新納旅庵長住書状
文禄2年8月23日 / 冊子 727~731頁
伊東平右衛門尉が栗野へ帰着し、朝鮮在陣中の島津義弘以下が無事であると報告したことを伝え、長期在陣からの帰朝に備える。 栗野周辺の知行・蔵入地・年貢収納、寺社領、武庫の武具、家臣や代官の勤務を一件ずつ検討し、不正な取立てや無断処置を避けるよう両名へ求めた、留守居支配の実務を詳述する長文書状。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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文禄2年8月23日 / 冊子 727~731頁
伊東平右衛門尉が栗野へ帰着し、朝鮮在陣中の島津義弘以下が無事であると報告したことを伝え、長期在陣からの帰朝に備える。 栗野周辺の知行・蔵入地・年貢収納、寺社領、武庫の武具、家臣や代官の勤務を一件ずつ検討し、不正な取立てや無断処置を避けるよう両名へ求めた、留守居支配の実務を詳述する長文書状。
(慶長三年)三月七日 / 冊子 198~199頁
新納為舟忠元が貴島弥兵衛尉へ、長い在洛の労をねぎらい、前年冬に忠元が薩摩へ在国していたため無音になったことを詫びた書状。黒木廣顔済に関わる件について、留守中でも伊東平右衛門尉と相談し、次郎兵衛尉・弥太右衛門尉の内談がまとまり次第、武庫へ内々に申し上げて納得を得たいと伝える。追而書では、病気の次郎兵衛尉を隈本勝右衛門尉が親身に世話したと聞いたため、十分に礼を述べるよう依頼する。
(慶長四年)六月十八日 / 冊子 390~391頁
伊集院忠真が川上忠智に、石田三成の使者櫻木平右衛門尉が通路封鎖のため当地に滞留していたので、供を一人添えて上洛させ、中央への取次を求める。長束正家を通じて武庫様(島津義弘)の直書を受け、以前の請文に相違がない旨を申し上げたものの、幸侃成敗後は境目の放火や往来停止に及び、自身まで幸侃と同科に処されるとの風聞があるため、義弘を通じて身上を決着し、一途に和解を整えるよう頼む。
寛永十五年二月廿八日 / 冊子 767~768頁
有馬春之城の本丸石垣に取り付き、塀を越えて城内へ入ったことを、伊地知杢右衛門尉が承知しているとして届けた木村平右衛門尉の差出。
五月廿日 / 冊子 76頁
伊地知重時が新納仲左衛門尉に、兵庫様が無事到着し登城・目見得を済ませたことを伝えた書状。自身は十三日から中務殿と加治木で御道具改めに従事し、村田平右衛門尉へ家中の件を申し渡す予定であること、親族も無事であることを報じる。
(慶長五年)十月廿二日 / 冊子 600頁
島津義久(龍伯)が又八郎こと島津忠恒(家久)へ、天候が良ければ二十五日、悪ければ二十六日に来るよう求め、源二郎の弟一人をこちらに置く件などを指示する。野村符野介・本田新介の見舞い派遣を伝え、先手が敵の首二百四十余を討ち取り、残兵を海へ追い落として通路を確保したので安心するよう報告する。
年月日未詳 / 冊子 334頁
将軍から拝領した鶴を、余分なので兄弟方へ贈るとして、上様の厚意をよく頂戴するよう伝え、贈物への謝意と松吉・阿弥からの挨拶も記した島津家久書状。
宝永3年9月23日 / 冊子 216頁/原整理番号 76-2
宝永三年九月二十三日、西俣数馬が比志島平右衛門へ、元祖以来判明している自家の由緒・家伝と庶流までを書き上げた系図資料を御記録所へ提出するよう依頼した届書。元禄七年冬にも系図御方へ提出していたが、このたびの再撰に際して改めて記して差し出すと述べる。
(慶長元年)七月二日 / 冊子 30頁
浅野平右衛門尉長吉が羽柴薩摩侍従方へ、釜山浦の城米は自ら渡す予定だったが、志戸守へ用務を命じたため代理一人を遣わすので、奉行を定めて確実に受け取るよう求めた。官人の道具を載せて日本へ戻る船を急がせ、増田右衛門尉・早川主馬頭の使者を唐へ渡すよう手配することも伝えた書状。
