新納忠元書状
6月14日 / 冊子 57~58頁
新納忠元が、伊集院忠棟から届いた書状を文箱に収めて送り、内容を確認したうえで御所へ届けるよう平田濃州の一行に依頼した書状。肥前秋月から来た使僧は東禅寺へ取り次ぐよう指示し、先に秋月へ遣わした八田に関する書状の返送も求める。文箱、寺院、使僧、家臣を組み合わせた書状伝達の具体的な経路が分かる。
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6月14日 / 冊子 57~58頁
新納忠元が、伊集院忠棟から届いた書状を文箱に収めて送り、内容を確認したうえで御所へ届けるよう平田濃州の一行に依頼した書状。肥前秋月から来た使僧は東禅寺へ取り次ぐよう指示し、先に秋月へ遣わした八田に関する書状の返送も求める。文箱、寺院、使僧、家臣を組み合わせた書状伝達の具体的な経路が分かる。
十一月廿二日 / 冊子 47頁
村田経安が、惣官職を執印職に定めた件について回答した書状。執印の子息が実際にその役を取り扱っていることは明白であり、現地で事情を披露したうえで濃州とも連絡して処理すると伝える。
三月十日 / 冊子 19~20頁
安楽兼が、各地での軍役と戦功を箇条書きにした申状。水俣・天草方面、有馬、八代、島原、岩屋、豊後の竹宮・阿蘇の竹宮などで、自力による長期奉公、番役、攻城、敵将・敵兵の討取を重ねた経歴を列挙し、奉公の実績として申告する。
文化6年己巳4月28日婚礼・6月17日襲封・7月9日謝礼・12月16日任官 / 冊子 324頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1013
文化6年己巳4月28日婚礼を行い、この時から御縁女様・若御前様と称すとの注を付す。6月17日に世子が襲封したのは父公の隠居願によると記し、7月9日に登城して大家へ太刀1腰・濃州兼常の御刀1腰・縮緬20巻・白銀100枚・御馬2疋、儲君へ太刀1腰・越中國房の御刀1腰・白銀100枚・御馬1疋を献じた。二公が襲封の恩を謝し、家臣9名も献物して同席の謁見を得、恩賞は例のとおりであった。12月16日、位階は従前のまま左近衛少将に任じられたと結ぶ。婚礼・襲封・謝礼献物・任官の四段階を分け、白銀の枚数と馬代ではない実馬の数、刀二種の各数量を保持する。
文化6年7月9日(今茲秋との記事) / 冊子 329頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1030
今茲秋7月9日、斉興が召しに応じ登城し、黒書院で大家へ太刀1腰・美濃兼常の刀1腰・縮緬20巻・銀100枚・馬2疋、亜相へ太刀1腰・越中國房の刀1腰・銀100枚・馬1疋を献じて襲封の恩を謝し、陪臣9人が先例どおり謁見した。同日、一純が斉宣の代理で登城し、大家へ太刀1腰・馬代金10両・縮緬10巻、亜相へ太刀1腰・馬代金10両を献じて隠居を謝した。重豪も物頭相良典禮長元を遣わし、檜之間で就奏者大岡主膳正忠正を通じ大家へ二種一荷、御臺へ一種一荷を献じた。忠正には老中有事により故忠正の代との原注。さらに西城の檜之間で本多豊前守正意を通じ、亜相へ二種一荷を献じた。女使歌山により大家・亜相へ鯛各1折、御臺にも拝礼し、老中・若年寄にも使者を遣わした。末記は側用人留守居事西郷八郎次房の紹介により各邸で謝礼したと記し、本マの注を付す。実馬と馬代、当主本人・一純代理・重豪使者と女使を分ける。銀と白銀を一律に改めず、次房の名や忠正代注も推測で訂正しない。
九月十一日 / 冊子 575~576頁
本田正親が旅庵老へ、濃州出陣と軍労を慰問し、長宗我部・立花両氏の軍役人数と薩摩方の人手不足に触れる。出水は国境ゆえ在国衆を置き、他方からの申入れには吉凶とも遠慮して上意を守ること、自身も出水に在宅すること、城普請・御蔵入方を油断なく進めることを報告する。追而書では庄内百日番衆への配当を主人十石・内者三石とする案を示し、惟新との談合と祈祷を頼む。
年月日未詳 / 冊子 583頁
慶長五年秋、喜入忠続が惟新君すなわち島津義弘(惟新)に従い、濃州関ヶ原へ出陣したことを簡潔に記す。
(慶長五年)十一月九日 / 冊子 611頁
