近衛植家書状
三月五日 / 冊子 630頁
近衛植家が佐多伯耆守に、特段の用件がなく音信が途絶えていることへの遺憾を述べ、今後の取次を求めた書状。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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三月五日 / 冊子 630頁
近衛植家が佐多伯耆守に、特段の用件がなく音信が途絶えていることへの遺憾を述べ、今後の取次を求めた書状。
(天正13年)12月7日 / 冊子 135頁
伊集院忠棟が星野伯耆守へ、境目の陣での勝報を双方の慶事として喜び、今後も変わらぬ忠節を求めた書状。実信・経重との相談には疎意がないので安心するよう伝え、贈られた矢尻にも謝意を述べる。筑後方面の協力関係を維持するための軍事連絡である。
(天正13年)正月19日 / 冊子 153頁
島津忠長・本田親貞・伊集院忠棟の三名が星野伯耆守へ、前年に豊州勢が坂東寺へ在陣した際、肥前との和睦によって速やかに陣を解いた経緯を確認した連署状。その後も合意に背き高良山で対立が続くことを問題視しつつ、秋月種実と龍造寺政家が一致して協議している点を評価する。両家が島津方に属する立場を踏まえ、星野氏にも隔意なく忠節を尽くし、事態収拾へ知恵を巡らせるよう求めている。
(天正15年)2月13日 / 冊子 291頁
豊州の大半が敵方に属し遠方との連絡も難しいとして、島津義珍が星野伯耆守に油断なく備えるよう求めた書状。太刀一腰を祝儀として贈り、危機的な戦況下でも忠節を期待する意向を示す。
元和八年六月廿四日 / 冊子 769頁
本文は『一七七八号文書ト同文ニツキ省略ス』との編集注によって省略されている。参照先のNo.1778と照合すると、喜入忠政ら五名が佐多伯耆守へ、無届で他所に住む者は知行を召し上げ、無断で他家へ奉公する者には重罪を科すことを諸所の地頭へ徹底するよう命じた連署書下。
元和八年六月廿四日 / 冊子 783~784頁
喜入忠政ら五名が佐多伯耆守へ、生活難から各地へ離散する者がいるため、地頭へ届けず他所に住む者は知行を召し上げ御内から離すこと、無断で他家へ奉公する者には重罪を科すことを諸所の地頭らへ徹底するよう命じた連署書下。
十二月廿一日 / 冊子 107頁
歳暮の祝儀に関する書状を謹んで受け取り、来春には互いの満足と慶びを早々に申し交わしたいと伝えた年末の礼状。
年月日未詳 / 冊子 484~485頁
文明八年以後の薩摩・大隅・日向三州の軍事情勢を記す。清水・曽於郡勢による宮内・東郷攻撃に対して島津久逸・伯耆守豊久・新納忠続・北郷敏久らが反撃し、加世田城・都城をめぐって出陣・攻城・退却を重ねた経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 513頁
文明十六年十二月廿二日、敵勢二千余騎が陣へ押し寄せたため合戦となり、伯耆守豊久ら守備側が戦死者を出しながら防ぎ、翌日敵が退散した経過を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 514頁
義岡伯耆守豊久の出生と経歴を記し、文明十六年十二月廿二日に飫肥城へ押し寄せた敵二千騎余に三百余騎で応戦して戦死したこと、享年六十四と法号を伝える譜記事。
年月日未詳 / 冊子 630頁
佐多忠和について、文明九年丁酉の誕生、又太郎・伯耆守の称号などを記した佐多氏の系譜資料。
年月日未詳 / 冊子 725頁
天文三年十月二十五日前後、末弘伯耆守ら家臣の動向を受けて勝久が鹿児島を去り福昌寺方面へ移ったこと、実久と連判衆の対立・乱入、鹿児島で七日間続いた放火により勝久が退去を余儀なくされた経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 726頁
天文三年十月二十五日、末弘伯耆守・川上大和守ら勝久近臣と実久方の争いから、島津勝久が鹿児島を離れた経過を記す。翌年帰還した後も連判衆・実久方が乱入・放火し、統治を回復できず再び退去した。守護権威の失墜過程を示す。
年月日未詳 / 冊子 727頁
