細川清氏施行状
延文五年十一月一日 / 冊子 19頁
細川清氏が大友刑部大輔に、島津道鑑の監代頼兼が訴えた豊後国井田郷の地頭職について、阿蘇筑後守の違乱を停止し、御下文どおり道鑑代へ引き渡して請取を提出させるよう命じた施行状。
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延文五年十一月一日 / 冊子 19頁
細川清氏が大友刑部大輔に、島津道鑑の監代頼兼が訴えた豊後国井田郷の地頭職について、阿蘇筑後守の違乱を停止し、御下文どおり道鑑代へ引き渡して請取を提出させるよう命じた施行状。
明徳四年六月廿六日 / 冊子 148頁
慶本が刑部九郎を向嶋西方内藤野村の名頭職に補任し、仏神事・修理興行・年貢・公事などを先例どおり勤めるよう命じた奉書。
応永五年六月十五日 / 冊子 178頁
島津元久が田代刑部少輔に、参津の件に関連して給分内を沽却することについて支障はないと認めた書下。
長禄三年六月十九日 / 冊子 434~435頁
細川勝元が野辺刑部大輔へ、唐鳥井に関する希望への配慮を求め、国のことは大友氏と相談するよう勧め、詳しくは真鍋太郎左衛門尉から伝えるとした書状。
永禄十二年十二月十九日 / 冊子 229頁
島津氏老臣が本田刑部少輔に、先年の戦乱時に姫城を奉公のため差し出した返地として、薩摩国谷山郡山田名を宛行った文書。境界が明確になった時には城を返すこと、一か所への繰替えに相違がないことを保証し、当面は水田十町を与える。
寛文三年十一月十日 / 冊子 641頁
山田昌巌が木脇刑部左衛門の求めに応じ、その父が関ヶ原合戦で挙げた戦功について回答する。昌巌自身の見聞に加え、黒木左近兵衛から聞いた話として、木脇刑部左衛門が長刀を持ち名乗りを上げて敵を討ち、島津義弘(惟新)の退却にも従った働きを証言する。
慶長十九年六月廿七日 / 冊子 529頁
薩摩国大口里名内の浮免五石余を長谷川刑部左衛門へ知行として宛行い、その高に応じて公役を勤めるよう命じた三名連署知行目録。
天正16年9月晦日 / 冊子 417頁
島津義久が、今後も相互に誼を結び、両者の船をそれぞれの領内で保護することを約した証状案。 安芸方面の船には薩摩・大隅の津浦で便宜を与え、上関を通る島津方の船も同様に扱うよう求めた、瀬戸内海航路の安全確保を示す。
十一月十日 / 冊子 642頁
山田昌巌が、先日の二度の訪問で面会できなかったことを詫び、約束していた関ヶ原合戦時の相手方の父の戦功に関する書付を別紙で送る旨を伝える添状。
正平十二年五月日 / 冊子 5頁
野田刑部左衛門尉某が、岩屋城退治以来の諸合戦と三月の濱陣合戦での軍忠を申告した。弟の宮内右衛門尉兼弘が負傷し、島津氏久が同所で見知ったことを挙げ、注進と恩賞を求める。
卯12月晦日岩下佐次右衛門署 / 冊子 448頁/原整理番号 616の4/整理ID 616-4
長崎から白山と同道して兵庫へ出張し、用件は樋渡武右衛門と申し合わせたと承知した旨を伝える。白山の大坂上坂・屋敷止宿は二~三日後に返答するので、その間は兵庫にいてほしいと述べ、大坂屋敷への出入りは差支えないとする。外国への布告や勅使差立ての内決、五藩の連日協議、尾越両侯の兵権差上げをめぐる議論などに触れ、七日の期限による下坂と返答、今後の布告を取り計らうよう求める。詳しい事情は書面では解し難いので武右衛門を京都に留め、取扱いが決まり次第早く知らせてほしいとして、卯十二月晦日に岩下佐次右衛門が新納刑部へ送る。指示と協議中の取扱いを分ける。
年月日未詳 / 冊子 147頁
