殉国名薮
年月日未詳 / 冊子 104頁
永禄五年の郡山および六月三日の横川城合戦などで戦死した島津方の武士を列挙する殉国名簿。尾辻佐左衛門尉、貴島図書助をはじめ各地の従軍者名を伝える。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 104頁
永禄五年の郡山および六月三日の横川城合戦などで戦死した島津方の武士を列挙する殉国名簿。尾辻佐左衛門尉、貴島図書助をはじめ各地の従軍者名を伝える。
寛永十五年二月廿八日 / 冊子 767頁
寛永十五年二月二十八日、有馬原城の塀を乗り越えて城内に入り、鉄砲を用いたことを、出水衆の山内左近将監・村尾源左衛門尉の立会によって証明した新納佐左衛門尉の差出。
二月廿九日 / 冊子 306頁/原整理番号 339-2
陣佐左衛門が、二月二十七日に二ノ丸の塀裏へ取り付き、直ちに塀を越えたこと、その証人は谷助太夫であること、本丸で首三つを討ち取り、そのうち一つが四郎の首であることを証明し、有吉頼母佐へ提出した差出。二月二十九日付で、少しも相違ないと結ぶ。
元禄十四年六月 / 冊子 315頁/整理ID 1033
豊後側の井上彦右衛門・高田半蔵・高木佐左衛門・岩手新蔵が薩摩側の藤野休左衛門・本城源四郎へ、国絵図改訂に際して豊後国の正保年間古絵図を吟味し、変化箇所を新絵図で相談したうえ、日向国境の双方の際絵図を取り替え、相違がないことを証した連署証状。
天明五年三月二十五日 / 冊子 802頁/原整理番号 2199/整理ID 2199
持病の下冷により出仕時の足袋使用を田沼主殿頭へ伺い、使用してよいとの指図を受けたため、使者を通じ同役中へ伝えておいてほしいと申し入れる三月二十五日の口上書。使者は四本長右衛門・山口佐左衛門。注記では御用の依頼先と使者を、目付山川下総守へ四本、末吉善左衛門へ山口と振り分け、二通を家老座で調えたことを記す。以後は留守居使番で吟味して同様に扱う旨を付記する。
年月日未詳 / 冊子 176頁/原整理番号 296
蒲生の松下源五左衛門書留。地頭市来宗友が二十一日に出船し、二十二日に有馬へ着いたこと、同夜に敵が切り出して二百七十人を討ったことを記す。また、有馬で福崎内蔵丞・赤塚源太左衛門が十日分の飯米を新納佐左衛門尉から受け取ったが送手形が出ず、指出して江津浦で決済するよう命じられたとする。
二月廿五日 / 冊子 203~212頁/原整理番号 322
『藤掛集書』の「二月二十七・二十八日原之城落去之事」。二十七日朝、二十八日の城乗りを評定するため諸大将が戸田左門氏鉄の陣所に集まったところ、物見櫓番が鍋島勢の突入を告げ、松平伊豆守が確認して各将を陣所へ戻したため、諸勢が予定外の攻撃に続いた。本文は、軍法に背いた先行突入への批判、若年の近習・家臣らの戦功と戦死、証拠提出・褒賞の経緯を詳述する。また鍋島勢の先手三千人を二手とする編成、第二陣二千五百人、白布旗、梯子・竹束、海辺に潜ませた水練の達者百人などの攻城準備を記す。黒田右衛門佐が退却しないと誓って天草丸へ攻め、黒田美作が機を見て突入させた記事では、黒田勢の討死を上下二百人、手負千人余りとする。細川勢は二十七日巳の下刻、鍋島勢に続いて三の曲輪を破り、海手から二の丸へ入り、詰の丸東端を攻めて九曜旗を立てた。この時の手負・死人は百人。敵前に柵木を結って夜を明かし、二十八日早朝に四郎の居館へ入って焼き、天草四郎時貞の首を陣野佐左衛門が討ち取ったため、本丸一番乗りとして江戸へ注進したと記す。
年月日未詳 / 冊子 262頁/原整理番号 334-1
『寛明日記』が原城陥落時の細川・黒田勢の働きを記した記事。二十八日早朝、細川越中守忠利勢が四郎時貞の居館へ乱入して数百人を討ち取り、火を放ち、細川家臣の陣野佐左衛門が一揆大将四郎時貞を討ち取ったため、本丸一番乗りは細川忠利であると江戸へ注進したという。また黒田右衛門佐忠之勢は未明に本丸へ攻め、鉄砲・石・大木を受けて多数の死傷を出しながら七、八間の石垣を登り、黒田三左衛門ら歴々の者が乗り込んだとする。
