大重平六覚書
年月日未詳 / 冊子 71~75頁
大重平六が、南原城の攻撃と落城後の追撃、江南方面への転戦、各地の戦闘や水軍との交戦を回想した覚書。諸将の働き、死傷者、軍船・兵糧の確保、戦功への褒賞までを具体的に記す。
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年月日未詳 / 冊子 71~75頁
大重平六が、南原城の攻撃と落城後の追撃、江南方面への転戦、各地の戦闘や水軍との交戦を回想した覚書。諸将の働き、死傷者、軍船・兵糧の確保、戦功への褒賞までを具体的に記す。
年月日未詳 / 冊子 560頁
大重平六が、石田三成の挙兵に際し島津義弘(惟新)が徳川家康との特別な関係を理由に同心を拒んだこと、伏見城への籠城を申し入れたものの城方に拒まれたことを記す。井尻弥五助を江戸へ遣わしたが、家康の返書を携えた帰途に近江水口で襲われ、返書は判のみを残したという。
年月日未詳 / 冊子 560~561頁
大重平六の覚書。七月十九日に伏見城攻撃が始まり、八月朔日に落城したのち島津勢が美濃へ向かい、大垣近くの奥窪・六之渡付近に陣した経過を記す。岐阜城陥落と石田勢の敗戦を受け、洲俣の人数をまとめ、新納弥太右衛門・川上久右衛門らが石田治部少輔の馬口を取り、島津豊久らと大垣城へ籠ったこと、家康が赤坂に陣し義弘が大垣に滞留したことを述べる。
年月日未詳 / 冊子 698-701頁
大重平六が十四歳で島津義弘(惟新)の朝鮮出兵に供奉した覚書。慶長三年、泗川付近で明軍約二十万が城へ迫るなか、義弘は鉄砲を控えさせて機を待ち、城外へ斬り出して大軍を崩した。敵首三万八千七百余を集め、のち撤退時には小西行長救援や番船との戦闘があり、奪われた義弘の馬印を黒田宅右衛門が敵船から奪還した。
年月日未詳 / 冊子 705-707頁
大重平六の覚書から、関ヶ原敗戦後の島津義弘(惟新)の敵中突破、駒野・伊賀・信楽を経た退却、住吉・堺での潜伏と出船を記す。横山休内は義弘の鎧を着て持ち帰り、本田源右衛門らは危機に際して身代わりを申し出た。海路では豊後沖で船団に被害が出たが、義弘は細島・佐土原・八代を経て十月三日に帖佐へ帰着した。
年月日未詳 / 冊子 652-654頁
九月十四日の大垣出陣から関ヶ原合戦、島津義弘(惟新)勢の敵中突破と帰国までを詳述する。大谷吉継勢の崩壊後に東軍を切り抜け、大垣の火災を見て伊勢路へ向かい、横山久内が義弘の鎧を着て運んだ。信楽・平野・住吉を経て船に乗り、豊後沖では黒田方の兵船と戦って死傷者を出したが、細島・佐土原などを経て十月二日に帖佐へ帰着した。
年月日未詳 / 冊子 654頁
島津義弘(惟新)の鎧を横山久内が大垣まで着けて運び、その後、京都の愛宕へ祈願のため奉納したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 654頁
島津義弘(惟新)の青毛の馬は「紫」といい、堺の住吉大明神へ奉納されたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 387頁
大仏造立用の唐金・地金を木食上人と相談する件、国役、伏見城番と供衆の人数、大刑少殿内の閑斎の弟の奉公、杵綱平六、出水瀬崎父馬への母駄給付など、複数の用件を列記した覚書。
正平十二年四月日 / 冊子 4頁
比志島範平が、前年十月二十五日の岩屋城退治以後の従軍と、正月二十一日・二十五日および三月二十日夜の濱陣合戦で先懸けを務めた軍忠を申告した。自身・中間平六・弟範家の負傷と見知人を挙げ、注進と恩賞を求める。
正平十二年四月日 / 冊子 4~5頁
