島津家久覚書
(慶長十六年)五月十日 / 冊子 335頁
慶長十六年五月十日の島津家久覚書。江戸での案件、赦免・儀礼・普請、領内検地、琉球、親族、唐船・南蛮船の取扱いなど、多方面の政務上の確認事項を箇条書きにする。
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(慶長十六年)五月十日 / 冊子 335頁
慶長十六年五月十日の島津家久覚書。江戸での案件、赦免・儀礼・普請、領内検地、琉球、親族、唐船・南蛮船の取扱いなど、多方面の政務上の確認事項を箇条書きにする。
(応永二十七年)四月七日 / 冊子 86頁
町田家久が苧河殿に、石塚大和入道の下向時に受け取った書状への礼と、南蛮船をめぐる戦闘を報じた書状。上方からの指示で出津準備中、先月二十三日に大軍と敵船数百艘が来襲したため防戦したが、南蛮船は綱・碇を切って退散し、目的を果たせなかったと述べる。
(応永二十六年)八月五日 / 冊子 86頁
渋川道鎮が町田飛騨守に、唐津・博多へ着岸予定の南蛮船が海上を恐れて相手方の地に逗留しているとの注進を受けて送った書状。京都へ報告済みであり、助力して早急に船を送ること、迎船を出し、津々浦々の警固を固めることを求める。
(応永二十八年)八月五日 / 冊子 533~534頁
博多へ入港すべき南蛮船が海上を恐れて薩摩方に逗留しているとの報を受け、京都へ報告済みなので、助力して早急に博多方面へ回航するよう命じる。迎船を送り、諸津浦の警固も固めたと伝えた渋川道鎮書状。
(応永二十六年)十月廿三日 / 冊子 534頁
南蛮船の件で芥河愛阿を派遣し、詳しい事情を伝えさせたうえで、島津方にも申し入れているので、船を早急に回航し無沙汰のないよう求めた渋川義俊書状。
(応永二十六年)十月廿三日 / 冊子 534頁
南蛮船がなお逗留しているため、京都から二度にわたり兵庫津へ送るよう命じられたことを伝え、重ねて使者を派遣して早急な回航を督促した書状。先の返答は京都へ進達したとも記す。
(応永二十七年)二月十七日 / 冊子 534頁
南蛮船の回航に奔走したことを喜びつつ、なお遅延しているのは不適当であり、島津方の使者にも伝えたので、早急にこちらへ回航するよう重ねて求めた渋川義俊書状。
(応永二十七年)二月廿三日 / 冊子 535頁
南蛮船の件で芥河愛阿が越国し、町田方が奔走したことを喜ぶ。島津氏の使者からも詳しい報告を得たので、船を早急に回航させるよう求めた宗寿書状。
(応永二十七年)三月廿二日 / 冊子 535頁
島津方の使者から、南蛮船は先月十五日に出船する予定との知らせが届いたことを喜ぶ一方、その後音信がなく不安なので、なお遅延しているなら回航実現へ奔走するよう飛脚を立てて督促した渋川義俊書状。
四月七日 / 冊子 535頁
町田家久が芥河某に、南蛮船をめぐる事件を報じる。南蛮船が出港の準備をしていたところ、前月二十三日、匠作(島津久盛)が大勢を率いて境へ来たため、家久方は駆け付けて防戦した。敵方は数百艘の兵船をもって南蛮船を奪おうと企て、その意図が明らかになったため、船側は大いに驚き、碇綱を切り捨てて急遽退去したという。この騒動で港の住民も残らず退散し、家久は対応できなかったことを「無面目次第」と述べる。詳細は使者に説明させたとして、上意に沿うよう取り成しを求めた書状案。
年月日未詳 / 冊子 333頁
南蛮大船が小湊海岸で難破し、三百余人の乗員と膨大な貨物が漂着した記事。旧規により貨物を収公したが私的に奪わず、領民に運ばせた後、まず神社仏寺へ寄附し、残る沈香・法衣・錦繍・紅糸・木綿・白布・団扇・薬種などを僧俗・親疎・士卒へ漏れなく分配した。
年月日未詳 / 冊子 475~477頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1056
異国船・唐船・阿蘭陀船の漂着や破損時の処置を定めた条書。積荷・乗員の保全と監視、長崎への通報・送還、禁制品や武器・書物の扱い、荷物売買、船修理、通詞・役人の配置などを詳細に規定する。
年月日未詳 / 冊子 488頁/原整理番号 621
正保四年、南蛮船二艘が肥前長崎へ来着し、幕府から松平隠岐守・井上筑後守らが下向したため、江戸在府中の島津光久が家老島津図書久通・新納右衛門久詮を通じ、久加と相良権兵衛を長崎へ派遣して上使の用務を承らせた経過を記す。両名は七月二十七日の使札を受け、長崎で諸上使に光久の意向を伝え、八月六日に南蛮船二艘が追放・解纜した後、十五日に鹿児島へ帰着した。長井主水利典が扈従した。目録年月日は空欄を維持する。
