島津忠恒書状
文禄4年10月4日 / 冊子 917頁
忠恒は上井仲五から又八郎の無事な下着と意向を詳しく聞いて喜び、国元の「置目」を整える苦労をねぎらう。 帰朝後の奉公や家中の処置に加え、祈念坊主を市来大日寺から参勤させる件も相談し、政務と信仰実務を併せて依頼する書状。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
3,727 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 75
文禄4年10月4日 / 冊子 917頁
忠恒は上井仲五から又八郎の無事な下着と意向を詳しく聞いて喜び、国元の「置目」を整える苦労をねぎらう。 帰朝後の奉公や家中の処置に加え、祈念坊主を市来大日寺から参勤させる件も相談し、政務と信仰実務を併せて依頼する書状。
四月朔日 / 冊子 38~39頁
徳川家康ら五大老が島津義弘(羽柴薩摩侍従)・島津忠恒(島津又八郎)父子へ、時勢を守り、下々の者がみだりに海を渡ることを厳禁し、法度に背けば本人だけでなく一類を成敗し、島津側の落度にもすると警告した連署状。
文禄4年8月3日 / 冊子 904~905頁
義弘は久四郎の死去を悼み、悲嘆を抑えて国事に当たるよう鳴津又八郎を励ます。 祈祷の僧や八幡座主・貞徳院のこと、京都出立から細島着までの帰路、栗野在番衆の交替や船の手配まで伝える、公私の用件が重なる書状。
文禄4年8月15日 / 冊子 905頁
立花方は大明との和平に関する知らせを喜び、しばらく滞留する件を了承したと鳴津又八郎へ伝える。 海路・陸路とも警戒を固め、用件があれば申し越すよう求めるなど、講和局面でも交通と軍事上の用心を解かなかったことが分かる。
文禄4年8月27日 / 冊子 908頁
竜伯は鳴津又八郎に対し、久四郎が七月四日に死去したとの知らせを受けたと記し、言葉に尽くせない驚きと嘆きを伝える。 短文ながら、朝鮮出兵期の島津家中における近親者の死の伝達と心情が直接表れる弔意の書状。
文禄4年8月28日 / 冊子 909頁
秀吉は鳴津又八郎が当番衆として残り、引き続き辛労していることをねぎらう。 詳しい事情は岡田勝五郎に申し含めたとし、静謐が進んでいるので心配は不要と伝え、増田長盛・石田三成・山中山城守からも説明させる朱印状。
文禄4年9月13日 / 冊子 912~913頁
義弘は二人の処罰や関係者の処置について、竜伯・石田三成との熟談を踏まえて幸侃と帰国し、知行配当を進めていると報告する。 京都・九州衆・在陣衆の動向や帰朝後の配置にも触れ、講和・撤兵期の家中再編を又八郎へ細かく指示した長文書状。
文禄4年10月2日 / 冊子 916頁
竜伯は石田三成から贈られた黒馬をいったん「武庫」のもとに置き、後日又八郎へ渡す手順を伝える。 京都での役職・人員配置や召し寄せについても触れ、使者の平田太郎左衛門から詳しく聞き、重要事項なので油断なく処理するよう求める。
文禄4年10月2日 / 冊子 916~917頁
義弘は京都での処置が延引している事情を伝え、領内の人員移動や知行配当を急いで進めるよう又八郎へ指示する。 食糧不足や物資輸送への配慮、幸侃らとの相談にも触れ、帰朝後の混乱を抑えながら国元再編を進める苦心が表れる。
正月十五日 / 冊子 174~175頁
年頭を祝い、祝儀として太刀一腰・馬一疋・小袖一重を贈られたことへ礼を述べ、当地は万事変わりないと知らせ、学問と奉公を油断なく勤めるよう求めた書状。
(文禄2年)6月22日 / 冊子 709~710頁