比志島範平が、前年十月二十五日の岩屋城退治以後の日夜の合戦と、正月および三月の濱陣合戦での先懸け・負傷を申告した軍忠状。度々の注進勘文を根拠に、後日の証拠となる一見状を求める。
永禄十二年正月三日~十一月廿七日 / 冊子 210頁
永禄十二年に島津方で戦死・討死した者を月日別に列挙する。正月三日から十一月二十七日まで、三月十八日の蒲池越中守ら、五月二十三日・二十五日の伊地知重次、貴島源五郎ら、多数の家臣・従者の名と一部の戦場・討死事情を記す。
永禄十二年五月廿五日~七月十四日 / 冊子 221頁
永禄十二年五月二十五日、祁答院長野城を攻め、守兵の激しい抵抗を受けた。比志島氏・鎌田政年らが奮戦し、仲俊坊・貴島源五郎・税所宮内少輔ら多数が戦死したが、各隊が死を顧みず攻めて勝利した。蒲生境でも敵数十人を討ったため伊東方は恐れ、七月十四日に飯野桶比良陣を捨てて退却した。
(慶長三年)五月廿日 / 冊子 210~211頁
島津義久(竜伯)が島津又八郎に、帰朝には治部少輔の助力が得られる見込みを伝え、在京者同士の神文や茶の湯を介した結び付きに注意して判断するよう助言した書状。大和に現れた不思議な人物、東国馬の受領、家中の人手不足、阿多の者の帰国希望、有方の茶の湯による用務遅延など、京都・家中の近況も詳しく報じる。
天明元年九月十三日 / 冊子 640頁/原整理番号 1813/整理ID 1813
領内の桜島が当年三月十八日と四月八日に噴火し、田畑が損なわれた件について、詳しくは後日報告すると既に届けていたところ、国元の家来が来て別紙の情報を伝えたため届け出る。九月十三日付、松平薩摩守。付記は当日御用番松平周防守へ、矢野清右衛門が持参し、取次の安達平六を通じて提出したこと、同人から受領の旨を知らされたことを記す。被害の具体的な数値はこの届書本文には載らない。
文政8年9月朔日・10月(本文) / 冊子 733~734頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2068
近秘野抄中の斉興公記事。文政8年9月朔日、斉興は町田久視に宝島の功労者への褒賞を命じ、島津権五郎を当番頭・領御用人に任じた(当番頭に百苞の小注)。吉村九助には歳俸50苞を終身給付して功績を賞する。本田助之丞を種子島へ移し、九助に従って功を成したことを嘉し、罪を特に赦す。種子島伊勢輔時に安置を命じ、御船奉行にも伝える。平田平六と中村理兵衛には米各5斛、平田藤助には米2斛を賜り、平六が吉村に、藤助が本田に従って命令を守ったことと、理兵衛の防備の働きを評価した。10月、九助を郡奉行に擢用し、勤務に加えて戦功も賞した。初め、異人の鉄炮と雑佩を久視らが長崎へ護送するよう命じたが、鉄炮について奉行へ特に願い出た。異物を官庫へ収め国典とする扱いのもと、奉行が江戸へ伝えた願いが許され、鉄炮が返されると九助に授け、子孫へ伝えるよう命じた。
明治2年九月(日不記)知政所 / 冊子 696~697頁/原整理番号 913の1/整理ID 913-1
通達留。馬術の比志嶋静馬・町田平・高橋甚五兵衛、射術の高田十郎右衛門・東郷長左衛門・伊集院半五右衛門・平田平六・木上源五郎、鎗術の梅田九左衛門・白尾登五右衛門、長刀の田代宗次郎を列記する。これらは師家として置いていたが、諸術の実用の利が少ないという達の評価から、各人の師家を免じる旨を本人と関係先へ伝える。但し望む人にその術を指南することは差し支えないとする。明治二巳九月、知政所。師家の役と私的な指南の但書を区分し、武術自体の全面禁止や各人の能力への現代評価、指南実績は補わない。