年月日未詳 / 冊子 302~306頁/原整理番号 339-1
『平塞録』を引き、二月二十八日辰刻に板倉主水が原城攻撃を開始し、上使の制止や相談を顧みず本丸へ進んだ経過、板倉勢・佐渡勢・細川勢らの戦闘と死傷を詳述する。細川方が柵を越えて本丸へ攻め入り、佐左衛門(本文表記)が四郎居宅に踏み込んで首を取った顛末を記し、籠城中の辛苦による四郎の痩せた首を上使が実見し、四郎討取りを抜群の武功と賞したと結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 317頁/原整理番号 353
新納佐左衛門忠頼が、寛永十五年二月二十八日、有馬原城の屏を乗り越え、城中で『鉄(炮脱カ)仕候』とする働きを記した証文。出水衆山内左近将監・村尾源左衛門尉がその場にいたとする。両名は本文中の証跡関係者で、宛先ではない。目録年月日欄は空欄である。編者注は『旧記雑録後編五』二一四六号文書と同文とする。
二月廿九日 / 冊子 315頁/原整理番号 346
伊地知杢右衛門重政が、寛永十五年二月二十八日未刻、有馬原城本丸へ一番乗し、鑓を合わせて敵一人を討ち取ったことを届ける証文。出水衆の指宿内蔵助・井尻三郎右衛門尉を証人に挙げ、翌二十九日、上原左太右衛門尉・新納佐左衛門尉宛に差し出した。編者注は『旧記雑録後編五』二一六四号文書と同文とする。
二月廿八日 / 冊子 315~316頁/原整理番号 347
三原大蔵太輔が、有馬原城本丸へ一番乗し、敵二人と鑓を合わせたことを届ける証文。証人は出水衆入来源左衛門尉・大口衆肱岡左近、立会人は仁礼左近将監・伊集院衆西郷壱岐守で、さらに鉄炮で敵と戦ったのを仁礼左近・長瀬新兵衛が見たとする。寛永十五年二月二十八日付で、新納佐左衛門尉・上原左太右衛門尉宛。編者注は『旧記雑録後編五』二一四五号文書と同文とする。
寛永十五年二月廿八日 / 冊子 316頁/原整理番号 348
仁礼左近将監景頼が、有馬原城本丸へ一番乗し、敵三人と鑓を合わせたことを届ける証文。証人として出水衆入来源左衛門尉、大口衆肱岡左近、濱川西市丞を挙げ、立会人は三原大蔵大輔・伊集院衆西郷壱岐守とする。寛永十五年二月二十八日付で、新納佐左衛門尉・上原貞右衛門尉宛。編者注は『旧記雑録後編五』二一三九号文書と同文とする。
二月廿九日 / 冊子 316~317頁/原整理番号 351
三原五郎兵衛重英が、寛永十五年二月二十八日に有馬原城本丸の石垣を登り、屏上から弓で敵三人を攻撃したことを届ける覚。証人として鹿児島衆田中五右衛門・高尾野衆宮原伴右衛門を挙げる。寅二月二十九日付で、新納佐左衛門尉・上原貞右衛門尉宛。編者注は『旧記雑録後編五』二一五七号文書と同文とする。
寛永十五年二月廿九日 / 冊子 317頁/原整理番号 354
田中五右衛門尉国質が、寅二月二十八日、有馬原城本丸の屏内で敵二人に遭遇し、一人の鑓を奪い、もう一人と鑓を合わせて『手負申候』と記し、その敵を鑓下で仕留めたが首は取れなかったと報告する。三原五郎兵衛尉から後日の証跡となるようその場で告げられたため差し出したとし、寛永十五年二月二十九日付で新納佐左衛門尉宛。編者注は『旧記雑録後編五』二一六五号文書と同文とする。
二月廿九日 / 冊子 318頁/原整理番号 357
有馬九郎左衛門尉が、寛永十五年二月二十八日、原城本丸の屏を越え、城中で敵一人と鑓を合わせたことを届ける覚。証跡人として平山七兵衛、出水衆山本左近将監、大口衆壱岐兵左衛門尉を挙げ、三人から証跡の書物を受け取っているので尋ねるよう求める。寅二月二十九日付で、新納佐左衛門尉・上原貞右衛門尉宛。編者注は『旧記雑録後編五』二一六三号文書と同文とする。
二月廿八日 / 冊子 330~331頁/原整理番号 372
