島津義弘(惟新)書状
(慶長四年)十一月廿五日 / 冊子 469頁
島津惟新が抱節に、庄内表での寒中在陣をねぎらい、置目・諸法度を緩みなく施行して油断しないよう命じる。勝利は見込まれるとし、山口勘兵衛丞が上使として下向するため、現地に狼藉がないよう申し付けることを求め、上方は無事だと伝える。
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(慶長四年)十一月廿五日 / 冊子 469頁
島津惟新が抱節に、庄内表での寒中在陣をねぎらい、置目・諸法度を緩みなく施行して油断しないよう命じる。勝利は見込まれるとし、山口勘兵衛丞が上使として下向するため、現地に狼藉がないよう申し付けることを求め、上方は無事だと伝える。
文禄4年7月13日 / 冊子 901頁
義弘は、京都の混乱により竜伯の下国が延び、石田三成の指示で自分が先に帰国することになった経緯を伊集院抱節へ知らせる。 在陣の労苦をねぎらい、国中の人数・政務を滞りなく処理するよう求めた、同日付の帰国準備に関する書状。
文禄五年六月廿四日 / 冊子 29頁
No.75と同趣旨の書下を『抱節家譜』から掲げたもの。検地後の知行替えで旧来の知行が減り生活が困難となる事情を踏まえ、龍伯・武庫と相談して諸侍を安堵させ、抱節にも相応の知行を与える意向を述べる。ただし掲載本文は巻末で「今度」まで記したところで中断しており、続きは確認できない。
(慶長二年)七月三日 / 冊子 113~114頁
島津義久が伊集院抱節に、長期の軍労と赤国出勢への心遣いをねぎらった書状。又八郎が若輩であるため軍法について懇切に助言するよう頼み、義弘からも指示があるだろうが十分に力を添えるよう求め、茶一包を贈る。
(慶長七年)十二月廿三日 / 冊子 867頁
島津忠恒が伊集院久治へ、別府舎人佐の上洛時に贈られた巻台を喜び、大切にすると礼を述べる。内府が近日上国するので、目見えを済ませ次第吉報を知らせるとし、印籠と香箱を贈った。
(慶長七年)十二月廿六日 / 冊子 868頁
No.1750の島津忠恒書状と同文のため本文を省略した文書。『伊集院譜』所収本では日付が十二月二十六日とされ、No.1750の十二月二十三日と異なることを注記する。
文禄2年9月25日 / 冊子 739~740頁
石田三成が名護屋へ着岸し、翌日に大坂へ上る予定を知らせる。相手方の病が快方に向かい帰国したことを喜ぶ一方、又一郎久保の急死を思いがけない悲事として悼む。 義弘も京都にいると聞くため、三成の弔意を義弘へ伝えるよう依頼した書状。
慶長八年十一月廿八日 / 冊子 917頁
伊集院抱節久治と山田理安有信が連署した知行目録。大隅国曽於郡財部村内の西大河原門・右衛門浮免など各所の石高を列記し、合計高を加増として配分する旨を定める。
慶長九年六月十一日 / 冊子 936頁
伊集院抱節久治と山田理安有信が連署した寄進状。前年に大閤の使者遊斎が在国した際の由緒に触れ、児玉窓岩山へ高十石を新たに寄進すると定める。
(慶長二年)二月十二日 / 冊子 79頁
伊集院抱節久治が圖書頭方へ、津への到着後の兵糧・食料の不足、紙や船・人員がそろわない状況を報告し、補給と手配を求めた書状。
(慶長二年)二月十二日 / 冊子 79~80頁
伊勢入抱節が図書頭へ、新年の祝意と無沙汰の詫びを述べ、現地の無事を喜んだ書状。帰朝を待っていたが、武庫が渡海したため当分は帰朝できない事情を伝え、今後の勤仕を励ますとともに、元珠の名代として樽一桶を贈る。
慶長二年二月廿九日 / 冊子 91頁
