島津義久琉球渡海朱印状
天正18年9月28日 / 冊子 481頁
島津義久が大隅国根占湊の船・小鷹丸に対し、琉球への渡海を許可した朱印状。 船頭の橋和泉掾を名指ししており、島津氏による航海許可・海外交易統制の実務を示す。
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天正18年9月28日 / 冊子 481頁
島津義久が大隅国根占湊の船・小鷹丸に対し、琉球への渡海を許可した朱印状。 船頭の橋和泉掾を名指ししており、島津氏による航海許可・海外交易統制の実務を示す。
九月廿四日 / 冊子 584頁
徳川家康が垣見和泉守・熊谷内蔵丞へ、薩摩を往来する者については島津殿の申出どおり、異議なく通行・護送させるよう命じる。
六月五日 / 冊子 143頁
今川了俊が澁谷氏・和泉氏らに、両島津の振る舞いが改善したとして一揆の結束を固め、その旨を京都および大隅・薩摩の人々へ通知するよう求めた書状。国人の力を借りて守護人の不儀に対処した経緯を述べ、天草郡人との一揆は伊予守が同行するため不要であると伝える。
三月廿三日 / 冊子 265頁
島津忠国が、獅子山門の件について関係者が来れば喜ばしいこと、今月十一日付の書状を披見して意向を承知したことを述べ、早々の対応を和泉越前介殿へ求めた書状。
正応五年四月七日 / 冊子 367頁
薩摩国和泉新庄惣領職内の田畠・在家・山野等を次郎保在へ譲った和泉保道譲状。柿村・永野・折小野・鍋野・宇津野などの対象地と四至を列挙し、所務・公事負担と相伝知行を定める。
年月日未詳 / 冊子 584頁
和泉忠氏(初名実忠)を島津忠宗の二男とし、三郎兵衛尉・左兵衛尉・豊後守・下野守などの称を掲げる系図。建武年間、高越後守師泰・斎藤弥四郎左衛門尉利泰ら三人が鎮西成敗職として博多に在ったことも記す。
本文年月日不記;外包:文久元年酉9月5日 / 冊子 237頁/原整理番号 330の2/整理ID 330-2
藤堂和泉守・松平兵部大輔・松平右近将監・榊原式部大輔の四家を掲げ、濃州・勢州・尾州・東海道筋の川々の普請御用を仰せ付けたので承知するよう知らせる別紙。取計方は勘定奉行松平出雲守と吟味役立田禄助から伝えるので承合するよう命じる。右一通也の表示。本文年月日不記。外包は文久元年酉九月五日、左衛門から格護しておく旨を平田九十郎へ知らせ、白木御文書十番箱へ納めた記録。
文久2年戌5月11日(口裏朱書注) / 冊子 259頁/原整理番号 356/整理ID 356
玉里へ現書を引き譲った中の近衛忠房の口述。忠左衛門を招いたのは、久光の呼名が和泉で関東老中にも水野和泉守がいるため、差し当たりどうかと思い改名してはどうかと申し入れるためだと述べる。特に三郎と改めればなおよいとして、忠左衛門へ伝達を頼む。署名忠房、本文は日付を記さず口裏の朱書に文久二年戌五月十一日とある。包紙には嶋津和泉宛忠房、白木十番箱百二十七番の表示。改称を勧める発言と改称の完了を分ける。
年月日未詳 / 冊子 160頁
島津元久譜として、応永二年に伊久が高城攻略のため横峯へ布陣した際、元久が新納氏・和泉氏を遣わし、渋谷氏退治について山田・高牧・樋脇・前田・市比野・入来を経る軍事計画を示した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 160頁
島津伊久譜として、伊久が応永二年八月十日に高城へ出陣し、横峯に陣を構えた経過を記す。元久は新納氏・和泉氏を介し、渋谷氏退治の進軍経路と軍勢配置を伝え、高牧で越年する長期陣の構想を示した。高城方面攻略の準備と父子の作戦連携を伝える。
年月日未詳 / 冊子 160~161頁
応永二年八月十日、島津伊久が高城・横峯へ出陣した後の軍事行動を記す。元久は新納・和泉諸氏と渋谷氏退治の進軍路・築陣を定め、高牧に陣を置いて越年した。翌段階の戦況と大友親世書状の到来までを追い、長期戦の準備を示す。
