上原休兵衛口上覚
辰年5月15日 / 冊子 275頁/原整理番号 107-16
辰年五月十五日、上原休兵衛が門司伊兵衛・肥後少三郎へ、自分は上原源右衛門の跡目を命じられて同家を相続したので、今度は国分刑部左衛門の弟・八郎左衛門を自身の猶子にしたいと内談している旨を申し述べ、そのとおり許可されるよう取り次ぎを願った口上覚。追記により、この願いは七月三日に伝達されたことが分かる。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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辰年5月15日 / 冊子 275頁/原整理番号 107-16
辰年五月十五日、上原休兵衛が門司伊兵衛・肥後少三郎へ、自分は上原源右衛門の跡目を命じられて同家を相続したので、今度は国分刑部左衛門の弟・八郎左衛門を自身の猶子にしたいと内談している旨を申し述べ、そのとおり許可されるよう取り次ぎを願った口上覚。追記により、この願いは七月三日に伝達されたことが分かる。
年未詳3月27日、延享4年4月12日、宝暦9年2月28日ほか / 冊子 275~277頁/原整理番号 107-17
三月二十七日、上原休兵衛が大峯彦兵衛へ、先代上原源右衛門は高麗渡海の際に島津義久の側へ召し置かれて渡海せず、帰朝後、渡海衆への加増とは別に『雨之御旗』に関する使者役の加増として五十石を与えられ、兵具方を勤めたとする家伝を伝え、由緒調査の際には関係文書を見せてほしいと求めた覚書。伊作田を上原氏の本名とする伝承も掲げるが、系図がないため実否は不明と明記する。付属系図は尚益・尚清・尚傳・尚志・尚賢・尚續・尚方らをたどり、延享四年四月十二日に尚益が養子尚清へ家職を譲ったこと、宝暦九年二月二十八日に尚傳が家督を継いだこと、平田家への養子、上原林悦の別家、松元・岸・餅原各家との婚姻などを記す。
寛政11年4月(保管注)、同月9日使便差越(注) / 冊子 169~170頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0039
従前の男子届出は一定せず、届出済みの子だけで届順を数え、夭亡等の子を抜いたため、二男大膳太夫、三男雄五郎、四男時之丞、名のない五男、六男為次郎、七男乗之助、蓬之進という順になったと列記する。未届で亡くなった子は公的届順と系図が異なるため、他所へ照会した結果、届の有無と実際の順位をそのまま書き出してよいとする。このたび生まれた男子は三男届が相当とし、沙汰次第に従うと記す。末の朱注は右2通を寛政11年未4月に江戸の勘解由殿から本田休兵衛へ渡し、同月9日に使便で送ったので、後年の見合せ用にここへ留め置き、本書2通は下へ貼付したと説明する。本文の届順説明と二通の受渡・保管情報を分ける。
嘉永七年十一月十八日(聞取経過)、十二月廿九日(書状。年は前後から補う) / 冊子 161~162頁/原整理番号 219の2/整理ID 219-1
江田五郎左衛門が上村休兵衛・汾陽彦次郎へ、篤姫の実父母に関する内用の取扱いを伝えた十二月二十九日付書状。嘉永七年十一月十八日に竪山武兵衛の用件で出向いた際、父母について公辺その他は先般の扱いを保ち、御内実の訳は御記録奉行まで承知して帳面にも記録するよう命じられたと述べる。豊後にも沙汰の趣旨を伝え、家老座で改めて保管扱いを確認したので、白木御文書の篤姫父母関係書付と一緒に封じて置き、後年虫干し等で奉行が拝見する際には経過を伝えられるようにすることを求める。別紙には実父を島津安藝忠剛、実母を島津助之丞久丙の娘と記す。外封にも宛名と江田の名を付す。
天明七年未十月十五日(朱) / 冊子 983頁/原整理番号 2662の2/整理ID 2662-2