伊集院抱節と比志島国貞が、海上交通が困難ななか自船で渡海して参陣した者の忠節を賞し、知行十石を充行う旨を証した連署状。
慶長二年二月廿九日 / 冊子 92頁
伊集院抱節と比志島国貞が、困難な渡海を果たして参陣した忠節を賞し、知行十石を充行う旨を伊集院九郎に証した連署状。
慶長二年二月廿九日 / 冊子 92頁
伊集院抱節と比志島国貞が、兵船での渡海が難しいなか自力で参陣した者の働きを賞し、知行十石を充行う旨を証した連署状。
慶長二年二月廿九日 / 冊子 92頁
伊集院抱節と比志島国貞が、兵船の渡海が困難ななか自力で参陣した高城左京亮の働きを賞し、知行十石を充行う旨を証した連署状。
慶長五年五月廿二日 / 冊子 546~547頁
伊集院抱節久治と山田理安有信が連署し、財部日光神社の神領について、竹之下・大坪・霜月田・中島・彼岸田・坂之下・山下などの田畠ごとの面積・分米・耕作者を列記する。合計一町五段四畝十五歩、分米二十石六斗六升七合を年中祭礼のため怠りなく納めるよう大宮司に命じた証状。
慶長六年二月廿六日 / 冊子 750頁
伊集院抱節久信と山田理安有信が、薩摩・大隅国内の知行地と浮免を合計六十石、安楽大炊助へ加増として配分した連署目録。
慶長六年六月吉日 / 冊子 754頁
伊集院抱節・山田理安連署の知行目録。本文は旧記雑録後編3のNo.1518と同文であるため、本箇所では省略されている。
慶長六年三月廿六日 / 冊子 754頁
伊集院抱節と山田理安が、大隅国桑原郡西光村内の蘭屋敷十三石六斗三升五合と見次村内六石三斗六升五合、合計二十石を配分した連署知行目録。
慶長六年三月廿二日 / 冊子 754-755頁
伊集院抱節と山田理安が、日向国財部・松山・志布志などの知行を合計六百石、児玉主水佑へ加増として配分した連署知行目録。
慶長六年五月廿一日 / 冊子 755頁
伊集院抱節と山田理安が、河原村・見次村などの複数の土地を児玉主水佑へ加増として配分した連署知行目録。各地の石高・浮免を列記する。
慶長十年十二月十四日(季冬十四日) / 冊子 41頁
国分への御殿移転に伴い、金剛寺を祈願所として、吉祥院知行のうち二十石と新知八十石、合計百石を宛行い、所中の諸役を免許する一方、京儀国役は勤めるよう定めた、島津竜伯袖判・伊集院抱節久治・山田理安有信連署の証状。
慶長十一年五月二日 / 冊子 72頁
伊集院抱節・山田理安が伊集院五郎介に、赤池屋敷七石と財部北俣内十三石、合計二十石を新知として配分した連署領知目録。
慶長十一年五月二日 / 冊子 72~73頁
伊集院抱節・山田理安が連署した、財部内の知行地割目録。蒲興禅寺内などの田地を田位・面積・石高ごとに示し、仲兵衛・五郎右衛門・権右衛門・助六・伝右衛門・源太・弥六左衛門らへ割り付ける。総高二十三石九斗余と、ほかに高山へ遣す七石余を記し、二口を合計する。
慶長十一年五月二日 / 冊子 73頁
伊集院抱節・山田理安が連署した、高山内の知行名寄目録。赤池屋敷の田畠・屋敷を玄清・和泉・藤左衛門・与介・次郎左衛門・藤兵衛らの知行人別にまとめ、田位・面積・石高を列記する。総高二十石のうち合計七石一斗余を名寄し、残る十二石九斗余を財部へ遣すとする。
年月日未詳 / 冊子 41頁
国分への御殿移転に伴い、新地建立のため金剛寺へ旧知二十石・新知八十石、合計百石を与え、所中の諸役を免除し、京儀国役は勤めるよう定めた連署証状。
慶長六年六月吉日 / 冊子 765頁
伊集院久治(抱節)と山田有信(理安)が連署し、大隅国曽於郡財部日光神村内の田地・浮免など合計十石を日光神社の知行として定めた目録。
慶長六年七月二十五日 / 冊子 769頁