元禄十四年三月二十八日 / 冊子 287頁/整理ID 958
島津綱貴家臣の川上八郎左衛門・村田平右衛門が、日向国清絵図の調製に際し、日向の相給領主側から鹿児島へ送られた領分絵図を基に領境の地面・村付を吟味したことを証した連署証状。互いの境筋を絵図一紙に調え、関係者が立ち会って印形を据え、後証として取り置いた。
延宝2年8月10日 / 冊子 253頁/原整理番号 201
大久保右京亮・杉浦内蔵丞らから家来判形や親類縁者改帳について差し出された書付の扱いを記す連署書付。先規の三家の儀や屋敷での相談を述べ、延宝二年八月十日、伊勢平右衛門・相良仁右衛門の連署で結ぶ。
(慶長四年)九月廿一日 / 冊子 437~438頁
島津惟新が羽柴少将に、帖佐・山田・蒲生・吉田の人数を庄内境へ移すとの風聞を案じ、出水は肥後・筑前方面の第二の城戸であるため守備を固めるよう説く。さらに内府が大坂で諸大名の上洛を規制し、強行時には越前・淡路で阻止するため兵を配置したとの情勢を伝える。
年月日未詳 / 冊子 494頁
庄内戦で戦死した者を、年月日・戦場・所属とともに列挙した殉国者名簿。慶長五年正月の河内・栗山・追田などでの戦闘を中心に、戦死者名のほか、主従・組・衆の別や人数を記し、庄内戦での人的損害を整理する。
(慶長五年)十月廿三日 / 冊子 601頁
太田友一・一吉が、島津忠恒からの見舞いと野村符野介・本田新介らの派遣に謝意を示し、先手が首級二百四十余を挙げ、残敵を海へ追い入れた戦果を報告する。詳細は使者の口上を聴取するよう求める。
(元和二年)六月廿一日 / 冊子 631頁
近衛信尹が先便の一冊の到着を尋ね、家久の子の成長と翌春の叙爵を話題にし、京都・禁中の平穏を伝えるとともに単物二領を贈った書状。
天明七年九月十一日(末尾)。同年十一月十五日受渡し(包紙朱書) / 冊子 999・1000頁/原整理番号 2690/整理ID 2690
天明七年九月十一日付の武家諸法度十五条を掲げる。文武・忠孝に励み礼儀を正すこと、参勤交替の所定時節を守って供の人数を増やさないこと、人馬・武具を分限に応じて備えることを命じる。新たな城の構築を禁じ、居城の塁・石壁等が壊れた際は奉行所へ届けて指図を受け、櫓・屏・門以下は先規どおり修補する。新規の徒党・誓約、私的関所・新法の津留を禁じ、不慮の事態でもみだりに集まらず持場で指図を待ち、刑罰の場へ役務外の者が出向くことも禁じる。喧嘩・口論・私的争論を慎み、事情があれば奉行所へ届け、争いへの加担や元の主人に差し障りのある者の召抱えを禁じ、百姓の訴えは支配で相談し、滞る場合は評定所で扱う。国主・城主・一万石以上・近習・奉行・物頭の私婚を禁じ、公家との縁組も奉行所の指図を求める。贈答・婚礼・饗応・屋敷造営等は倹約し、無益な道具や私的な奢りを慎み、身分に応じた衣類と乗輿の許可・例外を定める。養子は原則同姓で相応しい者を選び、異姓の場合は由緒を正して在生中に届け、五十歳以上・十七歳以下や末期養子は吟味を受け、実子でも筋目違いの者は認めない。殉死を禁じ、知行所を清廉に治め、道路・駅馬・橋船を無断で滞らせず、荷船以外の大船を禁じる。寺社領を古来の付属どおり保持し、新たな寺社建立は禁じ、やむを得ない事情は奉行所へ届ける。江戸の法度を国元でも守ることと全条の堅守で結ぶ。包紙には武家諸法度一通と記し、十一月十五日に和泉から川上平右衛門へ渡して白木御文書六番箱へ納めた旨を朱書する。
天明七年未十月十五日(朱) / 冊子 983頁/原整理番号 2662の2/整理ID 2662-2
照会は届いた。何らかの指示があれば早々に知らせると返答し、帳留書抜一通は同役中で確かに受け取ったと報ずる。
五月十三日(本文、年次不記) / 冊子 1043・1044頁/原整理番号 2822の1/整理ID 2822-1
