伊予守宛行状
明徳五年四月九日 / 冊子 153~154頁
伊予守が楠橋対馬守・設楽駿河守に、薩摩国山門院内の田地などを市来崎弾正忠へ付すよう命じた宛行状。
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明徳五年四月九日 / 冊子 153~154頁
伊予守が楠橋対馬守・設楽駿河守に、薩摩国山門院内の田地などを市来崎弾正忠へ付すよう命じた宛行状。
天正八年三月吉日 / 冊子 650頁
大隅国横川院内の浮免田地を川田橋対馬守へ宛行った坪付。上井覚兼・平田光宗・伊集院忠棟が連署する。
年月日未詳 / 冊子 419頁
「きのさこ」の畠地について、一反以上の坪付を示し、川田権対馬守へ宛てた久信署判の土地関係文書。 地名・面積・受給者を簡潔に記したもので、知行地の所在と配分を具体的に確認できる。
(慶長七年)三月 / 冊子 807頁
島津義久が溝口秀勝へ久しく音信を欠いたことを述べ、秀勝が秀頼に召され大坂に滞在しているとの風聞に触れる。秀頼の御前で機会があれば島津家のため取り成すよう頼み、黒絹一端を贈った書状案。
(元和四年)三月五日 / 冊子 666頁
島津義弘が、病気のため押判を用いたことを断り、朝鮮使節の来朝で多忙な中、年始の使札と太刀一腰・馬一匹・人参三斤を贈られたことに謝意を述べた書状。
応永十八年十月三日 / 冊子 252~253頁
前対馬守久重が、不慮の事態には相手の重大事を自分のこととして馳参じ、虚説や凶害があれば本人に確認するまで信用しないことを神々に誓った契状。
元亀二年~四年 / 冊子 303頁
中山主計介・中山綱幸・中山源次綱吉・湯前対馬守・橋口半七郎・四藤清右衛門・米良美濃守・肥田木三郎兵衛らが、野心なく二心を持たず島津氏へ奉公すると誓った同文の起請文群。元亀二年から四年にかけての日付と各人の署名・判を列記し、違反時の神罰を誓う。
(慶長三年)二月十二日 / 冊子 194頁
熊谷直盛が島津義弘・忠恒からの書状と狼煙の定書を受け、定められた火数を了承した書状。小西摂津守・対馬守とも相談し、着船島の担当者を熊谷方へ派遣してもらえれば、南海と着船島の間で使用する山を協議して決めると述べる。また石治少宛の書状二通を受け取り、自分の書状とともに柳川権介へ渡すと返答する。
(慶長三年)十月廿日 / 冊子 266~267頁
宗義智(羽柴対馬守吉智)が(慶長三年)十月廿日付で島津又八郎忠恒らへ出した書状。頻繁な使者による懇意に謝し、十七日夜に順天から「扱之唐人」が出たとの報を受け、西堂・下野も順天を退出したが別条はないと伝える。番船が出ないため遠見役を置いて警戒し、疑わしい動きがあれば直ちに注進すると述べ、詳報は使者に託す。
三月七日 / 冊子 155~156頁
本田親存が高崎民部少輔・新納小右衛門佐に、蒲生城米の借用に伴う受状について述べた書状。本来は伊地知対馬守の管掌だが、関係する三人を自ら下知して取り成したため未処理であり、使者に持たせて進上すると伝える。上納時に改めて連絡し、自身は加治木普請の見回りで多忙なため書状で済ませる。
年月日未詳 / 冊子 278頁
『島津義弘譜』の記事。慶長三年十月、海陸から包囲された順天城との連絡を回復するため、島津義弘が立花宗茂・宗義智・寺沢正成と相談し、敵艦を退けようとした経緯を記す。十月卯日に現地の遠近を調べたが、敵は九日夜に退去し、残船だけが残ったため、これをすべて焼却したとする。
(寛永十年)二月十一日 / 冊子 354~358頁
