島津家久書状
九月廿四日 / 冊子 188頁
九月二十四日、島津家久が成正院に、高野山の蓮金院・廻向院の整備が進んだとの堀小左衛門の報告を喜び、引き続き尽力するよう求め、暇ができ次第の下向を待つと伝えた書状。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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九月廿四日 / 冊子 188頁
九月二十四日、島津家久が成正院に、高野山の蓮金院・廻向院の整備が進んだとの堀小左衛門の報告を喜び、引き続き尽力するよう求め、暇ができ次第の下向を待つと伝えた書状。
五月五日 / 冊子 149~150頁
入来院重高が宮里治部左衛門尉に、志岐小左衛門尉の身上について、兵部少輔の取り成しにより薩州様・式部様から扶持を与える話がまとまったと知らせた書状。正式な仰せがあるまで重高の知行所に滞在させ、扶持が出るまでは現地で世話をするよう依頼し、追って使者を下すと伝える。
九月廿四日 / 冊子 170頁
蓮金院と廻向院が完成したとの堀小左衛門尉の注進を喜び、なお一層尽力するよう求めた。成正院の格別の辛労をねぎらい、暇ができ次第の下向を待つと伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 401~402頁
諸書状の要点を抜き書きし、伊集院源次郎の楯籠をめぐって立花親成の援軍を当面見合わせたこと、小西作右衛門尉の鉄砲衆三百人派遣、寺沢志摩守・小西摂津守ら近隣勢への援軍辞退を記す。さらに、惟新から少将への書状に見える船の賊党捕縛、毛利角右衛門と上田小左衛門尉の少将への奉公希望などを日付順に記録する。
十月廿九日 / 冊子 117頁
寺院建立が無事完成したことを大いに喜び、長期滞在して工事を成し遂げた辛労をねぎらって早い帰国を勧め、段子二端を贈り、詳しくは葛西茂右衛門に託した書状。
〈宝暦五年〉六月十三日(目録。の七の本文は六月のみ) / 冊子 537~538頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1612
重年の病状悪化と家督継承に関する七件の書付。病気が重く大切な容体になった旨の届書と、急変した場合に当年十一歳の嫡子松平又三郎へ跡式を相違なく継がせてほしいとの願書を収める。施療医師名書は武田長春院・井上交泰院・村田長庵・森宗乙の四人の薬を服用したと記し、別に望月三英を掲げる。縁者一類名書は容体を知らせる相手八名を列記し、容体書は四月中旬の疝積発病から薬を替え、草臥れが増して大切になった経過を述べる。山澤小左衛門の首尾書は、酒井左衛門尉の用人関茂太夫を介する病気届一通の提出と受領を報告する。相馬宛ての伺書では、帰国も難しい病状のもと、又三郎への家督・琉球国を含む領地の継承を願い、幼少の又三郎に不慮のことがあれば家中が安気でなくなるとして、実弟嶋津中(久珍、二十四歳)を又三郎の末養子とする案と琉球国の処置を一類とも相談し、事前に内々の意見を求める。
〈宝暦五年〉六月十三日 / 冊子 538頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1612-6
宝暦五年六月十三日、山澤小左衛門が重年の病気が大切な状態である旨の届書一通を、御用番酒井左衛門尉の用人関茂太夫へ持参して差し出した首尾を記す。届書が受け取られたことを関から聞き、そのように勤めた経過を申し上げると報告する。覚には届書一通・病気大切・御用番酒井左衛門尉・御用人関茂太夫を掲げる。
宝暦九年十一月十一日 / 冊子 741頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2253
重豪が十一月十一日、亡き高祖父上総入道吉貴の妹は先松平隠岐守定英の妻で、当隠岐守の出生後に離縁して国許にいると説明する。先隠岐守の存命中に文通・対面を許されたが、遠国のため対面は実現していないと述べる。来春の伊勢参宮と当隠岐守の参勤を機に大坂で対面させたいと願い、高齢で今後の対面機会が見通せないことを理由に挙げる。付紙は伺いどおりと認め、十一月二十日に下され、書付は山澤小左衛門を通じて縫殿殿へ差し出されたと記す。
年月日未詳 / 冊子 298頁/原整理番号 260
『平塞録』。二十八日、熊本から大軍が天草一揆を踏み潰しに来るとの風聞が広がり、渡部小左衛門が徒党二人を三角方面へ遣わして偵察させた記事。夜中のため人数出動の様子が分からず、小左衛門自身が確かめに行くと述べ、晦日の記事へ続く。
年月日未詳 / 冊子 301頁/原整理番号 266
