島津久元・喜入忠政連署知行宛行状
寛永六年八月十五日、寛永十二年十二月十五日 / 冊子 491~492頁/原整理番号 21-2
寛永六年八月十五日、島津摂津守久元と喜入下野守忠政が、地下・旅とも格別に奉公した平田盛右衛門尉へ新地五十石を宛行い、異議なく支配させるよう御支配奉行衆へ命じた連署状。末尾に、寛永十二年十二月十五日にも加増地五十石を拝領したとの追記があり、合計百石へ増えた経過が分かる。『旧記雑録後編』五一五二号文書と同一文書とみられる旨の編者注を伴う。
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寛永六年八月十五日、寛永十二年十二月十五日 / 冊子 491~492頁/原整理番号 21-2
寛永六年八月十五日、島津摂津守久元と喜入下野守忠政が、地下・旅とも格別に奉公した平田盛右衛門尉へ新地五十石を宛行い、異議なく支配させるよう御支配奉行衆へ命じた連署状。末尾に、寛永十二年十二月十五日にも加増地五十石を拝領したとの追記があり、合計百石へ増えた経過が分かる。『旧記雑録後編』五一五二号文書と同一文書とみられる旨の編者注を伴う。
寛永六年九月 / 冊子 78~79頁/原整理番号 7
如竹が南浦文之の詩文を詩集・文集・戯言の三巻に編次し、後世へ伝えるため刊行した事情を記す跋。続いて藤堂高虎没後の去就、藩主子弟への講義、親族・郷人の救済、琉球での朱子学研究と人倫教化など、如竹の経歴を補記する。
来由四七寛永六年三月廿六日 / 冊子 328頁/原整理番号 47
幕府役人らの連署取状。進上された角石百本を受け取ったことを確認し、石の大小がある旨を記す。寛永六年三月二十六日付。
年月日未詳 / 冊子 79頁
島津家久が寛永六年正月、姓名不詳の使者を通じて太刀一腰と馬代黄金十両を徳川家光へ献上し、年始を祝ったこと、これに対する御内書を賜ったことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 82頁
寛永六年春、徳川家光が痘疹を患ったため、その安否を確かめる使節として喜入忠続が江戸へ参候したことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 97~100頁
寛永六年六月二十二日、島津家久らが催した懐旧連歌。涼しさ、露、月、雪、松、旅、別れ、無常、四季の景物などを詠み継ぎ、各句に作者名を付して長い連歌一巻を構成する。
年月日未詳 / 冊子 102頁
平田盛右衛門純正の出生・母方を記し、若年から島津家久に昼夜勤仕した功により、寛永六年八月十五日に新恩地を拝領し、後年さらに五十石の加増を受けたことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 113頁
寛永六年、薩摩・大隅・日向三州の諸士の給地を全面的に改め、新たな知行目録を与えたことを記す島津久元譜の記事。続く知行目録の導入記事。
年月日未詳 / 冊子 119頁
島津久茂の出生、元和二年の元服(島津家久が加冠、伊勢貞昌が理髪役)を記し、寛永六年十一月十二日に始羅郡蒲生の北村を賜って北田を家号とし、後に村号を改めて島津姓へ復した経歴を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 131頁
寛永六年十二月十六日、島津光久が家臣伊勢貞豊の娘を江戸の邸館に迎えて配偶としたことを記す譜記事。
(寛永八年)四月四日 / 冊子 204~205頁
母の病を聞いて驚いたが、すでに快復したことを喜び、家中の者も無事であると伝える。詳しいことは上方へ赴いた際に申し上げるとした家久の返書で、本文には寛永六年とする朱書注記がある。
