三原重庸書下
寛永四年正月廿五日 / 冊子 29~30頁
三原重庸が、検分済みの仕明地の石高をそれぞれ領主の持高へ加えるよう命じる。老中も差出書を閲覧しており、後日の境界・権利争いはこの文書を証拠として裁定するよう定める。
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寛永四年正月廿五日 / 冊子 29~30頁
三原重庸が、検分済みの仕明地の石高をそれぞれ領主の持高へ加えるよう命じる。老中も差出書を閲覧しており、後日の境界・権利争いはこの文書を証拠として裁定するよう定める。
(寛永三年)十一月廿三日 / 冊子 25~26頁
新納忠清・本田親吉が、当地の人々が当年の出物を皆済したことを確認し、倉衆から受取状を使者へ渡したと知らせる。百姓一分の出銀については、従来どおり申し付けておくよう指示する。
寛永五年四月廿四日 / 冊子 34~35頁
新納忠清が、平野六郎左衛門主従四人と美代主殿助主従三人の国元帰還に際し、当月分の賦銀、海道十五日分の賦銀、二十三日までの飯米を当地で渡したことを報告し、以後の海道飯米代銀の処理を依頼する。
(寛永五年)四月廿四日 / 冊子 68頁
新納忠清が、平野六郎左衛門尉主従四人と美代主殿主従三人の国元下向に際し、当月分の賦銀、海道十五日分の賦銀、前日までの飯米を当地で渡したと報告する。今後の海道飯米代銀は受取側で手配するよう求め、同日出立した旨を知らせる。
(寛永九年)六月廿五日 / 冊子 289~291頁
新納忠清が、加藤忠広改易後の肥後情勢を探るため現地へ人を遣わし、熊本城受取衆が未確定であること、竹中采女正の使者、城内の掃除・普請、蔵米、加藤右馬允や城明渡しをめぐる風説、隣国からの偵察、情報収集者への日当銀などを逐条報告し、調査費用の銀子支給を求めた書状。
(寛永九年)七月十二日 / 冊子 295頁
新納忠清が有村隼人に、肥後からの風説を出水経由で聞いたため、事情を念入りに聞き合わせるよう命じた機密書状。熊本周辺の動向、百石までの者が馬に乗って退去するとの風聞、秋月勢の出立などを報じ、他言せず読後は火中に投ずるよう求めた。
(寛永九年)七月廿三日 / 冊子 297~298頁
新納忠清が、熊本へ置いた情報収集者の帰還報告として、幕府上使が七月二十一日に熊本へ到着し、同日川尻に一宿して翌日に八代へ向かったこと、多人数を伴ったことを伝えた。上使が薩摩境を通る場合に案内役を務めるため、携行させる兵具の数量について指示を求めた書状。
(寛永九年)八月廿七日 / 冊子 314~316頁
新納忠清・最上義時が、琉球から唐へ渡る進貢船・冠船等の運用について定めた連署条書。御借銀返済、船数と往復時期、船主・勘使の選定、銀子・荷物・糸の管理、漂着・破船時の処置、唐への渡航者の統制などを詳細に指示した。
(寛永十五年)三月八日 / 冊子 790頁
寺原早介重幸が家久死去の際に殉死を願ったが止められ、その志により後の御供を許されたこと、七周忌に島津久慶から追悼歌の短冊を受け、現在も所持することなどを伝えた新納忠清の書状。
(寛永十五年)六月十三日 / 冊子 810~811頁
田舎茶を贈り、有馬落城の際に城近くへ赴いた体験や旧寺領との関わりを述べ、帰国後に対面して当時の事情を詳しく語りたいとの希望を伝えた新納忠清の書状。
寛永十六年正月十二日 / 冊子 1頁
新納忠清が二之宮伊與に、高一石五斗を飛諏訪の祭田として知行に付置き、祭祀を堅固に執り行い、諸出物なども怠りなく処理するよう命じた宛行状。正文は大口郷の二之宮氏に伝来したとの注記がある。
寛永十六年正月十二日 / 冊子 1~2頁
原田村川くぼの田地について、下田四畦十五歩、金助に関わる籾高などを掲げ、外略分を合わせて籾・大豆四俵四升、高一石五斗とする知行目録。これを飛諏訪の祭田として二之宮伊與の知行に付置き、祭祀と諸出物を怠りなく勤めるよう新納忠清が命じている。
正月廿八日 / 冊子 2~3頁
