたことを稲荷神の霊験とし、鹿児島・富隈・京都の稲荷へ礼と祈念を行ったと伝え、上方の命令に従って早急に帰朝するよう促す。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 538頁
大隅国肝付郡串良岡崎村内の浮免九斗を稲荷大明神の神領として寄附し、公役を免じた四名連署知行目録。
年月日未詳 / 冊子 317頁
『日新記』の記事。加世田を領した後に宅地を定めて住居を造営し、鬼門の方角に新社を建てて稲荷大明神を祀り、水田一町を寄進して山法師を神職に任じ、日々の勤行を命じたことを記す。
宝暦十四年 一月廿八日(本文) / 冊子 4~5頁/原整理番号 13/整理ID 13
宝暦十四年甲申正月二十八日庚辰、従四位下少将・薩摩守源重豪が群臣を率いて稲荷大明神に告げた祝文。稲荷神が太祖に祥瑞を示して三州の創業を助け、相公に威霊を貸して八道の功勲を支えたこと、歴代の祭祀と万民への加護を讃える。徳の薄い自身が家の困難に遭いながら神の恵みによって継承を失わずに済んだとして、厚い加護への感謝を述べる。二月五日に道を清めて神を迎え、宮を掃いて霊座を設け、三献の礼と六章の楽を奏し、神徳への報恩と永命を祈る予定を事前に告げる。「敬神而遠之」等の経・礼の教えにも触れ、拙い技芸ながら誠意をもって神の恵みを仰ぐ。太祖・相公の実名は本文に明記されない。目録には日付がなく、年月日は本文による。
寛政4年2月15日(本文・包紙注) / 冊子 32頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0105
市来稲荷社別当大明寺へ宛て、鎧一領の奉納・保存を伝える五名連署の証状。古来稲荷社へ奉納されていた鎧は古製の珍器だが損傷し、製形を失いつつあるため、兵具方に格護させる指示が出たと述べる。その引替えとして掲げる鎧一領を納め、後年も疎略にせず格護するよう求める。名越右膳恒当・山岡雅楽久容・伊勢播磨貞矩・菱刈大炊隆邑・嶋津求馬久親が署判する。包紙注では、大炊殿から東郷浅之丞へ書付を渡し、同日白木御文書六番箱へ納置したとする。
年月日未詳 / 冊子 355頁/原整理番号 115
『江戸砂子』からの記録。日本橋南にある鹿児島稲荷は久志本氏の屋敷内にあり、寛永年間に松平大隅守の屋敷から勧請され、屋敷の鎮守になったと記す。
〔元文四年五月〕 / 冊子 328頁/原整理番号 86
島津忠久の誕生と島津への入部にまつわる稲荷大明神の由緒を記す。出生地で稲荷を崇敬し、島津の御庄に祀ったという伝承や、狐に関する話、社殿修復の願いを載せる。
天文十四年十一月二日 / 冊子 328~329頁/原整理番号 88
日州島津御庄郡本稲荷九社大明神の宝殿を再造した際の棟札を記録する。神威と氏子の安泰を祈り、天文十四年十一月二日の年月日と修造に関わる島津家の人名を記す。
応永十五年十月八日 / 冊子 230頁
島津玄仲が肥後左近将監へ、三か国の情勢がいかに変転しても立身を支え、大事の際に見捨てず、讒言や風説があれば直接問いただすと神々に誓った契状。
応永十五年十月十九日 / 冊子 230頁
島津玄仲が祁答院山城守へ、天下が変転しても一味同心し、大事の際に見捨てず、讒言や凶害による疑いは直接問いただすと神々に誓った契状。
天文二年三月吉日 / 冊子 328頁/原整理番号 87
稲荷大明神の木面に記された寄進銘を収める。惣持院に関わる者の祈念と奉寄進の文言を伴い、天文二年三月吉日と記す。