暦応四年十二月廿日 / 冊子 87頁/原整理番号 352
畠山直顕が、建武三年から暦応二年八月の兼重城没落までの祢寝弥次郎清種の軍忠を注進した挙状。兼重城・石山城で清種が二度負傷し、上財部向城合戦では親類平六兼安も負傷したこと、南郷大和田城・下財部新宮城・兼重本城などを攻め落としたことを挙げる。暦応四年十二月廿日付。
正平6年11月27日 / 冊子 662頁/原整理番号 145
正平六年十一月二十七日、修理権大夫が征西将軍宮の意向を受け、山門彦七郎に馳せ参じて軍忠を尽くすよう命じた令旨。修理権大夫が花押を据え、山門彦七郎館に宛てる。前年の令旨w9:144と同じ軍忠催促だが、本文には恩賞の約束がなく、山門院東方の田畠の相続・知行も記されない。
文書日付:暦應四年十二月廿日 / 冊子 451~452頁/原整理番号 六九一/整理ID TMP-P03-IKEHATA-D0691
大隅国祢寝弥次郎清種の建武三年から暦應二年八月兼重城没落までの、日向国での軍忠を注進する。 建武三年十二月十八日兼重城、建武四年正月十日石山城、暦應二年正月十三日上財部向城の合戦と、清種・親類平六兼安の負傷を記す。 石山城・大和田城・新宮城・兼重本城の落城を挙げ、原小字に三俣院・南郷・下財部を添える。 虚偽の申候なら日本国中大小神祇の御罰を受けるとの誓約を添え、源直顯が御奉行所へ注進する。
発給/言上年紀:暦應二年八月卅日 / 冊子 454~455頁/原整理番号 六九八/整理ID TMP-P03-IKEHATA-GOSHOHAN-D0698
建武三年十一月二十一日の太田城着到以来、新宮城・三俣院などの合戦を申す。 兼重城郭と石山城での先懸・被疵、建武四年十月までの軍忠を述べる。 南郷大和田城を今年四月十三日に攻落し、今月十三日に兼重城を押巻き同廿七日に攻落したとする。 親類平六兼安の被疵も記し、所々の先懸と軍忠について御披露を求める。
文政7年7月8日(事件)・8月報達・9月幕府報告(本文) / 冊子 711~712頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2008
七月八日、白帆の大型異船が宝島沖へ来航し、七人が小艇で前籠へ上陸した事件の別記録。言葉が通じないため身振りで応接し、焼酒・菓子・金銀・衣服などとの交換を求めた異人へ米や野菜を与えたが、島民が小艇を留めると異人は発砲して牛を奪った。番鎮は火縄銃や石火矢を整えて前籠へ進み、九助らが応戦し、異人一人が倒れて他は退船した。その後も銃声を上げながら移動した船を遠見・海行で追跡し、島役人は異人死体と遺留品を収めた。八月に江戸の町田監物久視へ報告し、九月には斉興が老中青山忠裕へ届け、幕府への公報が許された経過まで記す。
年月日未詳 / 冊子 94~95頁/原整理番号 65
戦場御供之人数として67名分の項目を列記し、うち御道具衆6名・御小者2名・御馬取3名を区分する。鳴海覚右衛門尉と松下喜左衛門尉は御道具衆の人名である。末尾の貼紙は、慶長五年の関ヶ原退却時に道中を供した人数とみられる、と推定する。
暦応二年八月卅日 / 冊子 85~86頁/原整理番号 350
建武三年十一月の太田城着到以後、建部清種が櫛間城・新宮城・兼重城・石山城など日向国各地で合戦し、追巻・城戸口での戦闘や城攻めに先懸して二度負傷した経過を列挙した軍忠状。友永七郎澄雄・高木孫三郎久安らの見知を記し、披露を求める。暦応二年八月卅日付。
発給/言上年紀:暦應四年十一月 日 / 冊子 456頁/原整理番号 七〇一/整理ID TMP-P03-IKEHATA-GOSHOHAN-D0701