新納忠清が伊勢貞昌に、島津光久の参府に供奉する息子刑部の指導を頼むとともに、自身の知行・加増問題で外聞を失い、奉公を続けにくい窮状を訴えた書状。昨秋以来返答のない件について、他の重臣やその子が加増地を保持する例を挙げ、大口国境の衆中を預かる立場から、明確な沙汰と取り成しを求めている。
寛永十七年二月廿六日 / 冊子 102頁
新納忠清が類右衛門へ、赤田村の仕明地にある田畠を知行として支配させ、後年の軍役・諸出物などを怠りなく勤めるよう命じた知行目録。
「寛永二十年」六月廿六日 / 冊子 242頁
新納忠清が、江戸から帰国した新納忠秀への賀使が出されていないことをたしなめた書状。忠秀が鹿児島へ帰着して日が経つのに、任地の衆中から慣例の見舞い・祝賀使がないのは面目を失うとし、刑部が無事帰国したことにも触れつつ、衆中から一人の使者を立てるよう求める。あわせて係争がまもなく解決する見込みを伝えている。
八月廿一日 / 冊子 66頁
新納忠清・肥後盛行・大寺政安が、大脇舎人佑の知行高十四石の算入先について連署した書状。当初は相手方の高へ籠めるよう伝えたが、改めて山田民部少輔を通じて当地の高へ算入せよとの命が出たため、その処理を通知する。
正月十四日 / 冊子 66頁
頴娃久政と新納忠清が、唐物屋千左衛門・帯屋四郎兵衛尉・下人長五郎の三人に宮内八幡参詣のための書状を付した連署書状。参詣先以外の在郷へ立ち寄らないよう厳命することを求める。
三月廿八日 / 冊子 70頁
新納忠清・高崎能乘・山田有榮が、伊作中之里名の門内屋敷・加治屋屋敷・西中間屋敷の三人付について、會木新左衛門尉へ尋ねたいことがあるため、急ぎ参会させるよう求めた連署書状。延引しないよう念を押す。
七月十三日 / 冊子 71-72頁
新納忠清と高崎能乘が、鍛冶・番匠衆の知行に関する依頼へ回答した連署書状。御老中衆が聞き届けるべき案件であり、自分たちの支配所はすでに離れているため、直接御老中衆へ申し上げるよう勧める。
十月十六日 / 冊子 90-91頁
新納忠清が司馬老・自閑老に、遠路からの書状への礼を述べ、道純作の籠について以前取り次いだ件の首尾を尋ねた書状。当分当地に滞在しているため喜入休右衛門尉にも書状を送り、詳しく言い含めるよう求める。道純の病状が快方に向かわないことを惜しみ、今月中も変わらなければ翌月早々に鹿児島へ赴いて世話をすると述べる。
(寛永十一年)四月廿三日 / 冊子 419頁
正八幡の神領総高のうち三分一を中途で配当し、社家中の持高十石までを算用に応じて配分し、小高の者は所中で配分することなど、神領の上地・返地と知行配当を定めた連署覚書。
(寛永十一年)八月廿四日 / 冊子 447頁
高岡浦名石城山西福寺の免許屋敷について、屋敷五畝八歩、粟・大豆一俵五升(高四斗一升六合)を記し、検地帳に載る屋敷であっても寺役・掃除などを怠らない限り免許地として相守るよう定めた宛行状。
寛永十三年十二月廿一日 / 冊子 569~570頁
川内新田村内の九斗五升余の土地について、江川久右衛門尉の居屋敷との関係から別の高の内へ給付され、二重に籠成となって寛永十二年以来不足しているため、今回支配するよう求めた覚書。
(寛永十五年)正月十三日 / 冊子 733頁
島原軍勢へ渡す飯米に関する人数指出の写し。人数七十六人、そのうち夫丸十八人、乗馬一疋とし、新納次郎四郎が加わる場合は別に指出を提出すると記す。
『寛永十六~十八年頃』八月十五日 / 冊子 140頁
新納加賀守忠清が、廻国の聖を領内でどのように扱うか国元役人へ問い合わせた書状。通手形を持って到着し、羽月若王寺へ経納に向かう聖に一人を付き添わせ、菱刈九左衛門を遣わしたと聞いたことを記す。このような修行者を内場へ通すことは法度であるため、鹿児島へ連行して指示を仰ぐ案を示し、薩摩・大隅・日向での巡回を終えた者なので最終的には下知に従うとしている。本文年紀注は「寛永十六、十七、十八比カ」、インデックスは「寛永十七、十八年比」で、八月十五日は一致する。