伊集院久治(抱節)と山田有信(理安)が連署し、大隅国小根占村内の甚五郎屋敷二十石を園林寺へ新知として配分した知行目録。
(慶長六年)七月二十一日 / 冊子 767-768頁
島津義弘が島津義久に、懸案の相談がまとまったことを喜び、船を出して使者一人を七月二十三・二十四日頃に送ると知らせる。使者が鹿児島へ着く時には伊集院久治(抱節)を同席させる手筈であると伝えた。
(慶長七年)七月廿二日 / 冊子 828頁
島津義久が安藤左近允へ、翌日に必ず出立するので準備を怠らないよう告げる。伊集院久治(抱節)と喜入大炊助を帖佐へ派遣して懸案を解決させ、上方へ持参する使者の選定や愛宕山への取次も依頼した書状。
文禄2年9月26日 / 冊子 740頁
鎌田政近・伊集院抱節・長寿院盛淳が、石田三成へ石火矢五十挺を進上することを記した連署覚書。内訳として幸侃から二挺、抱節から一挺など、各人の負担分を明記する。 朝鮮在陣期の火器調達と、島津家臣から三成への軍需品提供の実態を示す。
(慶長元年)正月廿三日 / 冊子 4頁
島津竜伯が又八郎へ、京都が平穏で武庫も上着した頃とみられることを伝え、図書頭以下の長陣辛労をねぎらうよう求めた。家中で遺恨を抱いていた者たちが悪口を控えるようになった事情と奉公人の取扱いを述べ、その内容を図書頭・抱節・出雲守・紀伊守へ内々に伝えるよう指示する。さらに有馬次右衛門尉がもたらした八か条のうち浮地の分量と家中諸侍の帳について、伊集院幸侃を直接召し寄せて処理するよう求め、平田太郎左衛門尉が渡海・上京していないことも知らせた書状。
(慶長元年)三月九日 / 冊子 11頁
島津義弘が又八郎へ、朝鮮在番衆の辛労をねぎらい、図書頭・石田治部少輔らの供奉、伊勢弥九郎の上洛、光明院・神徳院による渡海祈念について伝えた。さらに、明の勅使来朝に伴い、朝鮮在番衆の各主将は人数を残して帰朝すること、約七百人を伊集院抱節・比志島紀伊守・鎌田出雲守のもとに残し、又八郎らは直接京都へ上ることを指示した。船数を確実に整え、不足時は国元へ連絡すること、残番衆の士気や帰国用の船に配慮し、小西摂津守と相談することなども求めた書状。
(慶長元年)三月十一日 / 冊子 12~13頁
島津義弘が又八郎へ、明勅使の渡海に伴う帰朝・上洛と朝鮮残留兵の編成を指示した書状。比志島紀伊守・伊集院抱節を主取として約七百人を残し、鎌田出雲守は帰朝させること、船数と出船時期を小西摂津守と相談すること、帰国用の船を残留衆へ残すこと、光明院・神徳院に渡海の祈念を依頼することなどを伝える。
(慶長元年四月) / 冊子 15~16頁
島津義弘の覚書。又八郎(忠恒)の帰朝後の再渡海・上洛などについて、渡海の安全、勢揃いと馬、供衆として図書頭・鎌田出雲守ら十騎または十五騎を召し連れること、伊集院抱節・比志島紀伊守が主取となる残番衆七百人の配置を指示する。在京中の用件は各人が国元へ直接申し送ること、公儀が加徳島に召し置いた御上米・諸道具、残番衆の乗船・兵糧米、同島にいる高麗人の扱いにも触れる。さらに又八郎の具足・馬面・馬鎧、鉄砲五十丁・鑓五十本の携行と、伊集院小傳次の帰朝などを列挙する。
(慶長元年)五月二日 / 冊子 21頁
島津義弘が忠恒へ、明使来朝により高麗在番衆の主力を帰朝させ、忠恒にも上洛命令が出たため国分左京亮を迎えに遣わしたと伝える。残番衆約七百人は抱節・比紀伊守を主取として兵粮を確保し、風説に動揺せず隣所へ持場を明け渡さないよう厳命する。帰朝希望者を安易に伴わず、留守居と番所の仕置を徹底するよう求めた書状。
(慶長元年)九月十一日 / 冊子 44~45頁