『寛明日記』。細川忠利領の宇土郡で、天草大庄屋渡部小左衛門が四郎の母・兄弟らを舟で連れて来たところを捕らえられたとの伝承を記す。渡部は四郎の叔父、または従母兄弟ともいい、晦日乙丑で結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 301~302頁/原整理番号 267の1
『平塞録』の記事。熊本へ着いた三淵内匠が長岡監物宅の会議で天草の情勢を詳しく報告し、宇土へ出張するよう命じられた経緯を記す。晦日申刻、渡部小左衛門・弟多兵衛・瀬戸小兵衛と天草四郎の母・姉を宇土で召し捕ったと続ける。
年月日未詳 / 冊子 302~304頁/原整理番号 267の4
二十八日、天草一揆の風聞を受け、渡部小左衛門方の者や瀬戸長次郎らを宇土郡から熊本へ召し出した記事。関係者の家族・近隣者を取り調べ、一揆への加勢を疑われた者、四郎の母・姉らを捕縛して熊本へ送った経緯を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 304~306頁/原整理番号 268の1
『平塞録』の記事。十一月朔日夜、天草四郎方の玄察が大矢野小左衛門らを鶴之浦へ遣わし、四郎の母・姉を奪還しようとした経緯を記す。夜陰の渡海、火縄・鉄砲を用いた警固、村々での人集めと熊本方の迎撃・捕縛を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 383頁/原整理番号 485-1
『寛明日記』慶安二年八月二十五日条は、朝比奈源六・庄田小左衛門が伊達遠江守秀宗へ、先年勤めた公儀普請・役儀等の書付を送るよう求めたと記す。宇和島から届いた書付目録は両人から老中へ披露された。
寛永十七年七月九日 / 冊子 412~414頁/原整理番号 530
島津久慶は入来院左兵衛らへ、相良清兵衛の留守を守る大童半兵衛が七日未明に壱岐守の留守居衆と衝突し、半兵衛の子は一手で切り出して討たれ、半兵衛は約四百人で籠城し、清兵衛の宿所が焼かれたと伝える。ただし江戸からの情報には異説があり、清兵衛召喚や相良側の訴訟・処置をめぐる見通しを記す。人員を預け置くかなどの判断を求め、事件が収まらなければ上使が大口・加久藤付近まで下向する可能性があるため、接待の士衆を用意し志岐小左衛門も加えるよう指示する。末尾で三日来の咳病のため辛うじて書いたと付記する。
正月廿日 / 冊子 439~441頁/原整理番号 551-1
有馬・島原出陣衆の人数・日数と兵糧米不足を精算する。人躰は第一組百四十人に市来八左衛門与力の貴島小左衛門一人を加えた百四十一人、第二組九十人で、合計二百三十一人。下人は第一組百二十五人、貴島分二人、第二組六十二人で合計百八十九人。支給不足は真米二十三石七升五合、赤米二十石八升とする。市来八左衛門保管の受取証文が火災で焼失したが、軍役の事実に相違がないため算用を認めるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 173~174頁/原整理番号 515の4
都城川東村柿木薗門の百姓嘉左衛門家の系図。上世の出所は不明とし、源左衛門は志布志に住み、入道して宗可と称した。その子助三郎は修験者となって行蔵と改名し、志布志から末吉、さらに山之口へ移り、御心付番頭役を務め、石垣普請にも召し出されたという。権之介以下の後裔、嘉左衛門・小左衛門へ至る継承と、都城諸家との婚姻を列記する。
「寛永十七年」七月九日 / 冊子 127~128頁
島津久慶が相良家中の騒動について国元の関係者へ指示した書状。相良家老清兵衛尉の縁者犬童牛兵衛らをめぐる殺傷・逃亡、江戸・肥後・人吉での捜索や追放者の処置を詳報し、薩摩へ逃げ込んだ場合は匿う者や協力者を含めて内密に調査・拘束し、早急に報告するよう命じている。追而書では大和守島津久章が高野山蓮金院へ登ったとの知らせを受け、蓮金院側から事情を聞き取るよう求めている。
八月廿五日 / 冊子 383~384頁/原整理番号 485-2
伊達遠江守秀宗は、寛永十四年霜月から十五年四月まで、肥前国島原一揆に際して上使の船御用に船五十艘・水主千二百十四人を出し、飯米は公儀から支給されたと記す。ほか二か条は編者が省略する。
〈寛延三年〉八月朔日~十一月二日 / 冊子 282頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0804
八月朔日、重年夫人が麑城南門から薩府を出発し、十一月二日に江戸芝邸へ到着した。供奉した者として大目付市来左中政方、側用人北郷助太夫久傳、近習役北郷八右衛門資知、江都留守居役山澤小左衛門盛福、納殿役人相良善太夫長居・兒玉利右衛門安通らを挙げる。九州・山陽・東海を経て、伊勢大神宮と諸神社へ参拝し、名勝旧跡を歴覧した。出発地・随員の役職氏名・経路・到着日を記録する。
