伊集院久治書状
天正15年6月25日 / 冊子 349頁
伊集院久治が土持大膳進へ、武庫様の警護や下城への派遣に関する配慮へ礼を述べ、京衆が前日に通過し、今日・明日には下城を出立する見込みだと知らせた書状。帰還前の慌ただしさを詫び、平豊への返書が手元に留まっているので、適切な者に持たせるよう頼んでいる。
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天正15年6月25日 / 冊子 349頁
伊集院久治が土持大膳進へ、武庫様の警護や下城への派遣に関する配慮へ礼を述べ、京衆が前日に通過し、今日・明日には下城を出立する見込みだと知らせた書状。帰還前の慌ただしさを詫び、平豊への返書が手元に留まっているので、適切な者に持たせるよう頼んでいる。
八月廿四日 / 冊子 606~608頁
差出人未詳の人物が川崎大膳ら四名に宛て、修理殿が先月二十九日に上方を出船して帰国したこと、公方が今月四日に当地へ到着し、当地の情勢が無事であることを報告する。さらに、諸大名に当地滞在が申し渡されたことを踏まえ、修理殿の上洛に際しては準備の遅延を避け、少人数で早く上り、必要な者や道具は後船で順次送ること、進物の提出や御目見・出仕を他者より遅らせないことなどを指示し、相良殿の拝領物にも触れた書状。
十月十七日 / 冊子 53~54頁
新納忠元が土持大膳亮に、火元と噂されて退去させられた被官・供木の処遇を申し入れた書状。供木は先祖代々の被官で、出火を否定していると説明し、処罰によって面目は失わせたとして、慈悲をもって本服・復帰させるよう求め、明確な返答を促す。
九月十日 / 冊子 54頁
忍性入道江鯉が大膳亮に、約束していた訪問・遊山の延期を伝えた書状。二十日頃に万部の開白があり、僧衆の参着も重なるため今回は差し控え、時期を見て僧から連絡させ、改めて相談・訪問すると述べる。
四月廿六日 / 冊子 54頁
伊集院久治が、立願した千句連歌を翌月朔日に始めるため、土持大膳亮に執筆役として来訪するよう依頼した書状。二十八、九日頃の到着を望み、執筆役や連衆の確保が難しい事情を述べて協力を求める。
三月廿三日 / 冊子 54頁
上井秀秋が土持大膳亮に、当地で逗留している博士・田上左京進がそちらを徘徊する予定だと知らせた書状。旅人であるため、万一困窮・不都合が生じた際には援助するよう頼む。
七月十七日 / 冊子 55頁
上井秀秋が、図田帳の借用について土持大膳亮と瀧聞越後守へ協力を求めた書状。迫田次郎左衛門尉と相談し、南郷の福永が所持すると聞く図田帳も調査・借用して差し上げるよう依頼する。
八月十二日 / 冊子 55頁
上井秀秋が、内山の番役を早急に立てるよう土持大膳亮と瀧聞越後守へ求めた書状。御老中の指示に従い必要な人数を手配し、中山にもこちらから番衆を置くので、双方で相談して進めるよう伝える。
九月廿日 / 冊子 55頁
伊集院是心が土持大膳亮に、先日の依頼に関する書状と礼の音信を受け取ったことを謝し、対象を早々に厳重に保管・守護することが肝要だと伝えた書状。詳細は再会時に述べるとする。
二月廿九日 / 冊子 56頁
瀧聞宗運が土持大膳亮に、川邊豊州入道の病状を知らせた書状。前日に聞いた話として、川邊が中風と眼病を併発していると伝え、急便の機会に一書を送ったもの。
十月十九日 / 冊子 56頁
瀧聞宗運が、浜市での面会とその後の手配について土持大膳亮へ返答した書状。受け取った糧を配分し、役人へ引き渡したことを報告し、上洛後は京都での諸事に助力してほしいと依頼する。
四月十五日 / 冊子 56~57頁
市来家親が、京都御門柱に関する処置と日程について土持大膳亮へ相談した書状。関係者の到着・引き渡し時期を調整し、刑部左衛門尉とも内談したうえで日限を知らせるよう求める。