建武三年から暦応二年八月卅日までの軍忠について急速な御沙汰を求める。 御着到・御感御教書・御一見状など一巻を副進する。 清種と兼安らの負傷、城の攻落、身命を捨てた先懸を述べる。 御注進と恩賞を求める申告に直顕判を伴う。
建久9年、正平6年12月23日 / 冊子 180~181頁/原整理番号 62
薩摩国在国司・大前氏東郷斧渕氏の系図。敏達天皇の後胤・橘諸兄の苗裔とし、道胤は幼名菊王丸、東郷弾正少弼・左衛門尉、西前寺殿、法名慈寛を称し、東郷城に居住、建久九年に上洛して内裏大番を勤めた。道武は菊寿丸・兵衛尉・武蔵守、西前寺殿、慈光で、妻を山門院郡司秀忠の女とする。道義は平太郎・蔵人・弾正少弼・摂津守、斧渕を号し、西前寺殿・慈道。正平六年十二月二十三日に渋谷九郎重興が軍勢を催して戦った記事を伴う。道長は平次郎・弾正少弼・相模守、西前寺殿・慈法で、道張(山田)から道久・道宗(荒川)へ分かれる。道将は平六郎・弾正少弼・相模守、西前寺殿・慈徳で、道重へ続く。後半は道盛、道真(今村兵部太夫)と道時・道実(藤川)の系、道信、良道を掲げる。道信は大泉坊・不動院として平佐城・樋脇天神坊に住み三十五町を領し、法名仙香、八十二歳で没した。良道は源五郎・神力坊・不動院で入来院重時の家臣となり、子孫を入来院家臣・斧渕仁兵衛とする。
年月日未詳 / 冊子 301~302頁/原整理番号 119
醍醐天皇第五皇子保明親王の子慶頼王が承平六年(936)に惟宗姓を賜ったとの伝承から、具瞻・正邦・孝親・孝言・忠方・友国・国広らを経て康友へ至る系線と、陰陽頭・能登守・伊賀守・筑前守などの官職を示す執印氏正統系譜。康友を執印一代として薩摩国鹿児島郡司・弁済使に位置づけ、文治年間に新田宮執印職・五大院院主職を子孫代々が補任されたこと、次男友久が高城郡国分寺留守および同所天満宮祢宜・別当職を伝えたこと、康友・友久の子孫が寺社領の領主となり鎌倉・室町両将軍家に代々御家人として仕えたことを記す。新田宮祭礼は、かつて禁裏から勅使が毎年下向したが遠境のため康友の子孫が代勤するようになったとし、家紋を蓬莱亀、氏神を稲荷大明神、祭日を十一月三日とする。
正平六年正月廿二日 / 冊子 266頁
細川頼春が、去る十六日に入洛したことと道中の危険、早期の拝謁を望むことを伝え、子息三郎を参向させて使者への対応を求めた書状。
正平六年八月三日 / 冊子 478頁/原整理番号 281
後村上天皇の綸旨。軍功のある者への抽賞を認め、その功労を奏上するよう伝える。正平六年八月三日付。
正平六年八月三日 / 冊子 478頁/原整理番号 282
後村上天皇の綸旨。武功を挙げた者を賞し、事情を報告するよう伝える。正平六年八月三日付。
正平六年十月廿五日 / 冊子 478~479頁/原整理番号 283
後村上天皇の綸旨。早急に賊軍を追討し、忠節を尽くした者の働きについて申告するよう命じる。正平六年十月二十五日付。
年月日未詳 / 冊子 800-804頁
南朝正平六年・北朝観応二年を中心に、尊氏・直義・直冬の対立が九州へ波及した情勢を月日順に詳記する。島津貞久・氏久・師久、肝付兼重、祢寝清種・清増らが大姶良城・樺山・福山・志布志城などで戦った経過、幕府・征西方の教書、軍忠・恩賞、討死・負傷、諸氏の離合集散を多数の文書と系譜記事から集成した島津国史。
〈寛延二年〉三月二十九日 / 冊子 152頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0428