天文三年、島津実久方が末弘伯耆守を谷山皇徳寺で討とうとした事件を起点に、樺山善久らの行動を記す。忠良・貴久方へ働き掛け、清水での襲撃を経て加治木方面へ進出し、北郷忠相・新納忠勝らとも連携した。実久方から貴久方へ戦線が広がる過程を示す。
(永禄六年)十月廿一日 / 冊子 126頁
戸次伯耆守方の南郡八人が連署を整え、陣中へ加わること、豊後側でも親類衆を同心させて派遣することを伝え、親方から改めて書状を出すとした追而書。
年月日未詳 / 冊子 50頁
天正十三年四月二十四日、島津義久は町田出羽守・伊地知伯耆守を使者とし、上井伊勢守・鎌田出雲守・山田新介らを介して忠平へ命令を伝えた。前年春から忠平を義久の名代として八代へ移し、国政裁判を担わせようとしていたが、忠平は固辞を続けていたため、二十六日に重臣五名へ書状を託して再度説得させる。肥後支配を担う人事が、忠平の辞退と家臣団の仲介を経て進められたことが分かる。
年月日未詳 / 冊子 301頁
二渡氏伝が、伊地知伯耆守の三男が二渡家の養子となり、二渡次兵衛を称したことを記す。朝鮮出陣前、五百石相当の軍役を自力で勤めれば帰国時に五百石を与えるとの命を受け、養父が取り立てて軍役を負担させ、次兵衛は渡海して軍功を立てた。その後、兵具奉行に任命されて勤務したとする。
(元和八年)五月二日 / 冊子 779頁
徳川家光が島津家久へ、端午の祝儀として帷子五領・内単物三領を贈られたことに謝意を示し、詳しくは酒井備後守・青山伯耆守が述べるとした直書。
(寛永十年)五月廿三日 / 冊子 366頁
徳川家光が島津家久へ、音信として贈られた沈香五斤を喜んで受け取り、詳細は酒井備後守・青山伯耆守から伝えるとした御内書。
十一月廿一日 / 冊子 405頁
佐々木宗綱が、戸次伯耆守方の両郡八人による惣連署などが整えられ陣中にも添えられたこと、豊州へも親類衆を同心させて遣わしたことを伝え、これらについて重ねて書状を送るとした書状。
年月日未詳 / 冊子 731頁
勝久の不明な賞罰と讒臣登用を諫めた川上昌久ら忠義の士十六人の行動、讒言を拒んだこと、政道を正そうとして危難に遭った経緯を記す。
〈宝暦五年〉六月十三日 / 冊子 537頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1612-2
宝暦五年六月十三日、松平薩摩守が堀田相模守・酒井左衛門尉・本多伯耆守へ出した願書。病気が重く大切な状態であり、もし急変した場合には嫡子松平又三郎へ跡式を相違なく継がせてほしいと願う。又三郎は当年十一歳と記す。署名脇に「手振印判相用申候」との注が付く。
天保2年4月5日(本文・朱注) / 冊子 876頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2457
島津重豪が松平伯耆守へ送った四月五日付書状。位階昇進に際して内府・大納言らの配慮を得たことを喜び、位記などが無事届いたと報告する。昇進に尽力した使者への謝意を述べ、末尾に御所司代の松平伯耆守宛を掲げる。原本876頁の上段本文から下段の年月日・署宛までを一通として確認し、前項No.2456の到着覚書と区別する。
年月日未詳 / 冊子 721頁
天文二年八月十四日、忠将が南郷城を守るなか、桑畑孫六・末弘伯耆守ら三百余騎が来攻したため、忠良方と討ち合って敵兵を退散させたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 726頁
島津勝久の不正な賞罰と讒臣の登用が国を乱したことを、古今の君臣・治乱の故事を引いて論じる島津日新譜記事。川上昌久・竹内氏・小倉氏・山氏・末弘伯耆守らをめぐる家中事情に触れ、忠臣を用い小人を退け、聴言と賞罰を正すべきだと説く政治論。
(天正元年九月廿七日頃) / 冊子 318頁
友野元真が早崎陣詰めの際、枝元神左衛門を討ち取り、女性一人を捕虜とした戦功を記す。その女性は中江主水佐の継母であり、合戦の証人として伊集院久治・箕輪舎人佐・木藤日向守・上原長門守・伊地知伯耆守を挙げる。
天正六年十一月十二日 / 冊子 628頁
天正六年の高城・耳川合戦で島津方として戦死した者を列挙する名簿。本田親治、北郷久盛、村田経重、山中宗左衛門、鎌田大膳亮、海江田主殿、曲田伯耆守、市来軍介ら、根白坂・河原・追撃戦などで討死した諸士を記す。