〈寛延四年〉七月十六日 / 冊子 316~319頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0938
平田靭負正輔が七月十六日、主殿久柄・伊勢兵部貞起・義岡相馬久中・主鈴久郷・鎌田典膳政昌・河野八郎左衛門通興へ、有徳院の遺物拝領と謝礼について報告し、国元の指示を求める。十日に上使小出信濃守から、太守・隅州へ脇差各一腰、菊姫へ御手鑑一帖が授けられ、同日の飛脚で知らせた。刀の外箱を整え、御馬廻川上喜藤太、新番荒武蔵右衛門、御歩行五代喜左衛門、愛甲嘉兵衛、足軽八人を付け、護送に差し立てた。川々の渡しを慎重に扱い、佐屋経由では日数を定めず油断なく参着するよう申し合わせた。 両殿は在国のため、取次の小左衛門・長澤牛兵衛を通じ、加賀守忠雅の名代御礼と上使への礼使札を相談した。十日に小左衛門が参上し、上使の書状を受け取り、両殿の謝礼使者について加賀守が承知したと伝えたが、牛兵衛の説明に食い違いもあり、翌朝七時ごろに改めて確かめた。遠国在住の両殿へ上使が遺物を授ける例は家中になく、謝礼は今後の家格に関わるため、御一門から名代を頼み、老中・若年寄などへは名代が廻勤し、側衆・物頭へは使者で御礼すること、国元でも先に定めた名代御礼の筋を通すことを求める。留守居と星野久務に内談し、平田半之丞・赤松甚右衛門の連絡も挙げ、上使への挨拶で誤解を生じないよう相談する。 さらに、両殿の名代御礼の節に京都諸司代・大坂城代へ通知するか、長崎へ留守居の使者と書状を送るかを尋ねる。十一日に小左衛門を通じ、御用番酒井左衛門尉から太守・菊姫・隅州の御礼を記した御付紙を渡す旨を聞き、御付紙の銘と書付二通、留守居の首尾書一通、佐々木の案文二通を送る。菊姫の表立った謝礼は御用番へは不要とされたが、御留守居から申し出た扱いと松平右近将監・上使への謝礼を照会し、深姫にも言及する。日光宮・御三家・御一門その他へ拝領を知らせるため、使者を通じた通知と隣国への伝達を相談する。末尾に印鑑一枚と別紙五通を送ると記す。
〈寛延四年〉八月二十一日 / 冊子 322~324頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0951
八月二十一日、嶋津主殿・伊勢兵部・義岡相馬・嶋津主鈴・鎌田典膳・河野八郎左衛門の六家老が、平田靭負・市来左中へ、大御所の遺物を太守・隅州・菊姫が拝領した後の謝礼について返答する。上使小出信濃守への御礼を山澤小左衛門が酒井左衛門尉の御用人に取り次いだところ、名代で御礼するよう上使から伝えられたという。国元で聞き合わせた結果、名代御礼の筋は当初から定まっており、上使の有無によって変わるものではないとする。大御所の隠居祝いに慈徳院が腰物を授けた例と、延享二年十一月、病身の隅州に代わり嶋津加賀守が登城して謝礼した例を挙げる。この時は老中・上使側へ直接廻勤し、若年寄へは家老の使者、側衆・物頭へは使者を遣わした。在国の慈徳院遺物拝領では御用番に相談して使札を勤めたことも示す。 今回も先例に従い、上使への御礼を使札で勤めたい意向を伝える。小左衛門からの口伝と廻勤例書による説明だけでは不足があるとして、堀田相模守へ内談し、留守居と御用人浅井八兵衛を通じて詳しく調整するよう求める。使札の扱いが整わなくても名代御礼に差し障りがないようにし、老中・上使側への名代の廻勤、若年寄への家老使者、側衆・物頭への使者を先例に合わせて勤める。御書の案文は佐々木に差図し、国元で判紙を整える。 太守は当分忌中なので、忌明後に御礼を勤めることとする。隅州は忌明となり今日御頂戴し、名代御礼の首尾を申し越すよう求める。同日、日積を付けて加賀守へ依頼し、淡路守にも連絡する。国元では十一日付の判紙を整え、老中その他の役人への書状と、使札を勤める場合の使者を先格に従って準備する。大御所からの腰物拝領時に国元の馬廻を使者にした例を挙げ、今回も使札が整えば同様に取り計らう。御内証の謝礼、太守・隅州の御礼、菊姫の御手鑑拝領への謝礼は別紙朱書返答によって相談し、日光宮・御三家・御一門その他へ拝領を知らせる件も別紙で伝える。隅州の御礼が済んだ首尾と、太守の忌明後の御礼の扱いを報告するよう結ぶ。
〈寛延四年〉八月二十六日 / 冊子 326頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0962
八月二十六日、用番老中松平右近将監武元が江戸留守居役山澤小左衛門盛福を自邸に呼び、有徳院吉宗の尊前へ銅燈籠を献じる命を伝えた記事。薩摩にいた重年はその命を奉じ、翌宝暦二年二月十日に製作が完了し、同年五月十三日に銅燈籠二基を備えて奉献した。記事末は、その銘文を掲げる旨を記す。