照会は届いた。何らかの指示があれば早々に知らせると返答し、帳留書抜一通は同役中で確かに受け取ったと報ずる。
閏六月十日(本文、年次不記) / 冊子 1044・1045頁/原整理番号 2822の2/整理ID 2822-2
五月十三日の問合せに対し、御子三人の実母を島津式部少輔の密子とする旨は、前年七月の内意と翌申年三月の勘解由の書付によって承知したと答える。密子の事情や系図上の具体的な扱いまでは知らず、指示どおり記すつもりであったが、後日の疑義を避けるため再調査する必要を認める。一方、重ねて直接尋ねると差障りになる場合もあるので、まず国元で調べ、見解を大炊へ伝える方法を提案し、中将の御事でもあるため照会を差し控える場合は家老へ相談のうえ、詳細を後便で知らせるよう求める。閏六月十日付、七名連署。
九月十日(使便での朱書返答、年次配列は寛政元年) / 冊子 1045・1046頁/原整理番号 2822の6/整理ID 2822-6
実母の取扱いに関する問合せを承知し、送られた別冊と元日帳留の抜書も受け取って確認したと答える。家老へ内意を申し上げ、別冊等を渡したうえで、兵庫の家老座からの返答次第で追って知らせるとし、当面の帳留や御系図、付札のとおりの理解について回答する。末尾の記録は、九月十日の使便で朱書のとおり返答し、帳留の別冊と朱書返書を添えて江戸へ送ったとする。九名の記録奉行の連署を掲げる。
文禄二年八月二十二日 / 冊子 261~262頁/原整理番号 14
新納旅庵が、幸侃らの相談で一向宗への入信を諸侍には禁じ、下位の者には許すという方針に反対する。朝鮮滞在中の義弘・義久を待つべきだとし、違反者への厳罰を求める。
「寛永十七年」三月二日 / 冊子 103頁
北郷久加と山田有栄が国元の重臣らへ、島津光久一行の大坂到着と伏見へ上る見込み、江戸からの飛脚到着を報告した連署書状。飼育を命じられた熊の子が死んだ件、琉球から来た南蛮人二人と付添二人、七島の平良島へ来た唐人三人を長崎へ送る件を伝え、追而書では塩屋休兵衛を召し置いたことと扶持方が未決であることを知らせている。
文政6年11月17日(本文の未年) / 冊子 678頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1955
白木御文書八番箱中の橋口今彦の覚書。当家軍術一巻書、当家軍術三略守書、雲気書、雲気図の計四巻について、以前から手元に置かれていたものを吉井七之丞から樺山休兵衛へ渡し、白木御文書八番箱に納めるよう記す。原文は「未十一月十七日・橋口今彦」で、巻物の写し方が一致しない旨の朱注を伴う。書物の名称と保管経路を伝える記録であり、四巻の本文そのものは掲載しない。
九月19日認、当月11~16日戦況と18日見聞、先月22日出兵等の回顧 / 冊子 599~600頁/原整理番号 779の3/整理ID 779-3
会津城下在陣の今井一兵衛・梅北休兵衛が九月十九日に認めた報告。米沢藩の謝罪歎願で世子一人と従士十五人ほどが大惣督宮仁和寺様の新発田陣営へ出向き、宿陣前を歩行して通った様子を伝える。積み込んだ弾薬は届きつつあるが遠路で不自由とし、乗船した英船の帰りには封書を託す予定を述べる。会津方面は先月二十二日に白川口兵が急に進み、連日の激しい砲戦ののち十六日に城下へ入ったと報じる。当十九日に新潟に着いて新発田へ回り、仁和寺宮の上方への移動予定や米沢口へ出張する薩州三小隊等の配置を伝える。十八日に会津城下へ回って死骸が多く、士小路と市中が焼けて道具が散乱しているのを見たと述べる。東西の情勢はまだ分からないとし、戦死手負の人数は別紙で届いた旨を承知したと記す。戦況・見聞・評価は両人の報告として示す。