年月日未詳 / 冊子 50頁
天正十三年四月、島津義久が忠平を守護代に任じ、肥後八代へ移って国政を裁判するよう、島津図書頭忠長・町田出羽守久倍・伊地知伯耆守を通じて命じた記事。忠平は重任に耐えないとして再三辞退したが、義久は受諾を強く求め、忠平は八代へ赴任した。肥後の警衛を絶やさぬため役務を分担させ、田賦を定めたことにも触れ、守護代任命と現地統治の制度化を伝える。
年月日未詳 / 冊子 286頁
佐多親久が永和元年に生まれ、応永二十年冬の伊集院頼久の反乱に際して島津久豊に従軍し、鹿児島府本城や陣原羅で功を立てたことを記す譜記事。
宝徳三年九月八日 / 冊子 426頁
宝徳三年九月八日の犬追物について、島津忠国以下の参加者を組別に配し、それぞれの定数を記した手組。
年月日未詳 / 冊子 725~726頁
勝久が再び太守となった後、鹿児島で権力をほしいままにし、賢愚を分けず旧臣を遠ざけ讒佞の者を近づけたため国政が乱れたこと、実久方との抗争を経て都城・豊後油浜へ移った経緯を批判的に記す。
林鐘二十日 / 冊子 101頁
琉球国三司官が市来因幡守ら五名に宛てた書状。文船派遣の依頼に対し、古来の交流は重んじるものの、近年は日本の賊船往来で海路が不穏となり、島々や港の警固に追われているため、現時点では要請に応じ難いと説明する。贈物への返礼として鹿錦三十把を進呈している。
〈宝暦五年〉六月十三日(目録。の七の本文は六月のみ) / 冊子 537~538頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1612
重年の病状悪化と家督継承に関する七件の書付。病気が重く大切な容体になった旨の届書と、急変した場合に当年十一歳の嫡子松平又三郎へ跡式を相違なく継がせてほしいとの願書を収める。施療医師名書は武田長春院・井上交泰院・村田長庵・森宗乙の四人の薬を服用したと記し、別に望月三英を掲げる。縁者一類名書は容体を知らせる相手八名を列記し、容体書は四月中旬の疝積発病から薬を替え、草臥れが増して大切になった経過を述べる。山澤小左衛門の首尾書は、酒井左衛門尉の用人関茂太夫を介する病気届一通の提出と受領を報告する。相馬宛ての伺書では、帰国も難しい病状のもと、又三郎への家督・琉球国を含む領地の継承を願い、幼少の又三郎に不慮のことがあれば家中が安気でなくなるとして、実弟嶋津中(久珍、二十四歳)を又三郎の末養子とする案と琉球国の処置を一類とも相談し、事前に内々の意見を求める。
年月日未詳 / 冊子 240頁
殉国名藪の記事。竹下蔵人春綱の次男・重次は入来院伯耆守重国の家臣で、寛永二十年五月十七日に主君の死後を追って殉死したことを記す。
元禄十三年七月二十九日 / 冊子 225–226頁/整理ID 776
本多伯耆守正永が松平修理大夫島津吉貴へ、将軍が健勝なので安心するよう答え、吉貴が首尾よく暇を得て品々を拝領し、海陸無事に先月二十一日鹿児島へ着いたことを喜んだ書状。帰国御礼の使札を老中へ届けたとの報告も了承する。
宝永六年五月十三日 / 冊子 842頁/整理ID 2802
井上河内守・大久保加賀守・本多伯耆守・秋元但馬守・小笠原佐渡守・土屋相模守が五月十三日、吉貴へ、本日の西丸への登城は不要と伝える。祝儀の能を明後十五日に行うため見物し、長袴を着て五ツ時に本丸へ登城するよう指示する。
宝永七年十一月十五日 / 冊子 924–925頁/整理ID 3005
井上河内守・大久保加賀守・本多伯耆守・秋元但馬守が十一月十五日、吉貴へ、御用があるため翌十六日四時に登城するよう命じる。
延享三年十二月十七日 / 冊子 959頁/整理ID 2562
松平薩摩守宗信に、御用があるため翌十八日四つ時に登城するよう命じる十二月十七日付の通知。本多伯耆守・西尾隠岐守・堀田相模守・酒井雅楽頭の名を記す。No.2563の官位昇進の儀礼に先立つ登城の指示である。
〈寛延二年〉八月三日 / 冊子 180~182頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0512