島津義弘(惟新)が、濃州表の戦場以来そばを離れず国元まで供をした者たちへの褒賞として、少分ながら知行を与えるため知行目録を送る。龍伯の了承を得たうえで各人へ渡すよう山田民部少輔に命じる。
十一月十九日 / 冊子 642頁
島津義弘(惟新)が、濃州表の戦場以来そばを離れず国元まで供をした者たちへの褒賞として、少分ながら知行を与えるため知行目録を送る。龍伯の了承を得たうえで各人へ渡すよう山田民部少輔に命じる。本文はNo.1278と同文のため省略され、日付のみ十一月十九日と注記される。
元禄十四年一月十三日~三月十五日 / 冊子 261頁/整理ID 878
島津吉貴が参勤のため正月十三日に国元を発ち、家老島津中務久輝、用人村田善太夫経智・堀四郎右衛門興昌らを伴って九州を進み、正月晦日に豊州大里から乗船、二月十三日に大坂、十八日に伏見へ着き、二十一日に伏見を発って濃州路を経て三月十日に江戸へ到着した記事。同月十五日に登城して将軍徳川綱吉へ拝謁し先例の贈物を献上し、家老久輝も先例により幕府へ拝謁した。
享保三年閏十月十八日 / 冊子 365頁/整理ID 980
吉貴が琉球使節を率いて伏見駅を出発し、江州・濃州・東海道を経る道中で駅馬百匹と担夫四百五十人を手配したことを記す記事。
〈寛延元年〉十一月二十二日 / 冊子 112頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0333
宗信公御譜は、宗信が琉球使節を率い、十一月二十二日に伏見の宿所を出て江州・濃州を経る東海道を東へ進んだと記す。道中のため伝馬百匹と担夫六百二十四人を給された。
〈宝暦二年〉十一月十二日 / 冊子 378頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1146
同年十一月十二日、重年が伏見の仮館を出発し、江州・濃州を経て東海道の駅路を進んだ記事。通行のため伝馬百匹と担夫六百五人が与えられた。朱書は、寛延元年の担夫が六百二十四人であったことと、今回は請いにより十九人を減らしたことを補記する。出典は重年公御譜。
宝暦五年六月朔日 / 冊子 530頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1600
宝暦五年六月朔日、島津重年が濃州・勢州・尾州の川の御手伝普請の完了を届ける。御手伝を命じられていた場所はすべて完成し、先月二十二日までに見分も済んだと、現地から知らせがあった。小屋を引き払い、差し置いていた家来も順次引き取る旨を伝え、この経過を届けると結ぶ。署名は「御名」と記す。
〈宝暦五年〉六月朔日 / 冊子 530頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1600-1
宝暦五年六月朔日、島津重年が濃州・勢州・尾州の川の御手伝普請の完了を届ける。御手伝を命じられていた場所はすべて完成し、先月二十二日までに見分も済んだと、現地から知らせがあった。小屋を引き払い、差し置いていた家来も順次引き取る旨を伝え、この経過を届けると結ぶ。署名は「御名」と記す。
年月日未詳 / 冊子 553~554頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1667
濃州・尾州・勢州では河川や堤防が決壊し、住民が久しく水害に苦しんでいた。重年が幕命を受け、幕府の諸役人を派遣して大勢の人夫を動員し、治水を行った記事。一年を経て水路が整い、住民が水害を免れたため、その功績への褒賞として重年に時服五十領を与え、幕府の諸役にも品を賜った。重年は病中だったので松平河内守定多が名代で登城して拝領し、老中酒井左衛門尉忠寄が幕命を伝えた。継豊はそのことを聞き、書状を送って謝意を述べ、老中が奉書で返答した。出典は継豊公御譜。
文化元年6月1日初見、10月4日加冠任官(本文) / 冊子 237頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0771