明和六年丑十一月二十八日 / 冊子 230頁/原整理番号 610/整理ID 610
大龍寺の文書十通の写に関する証状で、白木御文書五番箱にある覚写として掲げる。列挙するのは、将軍義稙公の延徳三年二月二十二日付公文一通、将軍義澄公の文亀二年十一月二十日・同年十二月二十一日付公文二通、将軍義昭公の天正六年八月十六日・同年十月十七日付公文二通、家久公の寛永六年四月八日・同年四月二十二日付公文二通、光久公の慶安三年閏十月五日付公文二通、および貞享三年九月十日付公文一通である。これら大龍寺の文書が失われたため、写の作成を願い出たことについて、島津久金・亡菱刈實詮の相談を経て申し上げ、御記録所で臨写するよう命じられたので、後代まで格護すべき旨を伝える。明和六年丑十一月二十八日付、樺山左京久智の判、大龍寺宛を備える。付記は、包書に朱で四十八・大龍寺格護の文書とあること、同年十一月二十八日に左京から後年の見合せのため御記録所へ渡し置く旨で渡され、東郷次太夫が承知して納め置いたことを記す。
元禄十三年秋(序)、元亀二年六月二十三日~寛永十三年十二月八日(系譜中記事) / 冊子 490~491頁/原整理番号 21-1
元禄十三年秋、藤原純音が藤原姓平田氏の由来と純貞以下の履歴を記した序・系図。家は古く薩摩国牛屎院と大隅国太良院の境に住み、平良氏から平田氏へ改姓した藤原姓の家であって、平姓平田氏とは別系統だと口碑に基づいて論じるが、旧記が失われたため純貞以前の祖名は不明とする。純貞は島津貴久に仕え、貴久が元亀二年六月二十三日に没すると、その冥福のため六十六州を巡礼し、翌元亀三年の帰国後に殉死を望んで三月二十三日に南林の海へ歩み入り溺死した。遺体が数日後に南林の砂浜へ上がり、その地に葬られたこと、墓碑・法名を伝える。後半は九郎右衛門純昌、休右衛門純次、朝鮮国巨済で病死した女子、幼少から家久に奉仕し寛永六年に新恩地五十石を拝領した純正らの出生・婚姻・没年・法名を系譜化する。
〔延宝六年〕三月十三日 / 冊子 222頁/原整理番号 3
勝目助左衛門宗将が、石庵妙庵大姉の出自と猿渡家の系譜照会への対応を記した覚書。石庵妙庵大姉は天正十四年生まれ、寛永六年十月十八日に帖佐で四十四歳で没し、猿渡越中守の子・掃部兵衛の娘であるとする。系図作成に必要な返答書の催促と照会経緯を記し、延宝六年三月十三日、猿渡喜右衛門信安宛に送る。
天保四年六月吉日 / 冊子 61頁/原整理番号 29
島津久元・喜入忠政は、平田盛右衛門が地方への出張などでよく奉公したことを理由に、新地として五十石を宛行い、支配奉行へ取り扱いを命じる。寛永六年八月十五日付の引付。前後の記述では、平田家の当時の勤務を検討する材料として引用される。
寛永四年十一月吉日 / 冊子 78頁/原整理番号 6
如竹が、南浦文之が伏見で倭訓した『周易程伝本義』に和点を加えて刊行した経緯を記す跋。学び始めの者が理解しやすいよう梓行すると述べ、寛永四年仲冬吉旦に署名する。続いて、寛永六年九月に文之が如竹へ詩文集の謄写を命じ、中野道伴が刊行したことを注記する。
(寛永六年)正月七日 / 冊子 79頁
徳川家光が、改年の祝儀として島津家久から太刀一腰と馬代黄金十両を贈られたことを喜び、詳しくは酒井雅楽頭忠世から伝えるとする御内書。
(寛永六年)正月八日 / 冊子 81~82頁
島津家久が喜入忠続・川上久国に、比志島宮内少輔の曲事は深刻で、今後国のためにならないとして処分を徹底するよう命じる。先に派遣した三人への指示どおり、情実を交えず相談し、詳しくは国分民部左衛門尉から聞くよう伝える。
(寛永六年)二月朔日 / 冊子 82頁