七月廿日 / 冊子 57頁
上床国寿が土持大膳亮に、順喜の宿所と小舟の調達を頼んだ書状。町役人と相談して町近辺の空家を探し、順喜本人の負担で小舟一艘を借りられるよう取り計らうことを求め、関係諸氏への取次も依頼する。
二月廿七日 / 冊子 57頁
伊集院久治が、兒玉新四郎による衣類盗難事件の処置を土持大膳亮と瀧聞越後守へ求めた書状。新四郎が在所で衣類を盗み、当地で売却して露見したため、盗人として適切に詮議・処分するよう依頼する。
年月日未詳 / 冊子 341頁
伊集院久治が、桑山重晴・福智長通から数か所へ送られた書状を受け、人質提出の処置や自身の出頭時期を相談した書状。秀吉上洛時の通路・宿泊、日向越え、内之倉・八郎ヶ野付近の悪路、志布志・鹿児島方面の道路整備にも触れ、戦後処理と交通確保を同時に進める実務連絡である。
(天正16年)10月17日 / 冊子 419~420頁
新納拙斎が、未決着の案件について先方の判断を求め、法式に背く行為や相手方の訴えを詳しく検討するよう申し入れた書状。 双方の言い分が対立するなか、命令書や証拠を踏まえて穏当な裁定を下すよう求めており、家中紛争の調停過程をうかがわせる。
五月五日 / 冊子 540~541頁
福崎重親が、長寿老の着船と伏見到着、自身の五月中の下向予定を知らせる一方、当地で疫病が流行し同行の夫丸も病んでいると報じる。源次郎母の身柄を当地に留めるか帰国させるかは将来の首尾を考えて十分相談するよう求め、処罰者への取りなし、寺家の面目、神五郎の籠居などについて、罪の軽重と遠近を慎重に判断するよう諭す。
八月廿三日 / 冊子 568~569頁
福崎重親が、八月十四日に細島を出船し、同月二十一日に大坂へ着いたことを知らせる。島津義弘(惟新)は美濃の城を攻めるため大坂から奥へ進み、自分たちも二十四日に後を追う予定とする。京都・伏見・大坂の無事、先着・後船の薩摩衆や大坂残留者を報告し、伏見城が八月一日に陥落して福永弓左衛門・井尻甚六が戦死し、抜水与兵衛が負傷したことも伝える書状。
五月十七日 / 冊子 57~58頁
伊勢貞真が、京都からの命に基づく諸地頭の談合について通知した書状。栗野での会合に向け、鹿児島の殿中番を務める刑部左衛門尉を含む関係者を集め、五月二十五日までに栗野へ参着するよう求める。
(慶長五年)八月十七日 / 冊子 564頁
新納旅庵が、上方乱入のさなか自分がなお存命であることを知らせ、三右衛門・宗左衛門・助右衛門を急ぎ上洛させることなどを箇条書きで命じる。自分が死んでも娘一人が残るため借物の請求への対応と収納を怠らないこと、武庫様の御願いに関わること、五郎右衛門の判断で後事を処置することを依頼する事書。
年月日未詳 / 冊子 294~295頁
応永二十三年正月、柳田大膳の策で小田原弾正が輪千手堂坊へ誘い出され、自害したことから家臣同士の戦闘となり、本田伊賀守ら多数が死んだ事件を記す。久豊の対応、伊集院方との関係、遺族・家臣団の動向も続けて叙述する。
永禄十一年八月十九日~永禄十二年三月十八日 / 冊子 200~201頁
永禄十一年八月十九日、大口勢が堂崎の通路に陣を構え、伊東勢も桶比良に進出して加久藤・馬関田の村々へ放火した。貴久・義久は菱刈表から援兵を送り、伏兵で誘い出そうとしたが大雨で失敗した。のち大口方が田中河内に伏兵を置き、番替え中の川上丹波守・堀之内某を討ち、救援した是枝大膳坊も戦死した。長陣に疲れた相良方は出水感応寺の僧を介して和議を求めた。
永禄十一年八月十九日 / 冊子 201~202頁
永禄十一年八月十九日、大口勢が深水三河守を大将として堂崎に陣を取り、伊東勢も桶比良へ進出した。義弘は飯野へ戻り、菱刈表から援兵が送られたが、大雨で誘引・伏撃策は実行できなかった。大口方は馬越・田中河内で番替え部隊を襲い、川上丹波守・堀之内二郎左衛門と是枝大膳坊が戦死した。日新は長陣と損耗を避けるため山野を相良方へ譲って一時和睦するよう勧め、感応寺和尚の仲介で和議が成立した。