延徳4年11月13日 / 冊子 255~256頁/原整理番号 98
延徳四年十一月十三日、島津忠昌が肝付をめぐる時儀について、前日に上原藤左衛門尉を遣わし、さらに伊地知周防守重貞を派遣したため、両人から詳細が伝えられるはずだと知らせた書状。当地の時宜を伝えるため相良方にも書状を送り、周防守が申し述べる趣旨に従って細部を伝えるよう求め、二度申し送ったので重言はしないと結ぶ。写本は伊地知越右衛門家蔵で、上原休兵衛家にあったものを、菱刈孫兵衛の文書らしいと聞き、休兵衛へ懇望して書写したとの伝来注記を伴う。『旧記雑録前編二』一七一三号文書と同一とされる。
観応年間、島津忠昌代、島津義久(龍伯)代、島津忠良(日新)以来、島津貴久代、関ヶ原合戦時 / 冊子 256頁/原整理番号 100
『諸家大概記』所収の藤原姓上原氏由緒。観応頃に市来院伊作田を領した伊作田兵部太夫道材・中務丞尚経と足利直冬の御教書などを挙げる一方、伊作田から上原への称号変更が、一時的な名乗り替えを経たのか後に上原へ固定したのかは不詳とする。島津忠昌代に上原藤左衛門が奉公し、島津義久(龍伯)代に上原筑前守が兵具奉行を務め、その子孫上原休兵衛を嫡家とする。筑前守の弟・上原長門守尚常の系統は島津忠良(日新)以来近習として仕え、貴久代から地頭職、のち飫肥移地頭となって九州御退治で軍労を尽くし、代々地頭を務めたといい、近年の上原長次郎をこの筋とする。さらに上原伝左衛門の先祖が島津家久に付属し、上原貞右衛門が関ヶ原で島津豊久とともに戦死したこと、曽於郡衆中の上原掃部左衛門が系図を所持したこと、上原勘助の先祖が長門守に従って飫肥へ移住したこと、上原八郎左衛門が休兵衛二男家であることを記す。
年月日未詳 / 冊子 153~154頁/原整理番号 38
足利義昭―義尋を起点とし、義尊・常尊・義在以下へつなぐ永山休兵衛家系図。義尋は南都大乗院門首で、義尊・常尊の母は播磨人古市胤栄の娘とする。母は義尋との間に二子を生んだため南都に住めず、京都に居て高山を号し、のち後陽成天皇に仕えて三位局と称し、道晃法親王を生んだため、先の二子も天皇の子分とされ帝王系図に載るという。義在は足利義昭が泉州蟄居中に生まれ、隅州へ流された際、在地の永山信濃守から名字を借りて永山を号し、千寿・右近・休兵衛、知足軒道性を称した。妻を永山氏女とし、末尾に義房(彦右衛門)―義比(休兵衛)の系線を掲げる。
年月日記載なし(安永四年十一月十三日の四手組の文脈) / 冊子 476頁/原整理番号 1310/整理ID 1310
前後の代初犬追物稽古の四手組に属し、独立した年月日はこの表には記さず、下手組の名簿を示す。名簿の列記順は嶋津又七郎(一の付記)、嶋津十太右衛門、伊勢新五郎、倉山藤覺(一の付記)、川上四郎(二の付記)、鎌田源八、後醍院八郎(一の付記)、喜入休兵衛、西左太郎(一の付記)、嶋津直衛、嶋津内匠である。検見・喚次欄には川上十郎左衛門、相良仁右衛門を記す。名簿の掲載人名は11枠で、検見・喚次欄の二名は別に保つ。一・二の付記は一疋・二疋を示す。付記のない者もいる。
安永四年十一月十三日 / 冊子 476~477頁/原整理番号 1312/整理ID 1312
論之犬稽古手組之事と安永四年十一月十三日を記し、論之犬稽古手組の名簿を示す。名簿の列記順は嶋津又六郎(一の付記)、嶋津十太右衛門(一の付記)、本田孫右衛門、喜入休兵衛、鎌田源八、後醍院八郎、嶋津彌市郎、倉山藤覺(一の付記)、蒲生正左衛門(一の付記)、川上四郎(一の付記)、嶋津又七郎(一の付記)、西左太郎(二の付記)である。検見・喚次欄には川上十郎左衛門、相良仁右衛門を記す。名簿の掲載人名は12枠で、検見・喚次欄の二名は別に保つ。末尾の包紙には安永四年未十一月十三日、代初稽古大追物の手組四通を帯刀殿から渡され、写し置いたことを記す。また白木御文書五番箱と百十中ニアリとの所在記載があり、箱の後の八/ハに見える字は原記載として留保する。