徳川秀忠が、島津家久から奈良酒二荷と一種が届いたことを喜び、遠路からの心遣いに謝意を示し、詳しくは土井大炊頭利勝から伝えるとする御内書。
(寛永六年)二月七日 / 冊子 82頁
徳川家光が、島津家久から領国産の硫黄と二種の品が目録を添えて届いたことを喜び、詳しくは酒井雅楽頭忠世から伝えるとする御内書。
寛永六年二月七日 / 冊子 82頁
島津家久が、日向国大慈寺の住職職について先例どおり執務するよう命じた判物。阿久根蓮華寺文書として伝わる。
(寛永六年)二月廿一日 / 冊子 83頁
島津家久が中山王に、前年九月に江戸へ出立し十月下旬に帰国したこと、江戸での首尾が良かったことを報告する。六月十四日付の書状を披見した旨を述べ、琉球側からの贈物・使節に謝意を示して今後の交流を伝える。
(寛永六年)二月廿一日 / 冊子 83頁
島津家久が中山王に、前年春の祝儀使と贈物への礼を述べ、年金武王子・江薫之方らに関する知らせを受け取ったことを伝える。今後も双方の誠意ある往来を望み、細部は下野守へ申し含めたとする書状。
(寛永六年)二月廿九日 / 冊子 83~85頁
徳川家光の病状と登城・見舞いの扱い、年始・歳暮使者、献上品、在府家臣への指示をまとめた覚書。将軍への拝謁、使節の帰国、鷹・茶道具・植木などの献上と受取、国元への連絡を条項ごとに記す。
(寛永六年)二月廿九日 / 冊子 85~86頁
将軍御成に備え、座敷飾りの三つ具足・花瓶・燈台、征矢・箙・弓、正阿弥に仕立てさせる白太刀などの調達・進上を指示する。さらに羅漢松・木斛・八ツ手を船で運ばせ、寸法、植付け用桶の排水・灌水、温風除け、植木奉行三人の配置まで定めた覚書。
寛永六年二月朔日 / 冊子 86頁
牧野正成が、徳川家光が疱瘡を患ったものの容体は良好であると報告する。又三郎が見舞いの使者として来たことに触れ、今後の登城・見舞いは控えてよい旨などを伝える書状。
(寛永六年)二月二日 / 冊子 86~87頁
土井利勝が、先刻の使者来訪を受け、徳川家光の疱瘡は経過が良く心配無用であると伝える。献上された蘇鉄を家光が気に入り、自ら見て植えさせたことも報告する書状。
(寛永六年)閏二月三日 / 冊子 87頁
徳川家光の疱瘡は容体が一段と良く、見舞いのため参勤する者が出ることを案じて登府は堅く無用と命じた旨を、幕府年寄四名が島津家久へ知らせる連署書状。
(寛永六年)閏二月四日 / 冊子 88頁
永井白元が、将軍徳川家光は機嫌がよく疱瘡の経過も良好で、食事や粥を取れるまで回復し、大御所徳川秀忠も大いに喜んでいると島津下野へ速報した書状。
(寛永六年)閏二月六日 / 冊子 88頁
又三郎忠元が、年頭使として北郷又次郎が遣わされたことを喜び、脇差・肩衣・袴二具・扇一箱を拝領した礼を父島津家久へ述べ、詳細は又次郎に申し含めたとする書状。
(寛永六年)閏二月八日 / 冊子 88~89頁
土井利勝が、徳川家光の疱瘡は機嫌がよく、早くも痘が現れているので心配無用と島津家久へ伝える。詳しくは酒井忠世ら四名から知らせるとして、将軍快復の見通しを報じた書状。
(寛永六年)閏二月十八日 / 冊子 89~90頁
伊勢貞昌が、徳川家光の疱瘡が快方に向かり十五日に湯を使ったこと、徳川秀忠も満足していることを報じる。諸大名の祝儀登城や見舞い登府を抑え、すでに出立した者にも帰国を促す幕府の方針を伝える書状。
(寛永六年)二月廿八日 / 冊子 90頁
相良頼寛が、将軍徳川家光の疱瘡を知らせる書状への礼を述べ、左兵衛佐からも二月六日付の飛脚が着き、痘が顔に現れて平癒したと聞いたことを報告する。天下の大慶として相手の喜悦を祝う書状。
(寛永六年)三月十六日 / 冊子 91頁
徳川秀忠が、当地の普請に用いる角石が目録どおり到来したことを喜び、詳しくは土井大炊頭利勝から伝えると島津家久へ知らせた御内書。