年月日未詳 / 冊子 87~88頁
名勝考。郡本村の稲荷大明神の鎮座、祝吉御所跡、山門院からの遷座や寺院創建に関する地誌・由緒を記す。
年月日未詳 / 冊子 88~89頁
伊地知季安による稲荷社・寺院由緒の考証。祝吉御所跡からの遷座、郡本村と島津院の地名関係、開山僧・寺領寄進・造営年代を複数の旧記で比較する。安養院・阿弥陀仏、稲荷神体や社壇の由来、史料間の年紀・伝承の相違も指摘する。
元禄九年六月吉日 / 冊子 961頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2644
神祇道管領長上吉田兼連が鹿児島稲荷大明神へ正一位を授けた宗源宣旨。
年月日未詳 / 冊子 38~39頁
『西藩野史』巻三の島津忠久伝。記事は忠久を源頼朝の長子、母を比企能員の妹・丹後局とし、北条政子の嫉妬を避けて伊豆から播磨国住吉へ逃れた局が、治承三年、宿泊を拒まれた末に住吉明神社傍の石上で忠久を産んだと伝える。大雨の夜に狐火が母子を照らしたため稲荷神を氏神としたとの由来、頼朝が児を三郎と名づけたこと、丹後局の帰東と惟宗広言との婚姻、畠山重忠による元服と「忠久」命名、島津荘下司職や薩摩・大隅・日向三州の支配に関する由緒を叙述する。一方、『東鑑』その他の記録と年齢・年代を照合し、元服時三歳説などを否定・疑問視しており、惟宗姓・島津称号と所職獲得の由来を、異説を挙げながら史料批判的に検討した記事である。
年月日未詳 / 冊子 56頁
山田聖栄自記として、忠久誕生時に産神の稲荷を島津の守護神として祝ったとする伝承と、秘事に関する記述を載せる。
天文五年四月廿一日 / 冊子 753頁
伊集院の稲荷大明神御本地に、願主として相州忠良・島津貴久、権大僧都頼盛らを記した銘文。
年月日未詳 / 冊子 766頁
永正九年に日新公が建立した阿多花瀬村の稲荷社について、天文七年十二月二十九日の加世田出陣時に狐火が進路を照らし、社の加護として所領・棟札・銘書が与えられた由緒を記す。
年月日未詳 / 冊子 766頁
永正九年建立の阿多花瀬村稲荷社について、天文七年十二月二十九日夜の加世田出陣で狐火が大手口への道を照らし、その加護により勝利したとして社領・棟札を与えた由緒を記す。
享保十四年三月廿二日 / 冊子 818頁/整理ID 2187
重年の誕生後、三月二十二日に薩府の護摩所稲荷神社などを初めて参詣し、乗輿役の代役と産土神への奉納を記す。
寛保二年十月二十二日 / 冊子 836~837頁/整理ID 2228
忠紀旧記は、寛保二年十月二十二日、須磨方と忠紀の二人が力を合わせ、勝浦山の別荘に稲荷社を創建したと記す。須磨方が尊崇する浄妙院慧英を導師として遷座の儀を行い、この社を忠紀の生土神としたことや社地の由緒も述べる。No.2229は同じ社の造営者を列挙した記録。
寛保二年十月二十二日 / 冊子 837頁/整理ID 2229
須磨方と島津周防忠紀が薩州鹿児島の勝浦山に稲荷大明神社を創建した際の記録。寛保二年十月二十二日の日付を掲げ、御隠居御方の家老・大御目附・御用人・普請奉行・大工・石切頭ら、造営に関わった役職と氏名を表に列挙する。後段は社地と祭神の由緒に触れる。
年月日未詳 / 冊子 4頁/原整理番号 12/整理ID 12
重豪が正月二十八日に斎戒して府下の稲荷大明神へ親しく参詣し、拝礼後、祝文を宝殿へ納めたことを記す。二月五日には法楽能を催し、翌六日に結願のため再び親しく参詣した。稲荷大明神には五社内との注がある。