近秘野帥中の斉興公の記事。文化元年甲子6月朔日、世子が太刀1腰・縮緬10巻・白銀20枚・馬1匹を献じて初御目見した。10月4日、家斉が白書院にあり、大太郎下御休息所・大広間四之間を示す注に続け、世子を黒書院へ召して手自ら加冠し、諱字を与え斉興・豊後守、従四位下侍従としたと記す。御肴・宝刀(濃州兼重)1腰を祝いとして下した。世子も家斉へ太刀1腰(大和正長)・縮緬10巻・白銀30枚・馬1疋、家慶へ太刀1腰(備中重次)・白銀30枚・馬1疋を献じ謝恩し、その他献物・拝礼は例のとおりとする。前770とは銘注を付す太刀と刀の立て方が異なるので品目を無断統一しない。原本771全文を回収し、初見・加冠授字任官・下賜と献上を分ける。
文化11年甲戌8月6日生・明治18年5月17日卒(系譜) / 冊子 442頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1377
大信公御子。種姫(シナ)・親姫・善親院と掲げ、文化11年甲戌8月6日生、母は関金蔵有富の女で族籍不詳と注する。戸田左門氏正の夫人で、氏正に濃州大垣城主の注がある。明治18年5月17日卒、法号善親院光譽延壽大姉と記す。重豪女という対応は目録による。出生と卒日・母の父名と不詳の族籍を分け、1378にある高輪出生、文政12年婚姻、天保3年改名を本抄自体の記載として移さない。
7月廿日(連署状年不記);上納条文:当酉年・来戌年・来々亥年 / 冊子 236~237頁/原整理番号 330の1/整理ID 330-1
濃州・勢州・尾州・東海道筋の川々の普請御用を仰せ付け、別紙の各家にも割り当てたので承知するよう伝える老中五名の修理大夫宛書状。この御用により今は参府に及ばないとする。七月廿日、松平信義・本田忠民・安藤信行・内藤信思・久世廣周が判を据える。続く条文では、近頃武備と領海備等で各家の入費も少なくないため、今回の川々普請御手伝の上納高のうち当酉年に半額を納め、残りを来戌年・来々亥年の二ヶ年へ割り当てるよう命じる。詳細は勘定奉行松平出雲守と吟味役立田禄助へ相談する。右一通トスの表示。総額は本文に記さない。
本文年月日不記;外包:文久元年酉9月5日 / 冊子 237頁/原整理番号 330の2/整理ID 330-2
藤堂和泉守・松平兵部大輔・松平右近将監・榊原式部大輔の四家を掲げ、濃州・勢州・尾州・東海道筋の川々の普請御用を仰せ付けたので承知するよう知らせる別紙。取計方は勘定奉行松平出雲守と吟味役立田禄助から伝えるので承合するよう命じる。右一通也の表示。本文年月日不記。外包は文久元年酉九月五日、左衛門から格護しておく旨を平田九十郎へ知らせ、白木御文書十番箱へ納めた記録。
十一月二日 / 冊子 408頁
島津龍伯が兵庫頭へ、使者を亀山へ送り和田玄蕃助を添えて返事を待っていることを報告する。南蛮船の件で使僧を差し上せ、治少の濃州検地、三兵の判断、船元や幸侃をめぐる申し入れについて、念を入れて納得させることが肝要だと述べた書状案。
年月日未詳 / 冊子 314頁/原整理番号 341
『旧伝集』所載の逸話。島原で山鹿越右衛門が高所にいた敵五、六人を一人で突き散らしたが、負傷して鑓下の首を取れずにいたところ、永井信濃守家来の侍が敵を追って首を取り、山鹿へ渡した。後年、山鹿が江戸詰めから下る途中に濃州大垣でその侍と再会し、島原での働きを互いに確認した。さらに後の通行時には侍が山鹿を歓待し、酒を酌み交わして器を贈ったとする。
正応元年(1288)~貞享2年(1685)の記事 / 冊子 390~398頁/原整理番号 4
後醍醐天皇を後宇多天皇の第二皇子として掲げ、護良・成良・恒良・尊良・宗良・懐良ら諸親王、後村上・長慶・後亀山の南朝皇統と諸王・法親王の系線を示す長大な正統系図。懐良親王については征西将軍として肥後菊池氏に迎えられ、菊池武光・武政らと大友・少弐勢を破り、大宰府を約九年間掌握したこと、明の返簡で『日本国王良懐』と記されたこと、今川了俊の九州下向後に退勢となり八代郡小野郷で没したことを詳記する。系図はさらに懐良親王の後裔とされる肥後系へ続き、相良義陽のもとで佐敷・八代方面に軍功を重ねた宗重、佐々成政の肥後統治と国人一揆、島津方への帰属、庄内合戦への出陣、慶長五年の濃州関ヶ原出陣と敗走・帰国などを、首級数・負傷・恩賞・居所とともに記録する。宗恒・頼浜・義信以下の子孫についても、肥後・薩摩での奉公、寺社への安置・葬地、出生・没年・養子関係・役職を貞享年間まで記す。末尾は村里の旧記や家伝、伊地知重英・良政の書中などを参照した旨を述べ、後醍醐天皇・皇后・征西将軍宮の霊牌と懐良親王の花押を臨写して備考とする。