年月日未詳 / 冊子 300頁
応永二十四年九月十一日の松尾城・鹿児島方面の戦闘で死亡・負傷した家臣を列挙する記事。山本孫五郎らの戦死、和泉氏・蒲生氏・田代氏らの討死・負傷と、従軍者の人数を記す。
年月日未詳 / 冊子 321~322頁
応永二十九年、島津貴久を大将として山門方面へ派遣し、伊集院頼久方の城を包囲した戦役を記す。和泉・阿久根方面を含む進軍路、城方の籠城、攻撃軍の兵站、周辺住民の避難・協力を追い、伊作城など山門地域の拠点を孤立させた経過を示す。
年月日未詳 / 冊子 512頁
文明十六年十二月三日、伊作式部大輔方が南郷城へ押し寄せ、城壁を切り崩して攻撃した経過を記す。山田・早崎・堀口諸氏を含む守兵が抵抗し、双方に戦死者が出た。危急を受けた和泉隠岐守が近江守へ急使を送り、援軍を求めた。
年月日未詳 / 冊子 512~513頁
島津忠昌が家中へ守護方への参陣を命じたが従わない者があり、敵方が城を攻撃した経過を記す。忠福・和泉隠岐守・伯州末弘十郎三郎らが守備し、入田・片野坂氏を含む諸勢が各所で戦闘した結果、戦死者と退却者を出した。家中分裂下の防城戦を伝える。
年月日未詳 / 冊子 513~514頁
師走三日から続いた南郷城攻めを城内外の視点から詳述する。酒谷・和泉・北郷・樺山・伊集院・入来院・片野坂諸勢の布陣、飫肥・庄内へ通じる道の争奪、戦死・退却を記し、夜間の攻防後に敵陣も退いて戦闘が一段落した経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 587~588頁
永正三年七月十一日の土川合戦後、山崎助左衛門が捕虜・被官・領知の処置をめぐる交渉を記した覚書。和泉氏・阿多民部左衛門尉ら当事者の申し分を整理し、誰を返還・召し抱えるか、所領をどう扱うかについて島津忠興が下した裁定を伝える。
年月日未詳 / 冊子 610頁
備前国連島の三宅和泉守が兵船十二艘を率いて琉球国を襲おうとし、薩州坊津へ着いたところ、滞留者が久しかったため三宅を誅罰したと記す年代記の記事。
十一月五日 / 冊子 728頁
今岡民部大輔通詮が薩州方との対立を背景に、上洛と流求国との往来、蓮嶋三宅和泉守の処遇を詳述した書状。軍事・航海をめぐる支障と関係者の動向を報告し、内容をしかるべき相手へ伝達するとともに、通行・交渉を進めるための援助を求める。
(慶長元年)閏七月一日 / 冊子 35頁
龍伯(島津義久)が忠恒へ、在番支援の人員を渡海させる準備をしていたが、京都から忠恒を帰朝させ渡海衆を召し留めるよう命令が来たため従うと伝える。現地事情を聞くため使者二人を派遣し、帰帆決定時の事前注進を求めた。また和泉で大松三百本を船元まで運び、作業後に上洛する予定も知らせた書状。
(慶長三年)正月六日 / 冊子 184~185頁
島津義弘が、前年十二月二十一日に唐人が加藤主計頭の蔚山新城を攻め、同二十六日に急報が届いたことを伝える書状案。泗川普請に当たる垣見和泉守らも救援へ動くなか、城主は受け持ちの泗川を守るべきだとの指示を踏まえ、義弘父子の一人を留守居に、一人を東方の蔚山救援・見分に向かわせたいと述べる。さらに晋州・固城方面の唐人の動きと、物見・追撃の状況を報告する。
(慶長三年)十月十八日 / 冊子 265頁
垣見一直(和泉守一直)が(慶長三年)十月十八日付で島津又八郎忠恒らへ出した書状。八月以来、豊州に在国していたため朝鮮の消息を聞かず、音信が途絶えたことを詫びる。現地へ唐人が出たとの報を案じ、先に渡海した徳永寿昌・宮木豊盛の働きにも触れつつ、忠恒が無事に帰朝し、面会して詳しく話せる時を待つと伝える。石田三成・浅野長政が筑前へ下る予定も知らせる。
(慶長三年)十一月三日 / 冊子 274頁