複数年次:天明七年の照会と寛政元年の往復、天明八年書付の引用等 / 冊子 982頁/原整理番号 2662/整理ID 2662
白木御文書六番箱中三十六ノ上。蓋紙の題は御子様方御誕生年月・御母附之儀付、御内々奉伺置候趣帳留書抜、江戸御記録所。一巻に七枝の問合・返書・覚書を収め、明姫・富之進・亀五郎・感之介・雄五郎の出生年月日、実母、養子・養女の扱い、公辺届出と内密な記録の差、系図・家譜への記載方針を照会する。末尾朱記は寛政元年七月二十三日御使便で江戸詰本田休兵衛から一冊が送られたことと、送付時の問合書を別に留めたことを記す。
寛政元年六月二十一日(目録)。内包に天明八年三月二十日書付、末尾同年六月二十二日署日 / 冊子 985・986頁/原整理番号 2662の4/整理ID 2662-4
寛政元年六月二十一日、河口転の用件で本田休兵衛が出頭した際、於房に関する母附の理解について、先に勘解由へ照会した書留の写しを提出するよう求められた。先の記録では、雄五郎が天明二年五月十九日卯上刻、亀五郎が天明四年二月二十八日夜子上刻、感之介が天明五年八月十七日朝辰上刻に生まれ、実母はいずれも式部少輔殿密子とされ、雄五郎は公辺に天明七年に八歳として届けたとする。本田は同役と相談してこれを勘解由へ照会し、前年三月に篠原善兵衛へ渡され国元御記録所にも記録してある旨を報告する。末尾は酉六月二十二日、本田休兵衛署名。朱注は、式部少輔の養女で密子と同一人と心得ること、密子を女と改める案、明姫・富之進も追って照会することを補う。
寛政元年酉十月(表紙)・寛政十一年五月九日(収納) / 冊子 1043・1049頁/原整理番号 2822/整理ID 2822
御子様方の母付と明姫の身柄について、江戸からの問合せと国元の取扱いを集めた一冊。表紙は寛政元年酉十月、白木御文書六番箱中三二六下とする。巻末は、本田孫九郎の江戸詰めから本田休兵衛への交替に当たり、四月九日の使便で書付を送り、以前から江戸で照合していた往復問合書とともに後年の参考として記録したと述べる。寛政十一年五月九日に白木六番箱へ収納したと記す。
五月十三日(本文、年次不記) / 冊子 1043・1044頁/原整理番号 2822の1/整理ID 2822-1
雄五郎・亀五郎・感之介三人の実母を島津式部少輔の「密子」とする件で、大炊から於房の出自を尋ねられたため、先の指示に基づいて答えた経緯を伝える。江戸では密子という事情を承知しておらず、系図へそのまま母付を記すと後に疑義が生じるおそれがあると指摘した。留守居の照会にもまだ返答がなく、養女等の関係かもしれないので、国元でも調べ、改めて勘解由へ問い合わせ、大炊とも相談して後便で知らせるよう求める。五月十三日、本田休兵衛。
六月二十三日(本文、年次不記) / 冊子 1045頁/原整理番号 2822の4/整理ID 2822-4
於房を島津式部少輔の女として扱う件や、御子の誕生年月・母付の不明点について勘解由へ照会した経緯を知らせる。三人の実母を密子とする先の書付に誤りはないが、密子の件はかなり以前のことで、今から式部少輔の養女として公儀へ願い出ることは難しく、養女という事情は内輪で承知する扱いとされたという。ただし、そのままでは系図への養女表記も難しいため再び書付で尋ね、明姫・富之進の御事も一緒に確認するよう家老へ申し入れたので、決まり次第知らせるとする。六月二十三日、本田休兵衛。
〔天保九年〕十一月(包紙受渡日は天保九年十一月十三日) / 冊子 21~22頁/原整理番号 29/整理ID 29