雄五郎・亀五郎・感之介三人の実母を島津式部少輔の「密子」とする件で、大炊から於房の出自を尋ねられたため、先の指示に基づいて答えた経緯を伝える。江戸では密子という事情を承知しておらず、系図へそのまま母付を記すと後に疑義が生じるおそれがあると指摘した。留守居の照会にもまだ返答がなく、養女等の関係かもしれないので、国元でも調べ、改めて勘解由へ問い合わせ、大炊とも相談して後便で知らせるよう求める。五月十三日、本田休兵衛。
六月二十三日(本文、年次不記) / 冊子 1045頁/原整理番号 2822の4/整理ID 2822-4
於房を島津式部少輔の女として扱う件や、御子の誕生年月・母付の不明点について勘解由へ照会した経緯を知らせる。三人の実母を密子とする先の書付に誤りはないが、密子の件はかなり以前のことで、今から式部少輔の養女として公儀へ願い出ることは難しく、養女という事情は内輪で承知する扱いとされたという。ただし、そのままでは系図への養女表記も難しいため再び書付で尋ね、明姫・富之進の御事も一緒に確認するよう家老へ申し入れたので、決まり次第知らせるとする。六月二十三日、本田休兵衛。
寛政元年酉七月二十三日(年次は目録、本文に酉) / 冊子 1045・1046頁/原整理番号 2822の5/整理ID 2822-5
於房を島津式部少輔の女として扱うよう内々に承知した際、子女の実母についても問い合わせ、河口転の伝えた先の指示どおりと確認したと知らせる。口達と書面で意味が違うように見えた点も付札のとおり承知するという。明姫・富之進の実母に関する件は一切書面に記さず、奥向担当の家老とも相談して扱うよう求める。また、明姫の出生前に兵庫の子として下すと指示した旧件については、最初からその指示はなかった扱いとして帳面から消除するよう御記録所へ命じてほしいと述べる。これは史料に記された当時の記録処置の依頼である。
元禄十四年十一月廿八日 / 冊子 458頁/原整理番号 266-2
新納市正の口上覚。光久の母方の家筋と西監物入道円応の関係を述べ、家督相続の事情を説明して裁可を願う。元禄十四年十一月二十八日付。
「寛永十七年」八月三日 / 冊子 137~138頁
伊勢兵部少輔貞昌が北郷佐渡守久加へ、帰国後の金山の様子と山祭の実施を尋ね、坊津で銀が出たとの報告も十分に確認するよう求めた書状。伊勢の書付を持つ池田屋平右衛門尉・堺屋太郎兵衛尉を国元へ送り、将軍家の呉服屋で富裕な池田屋四郎兵衛尉の関係者のような有力商人を呼び込めば、米・酒・油その他の国産品が売れ、国を富ませて借銀返済にも役立つとして、商人誘致と流通振興を勧めている。
「寛永廿一年」十月七日 / 冊子 357~358頁
北郷久加・新納久詮の連署書状。津田平右衛門が上使として参り、将軍の御鷹で捕らえた雁を島津光久が拝領した慶事を伝える。併せて犬追物稽古について古法を守るよう命があり、その趣旨を関係者へ申し下すよう指示する。
正保二年十月七日 / 冊子 26頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0039
北郷久加・新納久詮が、十月四日に津田平右衛門尉が上使として来て鷹の獲物の鶴を拝領したことを、目出度いと伝える。さらに、犬追物稽古はますます律儀に古法を守るよう仰せ出されたとして、宛先側に心得を求める連署書状。
正保四年 / 冊子 63頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0121
正保四年の殉死者として川崎平左衛門助延・川添但馬重次・原田平右衛門・藤田政右衛門を列記する。十月晦日の坂元九郎左衛門入道将安は、主君島津大膳忠紀が江戸で死去したと聞いて殉死し、最期の歌を長崎貞義へ贈ったと小字で記す。
年月日未詳 / 冊子 363頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0771