天正十一年 / 冊子 748頁
頴娃氏が山川地頭となる際に島津氏老中から示された三か条。山川湊の先例どおり諸公役を勤めること、唐土・南蛮船が着岸した際は鹿児島へ相談すること、寺社家・地下人の遺恨や争いを明確に裁くことを定め、重大な罪人は直ちに処断してよいとする。
(天正17年)11月20日 / 冊子 454~455頁
島津義弘が、御料人と又一郎の上洛時期、諸国船衆からの借銀、島津義久・米方への借銀返済、天草表、南蛮船という五項目を列記した条書。 家族の移動、債務整理、海上交通・対外関係を同時に管理するための実務的な備忘・協議事項である。
慶長十一年十二月廿四日 / 冊子 102頁
慶長十一年十二月二十四日、入津した南蛮船の生糸について、京都・大坂の商人を呼び寄せ、割付後に残った糸も商人へ売るよう島津家久が命じた判物。価格の相談と売却に油断のないよう両名に指示する。
(慶長十六年)正月十日 / 冊子 307頁
慶長十六年正月十日、酒井忠世ら六名が島津家久に、薩摩領内へ着岸した唐船について、従来の長崎送致に代えて今回は領内で商売を許したことを了承した連署状。荷物・唐人数の別紙を披露し、先の南蛮船が帰帆したことも確認する。
(寛永十四年)八月十五日 / 冊子 673~674頁
洋中で異国人へ船を売ること、南蛮人との船その他の売買、南蛮船の受入れを禁じる。異国・他国の破損船は荷物を保全して三司官へ報告し、領内の船商売も役人の届出を要すると定め、違反時は五人組等を処罰するとした掟書。
「寛永十七年」十一月十三日 / 冊子 142~144頁
伊勢兵部少輔貞昌と山田民部少輔有栄が国元へ示した、琉球渡海・翌年の帰国・江戸留守番に関する連署書状。八重山島へ南蛮船が来て多数が上陸したとの報告を受け、川上上野守らの渡海、鉄砲約百挺と物頭渋谷四郎左衛門尉の派遣を計画したが、病気のため一部を延期し、比志島監物の代わりに喜入吉兵衛を命じた経緯を記す。前年の八重山での南蛮船破損・多数死亡と琉球側への疑念を調べさせる目的、光久が翌年帰国する際の江戸留守番交替、迎船への乗船、諸役人・大番衆・祈念坊主今泉寺の交替も指示している。
寛永廿一年九月朔日 / 冊子 347~348頁
川上久国・頴娃久政の連署覚書。阿蘭陀船・南蛮船・唐船の絵図をよく見分け、写しを八重山ほか諸島へ配布すること、異国船の漂着・寄港・上陸を厳重に監視して速やかに報告することを命じる。船形・旗印・乗員・積荷を確認し、禁制品の密売や唐人の無断上陸を許さず、長崎との連絡を徹底する海防条項を列挙する。
慶安元年六月二十三日 / 冊子 123~126頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0224
島津光久側が井上筑後守へ、唐船・南蛮船や外国人の来航、海外渡航、長崎・琉球間の往来、鉄炮・石火矢と船の扱いについて条々の見解・疑問を述べ、幕府の指示を仰ぐ口上書。
慶安二年八月二十九日 / 冊子 156~157頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0286
長崎へ入津した南蛮船に日本人を装う者らが乗っているとの情報を受け、上陸を許さず、来歴を厳重に詮議し、琉球船との関係も含め報告するよう指示した三名連署書状。
慶安二年九月十四日 / 冊子 158頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0289
長崎へ入津した阿蘭陀船が洋中で南蛮船に遭遇し、伴天連二人が乗船していたとの急報を受け、薩摩領内でも入念に探索・警戒するよう求めた三名連署の廻状。
明暦三年九月十一日 / 冊子 351~354頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0752
島津久通らが、南蛮船・唐船・異国人への対応、漂着船と荷物、琉球往来、在番衆、船頭・水主・乗客、武具・貨物・女性、密売買・私渡海・不正運賃等を詳細に禁じ、違反時の届出と処罰を定めた連署掟書。
(貞享二年)八月四日 / 冊子 738~740頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1945
