豊臣秀吉高麗再度出勢法度
慶長二年二月廿一日 / 冊子 84頁
前年同日付の高麗再度出勢法度と同案であるため、毛利壱岐守・毛利豊前守宛の本文を省略した記録。
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慶長二年二月廿一日 / 冊子 84頁
前年同日付の高麗再度出勢法度と同案であるため、毛利壱岐守・毛利豊前守宛の本文を省略した記録。
永正十年十月吉日 / 冊子 603頁
阿久根院内の水田を、一壺町三段・六町卅・九段・一弐段などの区画に分け、所在地と面積を列記した坪付。
文化12年亥10月(本文。表紙は12月) / 冊子 482~483頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0100
1462の1、壱岐守様御続書。内室はお八重で、伯耆守の曽祖父溝口古浩軒の娘と記す。嫡子は周防守(忠実注)、松平大膳太夫の実弟とする。弟は水野内記(壱岐守の御手前にいた旨の注)、書院御番頭水野遠江守(忠善注)、交代寄合溝口摂津守(富静注)。甥欄は内田近江守(正肥注)、寄合長五郎(壽隆注)の惣領小濱徳太郎、内記の惣領水野藤五郎、その男安五郎を列記し、姪は同娘お喜代。養母方の従弟女として、弾正少弼の父本多越中守の内室と、細川和泉守の内室を記す。右の通りとして亥十月で結ぶ。人物と続柄は欄の配置を保持し、「同男」「同娘」の指示先を残す。本文に年月日付き署名はなく、年は1462表紙の文化12年亥による。壱岐守の実名注は忠韶候補として扱い、入力の忠嗣を確定名にしない。
天正20年6月3日 / 冊子 566~568頁
豊臣秀吉が、小西行長・加藤清正ら朝鮮出兵諸将を複数の先懸隊に分け、各隊の人数と指揮官を詳細に列挙したうえで、一日交替で進軍するよう定めた書立・法度。総勢十二万人規模の編成、三組による番替、軍律の遵守、後続部隊との連携を命じ、渡海兵を順次投入して明国へ進む構想を具体化した、朝鮮出兵初期の動員・作戦計画を知る重要史料である。
正月十一日 / 冊子 186~187頁
豊臣秀吉が正月朔日付の注進を十一日に受け、唐人・朝鮮勢が蔚山へ進出し、日本諸将が迎撃に向かったことを承知した朱印状。諸将に相談して敵を一人も漏らさず討ち果たすよう命じ、安芸中納言・増田右衛門尉・因幡衆・大和衆・紀伊国衆・但馬衆・九鬼大隅らを増援として順次派遣すると告げる。今後の戦況報告を待ち、その注進次第では秀吉自身も渡海するとした。
(慶長三年)十一月二日 / 冊子 270~271頁
浅野長政・石田三成が(慶長三年)十一月二日付で朝鮮在陣の諸将へ出した連署状。徳永寿昌・宮木豊盛が名島へ着岸して現地の意向を伝えたことを受け、明軍が大敗した以上は諸城の城主がそろって帰朝するよう命じる。再攻撃で撤収できない場合は全城を翌三月まで保持して報告すれば援軍を送るとし、確実な講和や人質提出がないまま釜山だけを残す処置は日本の妨げになるとして退ける。
(永正十八年)二月十一日 / 冊子 630頁
島津忠朝が京兆方に、池永修理の渡唐船、陶安房守への申入れ、塩田壱岐守の取次などについて返答した書状。
(永正十八年)二月十一日 / 冊子 630頁
島津忠朝が陶弘詮に、渡唐船について先に示された内容を重ねて了承し、修理大夫からの申旨と塩田壱岐守の取次を伝えた書状。
(文禄元年)5月5日 / 冊子 560~562頁
島津義弘が、国元の船が来ないため四月二十七日に対馬の名室湊から雇船で渡海し、毛利壱岐守の船と合流して夜間に川口へ入った航程を報じる。朝鮮での城取り・軍役、諸船の遅延、兵粮・替米、国元の家族・所領処置まで案じ、山田理安・鎌田出雲にも別紙を送るなど、渡海直後の軍事・兵站・家政上の懸念が交錯する長文書である。