永禄十一年八月十九日~十二月十三日 / 冊子 203頁
大口方の勢力が増すなか日新が重病となり、義久が馬越城で諸所を警戒し、貴久は十一月に菱刈から加世田へ移って看病した。その隙に敵が川上丹後守・堀内某を討ち、救援した是枝大膳坊も戦死した。相良・菱刈両氏は感応寺を介して和睦を求めたが成立前の十二月十三日に日新が七十七歳で没した。貴久は日々供養し、翌年の四七日忌に梅花と追悼歌を献じた。
天正六年十一月十二日 / 冊子 628頁
天正六年の高城・耳川合戦で島津方として戦死した者を列挙する名簿。本田親治、北郷久盛、村田経重、山中宗左衛門、鎌田大膳亮、海江田主殿、曲田伯耆守、市来軍介ら、根白坂・河原・追撃戦などで討死した諸士を記す。
天正九年十二月二日 / 冊子 704頁
相良義陽が岩下町を攻めて退く際、甲斐宗運の伏兵に前後から攻められて戦死し、相良家が危急となったため、新納忠元が八代城などを守った記事。義陽の弟相良大膳亮が上球磨へ攻め入れて郡中を騒動させると、兵庫頭忠平が使者を送り、これを制止した。
天正九年十二月二日以後 / 冊子 704~706頁
相良義照が島津への忠節を示すため阿蘇方へ出兵し、岩下町を破って勝利したのち、響野原で油断したところを甲斐宗運に急襲されて討死した経緯を記す。相良領が騒然となり、新納忠元が八代へ入って鎮めた後、大膳亮の上球磨侵入や八代老衆の要請を受け、翌年島津勢が八代を領有して相良遺児を球磨へ移し、花山に新城を築いて守備を置いたと続ける。
年月日未詳 / 冊子 705~706頁
相良義照の弟大膳亮が上球磨へ侵入して郡中を乱したため、島津忠平がこれを召し戻した記事。八代老衆の要請を受け、義久は八代を島津領とし、相良忠房兄弟を球磨へ移した。忠平が八代領有を辞退した後、平田光宗、次いで伊集院忠棟を地頭とし、花山に新城を築いて木脇刑部左衛門尉を城衆頭に任じた。
年月日未詳 / 冊子 706~707頁
相良義陽の弟大膳亮が兄と不和になって津奈木を去り、谷山を経て薩摩へ属し飯野に住んだ経緯を記す。義陽戦死後、大膳亮が無断で上球磨へ攻め入り郡中を騒動させたため、島津忠平が真幸へ使者を送り、召し戻して乱を止めた。
(天正19年)7月20日 / 冊子 510頁
大仏造立用の銅・地金・材木と木食上人との談合、国役負担、伏見城番の人数召集、大膳部少輔への関役一件を奏聞させる件、関屋七郎の勤仕、馬に関する礼などを列挙した覚書。中央の造営・城番負担と家臣・馬の処置を同時に整理している。
(慶長四年)五月九日 / 冊子 381~382頁
島津義弘が又八郎からの書状を受け、無事に着津したことを喜ぶ一方、庄内の処置がまだ済んでいないのかと尋ねる。龍伯の指示を受けた竹内兵部がなお上着していないこと、又八郎が念を入れて送った判紙で書状を調え、伊集院図書を通じて内府へ披露したところ祝着されたことを伝え、当地の様子は比志嶋大膳亮から聞くよう述べる。
(慶長七年)四月十五日 / 冊子 808-809頁
島津義弘が忠恒へ、土持大膳を通じた申し入れへの返事と、求められた河原毛の馬を送る旨を伝える。法華千部読誦中のため馬追いへ多人数を出せないとし、乱暴な追い立てを止めるよう求め、五次左衛門尉へも申し含めた書状。
年月日未詳 / 冊子 36~37頁
島津常久の公宅警衛の番替と帰国航海を記した記事。十一月四日に川田大膳正、同月二十日に伊集院肥前入道元巣が常久に代わる警衛として上京した。常久は同月二十六日に伏見を発ち、十二月五日に大坂から福島へ、同月八日に伝法から播州室津へ進んだが、逆風のため航海が滞った。同月十九日に筑前唐泊へ繋船して船中で越年し、慶長十一年正月八日未刻に薩摩へ帰着した。