田代刑部少輔清久の譜として掲げられ、前後の段銭関係文書に付された系譜・伝来上の注記を記す記事。
応永六年二月廿九日 / 冊子 181頁
島津元久が八代殿へ、探題方から河尻への合力を求められたため田代刑部少輔に軍勢を添えて派遣したこと、球磨郡をめぐる相良三郎の動向に対して親類美濃守と軍勢を差し向けたことを伝え、扶持・同心を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 540頁
文明十八年十一月、忠昌が隈之城に陣し、二十六日に東郷へ兵を遣わした。翌日の合戦で忠昌方が勝利し、東郷右馬允の弟刑部太輔らを討ち、忠昌が帖佐へ向かおうとした経過を記す。
閏十一月一日 / 冊子 540頁
島津忠昌が、東郷へ派遣した軍が合戦に勝ち、東郷右馬允の弟刑部太輔らを討ち取ったことを喜んだ。東郷を城のみの状態に追い込み、帖佐方面への進出や今後の処置を本田兼親に伝える書状。
十月五日 / 冊子 784~785頁
島津勝久が肝付越前守に、加治木をめぐる疑義は北原方へ尋ねるよう求め、忠節を尽くした舎弟刑部少輔の遺児養育への配慮と、流言への慎重な対応を依頼した書状。
年月日未詳 / 冊子 93頁
永禄四年七月、島津忠将が戦死した竹原山合戦で、その後も戦場に踏みとどまって防戦し、敵を討ち取った従軍者として瀧聞美作守・梅北刑部左衛門を挙げる交名。
年月日未詳 / 冊子 95~97頁
島津方が大牟礼・馬立・竹原山から廻城を包囲し、降伏をめぐる評議ののち、七月十二日に肝付勢の攻撃を受けた経過を詳述する。竹原山・馬立で忠将以下が戦死した一方、大寺大炊助・瀧聞美作守・梅北刑部左衛門らが奮戦し、敵を恒吉方面へ退けた。
年月日未詳 / 冊子 107頁
永禄五年六月三日の横川城攻防に参加した島津方の従軍者と働きを列記する交名。箕匂舎人佐・村田雅楽助・瀧聞美作守・本田刑部丞らを挙げ、濱田民部左衛門が敵七人を切り捨てたことなどを記す。
永禄八年二月五日 / 冊子 140頁
永禄八年二月五日、本田刑部少輔が使者として霧島権現へ参詣し、神意に従って曽於郡を神領とするという貴久の意向を伝えたことを記す私覚。内容は法印頼継と本田の二人以外に漏らさない密儀とされた。
天正六年十一月十二日 / 冊子 609頁
友野元真が高城合戦で島津義弘の横入の手に属し、竹内主殿介・伊地知刑部少輔らとともに戦った奉公覚書。河原陣を崩した日に二人を分捕りし、島津義久から辛労を賞する言葉と褒美を受けたことを記す。
天正六年十一月十二日 / 冊子 625頁
大友勢が高城へ布陣し河原陣が崩れた際、友野元真が島津義弘の横入の手に属し、竹内主殿介・伊地知刑部少輔とともに戦った。二人を分捕り、島津義久から辛労を賞する言葉と褒美を受けたと記す。
年月日未詳 / 冊子 701頁
水俣陣中で城受取の際、敵が設けた針を埋めた障害を馬場氏の者が越えて戦死したため、刑部大夫が障害を切り開き、多数の味方を救ったという逸話。現地にその痕跡が残るとする。
年月日未詳 / 冊子 705~706頁
相良義照の弟大膳亮が上球磨へ侵入して郡中を乱したため、島津忠平がこれを召し戻した記事。八代老衆の要請を受け、義久は八代を島津領とし、相良忠房兄弟を球磨へ移した。忠平が八代領有を辞退した後、平田光宗、次いで伊集院忠棟を地頭とし、花山に新城を築いて木脇刑部左衛門尉を城衆頭に任じた。
天正十年正月 / 冊子 708~709頁
八代から番兵を求められ、新納忠元が菱刈・両院の兵を率いて急行し、内応勢とともに高方境まで制圧して宇土・熊本への海陸交通を安定させた記事。相良義陽の子息は球磨へ移り、小野・守山・松橋・小川への備えとして花山城を築き、木脇刑部左衛門尉を城主に、球磨・八代・薩摩・日向衆を置いた。
