島津義弘上米請取状
年月日未詳 / 冊子 799~800頁
義弘が前年分の扶持米と城米の受領状況を記し、増田長盛・早川長政・寺沢広高・石川久五郎らの取扱分を列挙する。城米三千石、五千七百五石、九百五十石を合わせ、御蔵米総計九千六百五十五石と算定する。 福島正則と毛利秀元へ提出された請取状で、朝鮮在陣軍を支えた大量の兵粮米と、豊臣政権奉行間の受け渡しを数量で追える兵站史料。
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年月日未詳 / 冊子 799~800頁
義弘が前年分の扶持米と城米の受領状況を記し、増田長盛・早川長政・寺沢広高・石川久五郎らの取扱分を列挙する。城米三千石、五千七百五石、九百五十石を合わせ、御蔵米総計九千六百五十五石と算定する。 福島正則と毛利秀元へ提出された請取状で、朝鮮在陣軍を支えた大量の兵粮米と、豊臣政権奉行間の受け渡しを数量で追える兵站史料。
文禄3年9月17日 / 冊子 808~809頁
義弘が、前年文禄二年六月に「ひらんき」で加増後の人数を改めたところ、総勢千六百六十五人であったと届け出る。 福島正則と毛利民部大輔へ提出した簡潔な人数報告で、島津軍の朝鮮在陣兵力を具体的な数字で確認できる重要史料。
慶長十一年正月九日(推定) / 冊子 53~54頁
島津義弘(惟新)が福島正則へ、山居で茶を点てて日を送る近況を伝え、一座分の畳表を所望した書状。かつて正則が望んだ呂宋犬に子が生まれたため、赤ぶち・黒ぶちの子犬各一疋を贈るとし、上京する島津忠恒(陸奥守)を引き続き懇意にするよう頼んだ。新年の祝儀として太刀一腰・馬一疋も贈り、内容を他言しないよう求めている。
(慶長十五年八月十二日) / 冊子 288頁
慶長十五年八月十二日、島津家久が福島正則に、同族の島津右馬允忠興が普請の組に加わり、格別の配慮を受けていることを謝した書状案。田舎の若輩で普請に不案内な忠興への支援を頼み、翌春の対面を期す。
年月日未詳 / 冊子 695頁
福島正則の城郭修築が幕府の糾問を受け、いったん弁明が認められたものの疑念が残り、家久が伊勢貞昌を通じて本多正純へ事情を伝え、その後秀忠が正則を改易して出羽へ移した経緯を記す。
文禄3年10月7日 / 冊子 816頁
福島正則は、周辺を警戒していた敵の番船がその夜、五、六里先の竹島まで退いたと義弘へ知らせ、ひとまず安心するよう伝える。 今後も変化があれば随時連絡すると約束する。唐島周辺で敵船の位置情報を諸大名が即時共有していたことが分かる短い海上警戒報告。
(慶長二年)七月十一日 / 冊子 115~116頁
福島正則が島津又八郎へ、高麗以来対面できず懐かしく思っていたところ、竹中貞右・松井藤介が使者として渡海するため書状を送ると伝える。渡海後の無沙汰を詫び、大閤・秀頼が息災であること、自身も当地で命じられた用務にあたりたいことを述べる。
(慶長三年)二月十六日 / 冊子 194~195頁
福島正則が島津義弘からの使札と樽一荷・一折の贈物に謝意を示した書状。見舞いに参上すべきところ東方に逗留していたため無音になったと詫び、折を見て訪問して礼を述べる意向を伝え、詳しいことは使者に申し含めたとする。
三月廿四日 / 冊子 752-753頁
福島正則が島津義弘(惟新)の正月二十四日付書状を受け、紅糸二斤の贈答に謝す。井伊直政へ懇意に働きかけ、使者の帰国後に示される意向に従うのがよいと助言し、自身も用向きに応じると述べる。