〈寛延四年〉九月十九日 / 冊子 329~330頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0974
九月十九日、家重が重年の襲封後初の帰国を祝い、安否を問うため佳肴一種、鮭十尺を賜った記事。老中本多伯耆守正珍が江戸留守居山澤小左衛門盛福を自邸に呼び、老中宿次奉書と驛路證印を渡した。比志島孫左衛門國泰・谷山孫右衛門通音、歩士三人・軽卒六人が警衛して同日芝邸を発ち、東海・山陽・西海路を昼夜休まず進み、十月十五日に薩府城へ着いて重年が拝戴した。同日、山本利兵衛秀命・調所八左衛門恒堅が重年の謝書と驛路證印を携えて執政へ赴き、軽卒六人も従った。重年は一門島津周防忠紀を謝恩使とし、継豊も物頭中江九衛門員張を同行させた。秀命・恒堅らは西海・山陽・東海道を経て十一月十一日に江戸へ着き、山澤盛福の案内で武元へ重年の報翰を呈し、正珍の證印を返納した。忠紀は九州の駅路から豊前小倉、大坂、東海道を経て十八日に芝邸へ着き、二十一日に酒井忠寄へ家重宛の連署、秋元凉朝へ家治宛の連署を届け、西尾忠尚へ両公宛の格書と書状を渡した。十二月朔日、忠紀は白書院で重年の献物二種・雙樽を家重へ献じ、家治にも謝恩を伝え、松平周防守康福が奏達した。忠紀自身も太刀一腰・馬代白銀一枚・紗綾二巻を献じた。続いて西城で朽木土佐守玄綱を奏者とし、重年の献物一種・雙樽と、忠紀自身の太刀一腰・馬代白銀一枚を献じた。十二日に召されて登城し、檜之間で武元から回翰を手渡され、紗綾三巻を拝領した。青山因幡守忠知が奏達し、十三日には西城で武元から、十八日には西尾忠尚の邸で回翰を受けた。二十九日に芝邸を発ち、東海道を経て翌三月二十五日に薩府へ帰り復命した。
〈寛延四年〉十月四日〔目録:九月二十八日〕 / 冊子 332~337頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0983
平田靭負正輔・市来左中政方が六家老へ、太守・隅州の有徳院遺物拝領後の御礼について、江戸での相談と書状・使札の提出経過を報告する。加賀守から名代御礼についての照会がないため、留守居を通じて御用番酒井左衛門尉へ申し上げ、山澤小左衛門を取次に遣わした。国元在住の拝領者には名代御礼の例がなく、上使の差図もないまま、有徳院の隠居祝いの拝領例だけで処理するのは不足があるとして、堀田相模守へ内談した。留守居が御用人浅井八兵衛から、御用番の出勤を待って礼使札を差し出す扱いを聞き、赤松甚右衛門にも申し合わせた。甚右衛門は病気で参上できず、小左衛門が佐久間源太夫へ事情を伝え、先月十五日に相模守へ内談する手はずを整えたが、浅井八兵衛の内用のため進まなかった。そこで倉次甚太夫にも相談し、十七日付の手紙と十九日の来訪を経て、御用番の差図どおり名代で勤めることになったと報告する。 名代が登城して御礼するのか、廻勤で済むのかについても堀田側と相談した。隅州が病中のため、在府の加賀守が両丸へ登城し、老中へ廻勤する扱いとし、似寄りの例書を添えるよう八兵衛から伝えられた。当分出勤しない酒井左衛門尉・秋元但馬守への御礼は差し控え、出勤後に改めて勤める。大納言への御礼も御用番へ申し上げて済ませるという。有徳院遺物の両殿への拝領について本多伯耆守へ提出した書付一通と例書一通、隅州から大納言への御礼についての書付一通と付紙の扱いを挙げる。加賀守父子の名代については先に願い、御用人を通じて登城を要しない廻勤の差図を受けた。先月二十五日の書状提出、翌二十六日の加賀守の老中・上使側への廻勤、若年寄への菱刈孫兵衛の使者、側衆への表方・隠居方それぞれの使者を記す。 太守・菊姫の遺物拝領に隅州から謝礼する連署書状一通について、本多への提出と受け取り、秋元宛書状が西丸用務のため登城しなかったこと、西尾隠岐守宛書状の提出、元で整えた連署書状と御右筆の案文を挙げる。太守・菊姫の拝領に対する奉書一通、隅州から大納言への謝礼に関する同一通、本丸の老女五人から隅州への返事六通も報告する。隅州の公方・大納言への御内証の御礼は名代使札で決めにくく、国元で文面を整えるよう伝えられた。八月二十一日付の御文と御案文、御礼文の八月九日・九日付、使札の八月二十一日付に相違があるため、御文を案文として扱い、双方を相談して調え直した。先月二十六日に御守殿から提出した御文はその日に返事が下り、女使の口上と春井の取次を経た。二十七日には春井から添文付きの御文六通を提出したという。 太守の御頂戴がまだ済んでいないため、七月十日の拝領として差し出す御礼文の扱いを佐々木に尋ね、差し支えないとの返答を得た。隅州の御礼文は御右筆が提出し、国元の御案文も添える。日付の異なる案文と調え直した文面を送って、国元の心得とする。京都諸司代・大坂城代への通知は、隠居祝いの拝領時の例に従って調えるよう使番へ申し渡したが、先例が見当たらないため、近衛その他への通知とあわせて相談する。日光宮・御三家・御一門への通知は、太守の御礼が済んだ時に使番へ申し渡すよう求める。隅州の御礼が済んだことも伝え、別紙九通を送るとして結ぶ。末尾に十月四日の朱記と、平田靭負・市来左中の名義、六家老宛名を掲げる。