明暦三年十二月四日、阿多内膳忠栄の家臣内田平右衛門が殉死したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 948頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2604
元禄九年春、肥後主膳盛康を琉球国在番奉行に任じ、久保田平左衛門・津曲平右衛門・二階堂三右衛門・橋元甚助らを副として琉球へ渡航させ、元禄十二年夏に任期を終えて薩摩へ帰国したことを記す記事。
宝暦十四年 三月十六日 / 冊子 13頁/原整理番号 46/整理ID 46
松平右京大夫輝高が松平薩摩守に宛て、万寿姫君誕生の祝儀として琉球中山王の使者が薩州へ送った献上品について、継使者による披露を受け、公方様・万寿姫様から中山王への品々の下賜と、使者玉川王子への拝領品の授与を申し渡したことへの謝意を承知し、紙面の趣旨を各々申し談じて上聞に達したと伝える。三月十六日付、年記は朱注の宝暦十四年。付属する三月十九日付の「の1」右筆添状は、薩摩守宛奉書の「万寿姫様」に「君」の字が落ちているため、公儀御右筆組頭赤堀平右衛門へ内談して文書を持参したが、書き落としがなおあるので、平右衛門に内々の取り計らいを依頼する旨を記す。「の2」は赤堀平右衛門の申入れで、御右筆の不調法により「君」が脱落し、当番同役の服部善太夫も迷惑しているため内々の処置を願う。本文注の赤堀の名は安忠だが、目録の「の2」標題は友忠と読め、異同を留保する。
安永十年正月十一日(包紙付記は同年二月二十一日) / 冊子 608~609頁/原整理番号 1726/整理ID 1726
年頭の吉書として、第一に神社仏閣の修造を興行すること、第二に農事を専ら勧めること、第三に諸国の年貢を徴納することの三箇条を命じた文書。安永十年正月十一日、島津重豪御判。包紙には、丑二月二十一日に帯刀殿から川上平右衛門へ渡されて納置され、白木御文書五番箱に入れたと記す。
天明四年十二月(包紙は十二月三日) / 冊子 761頁/原整理番号 2132/整理ID 2132
又三郎の元服式次第は、先に写して帳面へ記すよう渡していたが、公辺その他への照会後に段々と改訂されたため、別紙どおり改めて書き留めるよう御記録奉行へ命じる。包紙には、天明四年十二月三日に仲(島津久金)から川上平右衛門へ渡され、白木御文書五番箱へ納めたと記す。
年月日未詳 / 冊子 14頁/原整理番号 13
『平塞録』の記事。二十七日に松平右衛門佐が島原へ着陣したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 58頁/原整理番号 85-3
伊地知季安の記事。御船奉行土持平右衛門綱辰が長島から上津浦へ到着したことを記す。
二月四日 / 冊子 67~68頁/原整理番号 107
川上久国・三原重庸が市来八左衛門宗友へ、薩州様の到着・獅子島渡海・米之津または出水への着船と通路の相談、鎌田平右衛門の有馬行きの船手配を求める。琉球から山川へ来た三艘の船と南蛮人の道具を有馬へ送ること、御供衆約一万人ほか多数の兵糧を確保することを指示し、有馬へ渡海する場合は三万人ほど必要との見通しを鍋島殿四万余・肥後守殿二万五千と比較して述べる。
二月四日 / 冊子 69頁/原整理番号 110
川上久国・三原重庸が喜入忠政へ、去る二十九日付書状を受け取ったと伝える。番所までで人数を帰す場合も病身のため帰宅しないとの意向を了承しつつ、薩州様が確実に下向するかをまず確認するよう求めた。鎌田平右衛門が持参した返書。
二月七日 / 冊子 84頁/原整理番号 139-2
林丹波守克政が長岡佐渡守興長へ、国元から持参した鐘一口について、前夜に松平信綱から松平右衛門佐忠之へ貸し渡すよう命じられたため、興長の了承後に引き渡すよう求める。
年月日未詳 / 冊子 152頁/原整理番号 270