島津久元・伊勢貞昌が、九州巡察上使三名の薩摩入りに備えるよう国元へ詳しく指示した連署書状。上使の出立・巡回日程、宿泊、馬・船・荷駄、道中警固、食事・贈物・乱舞などの接待、供人数、費用と人夫の負担を定め、過度な馳走を避けるよう求めた。
(寛永十年)三月十六日 / 冊子 360~361頁
島津久元・伊勢貞昌が、九州巡察上使三名の出立時期と経路、薩摩到着見込み、宿泊・食事・馬船・荷駄・案内・贈物などの接待方法を国元へ追報し、過度な馳走や準備を避けるよう指示した連署書状。
寛永十一年十二月朔日 / 冊子 462頁
包丁役に関係する三名の知行について、切米返地として十五石・三十石・二十一石を割り当て、役替わり時の返還を前提としつつ、当時の知行逼迫を理由に二十五石を加えて合計五十石を支配させる旨を記した覚書。
享和元年10月晦日(朱注) / 冊子 198頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0637
御臺様の御實母が今暁死去したため、定式のとおり50日・13ヶ月の御忌服を受ける旨を安藤対馬守から大目付へ伝える。朱注は享和元年10月晦日。末尾朱注は、この書付の写をもって大目付から太守様御名の留守居宛に申し渡されたとする。出典は写、正文在文庫。前636の栄翁3日遠慮と本書の御臺様忌服を区別する。
明徳5年4月9日 / 冊子 659頁/原整理番号 137
明徳五年四月九日、伊与守が楠橋対馬守・設楽駿河守に、薩摩国山門院針原内の高柳一町三反・桃木田五反と、市来崎内の薗一か所などを沙弥市来崎弾正忠に付するよう命じた書下。二名は文書の宛所で、市来崎弾正忠が土地を付与される対象者である。伊与守が花押を据える。既存概要の合戦出陣・軍忠の命令は本文にない。
(慶長三年)正月廿六日 / 冊子 190~192頁
宇喜多秀家以下十三名が、蔚山での明・朝鮮勢の攻撃を踏まえ、朝鮮在陣諸城の配置と普請方針を再検討して奉行衆へ言上した連署状。蔚山は突出し川越えの難所もあるため、西生浦に加藤主計頭を置き、安芸宰相勢五千を残して普請させる案を示す。順天は大河と遠い干潟のため海陸から救援しにくいとして、小西勢を島津の泗川城へ、島津勢を固城へ移す案を提示するが、小西摂津守・対馬守は同意しなかった。順天・蔚山の普請は下知まで見合わせ、梁山を加徳へ替えて安芸宰相に普請、黒田甲斐守に在番させ、毛利壱岐守を固城在番とし、城主の半役を普請に充てるよう提案する。
二月廿九日 / 冊子 340~342頁
伊勢貞昌が、朝鮮からの撤兵時に小西行長の籠る城が漢南・高麗勢に包囲された際の救援と海戦を報告した書状。立花飛騨守・宗対馬守・高橋主膳らとの協議、島津方の番船・迎船、敵の火攻めによる船の焼失、負傷・戦死、漂流者の救助、退路確保と乗船の混乱を述べ、帰国後も国政に油断なく励むよう求める。
十二月七日(安永三年に対応) / 冊子 443~444頁/原整理番号 1225の2/整理ID 1225-2
右の趣旨を触れるよう求め、松平右近将監から渡された書付の写一通を送るので、趣旨を得て遅滞なく順達し、留の松平対馬守方へ返すよう伝える。末尾は十二月七日、大目付。宛は松平薩摩守から松平陸奥守、有馬中務大輔、伊達遠江守、真田伊豆守、次頁の鍋嶋常丸、秋月山城守、大田原出雲守、毛利政次郎、織田丹後守、堀田左京亮へ続く。右留守居への表示があり、追啓は書付のうち大目付へ届け出るとある儀について、正木志摩守方へ届けるよう伝える。写一通の廻達、最後の返付、対象の届先の指定を分けて記す。
安永五年二月十四日(年は朱) / 冊子 485頁/原整理番号 1346/整理ID 1346