安弥左衛門尉が(慶長三年)十一月三日付で伊勢弥九郎へ出した書状。初めて和泉と同陣した際に受けた懇意と言葉への感謝を述べ、各方面から出た唐人を時を移さず討ち取った働きは日本中に隠れのない比類ない手柄だと称える。帰朝の折には図書頭殿のもとへ参上して直接祝意を述べたいとする。
(慶長四年)正月廿八日 / 冊子 350頁
石田三成が義弘・忠恒へ、病後の養生のため帰還が延びているが翌日頃には下る予定であると知らせた書状。和泉の代官を早急に下すよう求め、図書を通じて伝えた件については義久へ十分に申し伝えることが肝要であると指示する。
慶長十一年五月二日 / 冊子 73頁
伊集院抱節・山田理安が連署した、高山内の知行名寄目録。赤池屋敷の田畠・屋敷を玄清・和泉・藤左衛門・与介・次郎左衛門・藤兵衛らの知行人別にまとめ、田位・面積・石高を列記する。総高二十石のうち合計七石一斗余を名寄し、残る十二石九斗余を財部へ遣すとする。
寛永九年六月二日 / 冊子 274~275頁
喜入忠続と川上久国が、唐へ渡す多額の銀子調達を新納加州老・最上土州老を通じて三司官に談合させ、冠船交易時の商人への銀子二分運上、七島衆の唐交易と私的銀取引の禁止、七島・徳之島・沖永良部等からの借銀、市来和泉守を介した連絡、上船改めや琉球の身分層・町人への運上を定めた条書。
十一月廿六日 / 冊子 122頁
近衛尚通が京都の不慮の錯乱に際して助力を求めた書状。在謙方舎人家来の小林が中宿野田和泉家にいるとの伝来注記があり、五明三本を遣わし、詳細は進藤筑後守から伝えるとしている。
四月十三日 / 冊子 147~148頁
入来院重次が下村左衛門尉に、以前和泉へ赴いた際の面談を懐かしみ、系図を書写して送られたことを多年の本望として深く感謝した書状。系図を末代の重宝とし、今後も必要時には相互に披見し、隔心なく交誼を続ける意向を述べる。
年月日未詳 / 冊子 215頁
四条東洞院の敷地相伝に関わる人々の系譜を図示した系図。相馬尼と和泉前司政景の家系を軸に、胤村・胤氏・道鑑・忠宗・道義・道智らの親子・婚姻関係、法名、通称などを記し、敷地の相伝主体となった一族のつながりを示す。
八月十三日 / 冊子 283頁
島津勝久が、久しく音信がないことを述べ、近く実久が和泉と同行して来る予定を知らせ、これまで同様に懇切に奉公するよう求めた書状。
十一月五日 / 冊子 356~357頁
今岡通詮が徳永隼人佐へ、三宅和泉守が公方の命で琉球国へ赴こうとして薩州で不慮の死を遂げた後の経緯を述べた書状。三宅方の遺族・被官や津浦での借財・兵糧をめぐる問題について、取り成しと返報を求める。
年月日未詳 / 冊子 513頁
文明十六年十二月廿二日、敵勢二千余騎が陣へ押し寄せたため合戦となり、伯耆守豊久ら守備側が戦死者を出しながら防ぎ、翌日敵が退散した経過を記す譜記事。
延徳二年二月六日 / 冊子 546頁
延徳二年二月六日の犬追物手組について、島津忠昌を中心とする参加者と射た犬の疋数を一覧にした記録。
延徳二年二月十三日 / 冊子 547頁
延徳二年二月十三日の犬追物手組を記し、島津忠昌以下の参加者名と各人の射た犬の疋数を示した一覧。
延徳二年二月廿一日 / 冊子 548頁
延徳二年二月二十一日の犬追物手組を記し、島津忠昌以下の参加者と各人の成績を疋数で示した一覧。
「享禄三年」二月七日 / 冊子 707頁
菱刈重副が肝付方に、求められた馬の手配や先月以来の事情を伝え、今後も従前どおり相談・協力するよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 178頁
『島津国史』所収。仁治三年、和泉国和田郷地頭職・越前国生部庄地頭職に関する幕府下文と、寛元改元・頼嗣将軍就任などの年次事項を記す記事。
仁治三年一月廿二日 / 冊子 178頁
将軍家政所が和泉国和田郷住人前大隅守惟宗忠時を、越前国生部庄の地頭職に補任し、所宛給の地を領知するよう命じた下文。