文和二年七月日 / 冊子 841頁
島津実成が、山門東坂本、濃州垂井、上洛途上、江州清瀧・佐馬替・小野・武者寺・守山などでの合戦・在陣を日付順に列挙し、軍忠の証判を求めた軍忠状。各地での参陣先と戦闘経過を追える。
文和四年四月日 / 冊子 871-872頁
島津道鑑代頼兼が、島津一族の官途所望と恩賞を求めた申状。氏久以下の一族・被官の官途、濃州下向以来の軍功、道鑑の奉公、敵城追討、諸将との合力を挙げ、各人への任官・給付を求める。具体的な人名、官途、戦功を列記し、島津氏内部の恩賞配分要求を示す。
慶長五年十月九日 / 冊子 590頁
島津義弘(惟新)が北郷小兵衛尉忠泰へ、濃州関ヶ原の合戦場から片時も側を離れず、数国の難所を越えて国元まで供奉した働きを神妙の至りと賞し、刀一腰「長盛」を与える。
(慶長五年)十一月十九日 / 冊子 616頁
本文はNo.1278と同文のため省略され、日付のみ十一月十九日と記される。濃州表以来供をした者たちへの知行目録を送り、龍伯の了承を得て各人へ渡すよう命じた書状である。
〈宝暦二年〉十二月十五日~翌三年三月一日 / 冊子 385~386頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1173
同年十二月十五日、重年が老中奉書に従い琉球使今歸仁を伴って登営し、大広間で家重に先に取次の拝謁を行った記事。今歸仁は中山王の献物を捧げて家重に拝謁し、老中が厚遇する旨を重年へ伝え、重年から今歸仁へ伝達した。重年は謝礼し、家臣島津主殿久憑も家重に拝謁して太刀一腰・紗綾二巻・馬代白銀一枚を献じた。同日、今歸仁は西城でも中山王の献物を呈して謝使の勤めを果たし、多くの品を許されて拝礼し退いた。十八日、重年は今歸仁と副使・楽正・中官・楽童らを率いて登営し、大広間で楽童が音楽を奏した。家重・家治が台覧し、老中が台命を今歸仁へ伝え、今歸仁は御暇を賜った。中山王、正副使、琉球人従者にそれぞれ品物が与えられた。十九日には今歸仁が登営し、家治からも品物を与えられた。東叡山の東照宮大権現宮へ中山王の品物を奉献し、二十八日に今歸仁は江戸を発った。家老市來左中政方、用人伊集院十蔵久東・堀堀右衛門貞紀、近習役鎌田六郎太夫政方に旅装を整えさせ、東海道・濃州の駅路を経て、翌年正月二十四日に大坂で船に乗り、三月一日に薩府へ帰った。出典は重年公御譜。
〈宝暦三年〉十二月二十五日 / 冊子 432頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1332
西尾忠尚・松平武元・本多正珍・酒井忠寄・堀田正亮の老中五名が、宝暦三年十二月廿五日、松平薩摩守重年へ連署で命令を伝える。濃州・勢州・尾州の川々の御普請について手伝いを命じたので、その旨を承知するよう求め、あわせて此節は参府に及ばないと通知する。今御譜中・正文在文庫の注を持つ。治水助役の命令と当面の参府免除を一通に記す奉書であり、工事方法・担当家臣・費用・着工日・完成日を本書自体では定めない。No.1331の長文記事は同日の命令を起点として後年の実施経過を記す。
〈宝暦三年〉十二月 / 冊子 436~437頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1339
御勘定奉行一色周防守の名を掲げる達書の写。松平薩摩守に濃州・勢州・尾州川々の御普請手伝を命じたことに伴い、関係事項は相模守に尋ねるよう指示する。御用を命じられた石野三次郎・大久保荒之助については諸事を承合するよう求め、浅野左膳・新見又四郎については目付として派遣するので承知するよう伝える。御小姓組・御書院番等の所属注がある。本文には月日を記さず、目録は十二月とする。