『平塞録』。十九日、細川忠利方が内道・柵・竹束・大筒を用いて原城の塀下三、四間まで迫り、船の帆柱と莚帆・布帆を銃弾除けにし、厚板の観察箱へ高野平右衛門を入れて城内を偵察した。横木上の足軽に間断なく鉄砲を撃たせ、火矢を避ける土塗り小屋や堀道も設けた。同日、有馬玄蕃・立花飛騨・松倉長門の三家は三の丸から築山を築き、足軽を配して射撃し、一揆勢を弱らせたと記す。
年月日未詳 / 冊子 172~175頁/原整理番号 293
出水士山本甚左衛門蔵本の「味方手負・死人之覚」。二月二十一日夜寅刻の原城方切出しに際する寄手側の討死・手負を、松平右衛門佐、黒田甲斐守、黒田市正、寺沢兵庫頭、鍋島信濃守らの家中別・人名別に列記する。味方損害の惣合は二百七十五人で、内六十九人を死人とする。続く「きりしたん首数目録」は松平・黒田・寺沢・鍋島・立花各手の戦果を掲げ、合首数二百九十二・合生捕七人と記す。味方損害と敵方の首数・生捕を別集計として扱う。
年月日未詳 / 冊子 190~193頁/原整理番号 315
『平塞録』の二十六日記事。松平伊豆守(信綱)の陣で諸大将が攻城を評議し、城内では鉄砲の発射が減り、竹木を薪にし、海藻を拾うほど糧米・玉薬が払底したとの報告を受け、二十八日卯刻から追手・搦手が一斉に総攻めする方針を定めた。松平右衛門佐が前後からの越矢を懸念したのに対し、妙解公は越矢は弱まり、多少の被害を恐れて攻撃を控えるべきでないと述べ、詳しい手配は翌日に定めることとなった。同日、籠城方の四郎太夫は困窮を理由に翌夜の夜討を決め、三千人と二千五百人の二備(計五千五百人)を諫早口から鍋島本陣へ向かわせ、うち場数を踏んだ二百人を時枝隼人・赤星主膳の指揮で先に潜入させて馬を放つ計画を立てた。さらに別働五千人を島原口から細川勢へ、水練百人を海上から寄手の後備へ差し向け、四郎太夫は大江口で松平右衛門佐陣への攻撃を装うとした。相印は右肩を脱ぎ新縄で鉢巻し、合言葉は「鼠か」に「猫」と答える。城内の虎口を固め、敵の潜入・放火を警戒して夜討に備えるよう命じた。
二月廿八日 / 冊子 320頁/原整理番号 365
木村平右衛門尉時重が、寅二月二十八日、有馬原城本丸の石垣に着き、屏を越えて城内へ入ったことを届ける差出。伊地知本右衛門尉が証跡を知るとする。本文に宛所はない。編者注は『旧記雑録後編五』二一四八号文書と同文とする。
慶長4年6月18日 / 冊子 567~568頁/原整理番号 69
伊集院源次郎忠真が肱枕老(川上忠智)へ、三月に石田治部少輔からの使者として下った桜木平右衛門尉が当地に滞留し、海路・陸路とも往来できず上洛が延びていたが、今回一人を添えて上洛させるので当地の様子を取り成してほしいと伝える。忠真は、武庫様の直書を拝見し自身の進退にも懇意を示された一方、幸侃が成敗された後に義弘様へ自分の処遇を尋ねても納得を得られず、諸口の往来を止められ、幸侃と同罪にされるように見え、境目の者による放火もあると訴える。義弘様の指示がなければ身上の決着はつかず、今は召し籠められたような状態だとして、武庫様への取り成しと早急な解決を川上に依頼する。慶長4年6月18日付。欄外には『旧記雑録後編三』762号と同一文書かとの推定注記がある。
八月十四日 / 冊子 566頁/原整理番号 4の5
島津久慶が白坂以益へ送った書状。十一日夜の飛札と蒲地平右衛門の口上を受け取り、重ねて届いた書状の内容を主君へ報告したこと、直ちに村田藤兵衛を派遣し詳細を説明させることを伝える。八月十四日付。
天保5年1月28~29日(起草・終稿) / 冊子 中表紙(無頁)・377~391頁/原整理番号 無番号_0004
「藤原姓伊東氏系図」は天保五年正月二十八日に起草し、翌二十九日に終稿した。伊東平右衛門からの子孫の世代・婚姻・改名・家督、島津家への奉仕と鹿児島・江戸での役務を系線と注記で整理する。後半には「高麗人日記」などの抜書、家督・住居地・役職をめぐる書付と短い追記を収める。