仁礼左近将景頼が、寛永十五年二月二十八日の高尾野衆の分捕・手負と弓衆の射撃を列記し、新納佐左衛門尉・上原貞右衛門尉へ提出した注文。宮原又左衛門尉らについて首・鼻の取得数と証跡人を記し、手負衆を列挙する。弓衆については各人の所持矢数、射た本数、当矢数を分けて記載し、仁礼自身は矢十四のうち十一を射ち、当矢二つとする。二月二十八日付。編者注は『旧記雑録後編五』二一五一号文書と同文とする。
二月廿八日 / 冊子 331~332頁/原整理番号 373
宮原又左衛門尉・税所助兵衛尉が、高尾野衆のうち「失衆」とされた一向宗の牧田主馬允・山口納右衛門尉・前田少兵衛尉・細山田内蔵助・児玉七右衛門尉について、新納佐左衛門尉・上原貞右衛門尉へ提出した注文。牧田は有馬の春之城への城乗りで首一つを射取りながら、失衆のため仁礼左近へ内証で見せて切り捨てたとし、他の四名は詰めていたが仕合を知らず、軍功をしなかったと記す。二月二十八日付。編者注は『旧記雑録後編五』二一五三号文書と同文とする。
二月廿九日 / 冊子 336~337頁/原整理番号 379-2
伊地知杢右衛門重政が、春之城本丸への城乗りで加久藤衆が挙げた首取得、手負・戦死、同心衆を列記し、上原左太右衛門尉尚辰・新納佐左衛門尉忠頼へ提出した注文。首取得者十二名の個別首数は合計十五で、本文の『合首数十五』と一致する。金剛坊の鉄砲疵、岩崎弾之丞・川野与右衛門尉らの鑓疵、赤川兵左衛門尉の戦死を記す。同心衆欄には西田和泉守らを列挙する。二月二十九日付。編者注は『旧記雑録後編五』二一六八号文書と同文とする。
二月六日 / 冊子 82頁/原整理番号 133
姶良衆中宛の覚。前田分右衛門尉以下、天草へ逗留する者を各人の石高とともに列記する。本文の人数・石高明細には難読箇所があるため、概要では確実に読める主要人名に限定した。
寛永十三年十二月廿一日 / 冊子 569~570頁
川内新田村内の九斗五升余の土地について、江川久右衛門尉の居屋敷との関係から別の高の内へ給付され、二重に籠成となって寛永十二年以来不足しているため、今回支配するよう求めた覚書。
二月廿九日 / 冊子 774頁
二月二十八日、有馬春之城本丸の塀内で敵二人に遭い、一人の槍を奪い、もう一人と槍を合わせて負傷させ、槍下で仕留めたが首は取らなかったことを、三原五郎兵衛の後日証跡を根拠に届けた田中五右衛門の差出。
元禄十四年六月 / 冊子 315–316頁/整理ID 1034
薩摩側の本城源四郎・藤野休左衛門が豊後側の井上彦右衛門ら四名へ、国絵図改訂に際して日向国の正保年間古絵図を吟味し、変化箇所を新絵図で相談したうえ、豊後国境の双方の際絵図を取り替え、相違がないことを証した連署証状。No.1033と相互に取り交わした対の証状である。
年月日未詳 / 冊子 264頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0576
綱久公御譜に収められた光久の子女の同胞横列に於虎を掲げる。明暦元年八月九日生、母は新納佐左衛門忠頼の娘で、於虎は島津又十郎忠興の室となる。
安永八年十一月(本文今茲冬十一月・目録年記) / 冊子 586~587頁/原整理番号 1650/整理ID 1650
重豪公御譜中の記事。揖宿郡指宿郷拾貳町村の浦人兵右衛門に、佐左衛門・善藏・兵左衛門の三人の男子と四人の女子があり、皆が力を尽くして父母に仕え、佐左衛門の妻もよく従って奉仕したと記す。父は老いて病み、手足が不仁であったため、出入りや起居では互いに助け、代わる代わる抱き支えた。指宿郷には温泉があり、背負ったり肩輿に乗せたりして入浴させたという。兵右衛門の子孫は男女十六人に及び、皆がその気風を習って和睦し、郷党も孝順を称えた。今冬十一月、官に命じて佐左衛門夫妻へ廩米十五苞を与え、善藏・兵左衛門と女子四人には各々青銅二千を与えて賞したとする。青銅の数量単位は原文に「貳千匹」と記す。米十五苞は夫妻に対する記載であり、一人ずつ十五苞へ増やさない。結尾の「賞之焉」は次頁冒頭に続く。
寛政6年正月(本文。碑銘作成)、天和2年・永正11年の回顧を含む / 冊子 75頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0248-1