松平右京大夫から渡された書付の写一通を送るので、その趣旨を承知し、同列中の在府者と嫡子方へ、行き渡るよう滞りなく早く通達するよう命じる。答については元の方へ各々の挨拶は不要とし、各々松平対馬守方へ申し聞かせるよう指示し、末尾は二月十四日、大目付。松平陸奥守殿・松平大膳大夫殿の右留守居宛で、年は朱に安永五年。陸奥守に伊達重村、大膳大夫に毛利重就の注があり、松平対馬守には大目付の注がある。老中からの書付、写の順達、在府者・嫡子への通知、答を対馬守へ申し聞かせる段階を分け、単に薩摩守だけへの書状とはしない。写一通の数量を保持し、二人の宛名から二通と倍にしない。
安政5年9月27日 / 冊子 190頁/原整理番号 266/整理ID 266
斉興公御譜の抄録。安政五年九月二十七日、上使安藤対馬守信睦が高輪邸へ来て、温恭廟の遺物である短刀一腰を賜ったと記す。温恭廟には家定の注があり、短刀は美濃国兼杉と記す。
正月16日(本文年不記);事件は昨日との報告 / 冊子 241~242頁/原整理番号 336/整理ID 336
西筑右衛門が、安藤対馬守側への出入りをする川島助之丞宅へ出向き、昨日の登城時に行列を妨げた者が討ち留められたと聞いたので、対馬守の負傷と機嫌を尋ねた報告。川島からは六人を打留め三四人ほどは逃れたと聞いたが、詳細は奉行の調べを経て国許へ知らせるのでまだ確定していないとする。対馬守は乗物外へ出て腰に突傷を受けたものの、昨夜は痛みも少なく安眠し気分も変わらないと聞いた。供頭は銃で両股を撃ち抜かれながら起き上がって二人を討ち、各所に傷を受けたこと、その他にも重傷者・軽傷者がいることを報じる。当人は登城せず迎えの供を退散させ、包置の申し合わせもせず懇ろに話したとの書状。正月十六日、西筑から登宛。情報は家臣から聞いた内容として整理する。
(慶長三年)十二月七日 / 冊子 303~304頁
島津義弘が(慶長三年)十二月七日付で友枕斎へ出した書状。高麗在陣中、聖門様からたびたび祈祷札・護符を賜ったことに謝意を表し、その加護による戦勝と帰帆を報告する。十月朔日の泗川合戦で忠恒が明軍を破ったこと、蔚山・順天の包囲解除、十一月十七・十八日の海戦で朝鮮船四艘・江南船二艘を奪取して小西行長軍の撤収を助けたことを詳述し、祈念の験として聖門様への披露と上洛後の拝謁を願う。
萬治三年十一月七日 / 冊子 335~340頁
出水浄円寺の関介が所持していた書物について、伊藤玄宅が自らの記憶と異なる点を挙げながら朝鮮海戦の経過を詳述した覚書。相良玄蕃・川上六郎兵衛らの戦闘、忠恒・惟新の座船と諸船の配置、敵の火攻め、焼失船、夜間の救援・退避、漂流者の収容などを具体的に記し、関介の記録との差異は大略の証言であると断る。
年月日未詳 / 冊子 342~345頁
慶長三年十月二十一日付の朝鮮在陣中の書状を起点に、新納忠元らが国許の軍勢・城郭を整えた働きと、朝鮮からの撤兵・帰国の経過をまとめた勲功記。明軍の攻勢に備えた薩摩・大隅・日向の動員、間者の捕縛、泗川・順天方面の戦況、海戦での敵船撃破と諸将の協力、帰路の唐島・西湾浦・博多・大坂・伏見への着岸を記し、留守中の防戦と迎船・兵站の功績を顕彰する。
慶長十一年七月廿三日 / 冊子 84~85頁
伊奈忠次ら三名が、下総国佐倉より東の地域における銭の取引について、従来どおり銭や割銭を選別して用いるよう命じ、違反者を厳罰に処すと定めた連署掟書。
寛政12年11月14日(朱注。同日提出・許可) / 冊子 185頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0598