〈宝暦三年〉四月二十九日 / 冊子 405頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1241
山澤小左衛門盛福が四月廿九日、島津主殿久柄へ届けた書付。堀田相模守から伝えられた御書付と、松平阿波守・松平陸奥守からの添廻状がただいま到来したので、差し上げると報告する。御渡しの際に、私共のうちの者が出向き、御中途に申し上げる旨を請け、跡から申し上げる件があるため、今回も先例どおり相模守のもとへ参上し、御中途に申し上げることを取次ぎまで伝えるとする。 末尾に四月廿九日、山澤小左衛門の名と盛福の注、主殿様の宛名と島津久柄の注がある。阿波守には宗鎭、陸奥守には宗村の注記が付される。書付・添廻状の到来と、道中での申し上げ・取次ぎに関する手続きを伝える届書である。
〈宝暦三年〉五月五日 / 冊子 407頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1248
山澤小左衛門盛福が宝暦三年五月五日付で申し上げる書付。当秋からの籾囲置と三年以来の江戸廻米高の書出しについて堀田相模守からの命令を承知したが、重年が旅行中のため薩摩守方へ申し送り、国許で調べて報告するので、暫く猶予してほしいとする。重年公御譜中・正文在江戸家老座の注を持つ。書附壹通の注は、国許で調べるため延引の届けであることを説明する。No.1240の命令に対し、旅中の重年への連絡と国許照会のため、提出猶予を求める。
〈宝暦三年〉五月十五日 / 冊子 407~408頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1249
山澤小左衛門盛福が宝暦三年五月十五日、島津主殿へ報告する。勘定組頭依田茂八郎・佐久間郷右衛門に出向き、堀田相模守から命じられた当秋からの籾囲置・三年以来の江戸廻米高報告について、旅中の重年へ伝えて国許で調べ、回答が届き次第申し上げるので猶予してほしいと書付を提出した。相手は承知し、籾一俵の斗数と万石余の知行に対する囲置割合を尋ねたが、それも奉行へ届けて後に知らせるという回答を得たと伝える。No.1248とは提出先・日付が異なり、本書は提出時の問答を報告する。
〈宝暦三年〉九月二十三日 / 冊子 418頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1290
山澤小左衛門盛福が宝暦三年九月廿三日、主鈴様へ書き送る。大御目付の廻状と御書付写一通が、細川越中守と松平大膳大夫の添廻状を伴って届いたので、これを差し上げると報告する。細川には重賢、松平には毛利重就の補注があり、山澤には盛福の補注がある。本文は書付の具体的内容を記さないため、No.1289の銀器禁制との同一性はこの史料だけでは確定できない。
〈宝暦三年〉九月二十五日 / 冊子 421頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1301
山澤小左衛門盛福が宝暦三年九月廿五日、主殿様へ提出経過を報告する。琉球は収納が早く、当年の籾囲いを調えられないため処置を伺う御書付一通を、堀田相模守の用人春日井庄兵衛へ持参して差し上げた。書付は受け取られ、追って挨拶するとの言葉を庄兵衛から得たと伝える。No.1300の伺書が幕府側へ提出された段階を示し、この時点で代替備蓄の許可が出たとの記載はない。
〈宝暦三年〉九月二十三日 / 冊子 421頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1303
山澤小左衛門盛福が宝暦三年九月廿三日、主殿久柄へ報告する。勘定奉行一色周防守・大井伊勢守からの呼出しを受けて勘定所へ出向き、江戸廻米を当年から亥年まで三年間二分通減らすよう、伊勢守本人から申渡され、書付を受け取った。薩摩側の廻米には家元の御用分があるため、これも減らしてよいかを尋ねたところ、追って伺うようにとの指示を得たと伝える。本書には家元の御用分を記し、家中飯料の記載はない。