朝鮮へ渡海して各地の城番を務める島津勢の配置や、久四郎をめぐる処置について報告し、帰国・上洛後の扱いを相談する。 鉄砲・刀・脇差などの武具の配分、酒宴や家中の振る舞いにも触れ、在陣中の軍務と親族・家中への細かな指示が入り交じる義弘書状。
文禄4年7月26日 / 冊子 904頁
連署者は書状の到着を受け、早々に出立して釜山海へ来るよう催促する。 当地で渡海を待つ者がいる事情を示し、相談すべき用件があれば急いで申し入れるよう求めた、朝鮮在陣中の移動命令に近い連署状。
文禄4年8月29日 / 冊子 909頁
三成は遠路からの使札に謝し、長期在陣の苦労をねぎらったうえで、竜伯・義弘の帰国と国元の知行配分を知らせる。 義弘の帰朝後も在陣側で番や法度を厳守し、失態がないよう申し付けることを求めた、領国再編と軍紀維持を結ぶ書状。
文禄4年9月3日 / 冊子 909~910頁
義久は帰朝の時期について繰り返し尋ね、諸将が一斉に上洛するなかで一人だけ国元へ戻るのは不都合だとして慎重な判断を促す。 宮内少輔や石田三成からの伝言にも触れ、在所・上洛・在陣の動きを周囲と合わせるよう諭した書状。
文禄4年9月13日 / 冊子 913頁
義弘は追而書で、栗野衆を帖佐まで移す一方、鹿児島への大量移転は事情があって見合わせたと伝える。 帰朝時に詳しく面談し、本源右衛門尉の件も処置するとし、領内の人員移動と配置を具体的に知らせる。
天明三年十月十九日 / 冊子 705~706頁/原整理番号 1986/整理ID 1986
島津重豪が島津千次郎の加冠に際し、仮名を又八郎とするよう定めた書出。天明三年卯十月十九日付、御判。正文は島津遠江にあるとの保管注記を伴う。
慶長七年七月 日 / 冊子 828頁
島津義久が少将忠恒へ、度重なる上洛命令を受けて準備したものの、前年以来の病気が悪化したため、急きょ又八郎を上京させると説明する。名護屋在陣以来の厚意を忘れず、公儀へ別心はないこと、病を仮病と疑われるのは迷惑であることを神仏に誓い、この趣旨の取次を頼んだ書状案。
(元和五年五月)廿五日 / 冊子 685頁
島津家久が、馬を次の上洛時に又八郎へ進めるので大切にするよう伝え、腫れ物は小さくなり、喉の具合はなお同じだが次第に回復する見込みで、ほかに変わりはないと加治木から知らせた書状。
廿八日 / 冊子 106頁
江戸から早打ちが届き、串本殿をどこまでも自分に従わせて了承するとの指示を受けた幸運を喜び、この旨を又八郎らにも知らせたいとした島津家久書状。
四月廿六日 / 冊子 189~190頁
改年の祝儀と小袖一重を受けた礼を述べ、将軍家光が日光参詣を首尾よく終え二十一日に機嫌よく還御したことを報告し、祭礼次第を送った。将軍が翌月十一日に西之丸へ移る予定と、又八郎の息災も伝えた書状。
寛正二年十一月廿四日 / 冊子 441頁
島津立久が、河上又八郎方と大寺彦左衛門の間で扱われた所領について、違乱がないよう安堵した文書。
寛正二年十一月廿四日 / 冊子 463頁
島津立久が、河上又八郎方と大寺彦左衛門の間で扱われた所領について違乱がないよう安堵した文書。本文はNo.1400と同文のため省略される。
年月日未詳 / 冊子 592頁
島津勝久が島津忠昌の第三子として生まれ、幼名を宮房丸、元服後に又八郎忠兼と称し、のち勝久と改名したことを記す西藩野史の記事。
年月日未詳 / 冊子 667~668頁
加藤清正が咸鏡道から金山方面へ進む際、斎藤・立本・荘林隼人・龍造寺又八郎ら五千を先発させ、群盗に包囲された金山を救援した戦闘を記す。与三右衛門や伊東勘平・井出市左衛門以下二百余人が戦死し、援軍は遺骨を焼いて翌日帰陣した。 清正は咸鏡道を離れて二月五日に王城へ入り、休息せず五、六日間群盗を追討して城内を鎮静化したという。損害と戦後処理まで伝える朝鮮出兵記事。