(慶長六年)七月九日 / 冊子 766頁
福島正則が島津忠恒に、和久甚兵衛と鎌田政近の談合、伊勢平左衛門らとの協議、伊集院久治・山田有信の上方召喚について助言した書状。本文はNo.1566と同文のため本箇所では省略されている。
(慶長七年)五月廿二日 / 冊子 817-818頁
福島正則が島津忠恒を迎える書状を送り、上洛があまりに遅いため心配していること、山口直友とも度々話していることを述べ、急いで上洛するよう促した。
(慶長七年)七月九日 / 冊子 824-825頁
福島正則が龍伯へ、徳川家康から島津家に異儀なしとの神文が遣わされたことを祝う。この機会に龍伯は急ぎ上洛すべきであり、正則も書状の趣旨に従って上洛すること、詳細は兵庫頭から口上で伝えるとした。
(慶長八年)二月九日 / 冊子 882頁
福島正則が義弘へ、忠恒が上方で首尾よく仕合を得て早々に帰国することを祝う。自身は上方に滞在中で、国元へ戻っても書状で祝意を伝え、上方で用向きがあれば遠慮なく申し付けるよう述べた。
(慶長八年)五月廿五日 / 冊子 895頁
福島正則が自身の帰国を知らせ、家康の将軍就任を祝うため忠恒が近く上洛すると見込む。秀頼の祝言が七月二十六日に決まったことを伝え、自身も七月初めに上洛するとして京都での再会を望んだ。
(慶長八年)十一月十一日 / 冊子 916-917頁
福島正則が島津忠恒へ、帷子五領と伽羅一斤など度重なる贈答に謝意を述べる。山口直友の指図により当面の上洛は不要とし、豊臣秀頼の祝言進物も首尾よく整ったこと、翌春の将軍上洛時には面会を期待することを伝えた。
(慶長九年)八月十四日 / 冊子 939-940頁
福島正則が島津忠恒へ、両御所前での首尾、銀子の拝領、帰国許可を祝う。上方滞在中は風聞を避けて使札で見舞わなかったと釈明し、自身の帰国時には国元から連絡すると伝え、留守中の屋敷の無事を報告した。
(慶長十年)二月廿日 / 冊子 5頁
福島正則が島津忠恒へ、前年の使者に会えなかったことを詫び、新年の祝意を伝えた書状。徳川家康が二月十九日に上洛し、徳川秀忠も十八日に江戸を出発したことを知らせ、上方で用向きがあれば遠慮なく申し越すよう述べている。
(慶長十年)八月一日 / 冊子 27~28頁
福島正則が島津忠恒に、伏見で暇乞いできなかったことを詫び、馬・太刀・沈香、塩硝三百斤・伽羅五両などの贈答に礼を述べた書状。忠恒の名馬拝領と島津義久の回復を祝い、江戸普請用の石船三百艘や船材木の準備を急ぎ、翌年三月中に上せるよう勧めている。
(慶長十一年)十二月十五日 / 冊子 101~102頁
慶長十一年十二月十五日、福島正則が島津家久から贈られた黒貂の毛皮二百枚への礼を述べ、来春の対面を喜ぶ旨を伝えた書状。駿河での普請や石船の差配、今後の連絡についても触れる。
(慶長十二年)五月廿七日 / 冊子 117~118頁
慶長十二年五月二十七日、福島正則が島津家久から贈られた国産の茶、茶入、銀子、薫袋、染織品などに謝した書状。使者・進物の扱い、町場や天候、今後の往来についても詳しく相談する。
(慶長十四年)七月三日 / 冊子 225~226頁
七月三日、福島正則が島津家久に、春の琉球派兵で戦勝し国王以下の諸官人を意のままに召し寄せた手柄を祝し、追伸の依頼については大坂の宿所方と相談すると述べ、上洛の折に伏見で詳しく承りたいと伝えた書状。
(慶長十四年)七月廿九日 / 冊子 239~240頁