〈宝暦三年〉十二月 / 冊子 437頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1340
薩摩守家来宛の達書の写。濃州・勢州・尾州川々の普請について町人請負などにせず、今回の目論見どおり村々の百姓に申し付けるよう命じる。また手伝側から役人を多数出す必要はなく、現場の人足数を見届け、掛引きの世話をする役人がいれば御用は足りるので、無益な人数を派遣しないよう指示する。詳しい事項は一色周防守へ尋ねるよう結ぶ。本文に日付・署名は記されない。
〈宝暦四年〉正月 / 冊子 444~445頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1364
島津重年方から一色周防守へ差し出した、治水手伝の準備と施工についての覚。本文の各条を吟味して相談し、去る二日に岩下佐次右衛門が一色の屋敷へ持参して見せたところ、各条に付紙で返答を受けたと記す。普請場所の絵図・帳面を近日中に渡されたいと願い、絵図はすでに渡し、帳面も近く渡すという返答を付す。青木次郎九郎が濃州へ帰り、正月下旬に引き渡す旨も記す。 手伝方の居小屋をどこで受け取るのかを尋ね、当月下旬の引渡しに備え、人員の名書を提出して普請所の請取役とその他の者の手当てをするよう答えを得る。各普請場の場所を知らないため、居小屋の配置について相談し、場所の差図を求める。返答は書面の趣を承知し、次郎九郎を通じて申し談ずるという。出張小屋を新たに建てるか、百姓家・寺院を借りてよいかについては、場所を見積もり、小屋を建てるか、近隣の家屋を借りるよう指示される。 普請場所の取付け時期をあわせて知らせるよう願い、二月中旬の取付けを心得ることと、人員名書を出すことを求められる。また取付け以前に一通り案内して見せてもらえるかを尋ね、引渡しの際に役々が繰り出した時、仕事が滞らないよう指示するという返答を受ける。 各場所へ派遣される幕府役人に対し、手伝方からも人を配して賃銭渡しなどを扱わせてよいかを尋ねる。返答は、普請に従う人夫について諸事を考えて選び、場所の人夫数も踏まえ、取計らう者と賃銭を渡す者について手伝方へ指示するという。押札では、人夫の差出し方、請方への申渡し、賃銭払いその他を本々役から見計らって伝えたとする。 普請を町人請負にしないよう命じられたことについて、木屋掛その他の家中用向を町人に任せる分は差し支えないかを確認する。付紙は普請請負を町人に申し付けない旨を伝え、手伝方の木屋掛その他の家中事務は、都合に応じてその地の者に申し付けてよいと答える。
〈宝暦四年〉正月 / 冊子 446頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1368
普請手伝方の人数案として小奉行三十人、歩行士百人、足軽二百人を掲げる。正月廿一日の一色周防守の指図注は小奉行人数を案どおりとし、広い普請場に対応するため歩行士三百人・足軽五百人ほどを出すのが適当とする。人数は当地方からの派遣と国元からの追派遣で賄い、不足すれば国許へ申し送る。また御用荷物と道中のため目印札を付けたいと願い、濃州・勢州・尾州川々御手伝御用の札図を示す。家中人員の道中駄賃・人馬を滞りなく出すよう宿々へ命じることも願う。提出案に対し、一色の指図は歩行士三百人・足軽五百人に増やしている。
〈宝暦四年〉正月二十一日 / 冊子 448~449頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1371
島津重年の請書案。奉書を拝見し、濃州・勢州・尾州川々の御普請手伝を命じられたことをありがたく思うと述べ、此節は参府に及ばないとの指示も承知する。御請を申し上げるため飛札を送ると結ぶ。宝暦四年正月廿一日付で、堀田相模守・酒井左衛門尉・本多伯耆守・松平右近将監・西尾隠岐守の方々の人々御中に宛てる。扣正文在右筆所及び佐々木様御案文の注を持ち、重年が署名して実際に発送した書状とはこの史料だけでは確定できない。
〈宝暦四年〉正月二十一日 / 冊子 449頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1372