島津伊勢久浮が、霊龍院の位牌再安置と瑞輪寺・大圓寺の供養や寄附の取扱いを伝えた申渡書。瑞輪寺の火災後は屋敷から遠いため再興せず大圓寺へ置いていたが、瑞輪寺にも位牌一基を再び安置し、以前の祠堂銀百枚に加えて金百両を寄附するとする。貸付運用の利息によって月牌・遠忌などの法事を寺役で行い、内々に白銀五枚を贈り、番頭を御代参させる。盆の水向料は銀二枚、灯籠一対を付け、塔頭恵遠院には墓所掃除等の費用として米五石を毎年納める。従来の恵遠院への供養・修理等の扱いは改めない。一方、大圓寺に置く位牌は矢張只今までのとおりとし、仏餉米二十石は取りやめ、代わりに仏餉料として新たに銀百枚を寄附し、法事を行わせて御代参は要しない。五廟以前の遠祖の位牌には香奠銀三枚を納めるが、大圓寺には直接参詣した折に拝礼し、瑞輪寺には遠忌に代参を出す扱いを区別し、毎年の盆には特別の思し召しで当番頭を代参させる。十一月付で、包紙は同月十三日に川上孫左衛門の取次で上村休兵衛へ渡されたことを記す。
嘉永七年三月十九日(書状)、四月十二日(外包受渡)。先月十九日・翌廿日・廿二日の経過 / 冊子 152~153頁/原整理番号 215の9/整理ID 215-7
豊後が虎寿丸と近衛家信君の縁組を整える使者として上京した経過を、筑後・石見・駿河・伊織へ内用で報告する書状。先月十九日に中川讃岐守と面会し、信君を貰い受け、虎寿丸との縁組の許容を願う口上と手扣書を届け、翌二十日には右府・大納言・小書院で御目見えして返答を受けたと記す。太守も返答書を中川から受け、伏見へ戻り、二十二日には使者を介して御礼の鮮鯛一折を進め、諸事が整ったとする。正式な表向の願立や手続はあるが、まだ内々の段階なので大目付以上、側用人・側役・使番・記録奉行へ伝えるのが適当と述べる。まず縁組が済んだ喜びを伝え、別冊の手続書付を参考に送る。寅三月十九日付で豊後が署す。外包は嘉永七年四月十二日、筑後殿から上村休兵衛へ渡し、帳留を承知して写しを済ませ白木御文書十番箱へ納めたことを記す。
安政三年正月(本文)、正月廿一日(外包受渡)。応永三十二年正月廿一日(久豊逝去)、安永三年・天保十二年ほか(調査経過) / 冊子 167~169頁/原整理番号 233/整理ID 233
八代久豊の墓所と「義天」銘石塔・掘出骨の調査を述べ、混同を防ぐ処置を命じる文書。久豊は応永三十二年正月二十一日逝去、法号を義天存忠大禪定門とするが葬地が明らかでなく、安永三年に穆佐悟性寺の義天塚と伝える場所から骨を納めた甕、香炉や鈴が見つかっても確証が得られなかったとする。天保十二年に義天の二字を刻む石塔と笠石が出たため、旧文書・古老の伝承等を調べた。久豊の鹿児島での葬儀・法事、福昌寺の卵塔や御石塔等から廟所を検討し、去る丑年には上村休兵衛・榎本新兵衛を遣わして絵図と古い墓地の情報を集めたと記す。一方、火葬と土葬、後世の埋葬、損傷して読めない文字、記録の乏しさ等を挙げて、石塔の由来と掘出骨の身元は分けて慎重に扱う。石塔の文字を磨り消して寺内へ埋め、別途石塔一基の建立を命じ、穆佐中で奉尊し祭式を入念に行う扱い、寺家への書付と後年紛れない保管を示す。寺社奉行・穆佐地頭は石塔の取扱いと場所を吟味して寺家へ伝え、書付を取り調べ申し出るよう求める。本文末は正月・豊後、外包は安政三年正月二十一日に上村休兵衛へ渡して白木御文書十番箱へ納めたと記す。
年月日未詳 / 冊子 693~694頁/原整理番号 722
国分士本田十左衛門の日記から、正月十四日に自分たち三人が出立し、安楽休兵衛・奥原笹之允ら五人が同行、残りも翌日・翌々日には出立する予定だったことを記す。季安は三人を町田甲斐守・佐土原狩野介・本田十左衛門とし、国分衆の到着後に諸事を差配するため先に出水へ派遣されたと、六日条の記事を引いて考証する。