(文禄2年)正月16日 / 冊子 665頁
京都から来た二、三人が持参した書状への返書を託し、伊東を介して壱岐守方などへ確実に届けるよう求める。京都への使者については、加藤清正の別紙を持たない者を不用意に通さず、信頼できる者をまとまった人数で送るよう指示する。 戦時下の書状輸送で、通行証・取次・護送人数を用いて情報と使者の安全を管理していたことが分かる。
(文禄2年)7月12日 / 冊子 715頁
義弘から「もくそ城」落城の注進が届き、秀吉が大いに感賞したと伝える。 自身の渡海も急に命じられたが心配は不要とし、毛利壱岐守との協力を評価しながら、今後も当地の用務を遠慮なく申し付けてほしいと応じた書状。
(慶長三年)十二月十六日 / 冊子 152頁
豊臣秀吉が島津豊久(又七郎)へ、従来どおり毛利壱岐守と相談し、一手となって行動するよう命じた朱印状。来春三月に秀吉自身が渡海して成敗・仕置を行う予定なので、それまでは陣所を動かさず、兵粮を城に堅固に備えて渡海を待つよう指示し、詳細は長束正家・木下吉隆から伝えるとする。
(慶長三年)正月廿六日 / 冊子 190~192頁
宇喜多秀家以下十三名が、蔚山での明・朝鮮勢の攻撃を踏まえ、朝鮮在陣諸城の配置と普請方針を再検討して奉行衆へ言上した連署状。蔚山は突出し川越えの難所もあるため、西生浦に加藤主計頭を置き、安芸宰相勢五千を残して普請させる案を示す。順天は大河と遠い干潟のため海陸から救援しにくいとして、小西勢を島津の泗川城へ、島津勢を固城へ移す案を提示するが、小西摂津守・対馬守は同意しなかった。順天・蔚山の普請は下知まで見合わせ、梁山を加徳へ替えて安芸宰相に普請、黒田甲斐守に在番させ、毛利壱岐守を固城在番とし、城主の半役を普請に充てるよう提案する。
(慶長四年)九月廿八日 / 冊子 443~444頁
太田一吉が薩摩少将島津忠恒に、内府が羽柴肥前守を詰問するとの風説と、中村式部少将・堀尾帯刀を使者に立てる動きを伝える。出陣や海上輸送への備えを述べる一方、彦山座主職をめぐる黒田甲斐守・毛利壱岐守の争いが豊前との境で起きているため、上洛を見合わせたと説明する。
七月十日 / 冊子 44~45頁
島津家久の掟として鹿屋壱岐守が示した条書。夜間の門限と門番の厳守、夜間外出時の町田勝兵衛発給の切手、大酒・見物の禁止、喧嘩口論の禁止、普請その他の公役を怠る者の拘束、無断外出の禁止を定める。
(寛永十五年)三月八日 / 冊子 789~790頁
黄門の死去に弔意を示し、薩摩守後見について伊勢兵部少輔の尽力を求めたうえで、有馬一揆が二月二十七・二十八日に鎮圧されたこと、自身も戦闘で鉄砲傷を負い療養中であることを詳しく報じた書状。
天明六年七月二十八日 / 冊子 869~870頁/原整理番号 2404/整理ID 2404
奥平大膳大夫が病気のため万一に備え、妾腹の女子へ重豪の二男島津富之進を急婿養子として迎えたいと申し入れた件について、重豪側は酒井縫殿頭からの申入れを承知し、その意向に任せるので奥平方へ伝えるとする。朱注は七月二十五日に酒井を通じて受け、二十八日に相良壱岐守を介してこの口上書を奥平方へ遣わしたと記す。幕府への願書とその許可とは区別される。
永禄十一年二月廿八日 / 冊子 194~195頁
小苗代原へ出た新納忠元が薬師堂を拝み、堂の板へ歌を書こうとしている間に敵が迫り、家臣久保筑左衛門・尾崎能登に引き下ろされたことを記す。忠元は白坂口で八代の的場五藤兵衛と太刀で戦って顔にも傷を負い、春成外記が弓で敵を射伏せた。求麻方の東藤左衛門・愛甲助三郎らが突入したが、鎌田壱岐守らが討ち取り、寄手は退いた。
元亀二年秋(十一月廿日) / 冊子 249頁