(寛永六年)三月十八日 / 冊子 91頁
島津家久が、又三郎忠元の縁組を祝う使札が遠路から届いたことを喜び、懇切な配慮に謝意を表す。詳しくは下野守から伝えると喜入摂津守へ知らせた書状。
(寛永六年)三月十九日 / 冊子 91頁
土井利勝が、江戸普請のため島津家久から角石百本が目録どおり進上され、披露したところ遠路からの丹念な手配を賞されたと報告する。御内書が遣わされ、詳細は伊勢兵部少輔から伝えるとする書状。
(寛永六年)三月十九日 / 冊子 91~92頁
土井利勝が、江戸普請用として進上された角石百本を受け取り、石の寸法と江戸で荷揚げされたことを記した請取状。
寛永六年三月廿六日 / 冊子 92頁
久永源兵衛ら六名が、進上された大小の角石合計百本を確かに受け取ったことを連署して証明した請取状。
(寛永六年)三月廿一日 / 冊子 92~93頁
土井利勝が、徳川秀忠への見舞い使者と巻物・繻子・塩辛・焙烙などの献上品が披露され、遠路からの配慮を秀忠が喜んだと報告する。使者鎌田政貞が御前へ召し出され、前年献上の焙烙も出来が良かったと伝える書状。
(寛永六年)三月廿三日 / 冊子 93頁
島津家久が、上洛後は天候が続いて順調に到着しただろうと述べ、美作守が突然病気になり、医師理心の薬で養生していると報告する。家久も二度見舞い、脈は良いので回復を期待し、追って経過を知らせるとする書状。
(寛永六年)四月三日 / 冊子 93頁
島津家久が、中山王から年頭の祝儀使と目録を添えた祝物が届いたことに礼を述べ、こちらからも使者を送ったと伝える。以前に薫之方から伝えられた調合法で作った香と香合を受け取り、実際に焚いて出来を賞した書状。
寛永六年四月八日 / 冊子 93頁
島津家久が玄碩西堂に、大隅国正興寺の住持職を先例どおり執務するよう命じた公帖。
寛永六年四月廿二日 / 冊子 94頁
島津家久が玄碩西堂に、建長寺の住持職を先例どおり執務するよう命じた公帖。
(寛永六年)五月三日 / 冊子 94頁
徳川秀忠が、端午の祝儀として島津家久から帷子・単物数十が届いたことを喜び、詳しくは土井大炊頭利勝から伝えるとする御内書。
(寛永六年)五月四日 / 冊子 94頁
徳川家光が、端午の佳儀として島津家久から帷子・単物数十を贈られたことを喜び、詳しくは酒井雅楽頭忠世から伝えるとする御内書。
(寛永六年)五月十一日 / 冊子 94~95頁
伊勢貞昌が、屋敷へ忍び込んで捕らえられた者について、豊臣秀頼の生存など信じ難い供述をしているため、土井利勝へ引き渡して再度尋問するよう助言する。道中の自害・逃亡を防ぎ、乗物または船で厳重に拘束し十分な人数を添えて移送するよう具体的に指示した書状。
(寛永六年)五月十五日 / 冊子 95~96頁
伊勢貞昌が、前朝に男子が誕生したことを急使で報じ、千秋万歳の慶事として祝う。三日中に友野左近を出立させて詳細を伝えること、弓の儀を町田駿河守が勤めること、兄弟も息災であることを知らせた書状。
寛永六年五月廿五日 / 冊子 96頁
島津家久が返事には及ばないと述べ、ただ今『かんせい』を見舞ったところ、なお心配な状態であるが以前ほど悪くはないこと、福寿も見舞ったことを仮名書きで伝える短い書状。
(寛永六年)六月十六日 / 冊子 96~97頁
徳川秀忠が、当地の普請用として島津家久から角石が目録どおり届いたことを喜び、詳しくは土井大炊頭利勝から伝えるとする御内書。
(寛永六年)六月廿日 / 冊子 97頁
人を斬った者が出た場合、近隣の屋敷衆が追跡して留め、刀・脇指を取り上げて事情を尋ね、奉行所へ届けることを定めた覚書。武器を渡さず抵抗する者は討ち取ってもよく、屋敷前の事件を知らなかった番人は油断とみなすとする。