寛延二年八月三日、嶋津主鈴久郷・矢柄久寛・主殿久柄が、樺山主計・伊勢兵部・鎌田典膳・平田靱負へ、太守様(宗信)の病状悪化に伴う養子・家督相続の相談と願書提出の経緯を報告する。主殿が相続に関する書付を差し越し、姫君様への願いと菊姫様への申し進めについて村路を通じて取り次いだ。八月朔日夜、新御書院で荻原殿・お梅殿・岡田殿と差出人三人が会合し、療養を尽くしても効験が見えず衰弱が増すため、急変した際には当三月の下国前に仮養子として申し置いた嶋津兵庫の相続を願いたいこと、隅州様および一門の相談を経て願書を差し出したいことを伝え、姫君様・菊姫様も承知したと記す。関係者の名を列記し、柳生備前守は不快のため断ったと付記する。二日には芝屋敷で隅州様の相談について留守居を介して報告し、伊豫守・加賀守が養子願の案文を内見した。両者は万端の取計を引き受け、野村大右衛門にも伝え、大玄院病中の諸書付を見合わせて案文を整え、小笠原縫殿助・久世忠右衛門にも相談した。堀田相模守への内意照会では、病状の届はすでに二度上聞に達しているので改めて奉書を届けず、直接養子願を差し出すよう回答され、岩下佐次右衛門から春日井庄兵衛を通じて伝えられた。三日、願書を御用番本多伯耆守へ加賀守と小笠原縫殿助が提出し、若年でも不慮の事態を考慮して受け取る旨の返答を得た。加賀守は門外へ退出後に戻って受理の礼を述べ、櫻田の御守殿へ報告した。尾張様へは矢柄が使者として知らせ、嘉知姫様にも用人を介して伝達した。京・大坂の使番、関係する御方、御守殿付用人、近習役以上、家老座・諸役人・諸士への周知を記し、書付写五通を送って貴聞に達するよう求める。日付と周辺の宗信死去記事との前後関係には疑義がある。
〈寛延二年〉八月五日 / 冊子 185~186頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0525
寛延二年八月五日、嶋津主鈴・矢柄・主殿が樺山主計・伊勢兵部・鎌田典膳・平田靱負へ、嶋津兵庫の忌服・江戸への呼寄せと急使派遣を報じる。本田伯耆守の用命で留守居一人を小笠原縫殿助宅へ遣わすことになり、赤松甚右衛門が赴いたところ、太守様の死去の日から忌五十日・服十三月を受けるよう兵庫へ伝え、忌服の書付を追って差し出すこと、兵庫が江戸へ到着した際はその旨を知らせることを指図され、別紙書付を受けた。加賀守も伯耆守宅へ赴いて取次を通じ別紙のとおり御請を申し、小笠原へ伝えた。忌服の書付は翌日提出する予定とし、御守殿へ内々に申し上げるため用人衆を通じて櫻田へ知らせた。主殿は翌六日に道中を急いで出立するので、国元への到着時期は計り難いが発駕を延ばさぬよう手当を求める。今夜、海陸二手の急飛脚を差し立てることとし、御歩行の野村勘助と谷山衆中の田原辰之助を即夜派遣した旨を記す。関係する御方・尾張様・京大坂・隣国への通知も相談している。兵庫の出府に野村大右衛門などの留守居を付ける案を検討したが、人数が少ないため使番を供に付ける案を相談し、用人の供への影響も考慮している。国元から派遣する役の往返と出立について承知するよう求め、小倉筋を急いで道中の通り方を聞き合わせること、宿札は「薩州」と記して掛札は不要との留守居の見解を伝え、別紙二通を添える。
〈寛延二年〉八月五日 / 冊子 187頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0530
寛延二年八月五日、嶋津主鈴・矢柄・主殿が樺山主計・伊勢兵部・鎌田典膳・平田靱負へ、兵庫の定式忌服と出府について幕府側から書付による指図を受け、急使を差し立てたことを報告する。本多伯耆守宅へ召された小笠原縫殿助を通じ、別紙のとおり忌服を受けて江戸へ出府するよう書付を渡されたため、その内容を急飛脚で国元へ伝え、御歩行の野村勘助・田原辰之助を急いで派遣したと記す。この件を御聴に達し、早く出立するよう申し上げることを求める。両名をこちらへ差し返す必要はなく、国元に留め置くよう申し越し、別紙第一通を送る。
〈寛延二年〉八月六日 / 冊子 187~188頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0532