〈宝暦三年〉九月二十八日 / 冊子 421~422頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1304
御名内の山澤小左衛門が宝暦三年九月廿八日、江戸廻米削減の適用範囲を伺う。物成による江戸廻米高を当酉年から亥年まで三年間二分通減らすよう命じられたが、薩摩守の江戸廻米は当地の用事と家中飯料に使う分で、売米はないと説明する。この御用分・飯料まで減らしてよいかを承知して国本へ伝えたいので、回答を求める。全上・正文在江戸家老座の注を持つ。No.1303の口頭照会に続く書付であり、御用分・家中飯料への適用と売米の有無を説明する。この段階では削減免除や許可が下りたとの記載はない。
〈宝暦三年〉九月二十八日 / 冊子 422頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1305
山澤小左衛門盛福が宝暦三年九月廿八日、主殿様へ報告する。江戸廻米に御払米はなく、御用分と家中飯料を送るだけなので、それらも二分通減らしてよいかを伺う書付一通を勘定所へ持参した。勘定組頭小木藤助に会って差し出したところ、書付を受け取り、奉行へ申し上げて追って回答があるとの説明を得たと伝える。No.1304の正式な伺書が提出された段階を記す。本書に回答内容はなく、削減の適用可否は回答待ちである。
〈宝暦四年〉六月八日~九日 / 冊子 484~485頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1483
右別紙写として、小奉行三十二人、歩行士百六十四人、足軽二百三十一人を掲げる。水行普請の際に各場所へ差し出す人数は右のとおりで、九手替の人数も申し付けており、惣奉行役をはじめ他の役人も元木屋・出張木屋へ詰め、順次現場で働くと記す。場所ごとの人数は別紙で差し上げると結び、六月八日、御名内・山澤小左衛門、盛種の注がある。末尾に六月九日、美濃国笠松の御役所で青木・吉田へ記名して提出したと注記する。No.1481主本文の三職の予定人数と一致するが、別紙自身の六月八日と提出日の九日を、主本文七月八日と区別する。
宝暦五年六月十一日 / 冊子 531~532頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1605
山沢小左衛門が宝暦五年六月十一日、相馬へ病気届提出の首尾を報告する。重年の病気がすぐれない旨の届書一通を、御用番酒井左衛門尉の用人長沢半兵衛へ持参し、半兵衛を通して受け取られたと記す。覚には届書の通数・内容・提出先・用人名を列記する。
宝暦十年五月二十五日 / 冊子 767~768頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2353
島津淡路守が先祖以来の用事で国元へ時々赴くことについて、重豪が五月二十五日、従来は往来の希望を申し上げ、願いどおり許可されていたと述べる。代替を機に、以後は伺いを出さずに往来できるよう願い出る。当日、御用番松平右近将監へ山澤小左衛門盛福を通じて提出し、二十九日に御用人から切紙が届いた。佐久間源太夫盛邦が出向き、従前どおりとする付紙の返答を受けた。
〈宝暦三年〉十二月二十五日 / 冊子 429~432頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1331
重年公御譜の記事。宝暦三年十二月廿五日、西尾忠尚の奉書によって美濃・伊勢・尾張諸川の治水助役を命じられ、重年は平田靱負正輔と伊集院十蔵久東に担当させる。翌四年正月から川上彦九郎親英らを派遣し、美濃大牧村に役館を置く。正輔らは大阪・伏見で留守居と協議して銀師から借銀し、閏二月に大牧へ入る。記事は木曽・長良・伊尾・段海・牧田各川の分合流、輪中、堤・水柵・浚渫・閘の工事、四つの工区と担当者を詳述する。四年二月廿七日に初期工事を始め、同年九月から翌五年三月廿八日まで続く工事を完成させ、四~五月に検査を受ける。費用は芝邸からの伝聞で概ね金三十万両とする。正輔は五月廿四日に吐血し翌日死去、伏見大黒寺に葬られる。久東らが報告のため江戸へ向かい、重年の代わりに親戚の松平定多が登営し、治川の功に時服五十二を賜る。九月には堀田正亮が従役十三人を召して各々に差のある恩賞を与えた。
〈宝暦五年〉正月五日(目録・原本主書末尾) / 冊子 511~512頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1552