元亀二年秋、伊地知重興・伊東・肝付・禰寝の連合軍が鹿児島内海へ侵入した際、瀧ケ水で戦功を挙げた者の交名。平田美濃守、鉄砲上手の勝部与左衛門、平田藤九郎、南雲壱岐守・新次郎、指宿四郎二郎ら八、九人を掲げ、平田美濃守の実名に関する編者の考証を付す。
(寛永四年)四月十三日 / 冊子 33頁
樺山久高が伊藤壱岐守の書状と条書を送り、朝鮮方面で多数の人々が乗船・退避した折の働きを詳述する。指宿らが船を着岸させ、人員を残さず収容した奉公を賞し、当時の褒美について働きかけるよう求める。
(元禄二年)八月十八日 / 冊子 839頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2220
島津綱貴が関所担当の四名へ、家来の母と下女の計二人を国元へ送るにあたり、関所切手を調えてもらったことへの礼を述べた書状。
年月日未詳 / 冊子 135~136頁
松平石見守・生駒壱岐守の家中で切腹を命じられた者を列挙した書立。伊木野伊織以下の家臣を、相馬大膳・仙石越前守・丹羽左京・真田伊豆・京極丹後守・松平出羽守・森内記らの預け先ごとに掲げ、切腹者のほか追放・仕置に関わる者も記している。張紙・墨書で『此名書ハ御譜中ナシ』との注記があり、本文135頁から136頁上段まで続く。
慶長三年八月廿五日 / 冊子 230頁
豊臣政権が「御無事」の決着後における釜山浦在番の組分けと番替を定めた朱印状。加藤主計頭・小西摂津守・島津兵庫頭・黒田甲斐守らを複数組に編成し、各城から釜山浦へ引き取る際は兵糧・玉薬・鉄砲などを運んで蔵に収めること、対馬豊崎には久留米侍従・筑紫上野介・寺沢志摩守の計二百人を置くこと、在番外の一部諸将は帰朝して御目見することを命じる。
慶長三年八月廿五日 / 冊子 231頁
豊臣秀吉が、「御無事」の決着後における釜山浦在番の組分けと番替を定めた朱印状。小西摂津守・島津兵庫頭の組、加藤主計頭らの組、黒田甲斐守・鍋島加賀守の組を置き、各城から釜山浦へ引き取る際は兵糧・玉薬・鉄砲などを運んで蔵に収めること、対馬豊崎には久留米侍従・筑紫上野介・寺沢志摩守の計二百人を置くことを命じる。
年月日未詳 / 冊子 15頁
島津光久の子女十四人について、生母・生年月日・没年月日・法名などを列記した譜記事。嫡子光久の出生と母系を起点に、忠良ほか男子・女子の系譜情報を記録する。
(寛永十五年)四月廿一日 / 冊子 801頁
島原の大筒・石火矢・鉄砲・玉薬などを薩摩船で大坂へ運ぶ件について、十~十二反帆ほどの船二十四、五艘と予備四、五艘を用意するよう求めた下曾祢三十郎ら三名の連署書状。
(寛永十五年)五月廿八日 / 冊子 808~809頁
島原から到着した船に石火矢・大筒・玉薬を積み、二十四艘で大坂へ回航したこと、別の一艘には当地の諸道具を積んで江戸まで届けるため、薩摩側の使者・船頭と相談して出したことを報じた三名の連署書状。
年月日未詳 / 冊子 354~355頁/原整理番号 324の3
寺沢領天草の百姓一揆と唐津勢敗北を受け、相良長信が国元諸所へ人数の召集・出水方面への集結を命じた書状である。兵糧・船手を整え、領内の者を身分に応じて立てるよう具体的に指示する。
「寛永十七年」七月廿九日 / 冊子 133~134頁
伊勢兵部少輔貞昌と山田民部少輔有栄が、高野山での法事が無事に済んだことと江戸の情勢を国元へ報じた連署書状。生駒壱岐守・松平石見守の家中処分と所領・預け先を知らせ、相良清兵衛が稲葉美濃守預かりとなり、能勢小十郎・二神宇兵衛が上使として出発したことも記す。さらに喜平次が以前から清兵内蔵助の処置を諫めていた経緯と、相良家中が他家の処分を見て危惧している様子を伝えている。
「寛永十七年」八月廿七日 / 冊子 141頁