寛延二年八月六日、嶋津主鈴が樺山主計・伊勢兵部・鎌田典膳・平田靱負へ、定式忌服の届書を本多伯耆守へ提出した経緯を報告する。前日五日に書付を差し出すよう命じられたため、昨夜申し遣わしたとおり、六日に留守居の名書を整えて届書を用意した。佐久間源太夫が本多宅へ赴き、取次の千馬文太夫を通じて差し出したところ、届書のとおり承知したとの言葉を受け、その旨を源太夫が報告した。届書の写しを別紙として添え、この件を御聴に達するよう求める。
〈寛延二年〉八月八日 / 冊子 189~190頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0538
寛延二年八月八日、嶋津主鈴・矢柄が樺山主計・伊勢兵部・鎌田典膳・平田靱負へ、慈徳院殿宗信の死去に伴う兵庫の忌服と出府について報告する。逝去の日から定式の五十日・十三月の忌服を受け、届出も済んだことは六日の便で伝えていたが、七日に本多伯耆守から留守居一人を呼ぶ切紙が届き、佐久間源太夫が赴いたところ、国元で承知した日から忌服を受けるよう指示された。御用人小坂仁左衛門から別紙の書付を渡され、六日に留守居名書を本多へ差し出していた旨も記す。七日の指図をもとに飛脚片道二十三、四日目の到着を見込み、国元で承知した日から何月何日まで忌服を受けるか届けるよう求める。その届書を留守居名書と相談し、御用番へ差し出して本多へ首尾を伝えること、御守殿へ内証で知らせ、御付の御用人を通じて尾張・お喜代・嶋津加賀守や関係者へも伝えることを依頼する。領国中や屋敷中には忌服の日数に応じて知らせ、京大坂と隣国への通知を手配し、八月の月代日数や京大坂の慎の日数についても申し談じるよう求める。細川方は出立・道中とも常式の参勤より急ぐと承知したので、兵庫も出立を急ぎ、船中は遊び間が多く中国・美濃路を通ると見込む。五日の指図以来の日数も考え、飛脚が中途で滞る場合に備えて海陸二手を急いで差し立て、国元・京大坂の手当を求める。右筆から渡された書付の写し一通を添える。目録の連署人名と署名の実名対応には疑義がある。
〈寛延二年〉十月三日 / 冊子 208~209頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0580
寛延二年十月三日、嶋津主鈴・矢柄が嶋津主殿・樺山主計・伊勢兵部・義岡左平太・鎌田典膳・平田靱負へ、兵庫の忌服と出府に関する届書・幕府への取次手続を報告する。八月七日に本多伯耆守から受けた指図は八日に知らせ、片道二十三、四日目の承知を見込んだ。その後、八月五日の小笠原縫殿助の指図も吟味して九日に申し越したところ、九月三日・四日の便で国元に届き、三日から十月二十二日までの忌と十三月の服を受ける旨が伝えられたため、その内容の届書を整えることを求める。八月五日の指図をもとにすると九月三日まで片道二十七日目となるが、勤事と余事では所要日数が異なるという朱書の返答を承知したとも記す。忌服・出府の指図への請は他方の扱いも照会し、御一類方の内から申し上げること、九月十三日の国元出立の届などを整えることを求める。兵庫の名書を整え、以前の指図に用いた小笠原縫殿助へ取次方式を岩下佐次右衛門を通じて相談したところ、縫殿助へ書付と忌服届書を内見に出すよう返答があった。前月二十九日、御用番の堀田相模守へ請書を持参し、無事に受け取られたことを佐久間源太夫が伝える。また、源太夫が兵庫の定式忌服・出府の指図書付を携えて参上し、九月三日に薩州で承知した旨の受けの書付と忌服届書を御用番へ差し出し、本多への報告のため書付写を御用人へ渡した経緯を記す。御守殿櫻田にも承知日と十三日の出立予定を知らせ、使番を通じて関係先へ伝えるよう依頼する。届下書、受けの書付写、留守居首尾書の三通を添え、隅州様と兵庫へ報告するよう求める。目録の連署人名と署名の実名には異同がある。
〈宝暦二年〉十二月十三日~翌三年五月六日 / 冊子 384頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1169