島津久竹ら家老が、南蛮船・唐船等の漂着時の通報、船・人・積荷の保全、救助・曳船、勝手な取引や物品取得の禁止、関係者への褒賞と違反者の処置などを定めた連署条書。
元禄九年六月廿八日 / 冊子 962頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2648
阿部正武ら老中四名が島津綱貴へ、琉球へ漂着した唐船・南蛮船について、破船の有無に応じた帰帆、唐人・積荷の長崎送致、船の修理、抜け荷防止を定め、従来どおり商売を厳禁するよう命じた連署奉書。
三月廿四日 / 冊子 85頁
差出人不詳者が、薩摩国関係の安堵状案文を急ぎ作成し、南蛮船着岸時に上乗を添えて送ることを求めた書状。馬・太刀の進上、京都への使節と板倉殿の指南、伊集院山城守・別府殿への書状、案内役石塚殿の必要性などを指示する。
三月六日 / 冊子 244~245頁
島津守久が、京都の御教書・御内書に従って早急に請文を出し発向すること、まず当地の境へ出ること、南蛮船を時を移さず上洛させるよう催促することを求め、大和の件などは石塚の使者を通じて協議するよう伝えた書状。
四月十五日 / 冊子 249頁
芥河愛阿が、南蛮船に関する三月二十七日付書状を四月十三日に受け、船の着岸後の京都への注進、安案文や吹挙雑掌の処置、京着後の対応を指示し、京都の情勢を踏まえて早く大太郎殿を向かわせるよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 338頁
『日新公御譜』および『日新記』所収の記事。毎年渡来する大明・南蛮船の入貢品や破船貨物を納め、それを孤独で救済を求める者、飢餓に瀕した者、帰国途上の貧者らのために用いたことを記す。
十一月二日 / 冊子 408頁
島津龍伯が兵庫頭へ、使者を亀山へ送り和田玄蕃助を添えて返事を待っていることを報告する。南蛮船の件で使僧を差し上せ、治少の濃州検地、三兵の判断、船元や幸侃をめぐる申し入れについて、念を入れて納得させることが肝要だと述べた書状案。
年月日未詳 / 冊子 456~457頁/原整理番号 570
正保四年七月一日、南蛮船二艘が長崎へ着いたとの報で、五日に川内衆を揃え、加世田から百三十人を賦課した。高百石以下三十石まで、二十石以下、無足衆で人夫・飯米・兵具負担を分け、各地の兵を召集して長崎方面へ遣わした。その後八月九日に帰還したが、沖の黒船を警戒して麓衆を小松原浜辺へ集め、磯辺・浜辺に一町ごとに篝火と番を置き、十四日に番衆を解いた。番衆の飯米は一人一升三合、真米は一石二十目の相場と記す。目録年月日は空欄である。
年月日未詳 / 冊子 457頁/原整理番号 571
正保四年六月二十四日、長崎へ南蛮船二艘が入津したため、江戸から山崎権八・井上筑後守・松平讃岐守が上使として下向し、九州諸大名も兵船を催したが、八月六日に船は無事帰帆したと記す。季安は、次に掲げる御賦がこの時のものかと考証し、原本は田尻種甫所蔵と注記する。目録年月日は空欄である。
年月日未詳 / 冊子 457頁/原整理番号 572-1
季安は、右の南蛮船渡来時に出水地頭山田昌岩へ諸所の手当が命じられ、その問合書などの本書が出水地頭仮屋にあるとして、以下に掲げる文書群の由来を説明する。目録年月日は空欄である。
七月朔日 / 冊子 466頁/原整理番号 591
長崎への南蛮船来航に伴い、出水地頭山田民部少輔へ軍衆を賦課する。高30~99石、100~199石、200~299石、300石以上の各層で主従人数を定めた50人と、高29石以下の51人を合わせ人躰101人とし、29石以下には4人ごとに御蔵入から夫丸を出す。武具は鉄炮32丁・弓10丁・鑓10本。出立日は家老衆が指示し、人数帳を向田の市来五兵衛へ渡して飯米を受けるよう命じる。
七月朔日 / 冊子 466~467頁/原整理番号 592
喜入宗方・相良頼員は、長崎の南蛮船に対して人数を派遣するため、必要な諸物を不足なく調えるよう命じる。問い合わせていては時刻が移るので現地の判断で処置し、後日の責任は差出側が負うとして、御奉公に少しも支障を生じさせないよう求める。
七月朔日 / 冊子 468~469頁/原整理番号 597
南蛮船の件で、荒木嘉左衛門その他、長崎から鹿児島へ御用で通行する者を宿次で滞りなく送り届け、少しも遅延しないよう命じる。各宿の通過時刻・印を記した廻状として出水まで送達する。