幕府年寄の松平信綱・阿部忠秋・阿部重次が島津光久へ、相良壱岐守に関する訴訟を翌日に審理すると通知した連署書状写。島津方で預かっている相良喜平次を、四つ以前に付き添いを付けて評定所へ差し出すよう命じている。末紙には御家老衆からの切紙であるとの注記がある。
「寛永十七年」九月十六日 / 冊子 141~142頁
相良壱岐守頼寛が島津家の重臣らへ、薩摩守島津光久の息災を祝い、相良家の訴訟に伴って喜平次兄弟を光久が預かり長く世話したことへの謝意を述べた書状。相良側の望むとおりの裁定となったことを喜び、在所へも使者を遣わすなど配慮を受けたことに礼を述べ、暇が許され次第帰国する意向を伝える。表題はインデックス記載の「相良頼覚書状」を保持し、本文末尾の署名は「相良壱岐守頼寛」と確認した。
元禄十四年五月三日 / 冊子 298–299頁/整理ID 984
三浦壱岐守明敬が嶋津助之丞・喜入安房守・種子嶋蔵人へ、絵図の件で先頃家来を派遣したところ、各人が心を添え、絵図役人と詳しく相談し、格別に馳走されたことに謝す。追書では嶋津主計が特に心を配ったと聞いて喜び、よろしく承知してほしいと頼む。
元禄十六年三月四日 / 冊子 419頁/整理ID 1421
伴良錦・九津見定春・戸村愛忠が嶋津主計へ、三浦壱岐守明敬領分の控絵図受取りのため吉村傳七郎を遣わしたところ、絵図と郷帳の控を受領し、傳七郎も種々もてなされたことを伝える。事情を壱岐守も承知しており、その礼を述べる。三月四日付。
延享二年三月十三日 / 冊子 799~800頁/整理ID 2096
長野・鹿籠の両金山は近年産金が減り、経費がかさんで損失が増したため、採掘規模の縮小を相談した。鹿籠ではすでに人数を減らしており、長野でも稼働を調整するが、鉱夫の処遇と産金を考えて急な全面停止は避ける。金山は幕府の巡見対象でもあるので、江戸で水野壱岐守らに報告の要否・方法を確かめるよう求めた。長野は地元で山ヶ野と呼ぶ旨も記す。
安永元年十二月十日(首尾報告の日付・冒頭覚は無日) / 冊子 343~344頁/原整理番号 968/整理ID 968
水野壱岐守の取次をする御側御用人荒木源右衛門へ示す覚と、交渉の首尾を左中へ報告する書状を収める。浄岸院の遺骸を国許へ送ることにつき、遠国への道中は火災その他の心配もあるので一日も早く当地を出棺し、国元での葬送を滞りなく済ませたいと願う。雲林院の仙台への引越の先例も引き合いに出し、幕府から附添の役人が命じられることを望むが、昨日まで沙汰がなかったため、一日も早く出棺できるよう取り計らってほしいと内々に頼んだ。源右衛門が出会って承知し、壱岐守へ伝えるという返答を得たが、遠国のことは殊に火事が多いので心配していると聞いた。今日の評議で願いどおりとなるよう話があり、壱岐守も気にかけている一方、附添の者はまだ命じられず、その点で差し支えはないという。右近将監の内意を受け、用番へ出棺日限を届ける方法を相談し、附添役人の決定を待たず日限を定める必要を伝える。季節柄、急いで支度しなければ日が延びるので、早く附添役人を命じてもらうのが都合よいとし、すでに出棺日限もあること、附添役々が命じられるのが五日前でも供を務めなければならない事情を伝えた。太守から家中にも心得を伝え、御前へ報告する旨を承知して、源右衛門を通じて急ぎの取り計らいを頼んだところ、事情を聞き届けてもらったと報告する。十二月十日付、年は安永元年の朱注、左中様宛、有川勇馬の名に留守居・貞厚の注を伴い、今朝の相勤首尾と結ぶ。
文化12年亥10月(本文)/12月25日(朱書の下付・帳留) / 冊子 483~484頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0101