同氏上総介が病気の養生のため総髪し、栄翁と改名したいと松平豊後守が願う。豊後守には島津斉宣の人物注、寛政12年11月14日の朱注がある。付札は願いの通りと許可する。注は同日朝に留守居を介して御用番安藤対馬守へ提出し、即日、用人から付札通りの命令を受けたと説明する。出典は全上、正文在文庫。願いの正文、付札、提出・伝達経路を分け、実際の髪形変更時刻を補わない。
享和2年6月4日差出、6月5日付紙許可(朱注) / 冊子 205~206頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0663
暑中の御機嫌伺として同氏栄翁から公方様・大納言様・御臺様へ御肴1種ずつ献上することを伺いどおり認められ、毎年鰹節を献上してきたが、当年は売相が損じたため干小鯛を献上したいと差図を求める。松平豊後守署、享和2年6月4日の朱注、出典は重豪公御譜中、控正文在右筆所。経緯注は当日留守居桑山仲太夫をもって御用番安藤対馬守へ差し出し、翌5日に付紙で仰せ渡されたとし、付紙は「干小鯛可有献上候」と許可する。伺書の差出人と献上主体の栄翁、三つの贈答先、品目変更の理由、申請日と付紙許可日を分ける。
「寛永十九年」十二月朔日 / 冊子 219~220頁
島津久通ら三名が、翌年に金山を停止する件を伝えた連署書状。新納右衛門佐が阿部対馬守へ出向いたところ、金山を直接停止する旨を告げられた一方、領国内の者には採掘させたいとの従前の申出もあったため、酒井讃岐守と相談して改めて上聞に達することとなった。北郷佐州へも伝え、他国人を翌年早々に帰国させるよう厳命することを求めている。
「寛永十九年」十二月廿六日 / 冊子 223~224頁
島津久通・川上久国が、翌春から金山を停止する幕府方針を改めて伝えた連署書状。阿部対馬守の指示に従い、自国・他国を問わず金山関係者を残らず帰し、境を設けて人の出入りを断つよう厳命する。処置が緩ければ他国や江戸へ伝わるため、確実に停止するよう求め、同文を北郷佐州へも送ったとしている。
(貞享二年)六月七日 / 冊子 736頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1938
戸田山城守忠昌が松平大隅守へ、御馬二疋の献上について堀田対馬守と相談し、首尾よく披露したと伝える。
元禄十三年七月十一日 / 冊子 221頁/整理ID 759
稲垣対馬守重富が松平修理大夫島津吉貴へ、五月に東叡山で厳有院徳川家綱の二十一回忌法要が首尾よく済んだことを吉貴が喜んだ旨をもっともとし、老中まで使札で伝えた趣旨を承知したと答えた書状。
元禄十六年七月十日 / 冊子 432頁/整理ID 1470
京極対馬守高規が松平薩州へ、残暑の安否を述べ、同氏松平修理大夫の息子鍋三郎の嫡子願いが首尾よく認められたことを祝う。七月十日付。
元禄十七年正月二十五日 / 冊子 459頁/整理ID 1581
宗対馬守義方が松平薩摩守へ、旧冬の地震について見舞いの書状を寄せられた心遣いに謝意を述べる。
明和二年四月十七日(本文) / 冊子 86~87頁/原整理番号 181の72/整理ID 181-72
四月十七日、本坊で御太刀目録・金馬代を献納する者の名順を、侍従以上として書き付ける。松平加賀守・松平讃岐守・御名から、諸大名と隠居、喜連川金王丸・喜連川秀翁までを列記する。松平越前守には「服」、井伊掃部頭と松平右近将監には「於御宮献納」の注記がある。隠居については、松平空山を内蔵頭隠居、松平監物を左京大夫隠居、松平丹後守を信濃守隠居、松平杢頭を阿波守隠居、松平但馬守を安藝守隠居、宗式部大輔を対馬守隠居、酒井靈岳を修理大夫隠居と注記する。個別の服・御宮献納・隠居の注を名順とともに保持し、全員が同じ場所・条件で献納したと一括しない。