重年公御譜に収める請書案。奉書を拝見し、濃州・勢州・尾州川々の御普請手伝をありがたく受け、此節は参府不要との指示も承知する。御請を申し上げるため飛札を送ると記す。宝暦四年正月廿一日付、五老中の方々の人々御中宛で、No.1371と本文・日付・宛先が同じである。「扣正文在右筆所・佐々木様御案文」の注を持ち、No.1371と同様の請書案である。
〈宝暦四年〉正月二十一日 / 冊子 449頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1373
島津重年が五老中方と大納言御方秋元但馬守方へ謝礼を取り次ぐよう願う案文。公方と大納言の機嫌がよいことを喜び、濃州・勢州・尾州川々の御普請手伝を命じられたことをありがたく受け、此節は参府に及ばないとの指示も承知する。その礼を申し上げるため使札を送り、よい機会に御前へ取り成すよう依頼する。宝暦四年正月廿一日付、佐々木様御案文の注を持ち、五老中方と秋元方の人々御中に宛てる。No.1371・1372が御請の飛札とするのに対し、本書は御礼の使札と御前取次ぎを願う点が異なる。
〈宝暦四年〉正月 / 冊子 457~458頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1389
宝暦四年正月、四箇所の普請場ごとに担当役人を掲げる名書。濃州桑原輪中から尾州神明津輪中は石野三次郎・高木新兵衛、尾州梶嶋村から勢州田代輪中は大久保荒之助・青木次郎九郎、濃州墨俣輪中から同国本阿弥輪中は浅野左膳・高木内膳、勢州金廻輪中から同国海落口濱地藏辺は新見又四郎・高木玄蕃が担当する。さらに四場を見回る吉田久左衛門を記す。各場の御徒目付と御小人目付を続けて列記し、桑原・神明津は御徒目付小知藤右衛門・原田又兵衛、梶嶋・田代は小川孫七郎・川崎市右衛門、墨俣・本阿弥は鈴木市十郎・中村忠左衛門、金廻・海落口は村山金三郎・吉田半太郎を置く。御小人目付も場別に記すが、全役人の通算人数は本書には記されない。本書では金廻の所属国を勢州と記す。行間には本書二通を御徒目付衆から受け、国元へ送る旨を記す。
〈宝暦四年〉正月 / 冊子 458頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1390
戌正月、石野三次郎・大久保荒之助・浅野左膳・新見又四郎の目付代四名が、濃州・勢州・尾州の普請御用に関する申渡しを連署する。相談は書付をもって登城して行うが、軽い用事は私宅で申し談じてもよく、御徒目付・御小人目付も問い合わせに来てよいとする。役人末々に至るまで、軽い音物も受けず、贈られた場合は直ちに返進し事情を報告する。小屋場の出火対応、材木その他の運送、人足の手配は支障を報告するよう求め、人足割出しやその他の差支えは四名のうちへ申し出る。御用金を御勘定奉行へ届ける件も四名へ知らせる。手伝方が請負人に直接指示を出さず、御徒目付立会いで御用を相談し、城内で相談する場合も各現場で御徒目付・御小人目付の立会いを承けるとする。
〈宝暦四年〉二月十日 / 冊子 460頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1394
宝暦四年二月十日、重年の御名内として岩下佐次右衛門が差し出す伺書。濃州・勢州・尾州川々の普請手伝のため国元から送る惣奉行・添奉行その他の役人が、大坂に到着してそのまま普請場へ赴くようにした旨を届け出る。今から役人を大坂へ集める予定を立てる文書ではなく、大坂到着と現場への直行を知らせる内容である。行間朱書にも書面のとおり、惣奉行・添奉行らが大坂から直接普請所へ赴く旨を記す。付記は岩下が堀田相模守・一色周防守方へ持参して差し出したこと、二月十四日に周防守から付紙の朱書どおりの指示が渡されたことを記す。二月十日の本書と二月十四日の返答を区別する。
〈宝暦四年〉二月十日 / 冊子 460頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1395