安政5年11月18日 / 冊子 56~57頁/原整理番号 62
十一月十八日、御用人勤の北郷浪江らから季安へ、記録方の改革後の御用と書付の取扱いを伝える。上村休兵衛・伊藤彦助らへの取次や記録所の勤務にも触れる。
天明七年未九月十七日(年朱書) / 冊子 982・983頁/原整理番号 2662の1/整理ID 2662-1
明姫から雄五郎までの出生月日と実母について系図・家譜編纂の参考となる命令がないため、同役で相談し七月十三日に川上が主計へ内々に照会した。八月十六日に勘解由から問いがあり、当地ですぐ分からない件もあるので、照会覚書を江戸へ持参して江戸詰記録奉行へ伝えるよう指示された。国元からも各方へ問い合わせることを承知し、帳留書抜を送るので、機会をみて照会し指示を知らせてほしい。勘解由は多忙で上方からの沙汰がない場合もあるので心得として伝える。
天明七年未七月十三日(年朱) / 冊子 983・984・985頁/原整理番号 2662の3/整理ID 2662-3
系図・家譜の編集に必要な子女の生年月日と母の記し方を五項目で問う。明姫は兵庫の娘として中将の養女となり、本丸大奥で養育、又之進との縁組予定、牧姫の次の順序とされたが、生年・実母・その父姓が未詳で、加治木留守居へも照会した。安永二年六月八日江戸で山岡市正から兵庫へ、加治木家の血筋相続のため妊婦を預け男子なら養子とするよう伝え、婦人を千萬殿同立で国元へ送り、加治木屋敷に引き取り、十二月二十七日午刻に明姫出生とされた事情を付す。富之進は天明元年十一月四日江戸出生、母は鈴木彌藤次の娘という内輪情報と、内証様を実母と心得るよう安房が命じた扱いを記す。亀五郎は天明四年二月二十八日江戸出生、母は石州津和野亀井家臣石井新六の娘という回答と同年七月二十九日死亡の通知があるが表向き未承知。感之介は男子出生の内々通知と四月十一日酉下刻死亡の通知があるが生年月日不詳。雄五郎は先年出生と通知され、富之進の弟、明姫の次、公辺届出と十九日登城祝儀予定を伝えられたが出生年月日・母が未詳。以上の系図への記載方法と逐条の指示を求める。
寛政元年酉閏六月五日 / 冊子 986・987頁/原整理番号 2662の5/整理ID 2662-5
前年三月に受けた書付だけでは系図の出生年月日・母附が定まらず、追って回答を受けることになっていたため、改めて内々に問う。雄五郎・亀五郎・感之介の生年月日・実母表記を再掲する。三人の母について、内々には養女と心得る一方、表立って養女とはできないと聞いており、式部少輔密子と系図に書けば後年疑念が生じるので、養女と記すことの支障を問う。明姫は兵庫の娘として養女に取られ、又之進との縁組、本丸養育、牧姫の次の順序とされたが、出生年月日と実母・その父名の記載方法を問う。富之進は天明元年十一月四日出生、母は鈴木彌藤次女と聞く一方、内証様を母とする通知があり、いかに書くかを問う。国元同役へも内分に知らせたいと述べる。朱返答は河口を通じ中将に達し、雄五郎以下の出生の記載、母を女と改める扱い、明姫を兵庫直子、富之進を内証様出生とする説明を含む。
寛政元年酉閏六月五日(同日別稿) / 冊子 987・988頁/原整理番号 2662の6/整理ID 2662-6
前枝と同旨の母附照会を、河口の口達と付札を受けた別稿として記す。雄五郎・亀五郎・感之介の出生日時と母の記載を再掲し、密子と記すと後年疑いを生じるため養女と記してよいかを問う。亀五郎・感之介の朱注は、実際は式部少輔の娘で妾腹、表向き出生の届出がないため女と書くよう説明する。感之介欄では、系図本文の形式どおり一般に女と記せば差支えないか、改めて確認を求める朱書を含む。明姫について、本行朱注は兵庫直子とするよう説明するが、張紙では実は兵庫久徴の娘、母は島津采女久芳の娘と記し、加治木家記録との照合を求める。富之進は内証様出生との回答に対し、母記載は意外で念のため再照会し、相違ないとの七月十八日本田の書留を張紙に記す。