天明四年十二月(日付なし) / 冊子 779頁/原整理番号 2177/整理ID 2177
当日の登城時、礼前に大目付松平対馬守から居残るよう伝えられ、例年どおり歳暮の礼を述べた後、目付藤郷右衛門・曲淵勝次郎の案内で白書院黒鷲杉戸前の老中列座へ進んだ経緯を記す。田沼主殿頭から別紙どおりの達しを受け、西丸でも成瀬安次郎の案内により白書院縁頬に出席した鳥居丹波守へ歳暮祝儀と達しへの礼を述べた。以後の御礼席は年始・五節句・八朔を白書院、月次を黒書院とする旨を記録する。
天明五年(転任祝儀、月日なし) / 冊子 791頁/原整理番号 2195の5/整理ID 2195-5
将軍転任祝儀の招請人名を10件列記する。老中水野出羽守、若年寄安藤対馬守、西丸若年寄井伊兵部少輔、奏者板倉左近将監・松平玄蕃頭、大目付大屋遠江守、作事奉行柘植長門守、普請奉行岩本内膳正、日光奉行井戸美濃守、佐渡奉行石野平蔵を官職・細字実名注とともに記す。
寛政8年9月7日(本文。年次は朱注) / 冊子 131頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0396
重陽祝儀として小袖1重が到来し歓覧したと伝える家斉の御内書。詳しくは安藤対馬守が述べるとする。9月7日付、寛政8年朱注、家斉公墨印、上総介宛。安藤は委曲を述べる担当者で差出人ではない。小袖の数量1重を保持し、若君への献上を記す次397の返書とは分ける。
寛政8年10月22日(本文。年次は朱注) / 冊子 133頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0403
重陽の御内書を渡すので、明日五半時に家来を御城へ差し出すよう、安藤対馬守が上総介へ通知する。10月22日、寛政8年朱注、安藤対馬守署名・上総介宛。これは御内書の受取方法を知らせる書状で、御内書本文の差出人を安藤とする文面ではない。原五半時を保持し、重陽献上の品目をこの通知へ補わない。
寛政10年2月20日(朱注。翌日の五半時に差出を求める) / 冊子 154頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0486
歳暮の御内書を渡すので、明日の五半時に御城へ家来を差し出すよう安藤対馬守が求める書状。本文は御内書の受取時刻・場所・使者差出の指示で、差出人は安藤対馬守、宛名は上総介殿。寛政10年2月20日の朱注がある。目録486は安藤信成書状。出典は重豪公御譜中、正文在文庫。
寛政11年7月2日(朱注。翌日五半時の差出通知) / 冊子 171頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0541
端午の御内書を渡すので、明日の五半時に御城へ家来を差し出すよう安藤対馬守が求める通知。寛政11年7月2日の朱注、安藤対馬守署名、上総介宛がある。目録541は安藤信成書状。出典は重豪公御譜中、正文在文庫。通知日と翌日の受取指定を分け、次542の生見玉返書の署判・日付を転用しない。
文化3年4月4日(朱注。翌日四時の差出指定) / 冊子 264頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0850
歳暮の奉書を渡すので、明日の四時に西丸へ家来を差し出すよう安藤対馬守が求める。安藤対馬守署、松平栄翁宛、文化3年4月4日の朱注。出典は重豪公御譜中、正文在文庫。本文は同頁上段左端から下段右端へ続く。通知日と翌日の受取指定、歳暮奉書と御内書の呼称を分ける。