寛永十一年十二月朔日 / 冊子 462頁
包丁役に関係する三名の知行について、切米返地として十五石・三十石・二十一石を割り当て、役替わり時の返還を前提としつつ、当時の知行逼迫を理由に二十五石を加えて合計五十石を支配させる旨を記した覚書。
天正二年・慶安五年 / 冊子 327頁
篠原普賢院の系譜と愛宕坊普賢院の由緒を記す。慶安五年に大口愛宕座主の開基として小院号を定めたこと、当時の大口地頭が新納忠清であったこと、天正二年に忠元が愛宕像を建立・勧請した旧事を載せる。
年月日未詳 / 冊子 240頁
寛永八年十月二十八日、翌春に明国王の冊封使が琉球へ渡来するとの知らせを受け、島津家久が必要な用務のため新納忠清と最上義時を琉球へ派遣したことを記す家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 297頁
七月二十三日、大口の宰新納忠清が川上久国・喜入忠続へ書状を送り、肥後から帰った者の報告として、熊本城・八代城を収公する幕府上使が七月二十一日に到着したことを伝えたとする家久譜の記事。後掲No.553の書状内容を要約する。
寛永十二年二月十日 / 冊子 472頁
使役を命じられた新納忠清・頴娃長左衛門・本田伊予守・野村大学助・川上又左衛門尉・相良杢助・伊東式右衛門尉らについて、各人の石高と御役分を列記した連署引付。
年月日未詳 / 冊子 106頁
慶長十二年丁未、二月四日に新納忠元の子安満加が元服し、次郎四郎忠清と改名したことを記す。忠清は十三歳であった。
(慶長十二年)正月十五日 / 冊子 106頁
新納拙斎(忠元)が、安満(安満加)の元服を翌月四日の丁酉に行い、出立日は二十九日が吉日であると伝え、肥後仲右衛門尉・当木将右衛門尉へも知らせるよう求めた書状。銀子の拠出期限や調達・立替えについて相談し、先に出立した際の内方に関する用件への返答を求める。追而書では、火の用心や馬の飼育などについて指示する。
(寛永八年)十月廿八日 / 冊子 240頁
島津家久が、翌春に明国王の冠船が来航すると聞き、必要な用務を命じた新納加賀守忠清・最上土佐守義時を派遣するので十分に相談するよう求め、口上と贈物を託した書状。
(寛永九年)八月晦日 / 冊子 316~318頁
島津久元・伊勢貞昌が、琉球の冠船参候に伴う黄門様の座席・贈答、琉球銀子の取扱い、種子島殿への知行加増と軍役、茶入・藤堂殿関係の品、種子島への蔵入四千斛の処置などを指示した連署書状。
年月日未詳 / 冊子 606~608頁
新納忠泰の四男孝時を祖とする支流系図。市来城退去後に日新公から日置九十町を提示されても二君に仕えるのは士道に反すると辞退した忠苗の逸話、清水・馬越での戦死、忠成以下の生没年・母方・養子関係を記す。
年月日未詳 / 冊子 628~632頁
忠清流の養子相続と復姓を中心とする新納氏支流系図。忠清と嫡子が新納家を離れたため池田貞寧の二男忠季が跡を継いだこと、久重が池田氏へ戻った後は是枝氏出身の半六が継ぎ、時章・時寧へ続く経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 650~652頁
新納友義の三男忠光を祖とする支流系図。忠光が志布志落城後に島津忠幸へ仕え阿多地頭となったこと、久時父子の牛根・岩屋城での軍功と高城での戦死、久宣の朝鮮・庄内陣、焼亡による重器文書喪失、久宗の奏者番・御用人歴を記す。
正保二年一月十日 / 冊子 1頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0001
新納忠清が、金山外垣の縄結いと朽木の取り替えを二十日までに修理するよう各地の役人へ命じた廻状。定番衆の指図に従い、普請衆が欠けないよう主人を付けて堅固に施工し、鹿児島からの検分にも備えるよう求める。
正保二年四月十四日 / 冊子 11~17頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0020