天正十二年十一月十五日 / 冊子 957頁
新納忠元が伊集院忠棟・本田親貞・平田光宗へ、肥後方面の軍役について返答した書状。刑部太輔を出すよう命じられたうえ、嫡子も別口の御用で出すことになれば二重の公役となり、自身の出陣まで求められるのは困難であると訴える。前年冬に帰国を許された際の約束を踏まえ、事情を理解して取り計らうよう求めた。
年月日未詳 / 冊子 168~169頁
天正十四年五月一日、京都から帰着した鎌田刑部左衛門尉が、羽柴秀吉の九州国分・和平案を島津方へ報告した島津義久譜の記事。肥後半国・豊前半国・筑後一国を大友氏、肥前一国を毛利氏、筑前一国を京都方の知行とし、その他を島津領として和平を成立させるという構想が示された。秀吉が九州諸国を再配分して戦争を終結させようとした段階の重要な情報である。
年月日未詳 / 冊子 416頁
天正十六年九月十四日、義久が娘とともに泉州堺から船出し、逆風による長い停滞を経て二十二日夜に薩州上関へ着いた記事。 到着後、上刑部少輔とその子・源三郎へ使者を送り、刑部不在のため翌日に源三郎が挨拶に来たことまで記す帰国旅程史料。
年月日未詳 / 冊子 417頁
天正十六年九月晦日、安芸から戻った村上刑部少輔が、先日の使者への礼を述べた際の交渉を記す。 今後、安芸国の船が薩摩方面へ来た時には他国商船より優先して便宜を与えると約し、証書・沈香・宝刀を交換した海運・商船保護の譜記事。
年月日未詳 / 冊子 638-639頁
関ヶ原で大谷吉継・宇喜多秀家・石田三成の諸陣が崩れ、敵が島津陣へ迫った際の木脇休作の働きを記す。休作は拝領の長刀を手に「島津兵庫頭内之小弁慶」と名乗って敵中へ切り入り、多数を討って島津義弘(惟新)の側へ戻った。山田有栄・木脇刑部左衛門らと退却を支え、信楽でも危機を切り抜け、七か国を通って帰国するまで供奉した。
(寛永五年)四月十七日 / 冊子 61頁
亀山家の兄弟に五十石・三十石、藤野に五十石を与え、町田勘解由次官は加増して計三百石とする。弟子丸越後入道を真幸吉田へ移して五十石、村田刑部少輔を穆佐へ移して旧知行から三百石を返付するなど、知行配分と移住を定める条書。
(寛永五年)十一月十九日 / 冊子 73頁
山田有栄が支配奉行へ、児玉筑後守の本高二百五十二石を三百石にする希望と買地を踏まえ、知行高を調整するよう求める。あわせて新納刑部太輔に大口方面の替地二百五十石余を支配するよう指示する。
寛永五年十二月十五日 / 冊子 75~76頁
島津久元・喜入忠続が、市来備前守への加増知行百石、鎌田播磨守の本高三百九十石、恵灯院五十石、月江院三十石、新納刑部太輔の大口方面の替地二百五十石余について支配を命じる連署書下。
(寛永七年)八月十一日 / 冊子 169頁
西丸の秀忠御座近くで豊島刑部・井上主計らが関係する不慮の事件が起こり死者が出たこと、大名・小名が急ぎ登城し、混雑のため黄門も徒歩で入城したことを知らせた島津久元・伊勢貞昌の連署書状。
(寛永九年)五月十日 / 冊子 268~269頁
島津家久が江戸から島津忠興へ、国元が息災であることを喜び、光久が自身の名代として日光へ参詣したこと、留守中の諸事に油断なく当たるよう伝えた。また、加藤豊後守との『出合』の件は未決着であり、出水が境目であるため下々まで警戒させること、自身の帰国許可、尾張大納言らの動静、刑部大輔の疱瘡等を述べた書状。
正月廿八日 / 冊子 2~3頁
