殉国名薮
年月日未詳 / 冊子 104頁
永禄五年の郡山および六月三日の横川城合戦などで戦死した島津方の武士を列挙する殉国名簿。尾辻佐左衛門尉、貴島図書助をはじめ各地の従軍者名を伝える。
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年月日未詳 / 冊子 104頁
永禄五年の郡山および六月三日の横川城合戦などで戦死した島津方の武士を列挙する殉国名簿。尾辻佐左衛門尉、貴島図書助をはじめ各地の従軍者名を伝える。
(永禄五年)三月十八日 / 冊子 104頁
飫肥を伊東氏へ、志布志を肝付氏へ渡して福島へ退いた島津忠親が、永禄五年九月十七日夜に飫肥城へ忍び入り、伊東方百余人を討って城を奪回した経過を記す。冒頭の『弘治七年壬戌三月十八日』は、本文注記により永禄五年の誤りとされる。
永禄五年三月四日 / 冊子 105頁
永禄五年、国家安全と民衆の安楽を祈るため、三月四日から福昌寺で一万部の法華経を読誦し、代賢和尚が修行したことを記す。
永禄五年仲秋 / 冊子 118頁
田布施常珠寺に伝わる妙法蓮華経巻第八の奥書。永禄五年仲秋、薩摩国加世田庄の大願主・在家菩薩日新が法華経八巻を寄進したことを記す。
永禄五年九月十八日 / 冊子 118頁
永禄五年九月十八日、島津尾張守忠親が策をめぐらして飫肥へ向かい、伊東勢を攻めて勝利し、再び飫肥の領地を取り戻したことを記す。
永禄五年十一月吉日 / 冊子 119頁
島津貴久が法華経十部を寄進し、八角形の金塔に納めて御嶽社内に安置したことを記す金蔵院の書出。塔銘には貴久の奉納名、三千番神・十羅刹女と永禄五年十一月吉日の年紀を載せる。
永禄五年十二月十九日 / 冊子 119~120頁
島津良久が永禄五年十二月十九日に日向国広原で生まれ、母は伊東義祐家臣福永入道月甫の長女であったことを記す。天正二年、十三歳で広原八幡宮において元服し、又三郎良久と称した。
年月日未詳 / 冊子 101~102頁
永禄五年、伊東義祐・肝付兼続の攻勢で島津忠親が飫肥・志布志を失った情勢と、真幸院北原氏の家督争いを記す。島津方は北原兼親の飯野復帰を支援し、横川城を攻略して菱刈氏へ与え、栗野・飯野方面の支配を固めた。
年月日未詳 / 冊子 103頁
島津忠親が伊東方との和睦条件に従い、永禄五年二月二十二日に志布志を伊東方経由で肝付氏へ渡した。五月十八日には飫肥も伊東方へ引き渡して忠親が櫛間へ退き、日置・柏原両氏には南郷三百町が与えられた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 103頁
永禄五年三月四日から福昌寺で国家太平を祈る一万部法華経が行われ、代賢が焼香し貴久が檀那となったことを記す。さらに飫肥の伊東方への引渡し、忠親の反攻、六月三日の横川城攻略、義久の栗野越年を載せる。
年月日未詳 / 冊子 105頁
島津尚久が永禄五年三月一日に三十二歳で死去し、法名を曇秀、号を一枝、陽広山曇秀寺殿と称したことを記す。家臣尾辻源八が追腹殉死し、尚久の娘が島津義久の前室となった系譜情報も載せる。
年月日未詳 / 冊子 107頁
北郷氏が約三十年間にわたり伊東氏と戦った軍功への賞として、永禄五年五月に末吉三百五十町が北郷時久へ与えられた。土持摂津助を地頭とし、のち忠虎を末吉へ移し、梅北も飫肥後援のため時久に付属させた。
年月日未詳 / 冊子 107頁
永禄五年六月三日、横川城の北原伊勢介・新介を討つため義弘・歳久を大将として攻撃した。新納忠元・伊集院久春らが奮戦し、歳久も負傷しながら城門へ攻め入り、北原父子を討って城を陥落させ、横川を菱刈氏へ与えた。
年月日未詳 / 冊子 107頁
永禄五年六月三日の横川城攻防に参加した島津方の従軍者と働きを列記する交名。箕匂舎人佐・村田雅楽助・瀧聞美作守・本田刑部丞らを挙げ、濱田民部左衛門が敵七人を切り捨てたことなどを記す。
年月日未詳 / 冊子 111~112頁
永禄五年六月三日、島津義弘・歳久を大将として横川城を包囲した戦いを詳記する。新納忠元・伊集院久春らが攻め、北原伊勢介・新介が戦死して城が陥落し、横川は菱刈氏へ与えられ、北原兼親は栗野を島津方へ献上した。
年月日未詳 / 冊子 113頁