天保3年春(米寿祝賀作品群。作品に月日なし) / 冊子 900~901頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2532
従四位下藤原豊熈が、三位源朝臣こと島津重豪の八十八歳を祝って奉った和歌一首。春日の奉賀と老祝を掲げ、君は住吉の松の花さえ見たという長寿の人なので、いまの世にさらに幾春を重ねられよう、と寿命の長さを称える。作者署名は藤原豊熈で、朱注が松平対馬守と補う。出典表示から本文へ冊子900~901頁を跨ぐ。天保三年の米寿祝賀作品群に属し、具体的な月日は記されない。
二月廿一日 / 冊子 176頁/原整理番号 295-2
市来宗友の覚書。陣屋の外廻番衆として、本野大学助・垂野源左衛門・尾方対馬守・馬渡四郎兵衛・赤塚源太左衛門・同名主水佑・村田五右衛門・帆芦舎人佑・池田源蔵・川嶋杢丞の十人を列記する。本文日付は二月二十二日で、目録日付の二月二十一日と異なる。
年月日未詳 / 冊子 167~169頁/原整理番号 47
那須五左衛門家の系図。那須氏祖を頼賢(為義四男)とし、為信を備中守行家の一男、宗高を八島で扇の的を射た与市とする。宗治は文治二年に島津忠久の薩州下向に先陣して日向国臼杵郡に住したといい、義祐は楠正成に従って北条高時・大仏貞直方と戦い、河内国千剣破城で戦死した。元祐は応永四年、筑後国上妻で菊池武政方として大内義弘と戦い、大津主水祐を討つ。高久・祐英らを日州椎葉山小崎城主とし、高治が島津義久の旗下となったこと、慶長十八年の椎葉山一揆後に祐実が安藤対馬守へ預けられ上州高崎で没したことを記す。曽我祐巻は日州宮崎城主曽我祐郷の子で島津義弘に属し、貫祐の養子となる。末尾は祐為が慶長二年に江戸で島津光久へ御目見した記事と、天正六年に高治が近国境警備を命じられ義久旗下に属したとする伝を載せる。
元禄十一年十二月六日 / 冊子 91頁/整理ID 310
島津綱貴が松平対馬守へ、先頃その領国で大地震があり破損した所があると聞き、容易ならぬことと思って見舞いを申し入れた書状。
「寛永廿年」二月廿四日 / 冊子 229~230頁
島津久通・川上久国が、金山から両使が帰国したことを報じ、金山停止後の処置を指示した連署書状。北郷佐州と相談のうえ、曾木・横川の衆から四人ほどを金山番手として移し、扶持と山衆屋敷を与えて山内を朝夕巡回させること、金山停止に伴い他国人約二千人を早々に帰国・退去させることを求める。さらに高麗人の取扱責任者を為善から左衛門佐方へ付け替える件を関係者へ申し渡すよう伝えている。
(明暦二年)九月十二日 / 冊子 303~304頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0658
久加・久詮が国元役人四人へ、長崎の唐船唐人に対する切支丹宗門の訴人を尋問し、澳門の日本人子供に宗門と唐の学文を教えて唐人として日本へ渡す企てがあるとの情報を伝える。幕府の上意として、今後唐船は陸地につけず海上で船中を改め長崎へ送る取扱いを示す。松田七左衛門へ道具衆一人を添え、この指示を長崎奉行へ追って使者で伝えるよう求める。
元禄十二年九月二十九日 / 冊子 161頁/整理ID 567
稲垣重富が松平薩摩守へ、自身がこのたび役職を命じられたことを報告し、その祝いとして太刀・馬代黄金十両と目録どおりの品を贈られたことへ謝意を述べた書状。
元禄十二年閏九月四日 / 冊子 162頁/整理ID 572
稲垣重富が松平薩摩守へ、書状を拝見して在国中の健勝を喜び、自身が先頃拝領した屋敷へ移徙して大いに喜んでいると伝えた書状。薩摩守から移徙の祝詞を贈られたことへ謝意を述べる。