島津忠豊(豊久)書状
(慶長四年)九月六日 / 冊子 433~434頁
島津忠豊が伊勢兵部少輔に、九月二日に鹿永口へ少数の敵が現れ、配下が交戦した件を早くも聞き届けて書状を寄せられたことへ謝す。戦死者の弔いにまで心を配られたことを感謝し、近日中の出馬を待つと伝える。
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(慶長四年)九月六日 / 冊子 433~434頁
島津忠豊が伊勢兵部少輔に、九月二日に鹿永口へ少数の敵が現れ、配下が交戦した件を早くも聞き届けて書状を寄せられたことへ謝す。戦死者の弔いにまで心を配られたことを感謝し、近日中の出馬を待つと伝える。
(慶長四年)九月六日 / 冊子 434頁
島津忠豊が伊勢兵部少輔に、庄内の件を上使が無事に調停しようとしたが成立しなかったとの知らせを了承したと伝える。自身も山田方面へ出向き、現地の様子は頴娃主水正が見聞しているので詳述せず、委細は老名衆から申し上げるとする。
(慶長四年)九月十一日 / 冊子 434頁
島津忠豊が伊勢兵部少輔に、書状と樽・肴などの贈物を受けたことへ謝意を述べる。前日の攻撃で多数の敵を討ち取って勝利したとの報を喜び、戦況は使者が実見しているため詳述せず、適切に披露してほしいと頼む。
(慶長四年)十月十五日 / 冊子 460頁
奈須祐実が伊勢兵部少輔に、同名の惣番父子が高橋殿から成敗された件について書状を受け、名字を同じくするため途中まで出向いたものの、非道な関与はなかったと弁明し、従来の薩摩家への奉公と忠平の認知を述べる。追書では、伊集院源二郎の籠城を京都からの和平方針に沿って早く鎮めるよう求め、遠方のため出仕できない代わりに鷹の羽一息を進上する。
(慶長四年)十月廿四日 / 冊子 461~462頁
島津義弘が伊勢兵部少輔に、幸侃が重い状態だったため度々問い合わせ、弥兵衛尉の返答で早く快気したと知り、さらに市八左衛門尉が上京したことを喜ぶ。現地でも祈念を怠らず、義弘方でも種々祈念しているので一層回復するだろうと述べ、敵が疲弊していても油断せず、又八郎にも警戒を伝えるよう求める。
十月廿五日 / 冊子 464頁
奈須祐実が伊勢兵部少輔に、同名の惣番父子が高橋殿から成敗された件について、自身に非道な関与はなく従来から薩摩家へ奉公してきたと弁明する。追書では、伊集院源二郎の籠城を京都からの和平方針に沿って早く鎮めるよう求め、遠方のため出仕できない代わりに贈物を進上する。本文はNo.937と同文として省略されている。
(慶長四年)十二月朔日 / 冊子 470~471頁
島津忠豊が伊勢兵部少輔に、尊札を拝受した礼を述べる。志和地の堀川が二日で成り、高城表から出た敵を追い入れて多数を討ち取り、麓まで放火した勝利を喜ぶ。天神山の陣取・普請が整い、近日あいの垣まで命じたことから、志和地もほどなく入手できると見込む。上方は変わりなく、山田の様子や病気で在陣中に帰った源七郎についても問い、龍様への取り成しを頼む。配置した人数は必要時に夜中でも参上させると伝える。
(慶長四年)十二月晦日 / 冊子 480頁
新納旅庵長住が伊勢兵部少輔の側近へ、山口勘兵衛が再び庄内へ下向することを知らせる。源次郎が事情に反して軽率な返答をすれば本人のためにならないため、一人を派遣して様子を申したいとの意向が織田之母から伊集院図書へ伝えられ、山口と受取方の双方へ書状が付されたという。旅庵は伊集院図書からも連絡するよう求められ、急な使者の下向に合わせて大坂から書状を送るので、この事情を心得るよう伝える。
(慶長五年)三月七日 / 冊子 518頁
滝重時が伊勢兵部少輔に、志和利城の攻略に続いて六か所の端城が落去したことを祝し、都城もほどなく決着すると見込む。また天下太平となった後は上使の意向に従って伊集院源次郎を助命するのがもっともだと述べ、庄内平定後の披露を依頼する。
七月廿一日 / 冊子 901頁
相良長泰が伊勢兵部少輔へ、本田助允の知行に関する嘆願はこれまで家老中へ申し入れたが取扱いが進まなかったと説明し、助允の依頼に応じて改めて取成しを求めた。
慶長九年四月廿三日 / 冊子 931頁
土持親経が伊勢兵部少輔へ提出した起請文。世情が変転しても二心なく奉公すること、他方からの策謀や讒言を直ちに報告すること、互いに隠し事なく協力することを誓い、違反時には諸神の罰を受けると記す。
(慶長九年)十一月廿六日 / 冊子 944頁
友枕如貴が伊勢兵部少輔へ、水指二つを門跡へ進上して喜ばれたことを報じる。翌春に龍伯が上洛すれば忠恒は在国できると喜び、若輩の左衛門を引見して用向きに召し使うよう依頼した。
(慶長十二年)五月十三日 / 冊子 116頁
慶長十二年五月十三日、島津惟新が京都・江戸方面の政務や家臣の奉公・召し置きについて情報を求め、伊勢兵部少輔に詳細な報告と物資手配を依頼した書状。