慶長四年七月廿四日 / 冊子 406~407頁
御ちよ以下十九名が、又八郎夫妻に対して別心を抱かず、御前での応対、上方の沙汰、主人への取次、親子・夫婦間の事柄、朝夕の食事などについて秘密を守り誠実に奉公することを誓う。違背時には多数の神仏の罰を受ける旨を列挙し、連署する起請文である。
年月日未詳 / 冊子 634頁
「光久公御譜中」に、島津忠朗(初名忠平、忠明、又八郎、兵庫)が元和二年十一月七日に誕生し、母は家臣鎌田政重の娘、延宝四年二月十六日に没したことなどを記す。島津光久本人の出生記事ではない。
八月二日 / 冊子 67頁
島津久元が新納仲左衛門尉に、八朔の太刀進上をめぐる玄蕃との先後争いについて知らせた書状。又八郎から届いた書状を確認し、御殿の丁寧な意向を承知したとして、関係者へ適切に披露するよう求める。
三月十四日 / 冊子 74頁
山田有榮が新納仲左衛門尉に、江戸から下着した大井二右衛門が携えた武庫様より又八郎様宛ての書状を送付した書状。前日に当地へ届いたため差し上げるので、適切に披露するよう頼む。
七月二日 / 冊子 75頁
喜入忠政(のち忠続)が市来備前守・新納仲左衛門尉に、又八郎様に奉公する局が近頃ことに患い、老齢のため当地での養生が難しいと伝えた書状。意向を得てこちらへ帰し、永吉などで療養させたいので、病中のうちに早々に暇を与えるよう取り計らうことを求める。
七月十二日 / 冊子 78頁
島津久元が新納仲左衛門尉に、又八郎様から五月二十三日付の書状を受け取り、当地が無事であるとの知らせを喜んだ書状。黄門様が長く患い、とりわけ近頃は衰弱していて心配であること、詳しくは本田新右衛門尉が口上で伝えることを述べる。
閏七月十六日 / 冊子 146~147頁
入来院重朝が入来院尾張守に、敵味方の動向と境目の警固について報じた書状。又八郎兄弟への扶持や本瀬越中の雇用を相談し、麓の用心が必要として内手衆に働きかけ、足軽二、三十人を翌日派遣すると伝える。あわせて馬一疋を贈り、適切に扱うよう頼む。
年月日未詳 / 冊子 205~206頁
家久・光久・虎寿に一刻も逆心を抱かず奉公し、光久の意向を誤らせるような働きかけがあれば直ちに報告すること、自身への嫌疑は直接申し聞かせて詮議してほしいことを神仏へ誓った某起請文前書。
延徳元年十一月廿六日 / 冊子 545頁
延徳元年十一月二十六日の犬追物について、島津忠昌をはじめとする手組の構成員と、それぞれが射た犬の疋数を記録した一覧。
延徳二年正月十八日 / 冊子 546頁
延徳二年正月十八日の犬追物手組を記し、島津忠昌を中心とする参加者名と射た犬の疋数を一覧にした記録。
延徳二年二月十三日 / 冊子 547頁
延徳二年二月十三日の犬追物手組を記し、島津忠昌以下の参加者名と各人の射た犬の疋数を示した一覧。
延徳二年二月十四日 / 冊子 547~548頁
延徳二年二月十四日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と疋数を列挙した記録。本文の一覧は冊子五百四十七頁から五百四十八頁へ続く。
延徳二年二月廿日 / 冊子 547頁
延徳二年二月二十日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者名と射た犬の疋数を一覧にした記録。
延徳二年二月廿一日 / 冊子 548頁
延徳二年二月二十一日の犬追物手組を記し、島津忠昌以下の参加者と各人の成績を疋数で示した一覧。