正保三年四月七日 / 冊子 38頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0066
新納忠清が、和泉守の鹿児島行きを承知し、万事怠りないよう依頼する。伊主膳正の煩気が早く快復したことを喜ぶ。馬関田との境出入は鹿児島奉行所から指示を得て処置したが、今後難しくならないよう行司衆にも堅く申し渡し、重ねて相談するよう求める。宛先は川野与右衛門・西田和泉守・白坂大炊左衛門。
明和八年正月十八日(目録は二月十八日) / 冊子 275頁/原整理番号 735/整理ID 735
公方様・大納言様の御機嫌がよいことを喜び、当年、暇を賜って帰国する際、長崎へ立ち寄り見分したいと願ったところ、願いのとおりに申し渡されたことをありがたく思うと伝える。その旨を知らせる書状で、明和八年の朱注、正月十八日付、夏目和泉守様、人々御中宛を備える。宛所には長崎奉行・信政との人物注がある。正文の控は右筆所にあるという。
明和八年二月二十一日 / 冊子 275頁/原整理番号 738/整理ID 738
公方様・大納言様がますます御勇健であることを喜ぶ。先に知らせたとおり、当年、暇を賜って帰国する際に長崎へ立ち寄り見分することが願いどおり許され、当地での挨拶と阿蘭陀屋敷・唐人屋敷を見置きたい旨を伺ったところ、手前方で相談するよう申し渡されたので、その旨を知らせる。二月二十一日付、年は明和八年の朱注、夏目和泉守様、人々御中宛を備える。正文の控は右筆所にあるという。
寛政3年4月6日(年次は朱注) / 冊子 23~24頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0072
島津静山が国元で3月10日に死去したことに伴い、忌服届を御用番松平和泉守へ、留守居助の伊木喜兵衛を通じて差し出したことを記す届書。忌の残日数がないので一日の遠慮を行ったとする。年次は朱注、日付は4月6日。目録は島津重豪の届書とするが、本文に独立の署名はない。
天保4年正月26日(年次朱書、月日本文) / 冊子 942頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2655
松平大隅守が同氏栄翁について、以前から不快があり最近も具合がよくならないと届け出る伺書。正文には同氏栄翁の病気の届として短い本文を置き、天保四年正月二十六日付と松平大隅守の署名を記す。朱書の注記によれば、同日に留守居本田六左衛門を通じて御用番松平和泉守へ差し出し、取次今井彌太夫から受け取られた旨を伝えられた。出典は前の全上を受ける扣正文在家老座。本文の表向きの病気届、提出日、伝達者、差出先、受理の知らせを分けて保持し、先に確認した内々の死去通知とは文書の性格を分ける。
天保4年正月28日(年次朱書、月日本文) / 冊子 946頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2664
松平大隅守が、同氏栄翁の病気の悪化を届けた書。栄翁が病気で養生しているが、臥床が増した旨は一昨日届けた通りであり、今朝に至っても快方に向かわず、軽くない容体であることを申し上げる。正月二十八日付、朱書天保四年、松平大隅守署。控えの正文は家老座にあるとの出典注を伴う。末尾の朱書注によれば、書付はその日、留守居本田六左衛門を通じて御用番松平和泉守へ差し出され、受領された旨を取次の大山彦左衛門から聞いた。先行届から二日後の容体報告と、その日の提出・受理を記す。本文の病状は幕府への表向きの届出として扱い、実際の死去日をこの日としない。
嘉永六年十二月十四日・十七日ほか。正月三日夜到来の朱注(翌年とみられる) / 冊子 146~147頁/原整理番号 212の6/整理ID 211-2