元禄十四年一月二十九日 / 冊子 266頁/整理ID 889
春成久珍・上山頼寛が村田平右衛門ら三名へ、肥後・日向国境絵図の下書への指示を受け、米良側役人と現地で境を確認して別条がないとの証文を取り交わすよう米良主膳方へ申し入れ、相良遠江守の返答を待つため出発が遅れていると説明した連署書状。初瀬村という村はなく三納村内の長谷山を指す可能性があること、平野村は平郡内の小名で絵図に記さず、米良境は三納村・三才村の二村であることも回答する。
月五日 / 冊子 367頁/原整理番号 439
長瀬新兵衛が湯田平右衛門尉へ、有馬城本丸で鉄砲を射通したことを最前からその場にいて見届けたとして、後日のために与えた三月五日付の実見証文。末尾の六日己巳は次の日次見出しとして区別する。
「寛永廿年」六月廿三日 / 冊子 241~242頁
島津久通・新納久詮が、証人衆の評定所出頭と逃亡事件を報じた連署書状。御証人奉行の切紙により証人衆を伴って評定所へ出頭した経緯を伝える。安芸守が主家との争いから国を逃れ、証人として江戸にいた子の弥四郎も留守居衆へ無断で逃亡したため、私怨の有無にかかわらず厳しく捜索・処置するよう求めている。
元禄十七年正月二十三日 / 冊子 458頁/整理ID 1578
池田吉明が島津綱貴へ、前年冬の当地の激しい地震で屋敷に少し損傷があったものの、ほかに異状はないと報告し、綱貴の見舞状に謝意を述べた書状。
三月四日 / 冊子 364頁/原整理番号 428-4
長岡佐渡守興長・有吉頼母英貴が、伊豆守の命により、捨て置かれた首を一か所に掛けるよう各陣へ申し渡し、道奉行を差し出すよう求めた廻状。差出側も道奉行を出すとし、鍋島・松平・有馬・立花・寺沢各家老中へ回覧・判形を求める。
「寛永廿年」五月廿九日 / 冊子 240頁
松平信綱ら三名が島津光久へ、筑前国大島へ密航した伴天連四人・いるまん一人・同宿五人が捕縛されたことを伝えた連署書状。松平右衛門佐の番衆が小船による密渡を発見し、長崎奉行山崎権八郎へ送った処置を賞し、薩摩領内でも以前の捕縛に続いて一層念入りに穿鑿するよう命じている。
元文五年十二月四日 / 冊子 19~21頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0052(の13)
記録方の日高甚兵衛・吉田用右衛門・安藤佐平次と記録奉行の川上平右衛門が十二月四日、島津但馬守の源姓使用願を受け、林大学頭による姓の照会に備えて家系と復姓の先例を調べた覚書。島津本家は元祖忠久が源姓で、近衛基通との関係から藤原姓を用い、光久が寛永八年の初叙任時から源姓へ復した経緯を挙げる。佐土原家は豊久の死後、以久への所領授与、忠仍の辞退、忠興の継承を経ており、本家から分立した二男家として藤原姓を用いてきたと論じる。本家の復姓を新たな勅命による改姓とは区別し、但馬守家も同じ源姓へ復してよいと考えつつ、口宣・系図・霊屋や石燈籠の銘を吟味し、源姓を命じられることに支障があるかは林家へ確認すべきだと述べる。
元文五年十二月十七日 / 冊子 22頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0052(の14)
記録方の日高甚兵衛・吉田用右衛門・安藤佐平次と記録奉行の川上平右衛門が十二月十七日、前の吟味に添える引札を記す。忠興以来の但馬守家の口宣は藤原姓で、以久は叙任せず佐土原城を拝領したため口宣がなく、忠興の元和四年、久雄の慶安元年の叙任も本家の復姓より前であったと説明する。本家は寛永八年に源姓へ復し、但馬守家は引き続き藤原姓を用いたので、口宣を根拠に今改めて本家と同じ源姓を用いられるか吟味し、当座は現状に据え置く。萬壽丸の叙任の際には口宣に源姓を記してもらうよう願い、林家の問い合わせにもこの方針で答えるのがよいと結ぶ。