薩州田布施の邑金峰山麓の亀城と、城内の荒神祠を修めた由緒を記す碑銘。小石室は天和2年壬戌に邑人篠原佐左衛門政盈が建て、島津貴久の誕生地と記していたという。寛政6年正月に有司へ修祠・石欄設置を命じ、銀六百四十五銭を長生銭として邑吏に付け、祠事の資としたため、臣山本正公室に石へ事を記して傍らに建てさせたと述べる。貴久は日新公の子、母は薩摩守重久の娘で、永正11年5月5日に生まれたと記す。誕生舎の跡に後人が荒神祠を建て、祠から東南十五、六歩の亀石二つと、亀石から西二歩の日新公が植えたと伝わる古松を挙げる。貴久の生誕・国難平定とこの地の縁を讃え、祠を鎮護して遺跡を存し、石や松のように保つ旨の銘を結ぶ。
11月24日 / 冊子 414頁/原整理番号 377
十一月二十四日、真米二石三升三合、赤米十八石三斗八升一合を掲げる。小湊・小浦・片浦から仕立てる船の船頭・水手・上乗衆の飯米として、小湊の下代衆である篠原佐左衛門・丸田内膳正から受け取るよう、三原源右衛門・永山覚兵衛へ命ずる。数量に前かき・右同の注記がある。
年月日未詳 / 冊子 415~417頁/原整理番号 380
「天草立衆」として出兵者の氏名を列記し、鉄砲・鑓(やり)・弓・鉄放などの武器種や、談合衆・印の記載を各人に添えた人数書上。国分佐左衛門・平峯郷兵衛・濱田右京丸から、荒武丹波守・神崎左近允・稲留藤右衛門・篠原城之介まで名簿が続く。郷別人数の集計ではなく個人名と武器種・付記の対応を記す。
承応二年十二月十五日 / 冊子 241頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0499
伊地知主膳正に付けられた松坂金右衛門と家族三人が当地へ移ったため、新納加賀守方の人別帳から除くよう大口衆へ求め、切支丹宗門ではないことを保証した人別請取手形。
年月日未詳 / 冊子 380~383頁/原整理番号 351
天草へ出陣する薩摩方の軍衆を、鉄砲・弓・槍・談合衆などの役割別に多数列挙した交名である。清水郷士浜田早太所蔵本を正文とし、寛永十四年十一月二十一日から二十四日にかけた軍勢動員を示す。
年月日未詳 / 冊子 445~447頁/原整理番号 423
原城一揆籠城の記録。寛永十四年十二月朔日から原古城を修築し春か城と称したとして、各郭の大将・軍人衆・奉行・使番・防火担当などの名と配置人数を列記する。兵勢二万三千余に童女一万余が加わったとし、防壁・銃眼・石や武器の配置、交替警備、矢文と火矢の警戒、四郎の巡回と法度伝達を詳述する。巻尾には高来郡などの村名を付し、一揆衆が在村の名を名字として名乗ったと説明する。
年月日未詳 / 冊子 759~760頁/原整理番号 806
申立人の曽祖父に当たる山本左近について、島原のキリシタン一揆時に出水から選ばれた十人に加わり、忍びとして働いたと述べる。三原左衛門佐の判紙だけでは他国の陣場を通りにくいため、松平伊豆守の判紙を得て三原・下野・山田の指示で夜昼奉公したとする。落城時には射通しの弓で多数を射伏せたと主張し、証文や判紙を提出・返上した経緯、後の茂庄村物主役も記す。
年月日未詳 / 冊子 763~764頁
有馬春之城の本丸へ乗り込み敵三人と槍を合わせたことを、入来源左衛門・肱岡右近、三原大蔵太輔・西郷壱岐守らの立会・証跡を挙げて証明した仁礼左近将監の戦功証文。
二月廿九日 / 冊子 769~770頁
高尾野衆の失衆を列挙した注文。牧田主馬允・前田少兵衛尉・山口納右衛門尉・細山田内蔵助・児玉七右衛門尉らを挙げ、原城攻撃での射撃・首級処理や働きに関する注記を添え、宮原又左衛門・税所助兵衛が証した。
寛永十五年二月廿九日 / 冊子 772頁
二月二十八日の有馬原城本丸で敵四人を鉄砲で撃ち、さらに敵二人と槍を合わせたことを、大口衆・鹿児島衆・高尾野衆の証跡人を挙げて、有村掃部助が二月二十九日に届けた戦功証文。