1462の2、周防守(水野忠実注)の続書。養父は壱岐守、養母はその奥方。叔父欄に水野内記・書院番頭水野遠江守・交代寄合溝口摂津守・内田近江守を掲げる。従弟欄は長五郎の惣領小濱徳太郎、内記の惣領藤五郎、その男安五郎、従弟女は同娘お喜代。養母方は伯母に南部伊勢入道(左衛門尉の養父)の内室、叔母に池田山城守の内室、和泉守の兄藤堂主殿頭の内室、山内遠江守の内室。従弟欄は南部左衛門尉、山城守嫡子池田帯刀、溝口古永之進惣領常太郎とその男鐵之丞。従弟女欄は松平飛彈守の内室、備後守の養母峻光院、縫殿頭の内室、古永之進娘お悦。実方欄に「御甥・実御兄・松平大膳太夫」と記す配置があり、単純な甥の氏名とは断定せず原欄を留保し、従弟松平淡路守を記す。亥十月で結ぶ。末朱書は、右二通を文化12年亥十二月廿五日に安房から受け、記録所で帳留すべき旨を本田休七が承知し、白木御文書八番箱へ入れたと記す。「右一冊トナレリ」の注もある。養家・養母方・実方の関係を混ぜず、本文十月と保管十二月を区別する。
天明八年十月十日(年次朱書) / 冊子 1019頁/原整理番号 2754/整理ID 2754
浄岸院の十七回忌が当年十二月五日に当たるため、香奠銀三十枚を、当日上使水野壱岐守によって豊後守に拝領させたと記す。銀は白木箱入りで、付紙には台白木とある。この拝領について、表方の使者をもって年寄衆へ礼を申し達するよう指示する。十月十日付。人物注は浄岸院を継豊の継室竹姫とする。
寛政9年正月21日着袴・祝賀、翌日拝領(本文) / 冊子 137頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0423
寛政9年春正月21日、家慶が初めて袴を着けた日に、重豪は人を遣わして家斉・御臺所・家慶へ各二種1000匹を献じて祝賀した。翌日家慶は奏者水野壱岐守を芝邸へ遣わし、重豪へ二種1000匹を賜った。秋月山城守種徳が代わって恩旨を承り、老中各邸へ謝恩したと記す。水野の官途後に続く実名部は字形を確定せず官途呼称で記録する。献上と拝領の日・主体を分け、数量の二種1000匹を原記載通り保持する。
文化12年亥12月(蓋紙) / 冊子 482頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1462
白木御文書八番箱中八番、文化12年亥十二月、御続書貳通、御記録所と記す蓋紙。「右一冊ノ蓋紙ニアリ」の注がある。後続の1462の1・の2に壱岐守・周防守の続書があり、表紙には二通の所在・年月・通数が記される。続書の本文の亥十月と、この蓋紙の十二月は別に保持する。
文政2年12月25日(年は朱書) / 冊子 570頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1715
国王の尊書を拝見したと述べる。立姫は水野壱岐守の養子である水野甲斐守との婚姻が整い、その祝儀として大御隠居へ喜屋武親方をもって太刀一腰・馬代白銀百両および目録のとおり差し上げたことを、江府到来後に披露したところ御満悦であると伝える。この旨を伝達するよう求める。立姫には重豪の女子、壱岐守には水野忠韶、甲斐守には忠実との傍注がある。朱書の文政二年、十二月廿五日、新納内蔵・市田長門・嶋津安房・川上美濃が実名判で連署、宜野灣王子・三司官宛。本文の贈品数量は太刀一腰と馬代白銀百両で、目録に記すその他の内訳は示さない。婚姻が整ったことへの国王の祝儀と重豪の満悦の伝達を記す書状である。
天保3年2月16日(本文) / 冊子 897頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2518
天保三年壬辰二月十六日、幕府から使番の木下内記利亮が遣わされ、島津重豪へ鷹の鶴が下賜されたことを記す記事。重豪側には事情があって、松平壱岐守仲律が代わって受け取り、その日のうちに老中の邸へ赴いて謝恩した。出典は重豪公御譜中。No.2519の斉興の拝領記事とは、受領者と伝達経緯が異なる。