本文年月日なし。末尾朱記:寛政元年酉七月二十三日送付 / 冊子 988・989頁/原整理番号 2662の7/整理ID 2662-7
明姫出生に関する加治木留守居への照会内容を記す。安永二年六月八日江戸で山岡市正から兵庫へ、惟新以来の加治木家の血筋を維持し、嫡子がないので妊婦の子が男子なら養子として与える趣旨が伝えられた。婦人は妾として預け、千萬殿とともに国元へ送り、到着後加治木屋敷で引き取るよう命じ、同年十二月二十七日午刻に鹿児島加治木屋敷で明姫が出生したと記す。朱注は初めから加治木家へ渡す書付はなく、この趣旨は心得として伝えられたこと、出生届は極内分で行い、懐妊等の記録を不要として国元で取り消すよう伝えた事情を補う。末尾には寛政元年七月二十三日に本田から一冊が送付され、送付時の問合書を別に留めたとの朱記がある。
七月九日(朱書、年次不記) / 冊子 1044・1045頁/原整理番号 2822の3/整理ID 2822-3
母付の件について送られた返書の内容を承知したとし、こちらでも調査に取り掛かっているので、事情が分かり次第、追って知らせると答える。七月九日付の朱書による返信。
寛政元年酉七月二十三日(年次は目録、本文に酉) / 冊子 1045・1046頁/原整理番号 2822の5/整理ID 2822-5
於房を島津式部少輔の女として扱うよう内々に承知した際、子女の実母についても問い合わせ、河口転の伝えた先の指示どおりと確認したと知らせる。口達と書面で意味が違うように見えた点も付札のとおり承知するという。明姫・富之進の実母に関する件は一切書面に記さず、奥向担当の家老とも相談して扱うよう求める。また、明姫の出生前に兵庫の子として下すと指示した旧件については、最初からその指示はなかった扱いとして帳面から消除するよう御記録所へ命じてほしいと述べる。これは史料に記された当時の記録処置の依頼である。
寛政十年二月二十四日(本文) / 冊子 1046・1047・1048頁/原整理番号 2822の7/整理ID 2822-7
明姫を兵庫の実子として扱う指示と、出生前の旧指示との関係をめぐり、当時の照会・帳面処置・書付捜索の経緯を列記する。安永三年六月八日、江戸で山岡市正から、兵庫の奥女中が懐妊し男児なら養子として下す旨が伝えられた旧件や、その後は明姫を兵庫の直子として扱い、旧書付・帳留を不要とする指示が出たことを記す。加治木役人川上左織への口達、書付を探したが見つからず十月に再捜索・報告した経緯も述べる。さらに御子様方の母付について、家老の指図に基づく記載の可否や、国元で決まった扱いを照会し、将来用事が生じた際に事情を知らないと支障があるため回答を求める。
寛政十一年四月九日(目録・往復記録) / 冊子 1046・1047・1048頁/原整理番号 2822の8/整理ID 2822-8
明姫の身柄について、兵庫の直子とする指示と異なる旧件が帳留に残ると食い違いを生じるため、関係書付・帳留を取り寄せ、不要な旧記録を焼捨・消除する処置を伝えた経緯を朱書で記す。明姫は兵庫の本腹の子として扱う旨や、記録所から兵庫方へ内密に伝達したこと、加治木側の記録処置・捜索の首尾を補う。子女の母付についても既定の取扱いを注記し、江戸と国元の往復問合せを後年照合できるよう書き留めたもの。
11月22日 / 冊子 400頁/原整理番号 362の1
『平田宗直加子立曳付』所収、十一月二十二日の浦水手送状。茂兵衛尉・喜左衛門・利兵衛尉・孫左衛門を船頭として掲げ、作左衛門以下の水手を列記する。小浦から立てた合計三十一人の浦水手を受け取るよう、永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ命ずる。