島津義弘が忠恒へ、抱節や紀州・雲州・伊予方面への連絡を頼み、山田弥九郎・野村五郎次郎・村田藤五郎・新納拾郎らの派遣と朱印状送付を知らせた書状。さらに大明勅使来朝後に和議が破れ、秀吉が高麗への再出兵を命じたため、人数・兵糧の差渡しを急ぐよう伝える。
文禄五年九月廿六日 / 冊子 47~48頁
長寿院盛淳・伊集院下野入道幸侃・鎌田出雲守政近が石田治部少輔へ、石火矢五挺を進上し、その内訳として払火矢一挺、幸侃より石火矢二挺、抱節より一挺と記した連署文書。
慶長十一年七月二日 / 冊子 82頁
吉右衛門・山田越前入道理安・伊集院下野入道抱節が澤殿に、隈州桑原郡宮内・内山田村の鳥居内にある屋敷一段七畦十八分(分米一石七斗六升)を、少地ながら神前の土地として島津龍伯の病気平癒のため寄附した文書。
五月十日 / 冊子 387~388頁
境目の小城、豹皮の礼、馬、拝領した道具、徳川家康に関する件、帰朝の予定、忠長・抱節らへの対応、又八郎への音信礼など、当面の諸用件を箇条書きにした覚書。
七月廿日 / 冊子 388頁
島津義久が、存松・抱節への命令が難しいとの詫びを受けながらも重ねて申し付け、了承させたことを述べる。さらに出水の置目と武庫での奉公について、下知に従う旨を伝えた書状。
(慶長中)正月十五日 / 冊子 391頁
島津龍伯が、書状の到着が延びた事情を述べ、明日に受け取れるとして待つよう求める。年頭の祝意、翌日の千句・発句、種子案、抱節・大炊助らとの段取りを伝えた書状。
(慶長六年)八月九日 / 冊子 774頁
伊集院久治と山田有信が鎌田政近に、龍伯を迎える上方使者の下向や龍伯帰国の風聞を報じる。当国衰微で諸式が整わない事情を述べ、情報収集と周到な対応を求めた連署状。
慶長六年正月十七日 / 冊子 742頁
正興寺玄昌が、京都の知人には命じられた当地の様子以外を伝えず、伊集院衆から聞いた事柄はそのまま言上し、旧来の親疎によって偏らないことを神仏に誓った置文。
慶長六年三月吉日 / 冊子 753頁
天下の下知に基づき、領地の減少があっても国家安全を祈るため、大隅国曽於郡山之路村内の四十石を大明寺の祭礼・修造料として支配させた寺領支配状。
慶長十一年七月二日 / 冊子 82頁
御朱印を伴う隈州桑原郡宮内の『正宮御田之目録』。上田八段二十五歩(分米十二石九斗三升)について、先年の寺社領勘落しの際に社領が給地化された経緯を述べ、御供田・関所を先例どおり社方へ返地・寄附すると定める。島津龍伯の病気快癒と国家安泰を目的とする。
慶長八年十一月廿八日 / 冊子 32頁/原整理番号 247
米良備前入道に、隅州曽於郡下財部村内の西大河原之門ほか合計六十石を加増として配分した知行目録。伊集院抱節久信と山田理安有信が連署する。慶長八年十一月廿八日付。
(慶長六年)七月九日 / 冊子 766頁
福島正則が島津忠恒に、和久甚兵衛と鎌田政近の談合、伊勢平左衛門らとの協議、伊集院久治・山田有信の上方召喚について助言した書状。本文はNo.1566と同文のため本箇所では省略されている。
(慶長六年)七月十三日 / 冊子 766頁
島津義久が島津忠恒に、和久甚兵衛と鎌田政近の談合を急がせ、帰国後は伊勢平左衛門らと協議するよう指示する。伊集院久治・山田有信を軽々しく上方へ召さないことや、山口直友書状の扱いにも触れた。
(慶長六年)八月二日 / 冊子 769-771頁
鎌田政近が上洛後の状況を詳報する。細島出船から室津・京都・大坂・伏見への行程、諸大名・奉行との取次、城普請、島津家の進退交渉、伊集院久治・山田有信の扱いなどを記し、慎重な対応を求めた書状。