二月廿九日 / 冊子 774頁
寛永十五年二月二十八日、有馬春之城本丸の塀を乗り越え、城内で敵一人と槍を合わせたことを、平山七兵衛・山本左近将監・大口衆壱岐兵左衛門らの証跡書物を根拠として、有馬九郎左衛門が二月二十九日に届けた差出。
年月日未詳 / 冊子 266~267頁/原整理番号 336-2
原城落城時に寄手が討ち取った首数を諸将別に列挙した覚。細川越中守285首(小字に四郎時貞の首と陣佐左衛門の討取りを記す)、黒田右衛門佐576首、鍋島信濃守692首、有馬玄蕃頭125首、立花飛騨守157首、松倉長門守47首、小笠原右近大夫25首、同信濃守15首、松平丹波守13首、寺沢兵庫頭108首、有馬左衛門佐83首、戸田左門18首、松平伊豆守15首、諸家使者中15首とし、末尾に「合二千四百四十余首」、松平伊豆守の首帳にこのとおりと記す。読取可能な14明細の合計は2,174首で、原記載の総数2,440余首とは一致しないため、数値を改めず差異を留保する。
年月日未詳 / 冊子 298頁/原整理番号 337-4
原城落城時に寄手が討ち取った敵の首数を諸将別に列挙した覚。鍋島信濃守692首、黒田右衛門佐576首、細川越中守285首(内、大将天草四郎時貞の首を陣野佐左衛門が討ち取った旨を付記)、立花飛騨守157首、有馬玄蕃頭125首、松倉長門守47首、小笠原右近大夫25首、同信濃守15首、松平丹後守13首、寺沢兵庫頭108首、有馬左衛門佐83首、戸田左門18首、松平伊豆守15首、諸家使者中15首とし、総数を2,440余首、松平伊豆守の首帳に付けた内容とする。読取可能な14明細は計2,174首で総数と一致せず、原記載を保持する。336-2とほぼ同文。
三月朔日 / 冊子 321~328頁/原整理番号 370
寅二月二十八日に有馬原城本丸へ乗り込んだ者と、市来八左衛門尉に従って戦場へ同行した者について、氏名と軍功・被害を列記した注文。市来八左衛門尉、三原大蔵太輔、平山七兵衛尉、新納佐左衛門尉、有馬九郎左衛門尉、福崎新兵衛尉らをはじめ、多数の人物ごとに鑓合、鉄砲・弓、首、討捕、手負、戦死、屏越、本丸乗などを記す。中途に『出水衆討捕、合頸数百三拾八』と総数を掲げ、その後も市来八左衛門尉の戦場同行者らを続ける。末尾には曽木衆有村掃部助、坂本四郎兵衛尉、福崎覚兵衛尉の本丸乗を記し、寅三月朔日付。作成者・宛所は記載されない。編者注は『旧記雑録後編五』二一七〇号文書と同文とする。
三月十九日 / 冊子 349~350頁/原整理番号 384
蒲生士松下氏書留に収める覚。冒頭で刀による鑓合の者を列挙し、続いて首取・切捨・手負などの軍功者を記す。さらに二月二十七日の城への放火と二の丸陥落、二十八日の本丸攻撃、二十九日晩の落城という原記載を掲げ、二月十六日の出立から有馬・米之津・江津浦間の乗船、悪風による滞留、帰着までを記録する。三月十九日には有馬で福崎内蔵丞・赤塚源太左衛門尉が新納佐左衛門尉から十日分の飯米を受け取り、送手形が出ないため江津浦で差出により処理するとした。
年月日未詳 / 冊子 353頁/原整理番号 396
出水士・山元甚左衛門の訴状からの抄録。キリシタン落城時、有馬原城本丸で山元左近が射通しの弓を用いて敵を多数射伏せ、新納佐左衛門尉の証文と、福崎新兵衛・村尾源左衛門尉ほか計六人連判の証文を取り置いたという。訴状の詳しい本文は正月二十日条に載せるとの注がある。
年月日未詳 / 冊子 225頁/原整理番号 333-8
八組に属する手負者計二十名を列記した覚書。谷主膳組は釘本十左衛門・山路太左衛門・魚住藤七・杉山七太夫・宇野喜一郎・魚住藤三郎の六名、西郡要人組は伊藤左内・道家清十郎・北村半右衛門の三名、島又左衛門組は友田八太夫一名、小笠原備前組は佐分利彦右衛門・佐々次郎右衛門の二名、松野右京組は安井喜一平次・和田清太夫の二名、坂崎清左衛門組は小崎与次兵衛一名、平野九郎右衛門組は中川佐左衛門・中川長吉の二名、志水伯耆組は中根勘兵衛・矢野吉之助・荒木太郎助の三名。