退休後、病気のため寛延二年以来在国して四配館で温泉療養を続ける継豊へ、宝暦二年十二月十三日、家重が鷹の捕らえた鶴一隻と老中奉書を与えた記事。西尾隠岐守忠尚が駅路の証印を出し、継豊の家臣横山新右衛門安當・汐湯次郎左衛門盛尊が歩士三人・軽卒数人の警衛を伴って即夜江戸を発ち、東海・山陽・西海の駅路を昼夜進んだ。翌三年正月十一日に四配館へ着き、継豊が拝戴した。継豊は内田八右衛門長貞・有川七左衛門貞典に報翰と忠尚の駅路証印を持たせて江戸へ送り、別に番頭兼組頭の肝付弾正兼昌を謝使として遣わした。長貞・貞典は西海・山陽・東海の駅路を先行し、二月九日に江戸へ着いて用番堀田相模守正亮へ継豊の報翰を呈し、駅路証印を返納した。兼昌は正月十九日に豊州小倉へ着き、二十日に乗船、二十三日に防州上之関へ着いたが、逆風のため数日滞留した。二月四日に上陸して山陽道を進み、九日に摂州大坂、十八日に江戸芝邸へ到着した。二十二日には老中各邸へ継豊の喜びの書翰を呈して使者の勤めを果たした。三月一日、兼昌は登営して白書院で家重に拝謁し、継豊の献物一種一荷を呈した。家治への使節の勤めは鳥居伊賀守忠胤が取り次いだ。兼昌自身も家重へ太刀一腰・馬代白銀一枚・紗綾二巻を献じ、続いて西城で家治に継豊の献物一種一荷を呈し、自身から太刀一腰・馬代白銀一枚を献じた。この奏達は太田摂津守が取り次いだ。六日に再び登営し、内藤大和守頼由の奏達を受けた。八日には檜之間で本多伯耆守が出席し、継豊宛奉書と紗綾三巻を兼昌へ下付した。同日、西城の秋元但馬守凉朝からも継豊宛奉書を受けた。兼昌は三月十九日に芝邸を発ち、五月五日に薩府へ帰着、六日に府城と四配館で復命した。出典は継豊公御譜。
天明五年二月二十五日 / 冊子 784頁/原整理番号 2192/整理ID 2192
孝恭院七回忌法事の香奠銀十枚を、使者種子嶋雲治が上野本坊へ献納した経過を報告する。門主が出て、献納の付紙を台理閣の内横畳三畳目で役僧から取り扱い、二畳目で使者の礼を執当から披露した。老中牧野越中守、寺社奉行松平伯耆守その他の役人が出席したと記す。今朝献納を済ませ、自ら使者案内を勤めた首尾を、二月二十五日付で留守居本城源七郎が安房へ申し上げる。
天保2年12月13日(本文・朱注) / 冊子 891頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2498
本荘松平伯耆守宗発が松平榮翁へ送った十二月十三日付書状。榮翁が当朝に鰹節一箱を献上したため、披露したところ格別に結構な仕合せであったと伝える。宗発の判、天保二年の朱注を伴う。入力表題の「日本荘宗発害状」は「本荘宗発書状」へ訂正する。
天保3年6月27日(本文・朱注) / 冊子 911頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2590
本荘伯耆守宗発が松平榮翁こと島津重豪へ送った献上の返書。今朝、重豪から鯣(するめ)一箱が献上され、披露したところ喜ばれた旨を伝える。六月二十七日付、宗発の判と口裏署名を伴い、年次は朱注の天保三年。本文はNo.2589の忠真書状と同文だが、差出人・判・口裏は宗発の別書状として整理する。
天保3年9月7日(本文・朱注) / 冊子 916~917頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2605
本荘伯耆守宗発が松平榮翁こと島津重豪へ送った重陽祝儀の返書。重豪が使者をもって小袖一重を献上し、披露したところ喜ばれた旨を知らせる。九月七日付で宗発の判を伴い、年次は朱注の天保三年。前の家斉御内書と同じ献上品を扱うが、本書は披露後の意向を伝える別書状。本文は前頁下段左端の「全上」から次頁上段右側の正文・署宛へ続く。
天保3年12月6日(年次朱書、月日本文) / 冊子 924~925頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2620
本荘宗発が松平栄翁に宛て、今朝献上された鰹節一箱を披露し、首尾よく済んだ旨を知らせる書状。十二月六日付、宗發判。口裏の朱書は松平伯耆守宗發とし、天保三年も朱書で補われる。出典は前の重豪公御譜中・正文在文庫を「全上」で受ける。No.2619の大久保忠真書状と本文の用件・日付・宛先を共通にするが、署名と口裏が異なる別文書として保持する。冊子924頁下段から925頁上段右端へ続く本文と署宛まで確認する。