新納忠清が父祖・新納忠元の軍功をまとめて提出した覚書。忠元が島津氏に属して以来、吉田・大口・湯之浦・水俣・高城・豊後など各地の籠城・合戦・追討・降伏交渉に従事した経歴、負傷・知行・召状等を年代順に詳述する。
正保二年十二月十六日 / 冊子 31~32頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0052
新納忠清が、大和守関係の者に遭遇して負傷者が出た件につき、事情聴取と処置、関係者の養生・赦免の取次を求めた書状。
正保三年四月七日 / 冊子 38頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0066
新納忠清が、和泉守の鹿児島行きを承知し、万事怠りないよう依頼する。伊主膳正の煩気が早く快復したことを喜ぶ。馬関田との境出入は鹿児島奉行所から指示を得て処置したが、今後難しくならないよう行司衆にも堅く申し渡し、重ねて相談するよう求める。宛先は川野与右衛門・西田和泉守・白坂大炊左衛門。
慶安四年十一月十九日 / 冊子 205頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0403
坪村の年貢高・知行分について申理を認め、当毛から取納してよいことを証した新納忠清の証状。
年月日未詳 / 冊子 241頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0501
承応三年二月十七日に新納忠清へ殉死した者として、丸田元心・山下慶右衛門・金丸宇右衛門・牧山清兵衛を掲げ、大口衆または忠清家臣である旨を注記する記事。
(寛永9年)7月12日 / 冊子 16~17頁/原整理番号 17
新納忠清が、肥後・球磨の情勢を油断なく聞き合わせて報告するよう有村隼人佐へ命じる。肥後では百石までの馬乗が上洛するとの風聞があるため宮原景之・新納忠秀にも伝えるよう求め、他言を禁じて即時焼却を指示する密書である。
寛永十五年六月十三日 / 冊子 393~394頁/原整理番号 496
新納忠清は一老衆へ田舎茶を贈り、有馬落城時に城近くまで赴いたこと、刑部太輔の戦死や親弥太右衛門の鑓働きは周知であることを述べる。自身も軍神や祖先の加護で好機に立ち会い、寺領の身ながら一世の本望を遂げたとし、久しく会えなかった相手と対面して昔語りをしたいと近況を伝える。
寛永十九年九月十七日 / 冊子 14~15頁/原整理番号 6
勘定所の伊集院久真と新納忠清が加久藤の衆中へ、無跡衆の未進分や算用の済否を調べ、誰が何月に納め、何月に算用を終えたかを書き出すよう命じる。帳面や古い書付も調べて不明分を報告し、九月十二日の指示に続く処理を進めるよう求める寛永十九年九月十七日付の達書である。
正保二年十二月十六日か / 冊子 88頁/原整理番号 43
新納忠清が新納二右衛門へ、大和守久章の件で谷山に赴いた際、不慮の襲撃で数か所を負傷したと聞き驚いたと伝える。遠方のため見舞いに行けないが、傷の具合を尋ねて養生を勧める十二月十六日付書状。
寛永十二年十二月十五日 / 冊子 507頁
鹿児島町奉行の新納加賀守(忠清)が島津弾正へ、肥後へ商売に赴き宗門改めで留め置かれた鹿児島町の三官を迎えるため与四郎を派遣する旨を伝えた文書。与四郎について「貴師旦宗ニ而無御座通」と記し、五人組側の証文を取ってあるので判形を下すよう願う。本文日付は寛永十二年十二月四日で、索引の十二月十五日と相違する。
年月日未詳 / 冊子 764頁
寛永十五年二月二十八日未刻、肥前有馬原城の本丸で一番槍を務めたことを、市来八左衛門尉・市来五兵衛尉の立会を示して証明した新納加賀守忠清の差出。
(寛永八年)十月晦日 / 冊子 241頁
島津家久が、琉球滞在が長引く苦労を察し、翌春の明国王の冠船来航に備えるため二人の使者を派遣したので、趣旨に沿って相談するよう命じた書状。