年月日未詳 / 冊子 161頁/原整理番号 284-1
伊地知季安の記事。この日、伊地知重政が新納二郎四郎忠秀・大口地頭宮原壱岐守景之・高尾野地頭仁礼左近将監景頼・須木地頭村尾源左衛門重候を有馬の陣屋で饗応した。季安は、新納忠秀が大口地頭新納加賀守忠清の嫡男で、重政の婿養子・伊地知主膳重頼の実兄であるため饗応したのだろうと考証する。
年月日未詳 / 冊子 383頁/原整理番号 484
『寛明日記』は、四月二十四日、上使太田備中守資宗が小倉で松平伊豆守・戸田左門に上意を伝え、九州諸大将を集めたと記す。島原・天草一揆は守護の政道の弱さに起因するとしつつ、忠戦を理由に松倉長門守らの死刑を一等宥めて配流・預けとし、寺沢兵庫頭や城攻めで不届とされた諸将も戦功により赦免した。諸将は帰国し、高来の城は小笠原壱岐守忠知が受け取った。
年月日未詳 / 冊子 384頁/原整理番号 486
『小川監物日記』は、卯月二十七日、上使の有馬引陣に船が必要なため分国から借りることとなり、舟追立として宮里壱岐守を坊津へ送ったと記す。二十八日には津留新左衛門尉・伊集院治右衛門尉を片浦へ通した。
寛永十七年六月十九日 / 冊子 412頁/原整理番号 529
島津光久は鎌田政統・島津久元・島津久慶へ、相良清兵衛が相良家中を意のままにし、壱岐守を遠ざけ、親類や気に入った者には良い知行、壱岐守に仕える者には悪所を与えたため、壱岐守が幕府年寄衆へ訴え、詮議と処罰が見込まれると知らせる。清兵衛が召しに応じず籠居する場合に備え、新納加賀守らへ人数を率いて参集させ、足りなければ近辺の地頭衆を加えること、計画を他言せず注進を待つことを命じる。
寛永十七年七月九日 / 冊子 412~414頁/原整理番号 530
島津久慶は入来院左兵衛らへ、相良清兵衛の留守を守る大童半兵衛が七日未明に壱岐守の留守居衆と衝突し、半兵衛の子は一手で切り出して討たれ、半兵衛は約四百人で籠城し、清兵衛の宿所が焼かれたと伝える。ただし江戸からの情報には異説があり、清兵衛召喚や相良側の訴訟・処置をめぐる見通しを記す。人員を預け置くかなどの判断を求め、事件が収まらなければ上使が大口・加久藤付近まで下向する可能性があるため、接待の士衆を用意し志岐小左衛門も加えるよう指示する。末尾で三日来の咳病のため辛うじて書いたと付記する。
寛永十七年七月十一日 / 冊子 425頁/原整理番号 532
米良頼貞・菱刈重信は三原重庸らへ、相良清兵衛を江戸へ召し登せるとの上意を相良壱岐守から受け、清兵衛が前月二十日に当地を出立したと報告する。その留守中、大童半兵衛らが同心して逆心を起こしたため討ち果たし、残るところなく鎮定したので安心するよう伝える。去る八日の当地の状況は伊地知弥右衛門尉を介して注進したと追記し、使者への口上に詳細を委ねる。
元禄十年六月二十九日 / 冊子 29頁/整理ID 90
三浦明敬の知行所として、日向国臼杵郡の北方村・南方村・祝子村・大武町ほか多数の村を列記した書出。
天明五年二月二十七日 / 冊子 791~793頁/原整理番号 2195の6/整理ID 2195-6
将軍転任祝儀の招請人名を67件列記する。二月二十七日の勝手の人名書で、松平伊豫守から伊勢萬助まで官途名・通称を原文順に記し、一部に断注を付す。掲載数は出席人数を表さない。
天明五年三月四日 / 冊子 796~798頁/原整理番号 2195の9/整理ID 2195-9
将軍転任祝儀の招請人名を63件列記する。三月四日・御次第不同とし、大書院・表書院御取持・勝手之間・居間書院・居間・勝手の区分と各人の断注を記す。掲載数は出席人数を表さない。