真幸院主北原兼守の死後、横川城に拠って島津方へ背いた北原兼正を討つため、永禄五年六月三日に義弘らが出陣した。新納忠元は伊集院久春と先登し、城門で槍を振るって負傷しながら城を陥落させた。
年月日未詳 / 冊子 113頁
真幸院主北原兼守の死後、北原兼正が横川城に立て籠もったため、永禄五年六月に島津方が攻撃した。歳久を大将とする軍勢の中で、新納忠元は伊集院久春と先登し、城戸で槍を合わせて城を攻め落とした戦功を記す。
年月日未詳 / 冊子 118~119頁
日置・柏原両氏ら三十六人が神判して時機を待ち、永禄五年九月十七日夜に忠親勢とともに飫肥本城へ侵入した経過を詳記する。伊東方の守兵と各門で戦い本城を奪い、翌十八日には酒谷城も落として、忠親が再び飫肥へ入部した。
(永禄五年)二月廿五日 / 冊子 103頁
真幸境の雑説に対処して在陣を続けるよう老中から命じられ、義弘が支度したところ、大夫殿から独断で続行しないよう申し渡されたため、自身では判断できないとして使者を送り、蒲生美作守に詳しい返答と披露を求めた書状。
永禄五年三月吉日 / 冊子 105頁
薩摩国伊集院のうち、修理田・野田名・上原・加藤先・大谷などの田地を寄進するため、坪付を示した島津氏老臣四名の連署文書。
永禄五年三月十六日 / 冊子 105~106頁
郡の金鐘寺を新地に建立して当年秋中に移し、寺職を改めて旧門派へ帰付することを認めた島津氏老臣四名の連署状。
永禄五年五月吉日 / 冊子 106頁
日新が頴娃山城入道との信頼関係について、合意した条項を守り、他方からの妨害や中傷を信用せず、両者の間に雑説が生じた際は直接問い合わせて確かめると神々に誓った起請文。
永禄五年五月吉日 / 冊子 106頁
忠平が川上経久に対し、島津家への奉公について互いに覚悟を固め、隔意なく相談することを望み、取り決めを長く他言しないと誓った起請文。
永禄五年四月廿九日 / 冊子 106~107頁
義久が頴娃山城入道に対し、今度の雑説をめぐって互いに疎略なく、敵方がどのような計略をめぐらしても同心せず、世上がどう変化しても一味して奉公し、相手に謀略を用いないと誓った起請文。
永禄五年六月十六日 / 冊子 114~115頁
島津義久が六月三日の大隅横川合戦で喜入季久が奮戦し、配下の者も多数粉骨したことを比類ない名誉であり神妙であると賞した書状。
永禄五年六月廿日 / 冊子 115頁
樺山玄佐が自身への無実の讒言について直接糾明されたことに感謝し、樺山家十一代にわたり守護へ不忠をしていないと述べた起請文。今後も終始一貫して忠節を尽くし、雑説があれば天道に従って弁明すると誓う。
永禄五年六月廿一日 / 冊子 115頁
島津貴久が歳久に対し、横川城戸口で太刀打ちして負傷しながら尽力したことを賞し、手負いの具合とその後の容体を案じて知らせるよう求めた感状。
永禄五年六月廿一日 / 冊子 115~116頁
伊集院忠朗ら島津・北原・相良方の関係者が、将来にわたり合意を違えず、世情が変化しても不安を抱かせず、和議に関する雑説が生じた際は互いに申し知らせると神々に誓った連署起請文。
永禄五年六月二十六日 / 冊子 116頁
島津貴久が樺山玄佐に対し、近時の雑説を信用せず、玄佐の度重なる忠節と助太郎の死を忘れていないと述べた起請文。今後も玄佐父子を疎略に扱わず、雑説があれば何度でも互いに説明すると誓う。
永禄五年七月廿四日 / 冊子 116~117頁
伊集院孤舟が球磨から届いた複数の書状への返答や使者の扱いについて肝付氏へ相談した書状。球磨との恩義を鹿児島へよく相談し、真幸の所領問題と横川を菱刈氏へ与える方針を伝えるよう求め、旅宿へ酒も贈った。
永禄五年八月吉日 / 冊子 117頁
相良頼房が北郷氏に対し、将来にわたり合意を違えず、世情が変転しても不安を抱かせず、和議に関する雑説が生じた際は互いに申し知らせると神々に誓った起請文。
(永禄五年)八月二日 / 冊子 118頁
忠平が飫肥方面への出陣予定について知らせた書状。当初は兵糧を籠める程度と聞いていたが、日新の度重なる意見を受け、両陣役を終えたうえで全軍を率いて越山する案を協議中であり、軍勢が順次上ることは確実だと伝える。
(永禄五年)十二月廿三日 / 冊子 120頁