宝暦四年二月十日、重年の御名内として岩下佐次右衛門が届け出た書付の写。濃州・勢州・尾州川々の普請手伝に関し、木屋場について去る五日に青木次郎九郎から渡された書付を受け取ったことを、まず知らせる。その付書に従い、当地から差し越す人数は来る十一日・十二日の両日に出立させると届ける。宛先の付記は堀田相模守・一色周防守への届出と記す。重年公御譜中・扣正文在家老座の注を持ち、国元から大坂へ到着した役人の直行を扱うNo.1394とは、当地からの人数派遣として区別する。人数の総数・氏名は本書に記されない。
〈宝暦四年〉二月十八日 / 冊子 462~463頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1405
濃州・勢州・尾州川々の普請手伝に就く役人の一覧。惣奉行平田靱負、副奉行伊集院十藏、用人堀堀右衛門、近習役諏訪甚兵衛・伊地知新太夫、留守居佐久間源太夫・山澤小左衛門、普請奉行川上彦九郎、元〆役石川正右衛門、目付山元藤兵衛、場所奉行愛甲源左衛門・村田五右衛門・大野鐵兵衛・黒田次郎兵衛の十四名を、役職ごとに列記する。末尾は松平薩摩守名義で、朱注に宝暦四年二月十八日、堀田相模守へ差し出したと記す。重年公御譜中・扣正文在家老座の注を持ち、No.1406の伊地知・川上の本役説明と対応させる。
〈宝暦四年〉閏二月二十二日 / 冊子 463~464頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1407
濃州・勢州・尾州川々の普請手伝に就く役人の一覧。惣奉行平田靱負、副奉行伊集院十藏、用人堀堀右衛門、近習役諏訪甚兵衛・伊地知新太夫、留守居佐久間源太夫・山澤小左衛門、普請奉行川上彦九郎、元〆役石川正右衛門、目付役山元藤兵衛、場所奉行愛甲源左衛門・村田五右衛門・大野鐵兵衛・黒田次郎兵衛を列挙する。右のとおりとして閏二月二十二日、御名内岩下佐次右衛門名で結び、一色周防守へ差し出したとの朱注がある。No.1405の堀田提出本と同じ十四名を載せるが、こちらは日付・宛先・差出名義を区別する。続くNo.1408は伊地知・川上の先の申告職と本役の説明である。
〈宝暦四年〉二月二十一日 / 冊子 464頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1409
堀田相模守正亮が宝暦四年二月二十一日、松平大隅守継豊へ返答する。公方・大納言の機嫌がよいことを喜ぶ書状を披見し、同氏薩摩守が濃州・勢州・尾州川々の普請手伝を命じられたことをありがたく思う旨を承知する。書面の趣旨は各一覧と通知する。継豊公御譜中・正文在文庫の注を持つ。普請手伝を命じられた当人は薩摩守重年で、本書の宛先は大隅守継豊である。任命への継豊の謝意に答える返書である。使者・献上品、上聞・言上の明記はない。同日の秋元返書No.1410と差出人及び一覧・承知の表現を区別する。
〈宝暦四年〉二月二十一日 / 冊子 465頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1411
堀田相模守正亮が宝暦四年二月二十一日、松平薩摩守重年へ返答する。公方・大納言の機嫌がよいことを喜ぶ書状を披見し、濃州・勢州・尾州川々の普請手伝を命じられたことをありがたく思う旨を承知する。そのため重年から使者を差し越したことに触れ、書面の趣旨は各一覧と通知する。重年公御譜中・正文在文庫の注があり、重年本人の任命謝意と使者差遣に対する返書である。No.1409の継豊宛返書とは、受取人と使者の明記を区別する。使者の氏名、献上品、人数は本書には記されない。
〈宝暦四年〉二月二十五日 / 冊子 466頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1415
尾張宰相宗睦が宝暦四年二月二十五日、薩摩少将重年へ御報を送る。書状を披見し、今般濃州・勢州・尾州川々の普請手伝を命じられたとの知らせを受け、念を入れて知らせたことをうれしく思うと述べる。重年公御譜中・正文在文庫の注を持つ。幕府から治水助役を命じられたという重年の連絡への返答である。宗勝や他の老中の返書とは署名官称と日付を分け、宛名は薩摩少将殿と記す。