新納忠清が伊勢貞昌に、島津光久の参府に供奉する息子刑部の指導を頼むとともに、自身の知行・加増問題で外聞を失い、奉公を続けにくい窮状を訴えた書状。昨秋以来返答のない件について、他の重臣やその子が加増地を保持する例を挙げ、大口国境の衆中を預かる立場から、明確な沙汰と取り成しを求めている。
「寛永二十年」六月廿六日 / 冊子 242頁
新納忠清が、江戸から帰国した新納忠秀への賀使が出されていないことをたしなめた書状。忠秀が鹿児島へ帰着して日が経つのに、任地の衆中から慣例の見舞い・祝賀使がないのは面目を失うとし、刑部が無事帰国したことにも触れつつ、衆中から一人の使者を立てるよう求める。あわせて係争がまもなく解決する見込みを伝えている。
四月十五日 / 冊子 56~57頁
市来家親が、京都御門柱に関する処置と日程について土持大膳亮へ相談した書状。関係者の到着・引き渡し時期を調整し、刑部左衛門尉とも内談したうえで日限を知らせるよう求める。
五月十七日 / 冊子 57~58頁
伊勢貞真が、京都からの命に基づく諸地頭の談合について通知した書状。栗野での会合に向け、鹿児島の殿中番を務める刑部左衛門尉を含む関係者を集め、五月二十五日までに栗野へ参着するよう求める。
正月七日 / 冊子 77頁
新納弥七郎が新納仲左衛門尉に、新年を祝うとともに吉松衆中の入組問題を報じた書状。刑部大輔の依頼を受け、上使方へ説明する際は一人では首尾を述べにくいため自ら同道すること、刑部殿からの返答後に使者を送ることを伝える。
五月九日 / 冊子 216頁
北条義時が島津左衛門尉に、富山刑部丞の幼い子息を母に付き添わせて上洛させるよう命じた書状。母子をともに上洛させることを重ねて執達している。
年月日未詳 / 冊子 239頁
新納刑部を御直勤めに任じ、加判同役と同様に取り扱い、役料高千石と席順を定めるとともに、御勝手方掛・開成所掛を命じた人事通達写。
年月日未詳 / 冊子 242頁
入来院氏文書中に掲げる略系図。重宗を起点に重門・重継へ続き、弾正少弼、村尾刑部少輔、美濃五郎左衛門尉らの系譜関係を図示する。No.550の島津師久書状とは別の独立文書である。
二月廿九日 / 冊子 289頁
島津元久が新春の祝意を述べ、河尻への合力要請に応じて田代刑部少輔を添えた軍勢を派遣したこと、球磨郡では相良三郎の動向を受け親類美濃守と軍勢を差し向けたことを八代殿へ伝え、協力を求めた書状。
九月十三日 / 冊子 426~427頁
伊集院忠棟が伊集院右衛門大夫へ、本田刑部少輔から伝えられた忠平方の軍事行動と宗運の不穏な返答を報告する。合志殿との北目働や有馬境の情勢、諸口での悪事発生を警戒し、同名日向守を添えて忍び寄らせる策を相談した書状。
三月十日 / 冊子 180頁
ようやく返事を出し、相手の体調がよいことと加治木へも来訪したことを喜んだ。刑部の将来を頼むとの申し出をもっともだと受け、自身も間もなく暇を得て下向するので、その折に訪ねて祝意を述べるとした江戸発の書状。
延徳元年十一月廿六日 / 冊子 545頁
延徳元年十一月二十六日の犬追物について、島津忠昌をはじめとする手組の構成員と、それぞれが射た犬の疋数を記録した一覧。
延徳元年十一月廿七日 / 冊子 545頁
延徳元年十一月二十七日の犬追物手組を記し、島津忠昌以下の参加者名と各人の射た犬の疋数を一覧にした記録。
延徳元年十一月廿八日 / 冊子 545頁
延徳元年十一月二十八日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と各人の成績を疋数で記録した一覧。
延徳二年正月十八日 / 冊子 546頁
延徳二年正月十八日の犬追物手組を記し、島津忠昌を中心とする参加者名と射た犬の疋数を一覧にした記録。