七月二十九日、福島正則が島津家久に、毛利輝元旧領の端城普請が公儀に新城築造と受け取られて慎んでいた事情を説明し、家久の琉球平定を祝うとともに、上洛時に銀子調達で困らぬよう尽力すると伝えた書状。
(慶長十四年)十二月廿五日 / 冊子 251頁
十二月二十五日、福島正則が島津家久に、九月二十三日付書状への返礼と、駿府・江戸で対面できなかった事情を述べ、徳川家康・秀忠の厚遇を喜び、本多正信・正純からも委細が伝わるとした書状。
(慶長十四年)七月三日 / 冊子 279頁
福島正則から島津家久への書状。本文はNo.590と同文であるため、本巻では重複を避けて省略した旨のみを記す。
六月廿日 / 冊子 339頁
六月二十日、福島正則が島津家久に、龍伯義久の死去を聞いて驚き哀悼し、自身の病中のため直接見舞えない事情を述べ、比志島国貞・伊勢兵部にも弔意を伝えた書状。
(慶長十八年)十二月十四日 / 冊子 428頁
慶長十八年十二月十四日、福島正則が六月二十五日付の書状に返答し、息女と孫の無事を喜び、自身の娘が江戸に在府していること、将来の帰国や奉公について気遣いを述べた書状。
(元和元年)閏六月朔日 / 冊子 598~599頁
上洛と大坂の早い落着を祝し、遠路からの使札と贈物への謝意を示して、今後も変わらぬ交誼を望んだ福島正則の書状。
(元和元年)九月廿四日 / 冊子 610頁
江戸大火による屋敷被害を見舞い、焼失した家臣・屋敷の状況と再建について心配し、必要な支援を申し出た福島正則の書状。
(元和元年)十月十日 / 冊子 613頁
遠路からの懇ろな書状と八月五日付の贈物が到着したことに謝意を示し、今後も変わらぬ交誼を望んだ福島正則の書状。
(元和二年)四月二日 / 冊子 623~624頁
家久が土井利勝を通じて吉光の脇差・服・馬を拝領し帰国の暇を得たことを祝し、自身も正宗の腰物と銀子千枚を拝領して御礼に上がった際の厚遇を伝えた福島正則の書状。
(元和三年)七月十九日 / 冊子 650頁
福島正則が、島津家久が登城の際に上意によって直ちに宰相へ任ぜられることとなった栄誉を祝い、明後日の用意が整ったかを尋ねた書状。
(元和三年)九月廿二日 / 冊子 660頁
福島正則が、京都で暇乞いできなかったことを詫び、鷹目と硫黄五百斤の贈答に謝し、島津家久の拝領と松平称号・薩摩守任官を重ねて祝った書状。
九月十六日 / 冊子 51~52頁
毛利民部大輔が釜山浦へ着いたので自身も赴き、兵糧引渡しの奉行を一人寄こすよう求めたほか、鹿狩りに出た蜂須賀・福島方の者が山中で殺されたため、島津家中にも鹿狩りを厳禁するよう警告した書状。
五月三日 / 冊子 48頁
使札と御朱印を確かに受け取り、先刻の早い訪問をありがたく思う一方、自身の返礼が遅れたことを詫び、当地で暇ができ次第参上すると伝えた書状。
七月廿九日 / 冊子 49頁
種子島殿の来訪をめぐり油断しないよう念を押し、天候が良ければ奥州方面へ船を回す段取りを示し、島津義弘の腹中の病を案じて養生を勧め、贈物を釜山浦へ届けると伝えた書状。
八月十四日 / 冊子 49頁
朝の協議に島津義弘が同意して裁決を下したことを喜び、伊東民部・島津又七が到着したので両人をこちらへ立ち寄らせ、義弘も遊山を兼ねて来訪するよう誘った書状。
七月廿二日 / 冊子 50頁
島へ渡った島津義弘から早速使札を受け、出発を知らず返事だけになったことを残念がり、こもかいから戻った際には必ず見舞うとし、四国衆の交替はまだ確定していないと伝えた書状。
十一月五日 / 冊子 51頁