道中で鉄砲十挺を携行する伺い一件の後半。「の6」は半田嘉藤次が用番松平伊賀守の取次飯塚勝之助へ書附を持参し、演説して差し出したところ落手したと伝える十二月十四日の報告で、箱根その他の関所へ許可の趣旨を通達するよう求める。「の7」の書附は、近海の外国船警衛に伴い一万石以上の者が領内に鉄砲を備える触達を受け、道中上下でも十挺を持ちたいと願ってきた経過を述べる。九月十五日付伺いと阿部伊勢守への内見、用番松平和泉守の吟味、留守居への御付札、国許で正式に申し上げるよう求めたこと、十四日に伊賀守へ関所通達依頼を提出し落手したことを記す。朱注には正月三日夜到来・極々急飛脚便とある。末尾の嘉永六年十二月十七日付家老問合書は、島津右門久福・末川近江久平から豊後・筑後・石見・伊織へ宛て、留守居首尾書等六通を添え、願済みであれば表方の使者で御請して往返日程を調整するよう求める。右一冊終レリで一件を閉じる。
嘉永七年十一月(山川沖来航)、安政二年二月廿六日(願書、末尾乙卯) / 冊子 163頁/原整理番号 224/整理ID 224
嘉永七年十一月に薩摩国山川村沖へ米国船一艘が来航し、滞泊中に求めに応じて薪水等を与え、無事出帆した後の取扱いを願う書。入港場所が決まらない所には勝手に渡来させず、下田・箱館でも同様であるとの既定を承知しつつ、漂流船ではない船が数日滞泊して近辺を測量するなど、今後同様の船が来る可能性を述べる。どの国の船でも来航すればその都度命令を受けることになり、上陸の場合には領内の人情や取扱いを十分に吟味する必要があるため、平穏に応接し国の威光を失わないよう扱いたいとする。条約関係の国と同様の入港取扱いを、米国その他の外国からの船にも認めるよう、薩摩守から申し付けられた御内意として上申する。安政二年二月二十六日、御名内西筑右衛門の表示を付し、海防御掛御用番松平和泉守へ差し出したと注記する。
未3月11日(半田・早川の各報告);通知書付に明11日六半時 / 冊子 211~212頁/原整理番号 289の6~7/整理ID 289-3
印刷の6~7の書類。御代替に伴い誓詞を差し上げたい旨の伺を用番脇坂中務大輔方へ持参・演説して差し出し、用人を通じ落手を聞いたとする半田嘉藤次の筑後宛報告。大目付家人へ留守居附役名の書附で届ける旨も追記する。続く書付は明十一日六半時、和泉守宅へ太守が出て誓詞を行うことを伝える。早川務の主水宛報告は和泉守用人を通じて書付を受け取り、出席する旨を申し述べ、誓詞書附を受領したこと、明暁七時に私方へ下す旨の指示、翌日の同席者について用人へ照会していないと聞いた旨を追記する。両報告の未三月十一日と本文内の今夕・明日等の表記を、それぞれ保持する。
の2:戌3月(年日不記);の3:上旬(年月不記) / 冊子 248頁/原整理番号 347の2~3/整理ID 347-2
印刷の2~3を収める。の2は家老宛の仰出で、従来和泉久光へ国政の内談を申し上げ、先度公義から内沙汰もあって多幸に思うので、二丸居住に伴いさらに表向の政務介助を願い、以後の仰出を厳重に守るよう取り計らわせる。戌三月、右一通。の3は写で、浪士の蜂起・不穏な企てを和泉が取り押さえたことへの叡感を先に伝えたが、御膝元での発起は実に悩ましいため、和泉が当地に滞在して鎮静するよう求める思召を記す。御筆御写とする上旬の表示があるが年月は記さない。国政介助の仰出と鎮静滞在の写を別の内容として扱う。
年月日未詳 / 冊子 808~809頁
天文十二年、種子島へ漂着した異国船から鉄砲と火薬調合の技術が伝わった経過を記す。種子島時堯が鉄砲を買い取り試射し、篠川小四郎・織匠に製造を命じた。技術が紀伊へ渡り、堺商人や和泉橘屋又三郎を介して国内へ普及したことを伝える。
年月日未詳 / 冊子 633頁
九月十四日夜、西軍諸大名が大垣を発って関ヶ原へ向かった。大垣城には福原右馬助をはじめ、相良左兵衛・長井和泉・秋月長門・高橋左近・熊谷内蔵丞の六名を守備として残し、夜のうちに関ヶ原へ到着して陣を取った。