下屋敷の普請はおおむね完成し、近く座敷を仕上げると返答する書付。荒神供、門の地鎮、門開きの加持と鎮宅祈祷、通初めを順に予定し、四月十一日の吉日に名代による移徙と御祝を行うと記す。三献の衣服は無紋の白色とし、平田平六の祈祷、普請役への酒・吸物などの祝儀も先例を調べて整える。末尾では太守へ別紙で申し上げることを伝える。
年月日未詳 / 冊子 171頁/原整理番号 50
橘諸兄の末流とする東山藤崎氏の系図。小四郎公紀は従五位下美濃守で藤崎を号し、鎌倉合戦では宮方として新田陣に加わり、初めて薩州へ下って向島および諸所を領したとする。公辰(美濃守・橘次)―公明(備前・小四郎)―公兼(肥前守・平六兵衛)の系線、公範(豊前守・小四郎)―公行(善六左衛門・但馬守・小四郎)―公昌(助右衛門・吉次)の系線、公朝(六郎右衛門)―公常(善六左衛門)の系線を掲げ、公朝の母を島津左近将監忠富の娘と記す。子孫は六太夫。
寛文十年七月朔日 / 冊子 479頁/原整理番号 284
吉野方との和睦を受け、入道直義を追討する旨の綸旨とその案文を伝え、協力を命じる。正平六年十一月十三日付。
正平六年八月三日 / 冊子 812頁
後村上天皇が渋谷美濃守へ、御方へ参る意向を聞き届けたとして、征西将軍宮に属して軍忠を尽くし、殊功があれば恩賞を与えると伝えた綸旨。
正平六年八月三日 / 冊子 812頁
後村上天皇が大隅左京進入道へ、御方へ参る意向を聞き届けたとして、征西将軍宮に属して軍忠を尽くし、殊功があれば恩賞を与えると伝えた綸旨。
正平六年八月三日 / 冊子 812頁
後村上天皇が渋谷九郎左衛門尉へ、御方へ参る意向を聞き届けたとして、征西将軍宮に属して軍忠を尽くし、殊功があれば恩賞を与えると伝えた綸旨。
正平六年十月廿五日 / 冊子 814頁
後村上天皇が島津上総入道へ、朝命に背いて没落した足利直義を早く追討し、軍忠を尽くす者には抜群の恩賞を与える旨を伝えた綸旨案。
正平六年十一月十日 / 冊子 815頁
足利義詮が、播磨・摂津両国で軍忠を尽くしたことを神妙と賞し、今後もいっそう戦功を挙げるよう求めた感状。
正平六年十一月十三日 / 冊子 815頁
将軍宮の意向により御方へ馳せ参じ、軍忠を尽くすよう命じた足利尊氏御教書。
正平六年十一月十三日 / 冊子 815頁
足利尊氏方が大隅左京進入道へ、御方として各所で合戦したことを神妙と賞し、今後も忠節を尽くすよう命じた御教書。
正平六年十一月十五日 / 冊子 815頁
足利義詮が、官途「尉」への任官希望を公家へ取り次いだので、その旨を承知するよう伝えた官途挙状。
正平六年十一月廿七日 / 冊子 815-816頁
征西将軍宮方が、吉野との和睦を受けて足利直義追討の綸旨が下ったとして、直義党類を追って関東へ下向し、一族を催して官軍への忠節を尽くすよう命じた令旨。
正平六年十二月廿三日 / 冊子 816頁
渋谷九郎左衛門尉重興が、当月五日に大将の目前で合戦して忠節を尽くしたことについて、幕府への注進と後日の証拠となる一見状を求めた軍忠状。
正平六年八月三日 / 冊子 484~485頁/原整理番号 306
本田宗親の覚書。大覚寺をめぐる上意・詮議の経過、関係者の取扱い、寺領に関する見解を記す。嘉吉元年の出来事などを引いて説明する。
正平六年八月三日 / 冊子 485頁/原整理番号 307
島津忠治の証状。薩摩国鹿児島郡大興寺は島津家の祖父以来の菩提所であり、寺領や支配をめぐる諸役の干渉を退けるべきことを述べる。永正十二年六月七日付。
正平六年十月廿五日 / 冊子 485頁/原整理番号 308
島津忠隆の安堵状。大興寺の建立の由緒と寺領の定法を確認し、先代忠治の証状に従って他者の妨げを許さない旨を示す。永正十四年八月二十七日付。