宝暦十一年十一月三日 / 冊子 880~881頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2589
家督後初めて帰国した重豪が十一月三日に稲荷社へ参詣する次第を定め、初穂として金子二百疋を納める。神前で神楽を奏し、別当寶持院が幣を差し上げ、諏方神主が詰めて祈願するよう指定する。盛塩は御小姓から差し上げると定める。
年月日未詳 / 冊子 28頁/原整理番号 106/整理ID 106
麑府稲荷大明神の例年十一月三日の祭祀で鏑流馬を行い、この年は結願のため三騎を加えたことを記す。旧式の上馬者は川上庄八郎親馮、射手は鮫島次左衛門員良、結願の上馬者は川上四郎親宣、射手は相良助之進常苗・種子島四郎助時良で、計五騎。同月四日、儲君家基が出生後初めて胎髪を置いたため、重豪が即日登城して波之廂下で老中を祝い、西城でも同様に祝い、名不詳の番頭を城へ遣わして肴二種二荷を大家・御台様・儲后に献じて祝った。出典は重豪公御譜中。目録は祭礼と髪置の二件を一番号の記事とし、年月日欄を空欄とする。
明和三年龍集丙戌七月廿二日 / 冊子 135頁/原整理番号 317/整理ID 317
大磯荘内に稲荷社一宇を新建した際の棟札。中央に上棟と新建稲荷社一宇、右に従四位上左近衛中将源朝臣重豪、左に明和三年龍集丙戌七月廿二日と記す。家老菱刈藤馬、側用人兼近習役伊地知新太夫、普請奉行喜入佐司右衛門、検者伊東勘助・磯永團七・牧市兵衛、総大工副役荒田甚兵衛を、それぞれの氏・諱とともに列記する。図の形を伴う棟札の記録で、「在雑抄」と朱注する。
年月日未詳 / 冊子 169~171頁/原整理番号 128-1
鹿府稲荷鏑流馬の射手日記・記録奉行調書。延宝二年以降の御旧例と、天和・貞享・元禄年間などの上馬射手、光久公の御不例時の例を年代順に列記し、家系・役職名を付して射手人数の先例を示す。
永禄5年(目録) / 冊子 349~351頁/原整理番号 17
「稲荷大明神印言寫一紙」を掲げ、祈祷に用いる印文とその伝来を記す。続く社伝本文は島津氏・伊集院の戦乱や花尾社の由緒を年代順にたどる。
目録年月日記載なし / 冊子 452~453頁/原整理番号 98
穆佐の稲荷大明神宮と拝殿の寸法、祭礼日、永両村の祭祀、社殿の修補を記す。忠国が穆佐城にいた頃の建立と伝え、火災後の再建や社領の変遷にも触れる。明暦元年九月上旬に下倉永村の祝子野田新三郎が記す。
目録年月日記載なし / 冊子 462~463頁/原整理番号 109
「島陰雑著上棟銘」と掲げ、薩州城下の来院稲荷五社大明神の再興を記す。守護と社の祈願を述べ、文明十年十二月十一日付の銘文を収める。
年月日未詳 / 冊子 402頁/原整理番号 132
大口郷古木原村の稲荷社の鰐口銘を書き出す。銘には薩州牛屎院大口木崎村、天正五年八月吉日の施入、島田親辰の名がある。久仰が天保十五年九月に参詣して写したもので、鰐口は三寸七・八分という。銘の村名は木崎だが、社は古木原にあるため、考証用に記録したとする。
年月日未詳 / 冊子 85頁
浄光明寺由緒記。建久七年の寺院創建、稲荷社との関係、鎌倉から宣阿上人を迎えた経緯を記す。
建久八年三月二日 / 冊子 87頁
藤井正弘が稲荷一所と少田を借り受けた借文。借用地を他人へ処分せず、庄務の事情が整い次第、本主の沙汰に従って返付・弁済することを約束し、後日の証拠とする。
康安元年二月一日 / 冊子 19~20頁