平田靱負が正月五日、嶋津主殿・鎌田典膳へ、御手伝普請の工程・検分と人員引取の首尾を報告する。一~四之手の追加目論見により工事が進み、二・三之手は旧臘二十三・二十四日に幕府役人立会いの検分を受け、完成した工事の小屋返却と人員引取を求める。油嶋から松之木村まで百九十間の水分切は指示がなく、油嶋側五百五十間・松之木側百五十間の築留には見積変更で約五十間を加え、大榑川二百六十五間の切り・洗堰も未決とし、石田・八神の石寄せを急ぐが難場では三月までかかり得ると述べる。江戸の御馬廻・新番・御歩行・足軽からの派遣について、現場では足軽約四十人が不足すると伝え、太田新田の小屋は返却して人員を元木屋へ引き取り、早春の小屋返却・人員引取を年内に申し渡したこと、引取人数の不要分を吟味して追って差し下す旨を報告する。
宝暦十二年十一月(次第施行朔日) / 冊子 935~937頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2736
十一月朔日、薩摩守側で結納祝儀使者を迎える取持次第で、表門から入れた品を馬廻が受け、四時に来着する御番頭衆を用人二人が迎えて書院三の間へ案内する。家老が口上を受け、二の間で酒肴を供し、上の間で薩摩守が対面して家老が太刀目録を披露し、盃を薩摩守へ納めて返答し、玄関まで見送り西門から退出する手順を定める。使者には縮緬三巻を贈り、隼之助・鎌三郎の使者にも鳰之間で口上を受けて酒肴・紗綾三巻を出し、随行者へ銀二枚・金子二百疋・青銅十二貫文などを配り、内玄関でも酒肴や赤飯・煮染を供する。保姫への小袖三重・帯二筋・末廣二本・塩鯛一折・鰹一折・昆布一折・樽五荷、刑部卿・豊之助への太刀と金馬代一枚、刑部卿への三種二荷・豊之助への二種一荷、隼之助・鎌三郎への箱肴二種ずつと、高橋縫殿らの使者役も記す。
宝暦十二年十二月 / 冊子 965~972頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2763
高橋種寿・島津久郷が十二月、二十一日に重豪と御前が一橋へ赴く三ツ目祝・里披の手配を申し渡す。玄関・書院・大奥での役人配置、太刀・目録の受渡し、刑部卿・民部卿・隼之助・鎌三郎との三献、保姫との対面、太守への三汁十菜、長袴・半上下等の服装と道筋・供廻りを定める。太守から刑部卿へ太刀一腰・馬代金一枚・縮緬十巻、民部卿へ太刀一腰・馬代金一枚・縮緬五巻、隼之助・鎌三郎へ各太刀一腰・馬代金一枚を進める。太守・御前別に家老・番頭・用人・女中らへの贈物を配し、御前から刑部卿へ縮緬三巻・鯛一箱、民部卿へ縮緬三巻・鯛一折・樽代千疋、女中三十一人への銀二十枚(朱十五枚)等を記し、帰館時の出迎え・祝詞も指示する。
十月4日京都本営送状、名簿は八月20日~九月17日等、降伏報知は9月22日 / 冊子 600~606頁/原整理番号 780/整理ID 780
雑録中の会津進撃に関する隊別死亡・負傷名簿と、京都本営の送状。九番・十一番・十二番隊等の戦死者を掲げ、十二番隊では三春の村人や庄屋支配下の者も含め、即死・戦死を記す。諸隊の死者には手負の後に三春病院で死亡した者があり、続く手負人数では深手・浅手・薄手と、負傷した日・場所を区別する。田村小太郎、伊佐敷金之進、加藤郷兵衛、上原正八郎らのほか、道案内、隊付夫卒、地元村人などを列記する。原文内の異日付や前の名簿との異同は残し、同名を別人として合算しない。末尾の十月四日京都本営送状は、戦死手負書一冊・降伏状一帖・問合二通を掲げ、去る九月二十二日に会津へ進撃して終に降伏したとの報知を述べる。通行允許を携えて到京した日須峯敬二郎ほか一人に封書を託して国許へ送り、披露等を取り計らうよう御国許陸軍所へ依頼する。死亡・負傷の区分と送付の叙述は各名簿・送状に帰属させる。
年月日未詳 / 冊子 279~280頁/原整理番号 234
本文見出しを『天草郡覚書』とする『切支丹一件の事』。益田四郎の才覚・出生と親類、天草・島原の邪宗流布、肥前高来郡や湯島での相談、蜂起準備、唐津からの年貢催促をめぐる伝聞を記す。目録正式標題は『天草征伐説書』。
年月日未詳 / 冊子 445~447頁/原整理番号 423
原城一揆籠城の記録。寛永十四年十二月朔日から原古城を修築し春か城と称したとして、各郭の大将・軍人衆・奉行・使番・防火担当などの名と配置人数を列記する。兵勢二万三千余に童女一万余が加わったとし、防壁・銃眼・石や武器の配置、交替警備、矢文と火矢の警戒、四郎の巡回と法度伝達を詳述する。巻尾には高来郡などの村名を付し、一揆衆が在村の名を名字として名乗ったと説明する。
年月日未詳 / 冊子 448頁/原整理番号 425
島津久賀に従軍した時任氏の日記所収「有馬一起物語」。本丸の有馬四郎をはじめ、二・三の丸、出丸の将や侍大将・使番・鉄砲頭・武士頭・普請奉行の名を列記する。物頭は合計二十一人、年齢は二十から五十まで、勢は一万騎とする。肝付兼屋の従臣緒方主殿の日記にも大同小異の名書きがあり、異なる箇所を傍記したと説明する。