十一月廿三日 / 冊子 100頁
島津忠廉の書状。久しく音信がなかった相手と対面できたことを喜び、来る二十六日に東郷へ赴いて用務を行う予定を伝える。また、大膳金剛の看経を依頼しており、改めて面会して相談したいとしている。
万治二年二月六日 / 冊子 512~513頁
島津弾正が寛永十八年に御納戸から借りた普光院の琉球関係文書と徳川秀忠御内書について、万治二年に返上の有無を島津大膳家へ照会した経過を日付順に記した覚書。受取の返却可能性も含め、老中・御納戸を通じた確認手続きを記録する。
年月日未詳 / 冊子 293~294頁
河邊・伊作勢との和睦と久豊の帰還をめぐる交渉の後、輪千手堂坊を舞台に家臣団の謀議と自害・討死が続いたことを記す。久世の調停が進まないなか、本田・小田原・柳田らを含む近臣の対立が深まり、多数の死者を出した経過を叙述する。
年月日未詳 / 冊子 836-837頁
伊地知季安愚考は、伊集院忠真が加藤清正の威を頼んで再び謀反を企てたことが露見し、川田国鏡の内命を受けた押川則義と渕脇平馬が、慶長七年八月十七日に野尻大津の狩倉で待ち伏せたと記す。案内者の誤りで則義は平田新四郎を鉄砲で射殺し、続いて平馬が忠真を射殺した。忠真は三十三歳で、墓は野尻にあり、法名を法山道機居士という。
明和二年五月十日 / 冊子 93頁/原整理番号 181の83/整理ID 181-83
松平右近将監から渡された書付の写し一通を送り、同席中の在府者へ早く通達するよう求める。返答は各人から個別に挨拶する必要はなく、各家から大目付大井伊勢守方へ申し聞かせるよう定める。五月十日、大目付から細川越中守・松平大膳大夫の留守居に宛てる。添付書付の受領、在府者への通達、返答の取次先を区別し、各人が直接返答を済ませたという記載にはしない。
安永五年二月十四日(年は朱) / 冊子 485頁/原整理番号 1346/整理ID 1346
松平右京大夫から渡された書付の写一通を送るので、その趣旨を承知し、同列中の在府者と嫡子方へ、行き渡るよう滞りなく早く通達するよう命じる。答については元の方へ各々の挨拶は不要とし、各々松平対馬守方へ申し聞かせるよう指示し、末尾は二月十四日、大目付。松平陸奥守殿・松平大膳大夫殿の右留守居宛で、年は朱に安永五年。陸奥守に伊達重村、大膳大夫に毛利重就の注があり、松平対馬守には大目付の注がある。老中からの書付、写の順達、在府者・嫡子への通知、答を対馬守へ申し聞かせる段階を分け、単に薩摩守だけへの書状とはしない。写一通の数量を保持し、二人の宛名から二通と倍にしない。
天明六年七月二十八日 / 冊子 869~870頁/原整理番号 2404/整理ID 2404
奥平大膳大夫が病気のため万一に備え、妾腹の女子へ重豪の二男島津富之進を急婿養子として迎えたいと申し入れた件について、重豪側は酒井縫殿頭からの申入れを承知し、その意向に任せるので奥平方へ伝えるとする。朱注は七月二十五日に酒井を通じて受け、二十八日に相良壱岐守を介してこの口上書を奥平方へ遣わしたと記す。幕府への願書とその許可とは区別される。
二月九日 / 冊子 106頁/原整理番号 166
川上久国・三原重庸が大膳亮へ、薩州様の有馬直行に伴い当地衆を率いて出立する旨の書状を受けたが、松平信綱は加勢・在陣不要との意向であるため、人数の出立は改めて知らせるまで控えるよう命じる。
慶長五年三月十三日 / 冊子 523~524頁
伊集院忠真の降伏後、島津豊久が都城方面から帰陣したことを記す。各地の戦闘で三原九兵衛・野村藤蔵・坂元半兵衛・富山次十郎・前田大膳兵衛・野田覚内ら多数の家臣が戦死し、負傷者も数多かった。軍功により野々三谷を与えられたが、豊久は辞退した。