島津氏久が祢寝右馬助に、税所の凶徒と同調する者が明らかになった情勢を伝え、八幡大菩薩・稲荷大明神にかけて信頼を示し、本末を固めて相談したいと述べた書状。
年月日未詳 / 冊子 47頁
『島津国史』が貞治六年の出来事を編年で記す。島津師久による下大隅稲荷社への田地寄進、彌寝久清への大隅西俣村地頭職・弁分の預置、稲荷社周辺での賊徒討伐を掲げ、同年の足利義詮死去と併せて在地支配と中央政局を位置付ける。
六月吉日 / 冊子 386頁
島津持久(用久)が諏訪大明神へ、鹿児島郡上伊敷流田の門田三段を寄進した文書。一段を大楽寺稲荷、二段を諏訪田に充て、彼岸の祈祷として王御拝殿で大般若経を転読するよう定める。
年月日未詳 / 冊子 529~531頁
同月二十日、島津忠昌方が飫肥の稲荷田に陣を構え、地形と伊東方の敵陣を見定めて諸隊を配置した合戦記事。薩摩守重久、北郷讃岐守、匠作、伊集院・入来院・新納諸勢が逆谷・河原方面で激戦を展開する。隊ごとの参戦者と多数の討死者を列挙し、戦場の配置と損害を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 531~533頁
同月二十日、飫肥の武多・稲荷田周辺で島津忠昌方と伊東方が近接して布陣した戦闘を記す『文明記』。北郷・伊集院・入来院・新納など各隊が地形を利用して突入と退却を繰り返し、多数の討死者を出した。翌日に軍勢が逆谷へ移陣するまでを追い、前線の変化を具体的に示す。
年月日未詳 / 冊子 777頁
多田紀伊介が兄とともに伊集院大和守の近侍となり、稲荷宮修理をめぐる密談から謀計を察知して日新公へ報告し、城方の計略を退ける助けとなった経緯を記す。
弘治四年戊午六月十四日〔永禄元年相当〕 / 冊子 60頁
樺山幸久(善久・入道安藝)が肝付弾正忠に対し、今回の雑説について、以前神判をもって始終申し合わせた趣旨に変わりはなく、今後も互いに申し開くことを専一とすると誓った契状。偽りがあれば梵天・帝釈、四大天王、堅牢地神、熊野、彦山、霧島、正八幡、諏訪、稲荷、天満宮など諸神の罰を受けるとする。
永禄十二年 / 冊子 209~210頁
永禄十二年の主要事件を編年で記す。琉球漂流民送還への謝状、相良・菱刈両氏との和睦と蒲池越中守殺害による破綻、羽月城救援、戸神尾・稲荷山の伏兵による大口勢撃破、祁答院長野城攻略、伊東軍の桶比良・田原撤退を載せる。八月以降は大口城を包囲し、相良・菱刈方の降伏を受けて質を交換、九月十八日に義久・義弘が入城し、新納忠元を大口地頭に任じた。あわせて功賞・社寺領寄進などを記す。
永禄十二年正月廿日~五月六日 / 冊子 211~212頁
前年から相良・菱刈方が求めていた和睦は、日新没後の永禄十二年正月二十日に成立した。しかし三月十八日、大口城を守る深水頼兼が平泉へ向かう蒲池越中守と従者十七人を殺し、往来は再び断絶した。島津方は羽月城に肝付兼寛・新納忠元を置き、五月六日、家久を囮として戸神尾・稲荷山の伏兵へ敵を誘導し、前田豊前守らが四方から攻めて敵首百三十六を得、一人を捕虜とした。
永禄十二年正月廿日~五月六日 / 冊子 212頁
永禄十二年正月二十日に大口方との和睦が成立したが、三月十八日に深水頼兼が蒲池越中守主従十七人を殺害し、再び敵対した。義虎が維持できなくなった羽月城へ肝付兼寛・新納忠元を派遣し、五月六日、家久が大口城下で敵を挑発して戸神尾西まで誘い出した。戸神尾・稲荷山の伏兵が前後を遮断して敵を破り、百三十六の首級と捕虜一人を得て大口方の勢力を削いだ。