〈宝暦四年〉閏二月二十三日 / 冊子 468頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1422
宝暦四年閏二月二十三日、重年が参勤の途中で治水助役の普請場に立ち寄って見分したいと願う伺書。濃州・勢州・尾州川々の普請手伝場所が通路の近辺にあるので、現場を見たい旨を述べ、この段を伺うと結ぶ。御名の脇に島津重年の朱記があり、重年公御譜中・扣正文在右筆所の注を持つ。行間の御付紙には、伺いのとおり見分してよいとの許可を記す。実際の立寄日・見分の結果・滞在日数は本書には記されない。
〈宝暦四年〉正月二十一日ごろ / 冊子 468頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1423
松しま・いは橋・うら尾・たきつ・さえたの五名が、松平薩摩守様方の人々へ返す消息。正月二十一日付書状を受け、公方・大納言の機嫌がよいことを喜ぶ意向を承知する。濃州・勢州・尾州川々の普請手伝を命じられ、この節は参府に及ばないと伝えられたことをありがたく思い、大納言へ御礼を申し上げた趣旨を、よろしく申し上げると述べる。冒頭のなお書にも御表から御礼を申し上げた旨を承知し、よく伝えると記す。正月二十一日は受け取った書状の日付で、返書自身の日付はない。署名は最初の段に松しま、次の段に他の四名が続く。宛所は「方人々御中」である。
宝暦五年六月十二日(目録)/十三日(本文) / 冊子 533~535頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1613
義岡相馬・嶋津主鈴・伊集院十藏が嶋津主殿・鎌田典膳へ、川普請成就の届出、時服の拝領と御礼の手配を報告する。六月十一日に堀田相模守へ届け、十二日に一類の松平河内守が名代として登城し、濃州・勢州・尾州の普請手伝に対する時服五十を拝領したため、重年の病気中の御礼は家来・使者・御文で勤め、公方・大納言への御文と隅州の表向・内証の御礼、菊姫からの御礼の取次を相談する。京都・大坂・長崎、隣国・御三家・一門・近衛家への通知を手配し、老中へ太刀・金馬代一枚宛、縮緬三十巻、二種千疋宛、若年寄へ二種千疋宛、勘定奉行一色周防守へ太刀・金馬代、縮緬二十巻、白銀百枚を贈る品として列記する。隅州・姫君の使者と家老諸士の祝儀は先例を相談して追って知らせるとし、隅州・女中方への報告を求め、御奉書写一通と届書写一通を添える。本文の日付は六月十三日で、目録は十二日とする。
天明七年正月二十九日・二月十五日・十九日・三月十八日・四月朔日 / 冊子 943~944頁/原整理番号 2572/整理ID 2572
「近秘野帥 斉宣公」の出典表示を伴い、天明七年の公辺関係の出来事を記す。正月二十九日に世子が封を受けたとし、二月十五日には斉宣が登城して太刀一腰・御刀一腰(濃州兼定)・縮緬二十巻・白銀百枚・御馬二疋を献上し、襲封の恩を謝したという。あわせて家臣九名が進物を献上する。島津兵庫久徴・島津伊賀久金・市田勘解由盛常・島津登は巻物各五と御馬代銀を、大島休左衛門久皐・松崎次左衛門貞儔・岸喜右衛門章彬・郡山権蔵長矩・谷村孫右衛門は巻物各三と御馬代銀を献じ、大家に陪謁し、例のとおり恩賞を受けたと記す。二月十九日に斉宣が初めて短袖となり、三月十八日に左近衛少将へ任じられたが位階は従前のままで、四月朔日に登城して謝恩したと続く。
文化11年甲戌8月6日生・文政12年2月9日婚・天保3年11月改名(系譜) / 冊子 442頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1378
近秘野抄・重豪公御子女子。種姫(シナ)・親姫(チカ)を掲げ、戸田伊賀守氏正夫人とし、氏正に濃州大垣城主10万石・采女正氏庸嫡子の注がある。文化11年甲戌8月6日に高輪で生まれ、母は関金蔵有富の女とする。下段へ続き、文政12年己丑2月9日に戸田氏へ嫁し、天保3年壬辰11月に親姫へ改名したと記す。上段の人物・出生記事と下段の婚姻・改名を一件に連結する。1377の明治18年卒・法号とは記載の範囲を分け、本書にはない卒日を補わない。