天明六年八月二日 / 冊子 870頁/原整理番号 2408/整理ID 2408
重豪は、病気が重い奥平大膳大夫に男子がなく妾腹の娘がいるため、次男島津富之進を急養子にしたいとの願いを承知した旨を届ける。奥平家の願書と重豪の届書は御用番水野忠友へ提出され、奥平家の願書は親類木多忠典の名義で出された。
天明六年八月四日 / 冊子 871頁/原整理番号 2409/整理ID 2409
島津富之進は、奥平大膳大夫の死去の日から五十日の忌と十三か月の服に服し、忌服書付を差し出すよう命じられたことを承知し、使者をもって請書を提出する。
文政3年8月(年は朱書) / 冊子 580頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1746
正文は文庫にあるとし、口裏には添書とある旨の朱注を伴う。別紙の趣意に関わることは他の事柄ではないため、奥平大膳大夫へは軽微な事柄でも、事柄に応じて相談するよう求める。豊後守と大膳大夫にも別に伝えてあるので、互いに気付いたことや懸念がある時は遠慮なく相談し、各々その心得を持つよう申し聞かせる。朱書の文政三年八月。口裏・書誌注は、以上三通が一包で白木御文書八番箱にあると記す。本文の相談指示と、添書・三通一包の保管注記を分けて記録する。
文政3年8月(年は朱書) / 冊子 581頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1749
正文は文庫にあり、前と同じく八番箱にある旨の注を伴う。今回の大御隠居の介助辞退に関することは他の事柄ではないため、奥平大膳大夫にも、軽微な事柄でも事柄に応じて相談するよう、家老中へ申し聞かせる。朱書の文政三年八月、家老中宛。No.1748の左近への相談指示に続き、奥平大膳大夫も相談先として示す。相談するよう求める諭達であり、相談を終えた結果報告にはしない。
2月27日(申渡・拝見);去11日二条城の伝達に言及 / 冊子 347~348頁/原整理番号 496の1/整理ID 496-1
松平修理大夫への通知。松平大膳太夫父子へ詰問し、万一承服しなければ征伐するため、討手の人数を出す準備をするよう内意を伝える。阿波徳島、因州鳥取、芸州広島、肥後熊本、豊後小倉、備後福山、播州龍野、備前岡山、出羽松江の諸侯と石高を列記し、紀州和歌山の紀伊中納言を御名代、奥州会津を副将と記す。松平肥後守と有馬遠江守には諸事を受けて尽力する役割を示す。続いて、去十一日二条城に留まるよう召された太守が、老中水野和泉守・酒井雅楽頭・有馬遠江守・土井備中守らの列座する場で、長州詰問と不服時の征伐を伝えられたとの報告を収める。別紙と準備指示を承知するよう命じ、二月廿七日七ツ後の夜に、諸士一統が御対面所で拝聞した注を持つ。条件付きの計画で、各諸侯の石高を出兵数・実支出に換算しない。豊後小倉は本文表記とする。
年月日未詳 / 冊子 292~294頁
応永二十二年前後の給黎攻防後、島津久豊の周辺で生じた家臣・一族間の対立と謀議を記す長編記事。川邊・伊作勢の動向、久豊の移動と帰還をめぐる交渉、家臣の自害・討死、伊集院方との抗争が続く経過を叙述する。
年月日未詳 / 冊子 294頁
伊集院・伊作・川邊方との和睦を進めるため、久豊と伊作勝久が会談し、久世を介して川邊への帰還を図った記事。交渉中に家臣団の内紛と暗殺の疑いが生じ、福昌寺和尚の仲介にもかかわらず小田原弾正らの対立が激化した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 2頁
弘治元年正月、蒲生・菱刈・渋谷方の偽降によって北村城戸口で島津軍が伏兵に遭った際、川上久朗が入来の寺尾左衛門と長刀・鑓で戦った経緯と、折れた鑓が後世に伝わったことを記す。