年月日未詳 / 冊子 752~755頁/原整理番号 794
村田市助家蔵の模本から、三原喜太郎・里村十左衛門や谷山・加治木・財部・末吉・大崎・志布志・頴娃・指宿・飯野・高原などの人躰、卒者・夫丸、個人別の随伴人数と着津日を記す。飯米は十日または二十日分を渡し、長嶋ふくら蔵元と米津で分けて支給する例もある。末吉衆中の検見崎兼堯について、家系・移住と島原出陣時の行動を元禄七年の系図申出により補注する。末尾は二十三日条へ続く旨の注。
年月日未詳 / 冊子 78~79頁/原整理番号 17-6
鹿児府衆中高究之帳から松崎杢右衛門入道の高七十五石を掲げ、同人と後継の貞綱の家歴を続記する。慶長十八年の江戸質開始に、杢右衛門入道は島津義弘の姫の上洛代官として役人十人を伴い、六月二十四日に鹿児島を出発し、十一月十六日に江戸桜田屋敷へ入った。四年間勤め、本文に『元和元年丙辰(ママ)』とある四月に暇を得て、御盃と小袖を拝領して六月七日に帰着した。元和五年から蔵入代官を務め、同六年の質様下向時にも谷山で代官となり、島津下野守久元への祝儀まで処理した。寛永十二年十一月二十五日に八十四歳で没し、幼少時に父貞充と伯父貞清を戦死で失いながら家を中興したとし、法名を覚翁宗泉と記す。貞綱は天正十六年正月二日生まれ、指宿左近女を妻とし、元和三年・七年の島津家久上洛と日光参詣に供奉し、能書として知られ、寛永十年七月十一日に四十六歳で没して法名を松屋常青とした。
寛永13年9月 / 冊子 80~81頁/原整理番号 17-8
寛永十三年九月の鹿児島衆中屋敷帳から、松崎采女正について『下屋鋪四せ』『下々屋敷四せ廿三分』と記す抄録。続いて松崎貞悦の慶安五年以降の奉公歴を掲げる。慶安五年に上洛を命じられて三月六日に鹿児島を立ち、四月二十五日に江戸へ着いた。承応二年には琉球からの将軍継目祝使である国頭王子に関わり、島津光久に召し連れられて日光参詣へ供奉した。万治二年には進上用の腰物を選ぶため、堀尾正宗・貞宗・左文字・兼光・則光などを江戸へ持参した。寛文三年とみられる光久の上洛には道中跡払いとして供奉し、大坂・江戸の御番割に入った。六月には国許への急用使として江戸から鹿児島へ往復し、九月に再び江戸へ参着した。同年十二月には島津綱久から将軍への寒中伺候使者となり、酒井雅楽頭や老中阿部豊後守・稲葉美濃守・久世大和守を訪ね、江戸城で七島鰹節を進上した。その後も寛文四年の下向供奉、同五年の秋月佐渡家来欠落事件に関する使者、延宝二年の大坂町奉行石丸石見守への使者を務めた。
天正16年(1588)・文禄元年(1592)・寛永9年(1632) / 冊子 389~390頁/原整理番号 3
藤原姓菊池氏の末流とする志岐氏の略譜。警固太郎経隆の嫡男経政を山鹿太夫兵藤四郎の嫡流とし、肥前国志岐六箇浦を領した重弘、志岐城主でのち入道麟泉と号した鎮経、親重へ系線をつなぐ。親重は天正十六年、加藤清正・小西行長に志岐城を攻められて降伏し、豊臣秀吉の命によって清正の従軍として肥後へ移り、文禄元年には清正に従って朝鮮・高麗へ渡海し、清正から四百二十石を与えられた。親重の子親益・親昌は島津義虎の娘を母とし、寛永九年に清正嫡男の肥後守が没落すると、親昌は肥後を去って薩摩へ来住し家臣となった。
寛文二年十月十七日(純正没・辞世)、慶長十二年~元禄十年(後続系譜記事) / 冊子 494~496頁/原整理番号 21-7
寛文二年十月十七日に八十歳で没した平田盛右衛門尉藤原純正の辞世と、純直・純音以下の後続系譜。純正は『今年今月今日今時今刻』と死の時を明記して歌を残し、法名を天心又玄庵主とする。孫の純直は外祖父壱岐加賀守幸則の養子となり、正保二年冬、遠流途中で谷山正泉寺に宿泊した島津大和守久章の警護を新納仁右衛門と担当した。久章が逃亡を企て、多数を斬って血刀を提げ堂前へ出た際、純直は急走して組み伏せ、左右の額・腕など三か所に深手を負いながら鎮圧した。承応三年に平田姓へ復し、万治元年から綱久に仕えた。清右衛門純音は吟味役・高隈地頭・光久納戸奉行・勘定奉行を歴任し、光久没後には遺物の紋付衣裳を賜り、平山元仲とともに遺骨を高野山蓮金院から墓所へ担いだ。鶴丸紋を連環形に略した純音の家紋、後裔の出生・婚姻・幼死・役職も元禄年間まで記す。
(寛永十四年)五月廿九日 / 冊子 659~660頁
志岐小左衛門尉の知行について、薩摩では三百石を与えられたが肥後では四百石余との申告があったため、家久の意向を確認して四百石とするか検討するよう指示した。未確定なら当面三百石とし、親類関係による連判回避にも触れた書状。