延徳二年三月卅日 / 冊子 549頁
延徳二年三月三十日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と各人の疋数を一覧にした記録。
延徳二年四月六日 / 冊子 550頁
延徳二年四月六日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と各人の疋数を記録した一覧。
延徳二年四月十八日 / 冊子 551頁
延徳二年四月十八日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と疋数を記した一覧。
延徳三年二月廿日 / 冊子 557頁
延徳三年二月二十日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と各人の疋数を記録した一覧。
(慶長七年)八月十日 / 冊子 835頁
島津龍伯が島津忠恒(又八郎)へ、出立の際に贈るつもりで細工屋へ仕立てを命じた長刀が遅れて完成したため、改めて一腰を贈ると伝えた書状。原典には「家久公御譜中」とある。
八月十日 / 冊子 835頁
島津龍伯が島津忠恒(又八郎)へ、六月以来の病気療養で上洛が延引したことを詫び、養生を尽くして翌月には必ず上洛する覚悟であると述べる。事情説明のため飛脚を差し上せたので披露するよう頼んだ書状。
文禄2年9月9日 / 冊子 736頁
兄・久保が九月八日夜半に急死したことを又八郎忠恒へ知らせ、壱岐・対馬まで来ている場合でも、無理に朝鮮へ渡らず在国へ戻るよう諭す。 久保見舞いという渡海の目的が失われた以上、留守宅の宰相殿ら家族を支えることが大切だとして、海路の危険と忠恒の身を案じた義弘の私信。
文禄2年11月11日 / 冊子 753頁
島津義弘が上京する又八郎忠恒へ、家臣に酒を過ごさせず、見物人を伴うことも禁じ、京都での振る舞いに細心の注意を払うよう戒める。初めての上京なので知人を増やし、諸事を分別して義弘を困らせないよう求める。 久保死後に後継者となる忠恒へ、中央政界での礼儀と自己管理を説いた父の訓戒書状。
年月日未詳 / 冊子 755~756頁
島津義弘が上京中の又八郎忠恒へ、家臣や客に酒を強いず、商人・役人から贈物や賄賂を受けず、特定の者をひいきしないよう厳しく戒める。石田三成・安宅秀安の指示に従い、遊興を避けて公務を第一にせよと命じる。 後継者忠恒に中央政界での廉潔・節制・公平を求めた、具体性の高い訓戒書状。
文禄3年正月12日 / 冊子 761頁
島津義弘が又八郎忠恒へ新年を祝い、今年はいっそう満足のいく年となるよう祈る。義弘側の状況は従前どおりであり、詳しいことは野添帯刀長から聞くよう伝えた年頭の書状。 父から上京中の後継者へ送られた簡潔な新年挨拶と使者取次の連絡。
文禄4年5月11日 / 冊子 879~880頁
島津義弘が子の又八郎(忠恒)へ、家職相続が思うように進まない状況でも私情を捨て、国家安泰を第一として意見を述べ、別心を抱かないと誓った起請文。 和議を理由に忠恒を敵として久四郎を重用するとの風聞を否定し、親子間に讒言や不審が生じたときは互いに直接確かめ、遺恨を残さないよう求める。島津家の継承をめぐる父子の緊張と信頼回復を示す重要史料である。
文禄4年11月12日 / 冊子 923~924頁
竜伯は島津又八郎(忠恒)へ、分国の所替え・返地・家臣の知行配当を京都の石田三成らと相談し、年内上洛や国中の「置目」を進める方針を伝える。 京都屋敷の造営、家臣の相続・配置、海路の自由や高麗和平の見通しまで触れ、豊臣政権との調整事項をまとめた長文書状。