島津方の古米を新米へ入れ替えるよう裁定と朱印が下ったので、受取帳簿を十月二十八日付で整えて翌日日本へ渡すよう求め、毛利高政も対馬へ戻ると伝えた書状。
十月十四日 / 冊子 51頁
格別の見舞いと毎日の使札に謝し、返礼に参上すべきところ釜山浦で城米の分配に取り掛かっているため、帰還後に今回の礼を詳しく述べると伝えた書状。
十一月六日 / 冊子 51頁
島津義弘の使札を拝見し、御朱印の請取を確かに受領したことと、毛利民部大輔が帰還したことを伝え、対面時に詳しく話すとした書状。
三月廿二日 / 冊子 53頁
太刀一腰と青毛の馬一疋の贈答に謝し、上使として下国して近日佐敷まで赴くと伝え、前年の一揆蜂起に際し島津方が国境へ出兵し、御朱印に従って鎮圧した辛労を賞した書状。
閏六月十二日 / 冊子 55~56頁
島津陸奥守が上洛して二人の御所の前で万事首尾よく、多数の馬などを拝領した天下の面目を祝し、江戸の島津家族の無事と屋敷警固・火の用心の状況を報告した書状。
十月廿八日 / 冊子 56~57頁
島津陸奥守が関東で二人の御所に首尾よく拝謁したことを祝い、自身の病気で会えなかったと釈明し、井上五郎兵衛をめぐる加藤左馬助との調整が不調だった経緯を報告し、数寄屋用の畳六帖を贈った書状。
七月十二日 / 冊子 57~58頁
書状と贈物五端に謝し、前年の一揆後に音信が遅れたことを釈明したうえ、島津家の再興は井伊兵部を頼るのがよいと助言し、上方で必要となる金銀・米の調達にも協力すると約した書状。
十二月四日 / 冊子 58頁
島津少将の使者と伽羅十両に謝し、将軍から当年の上洛不要と命じられたことを祝う一方、翌春の上洛時期を山口勘兵衛に尋ね、伏見屋敷の普請や金銀の支援を申し出た書状。
年月日未詳 / 冊子 565頁
明応三年九月二十九日、福島方と志布志方の対立が激化して合戦に至ったことを記す島津忠昌譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 787~788頁
伊東氏と長倉上総介・能登守兄弟の争いに際し、島津忠広方が福島・志布志などの諸勢を集めて出陣した経過を記す覚書。清嶽・鬼山周辺での兵配置、城攻め、戦死者、援軍到着、撤収までを追い、伊東方支援に動員された大隅・日向国境軍の実態を示す。
年月日未詳 / 冊子 32頁
弘治二年九月五日、松坂野頸で釣り野伏を行い敵三人を討った。梅北宮内左衛門尉方、山田衆細田五藤兵衛方、鹿児島衆福島新左衛門方の各一人が高名を立てた。貴久は山田から松坂城向かいの尾まで馬を寄せて城の様子を見、忠将・忠平が供をした。
年月日未詳 / 冊子 462~466頁
島津久保が小田原征伐に初陣し、京都から東海道を進んで豊臣軍へ加わった経過を、日付・宿駅・部隊編成とともに詳記する。騎馬・歩卒計四百五十八人の陣容、徳川家康・細川忠興・福島正則ら諸将との行軍、韮山城・山中城など北条方諸城への攻撃、島津勢の戦死傷者や軍馬の損耗を具体的に載せる。 さらに小田原包囲、北条氏の降伏、会津・奥州方面への進軍、帰路までを連続して記し、若い久保の初陣だけでなく、豊臣軍内に組み込まれた島津軍の編成・戦闘・補給・移動を復元できる最重要級の従軍記録である。
(文禄3年)2月28日 / 冊子 675頁
在番交代のため福島正則を派遣するので、城普請を堅固に進め、小勢でも城を守れるよう備えることを命じる。兵粮は春中に順次送るため、油断なく在番するよう求める。 長期の辛労をねぎらい、詳細は交代要員の福島正則から伝えるとした城郭守備の朱印状。