義久が飫肥・志布志南口の問題を一途にまとめるため、関係者と内談するよう三原重益へ求めた書状。忠親が急な戦況にあるため、飫肥内の所領調整で一時難儀を延ばし、伊東方が和融しなければ肝付方を通じる策も検討するよう指示する。
年月日未詳 / 冊子 103~104頁
伊東勢が本城・酒谷を攻略したため、島津忠親が飫肥南郷を伊東氏へ、志布志を肝付氏へ渡して福島へ退いた経過を記す。忠親は九月十七日夜に飫肥城を奇襲して百余人を討ち、翌日酒谷城も奪回し、北郷時久には末吉三百五十町などが与えられた。
年月日未詳 / 冊子 115頁
北原兼守死後、白坂氏・樺山玄佐らが北原兼親を球磨から迎えて家督を継がせ、踊・栗野・吉松などを島津方へ従わせた経過を記す。永禄五年六月三日の横川城攻めでは歳久が義弘と大将を務め、城門へ攻め入って負傷した。
年月日未詳 / 冊子 111~113頁/原整理番号 22-1
舒明天皇・天智天皇・大友皇子を起点に伴姓の祖系を示し、兼経・兼益以下の肝付氏と庶流を配する系図。萩原・救仁郷・安楽・検見崎・北原・和泉・岸良・野崎・川南・鹿屋・小野口・山下など各氏の分出を明記する。兼尚が鎌倉在府中、兼重が留守・番代を務め、その子秋兼が兼尚の養子となって嫡家を相続した経緯を載せる。後段では兼続(法号省釣)の永正八年誕生、永禄五年の松山・志布志知行、永禄九年十一月十五日の志布志での死去、良兼・兼勝・兼樹・兼包・兼政らの続柄を記す。兼政は早世した良兼の娘を妻として嫡家を相続し、慶長五年九月十五日に美濃国関ヶ原で戦死したとし、兼元の島津元久上京供奉や兼忠の頴娃拝領にも触れる。
天文12年3月27日 / 冊子 674~678頁/原整理番号 157-7
天文十二年三月二十七日、牛屎平次郎実元が『大平家覚書系図一通』として家の由緒を記した覚書を起点とする最終の系図記事。永禄五年に貞幸院司北原兼隆が早世した後、当家一族が忠平公へ奉公し、栗野へ移ったことを記す。後続の元秋・重綱らの条には、天正六年の日州高城での大友軍との合戦、肥前・筑州などへの出陣、義弘公の供奉、栗野・飯野・帖佐・加治木等への居住地の移動が記される。さらに元貞ら子孫の軍役や恩賞、嫁入り・養子・改名、子女の出生・没年を正徳年間まで書き継ぎ、末尾には系図の人名上の丸印と罫線が朱書であると注記する。天文十二年の実元覚書と後代の追記を一つの同時成立文書とみなさず、系図の記述として扱う。
永禄五年正月廿一日 / 冊子 102頁
日新が新納康久の従来の忠節を忘れていないと述べ、廻陣で子の文八郎順次が戦死した悲嘆を慰めた書状。弟弥五郎に家を継がせることを了承し、鹿児島へ上申し、自身からも取り成すとして後亀の鏡を贈った。
(永禄五年)三月十六日 / 冊子 105頁
金鐘寺の門役が断絶した件について、二度の書状を受けた島津貴久が、代わりの役を立てて寺職を旧来の門派へ返付すると回答した書状。詳細は福昌寺から伝えるとしている。
(永禄五年)六月四日 / 冊子 114頁
島津貴久が相良氏の計らいによって北原兼親を真幸院へ入部させられたことに満足を表し、横川城も容易に切り取れたのは相良氏の尽力によるとして謝意を伝えた書状案。
(永禄五年)十月二日 / 冊子 119頁
島津義久が北郷氏と肝付氏との国境で和融の動きがあることを肝要と評価した書状。肝付方が島津家の鬱憤を懸念しても、今後真実に親交するなら島津家に執着や遺恨はないと伝え、納得を求める。
明応二年、弘治二年、永禄元年三月十九日、永禄五年五月、天正十七年五月二十五日、慶長五年九月十五日、明暦四年三月二十四日 / 冊子 481~482頁/原整理番号 19
平田重宗から分かれたと伝える狩野之助家の系譜・軍歴・知行記録。筑前守宗勝は日州福島で戦死し、日置美濃守久遂の二男・出羽守宗仍は末吉地頭として居住した後、貴久に召し出され先代同様に家老職を務め、永禄元年三月十九日の肝付勢との宮ヶ原合戦で子の虎五郎と家人六名とともに戦死した。弘治二年生まれの平次郎狩野之助は七歳で北郷家へ付され、のち鹿児島へ戻って日州本城地頭・近村五十余町を与えられ、肥後・豊後、豊臣秀吉の九州攻め、庄内の戦いで奉公したが、慶長五年九月十五日に関ヶ原で四十五歳で戦死した。二男源太は飫肥方面の戦いで福島内市木にて戦死し、宗弘は宗應の跡を継いで羽月・日州野尻の地頭を務めたことまで記す。