寛永18年2月12日 / 冊子 715~718頁/原整理番号 747の4
有馬陣立人数差出として加久藤衆の人躰・被官・夫丸を主従95人と掲げ、帰還日別に氏名と人数・在陣日数を計算する。正月十六日から二月八日・十五日・十八日・十九日、三月二日・八日までの各組のほか、正月十四日出発者、夫丸11人、自力で参加した3人を記す。延べ日数3686日、うち66日は自力衆3人分とする。寛永十八年二月十二日付、谷口・伊地知連署。
年月日未詳 / 冊子 752~755頁/原整理番号 794
村田市助家蔵の模本から、三原喜太郎・里村十左衛門や谷山・加治木・財部・末吉・大崎・志布志・頴娃・指宿・飯野・高原などの人躰、卒者・夫丸、個人別の随伴人数と着津日を記す。飯米は十日または二十日分を渡し、長嶋ふくら蔵元と米津で分けて支給する例もある。末吉衆中の検見崎兼堯について、家系・移住と島原出陣時の行動を元禄七年の系図申出により補注する。末尾は二十三日条へ続く旨の注。
二月朔日 / 冊子 46頁/原整理番号 67-2
二月朔日に鹿児島へ参る衆28人の覚。四位与四郎以下、北原吉左衛門尉までを列挙する。文書67-1が出発を記す蒲生衆28人に対応する。
元禄十三年三月十三日 / 冊子 210頁/整理ID 708
島津綱貴が山口勘兵衛・薩山數馬へ、国元から江戸へ差し越す船に乗る家来の上村監物・鎌田傳兵衛・清水彌兵衛・遠矢金兵衛について、休兵衛・讃良權左衛門と同様に伊豆国下田番所の通行を認めるよう依頼し、四人の印鑑を提出した書状。
年未詳11月26日 / 冊子 273~275頁/原整理番号 107-15
霜月二十六日、上原大蔵尚演が上原源兵衛へ、先日の来訪時は病中で十分相談できず残念だったと詫び、系図について税所次郎右衛門へ尋ねて改めて報告し、正月の再訪時に詳しく話したいと伝えた書状。尚演は病状が日増しに回復していることも喜んで報じる。朱書の季安按は、この書状と休兵衛自記に系図がないことから、上原氏に系図が伝わらず、藤原流への接続や古文書中の中原姓も後世の誤りではないかと疑い、曽於郡止上権現の社家に古系図が保存されていたものの、季安自身が十六、七歳頃に上原形部へ頼んで見た内容を覚えておらず、古文書との整合も直接再確認しなければ評価できないとする。付属系図は尚敷・尚盛・尚朝・尚治・尚輔らの家督、養子、婚姻を記し、寛永九年の伊豆守の食禄百五十一石、尚敷の百二十二石、万治二年十二月の百三十八石八升などを掲げる。
文政7年1月(本文は正月のみ) / 冊子 683頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1970
太守島津斉興の筆による諭達。先年やむを得ず滞府し、久しぶりに帰国して風俗を見聞したところ意にかなわない点があったと述べる。大御隠居重豪の介助と、取締りに関する従来の指示を振り返り、去辰年にその介助が断られた後も旧来の趣意を守って万事を取り計らうよう求める。一門・重役には日頃の行状、年中の出仕、家格に応じた勤めを怠らず慎重に務めることを命じる。申聞けを受けた側は心得違いを避け、事があれば留主居や家老へ申し出て、取締りの行き届くようにする。本文末尾は「正月」のみで、朱注は文政七年申二月三日に内蔵殿から文書を保管するよう指示を受けた旨と、畔山休兵衛が白木御文書八番箱に納置した旨を記す。
寛永廿年九月十五日 / 冊子 152頁/原整理番号 103
寛永二十年九月十五日の「初日一番四角之外」犬追物手組。家久公三疋、島津兵庫頭三疋、吉田長四郎一疋などを掲げ、検見を島津十郎左衛門尉、喚次を吉田休兵衛尉とする。