七月日 / 冊子 473頁/原整理番号 607
弟子丸宗方は、瀬之浦に到着し、長崎への南蛮船来航のため急行していると伝える。翌晩に会って相談する意向を述べ、奉行所から届いた条書を閲覧後に返送するよう山田主計助・伊藤壱岐入道へ求める。目録年月日は『七月日』を維持し、本文の七月三日とは区別する。
七月日 / 冊子 473頁/原整理番号 608-1
三舟浦の長崎商船から得た報告として、南蛮船2艘が番船に包囲され、江戸へ注進したものの上意は未到着であること、御政所衆2人が借用船で検分したことを伝える。各船は石火矢60丁を構え、1丁に3人を配し、積荷は玉薬のみという。出船時の召捕り、周辺国の大勢による有馬陣立同様の包囲、長崎町浜人が糧物を山へ運んだとの情報も報告する。目録年月日は『七月日』を維持する。
慶安二年八月廿九日 / 冊子 492頁/原整理番号 626-2
新納久詮・伊勢貞昌・島津久通が、八月十四日にオランダ船が長崎へ入津し、沖でパードレ二人を乗せた南蛮船に遭遇したとの幕府情報を伝える。南蛮船はゴアへ商売に行くと称したが日本を目指す偽りの可能性もあるため、津浦の番手を油断なく置き、来着しても南蛮人を上陸させないよう命じる。後記は丑年十月十八日に有馬左近の廻状時に写したとする。編者は『旧記雑録追録一』287号と同一文書と注記する。
慶安二年九月十四日 / 冊子 492~493頁/原整理番号 626-3
山田有栄・北郷久加・島津久頼が、八月十四日に長崎へ入津したオランダ船が洋中でパードレ二人を乗せた南蛮船に遭遇したとの江戸命令を伝える。津々浦々の番衆に従来の定めを堅く守らせ、南蛮人を上陸させず、南蛮船らしい船を発見した時は直ちに鹿児島へ報告するよう、山川から秋目までの御曖衆へ命じる。編者は『旧記雑録追録一』289号と同一文書と注記する。
年月日未詳 / 冊子 146頁/原整理番号 30
『久保氏見聞秘記』から長崎警固の沿革を抄出した記事。寛永十八年までは長崎奉行のみで大番がなかったが、同年、筑前福岡城主黒田右衛門佐忠元が異国警固と西辺防護の任を初めて願い出て許可され、翌年には肥前佐賀城主鍋島氏も同職を願い出たため、以後両家が交替で長崎を警固したと記す。正保四年には当番でない年にも加番するよう命じられ、夏秋は在国で加番、冬に江戸へ参勤して翌春帰国し、その年は長崎在番を勤める仕組みとなったこと、同年に南蛮船来航の先例があったことを述べる。
(慶長十三年)五月二日 / 冊子 169~170頁
慶長十三年五月二日、本多正信が島津家久に、喜入摂津守を介した年頭祝儀が披露されたことを伝え、禁裏用材の調達、南蛮・唐船への対応、江戸普請で鎌田政在と相談して遺漏なく進めるよう求めた書状。
(元和九年)閏八月十日 / 冊子 796~797頁
寺山久豊・伊地知重竪が、薩摩へ来た南蛮の黒船は江戸へ使者を送る船で、順風がなく山川湊沖に停泊していると報告した。大型船のため頴娃・指宿・伊座敷などから引船を集め、長崎へは寄らず江戸へ向かう予定であること、積荷は糸・巻物・白黒砂糖など、人員は二百七、八十人で日本人約三十人を含むことを伝えた連署状。
慶安元年五月二十八日 / 冊子 122頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0220
南蛮人の船が琉球へ到着した場合は直ちに追放し、抵抗すれば厳罰に処し、前年に示された条目どおり進めるよう命じた老中奉書。松平信綱は日光出張中のため連判を欠く。
慶安二年四月三日 / 冊子 147~148頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0269
琉球へ下す条書、南蛮使者船・積荷・船材、長崎・薩摩間の航路と手続、家臣処置や年寄衆の役割について指示した四名連署書状。
八月廿五日 / 冊子 413頁
佐伯惟教ら四名が島津方六名へ、南蛮へ差し渡した船の帰朝と使節をめぐる交渉を説明する。大風で到着が遅れ、使節の扱いや船が南蛮国にある場合の処置について、相手国と直接相談し、使節を差し渡すよう求めた連署書状。
年月日未詳 / 冊子 220~221頁/原整理番号 149
島津義久の時代に南蛮人が山川・喜入周辺の浜を求め、鮫島圓成坊が宗門の極意を伝受したという伝承と、南蛮船来着・切支丹寺建立・取締の経緯を考証する。