(慶長十七年)八月十七日 / 冊子 375頁
慶長十七年八月十七日、安藤直次が伊勢兵部少輔へ、将軍の当地御成と両御所の機嫌、伊勢兵部少輔の参府・謁見、唐物進上について伝えた書状。
慶長十八年三月廿日 / 冊子 393頁
慶長十八年三月二十日、日向国飯野杉津留村のうち高二十石と屋敷一つを伊勢兵部少輔貞昌へ宛行い、今後加増する旨を記した三名連署の知行目録。
(慶長十八年)十月十二日 / 冊子 420頁
慶長十八年十月十二日、伊勢貞知が伊勢兵部少輔へ、帷子三領の贈答に謝し、公方の命による上洛延期、判紙と文言の調整、門跡から命じられた大峯での護摩祈祷、翌春の上洛見込みを報じた書状。
(慶長十八年)十月十五日 / 冊子 420~421頁
慶長十八年十月十五日、奈須祐金が伊勢兵部少輔へ、高橋同名玄蕃父子が討ち果たされた件と遠路からの見舞いに触れ、紀州・日向境の山を守ってきた経緯を述べ、今後の憐愍と取成しを求めた書状。
(寛永三年)四月廿四日 / 冊子 6~7頁
島津家久が伊勢兵部少輔へ、現地の諸事を少しも油断なく処理するよう重ねて命じた書状。文頭欠損のため前段の具体的案件は判然としないが、自身の扱いも同様でよいかとの問いと、後便を期す旨が残る。
(寛永五年)七月十六日 / 冊子 65頁
島津家久が伊勢兵部に、先の用件の返答・帰着状況を尋ね、早く下向するよう求める。息災を喜び、暑中の贈物への礼を述べ、別件の品が戻ったかも問い合わせる書状。
十一月廿八日 / 冊子 153頁
本田親存が伊勢兵部少輔らに、加治木付近に知行を得られれば幸いであり尽力してほしいと依頼した書状。隠居の身で知行がなく思うようにならない事情を述べ、先方に知行の取り口があれば少しでも手を付け、過分にならないよう適切に調達してほしいと求め、詳細は源左衛門に託す。
慶長四年閏三月十三日 / 冊子 368頁
医師甑武政が、命じられた養生と調薬に専念すること、道三・少弐のもとで医道を究める際にも御前や国元の事情を他人へ漏らさず、風聞は十分に確かめて報告することを誓う。また龍伯・武庫・忠恒に別心なく奉公し、世上が変動しても縁者・親類・兄弟を離れて忠節を尽くすとする起請文。
(慶長六年)九月十五日 / 冊子 782-783頁
木下宗古が皮五十枚の拝領に礼を述べ、鎌田政近の上洛交渉が意向どおり整ったことを祝う。島津諸将の上洛・対面や帰国をめぐる近衛前久・内府側の見解を詳報し、早期の無事解決を促す。
(慶長七年)四月十五日 / 冊子 809頁
伊勢如貴が、門跡の病気を遠路から見舞われたことに礼を述べ、曲直瀬道三の薬で回復したと報じる。内府への礼について相談を求め、鹿皮十枚を贈った書状。
(慶長七年)十二月廿八日 / 冊子 868-869頁
伊勢如貴が、歳暮の礼として三井寺に滞在する門跡へ昆布一折と酒樽一荷を進上し、自身が受け取って取り次ぐと伝える。小袖を贈られた礼を述べ、門跡への礼が届くよう取成しを依頼した。
慶長十三年七月廿一日 / 冊子 177頁
慶長十三年七月二十一日、大村与左衛門尉が小笠原宗仲から相伝された細工の技法を、子一人以外へは伝えず他言もしないと諸神仏に誓った起請文。成正院を取次とする。
(元和二年)四月十七日 / 冊子 625頁
徳川家康が四月十七日に七十五歳で死去したことを急報し、駿府の状況を確認して追って詳報すると伝えた山口直友の書状。
(元和二年)九月十二日 / 冊子 633~634頁
本多正純が父正信の死去に際して島津家久から贈られた香典銀百枚に謝意を述べ、他からの香典も受け取っていないため返却すると伝えた書状。
十二月廿八日 / 冊子 334頁
伊勢貞知が、歳暮の礼として門跡へ昆布一折と樽一荷を進上し、三井寺で受け取ったことを伝えた書状。自身も小袖一領を拝領したことに謝意を述べ、年内の参上を約した。
(寛永十一年)六月十六日 / 冊子 431頁
伊勢貞知(友枕斎)が、私宅への来訪と音信・贈物に礼を述べ、公用のため直ちに参上できないこと、依頼された品を選んで差し上げる旨を伝えた書状。
六月十三日 / 冊子 23~25頁
島津久元が、五月中に届いた四通の書状へまとめて返答した長文書状。上洛・知行・扶持、家臣や奉公人の処遇、諸役・贈答・縁組、船便など多数の政務について指示と見解を伝える。問題となった者は扶持を放して追放し、詳しくは摂州老の下向時に相談して返答するとする。
九月四日 / 冊子 124頁
相手領内の御上が寂しく過ごしていると聞き、自領へ招いて慰め、軽い食事を差し上げたいと申し入れ、紀州とも内々に相談のうえ返事を求めた案文。使者は萩原万吉。
七月一日 / 冊子 381頁
玄奥の懇切な対応を評価し、今回の情勢は平時と異なるため真偽を問わず情報を注進するようよく申し聞かせ、千左衛門尉の件も玄奥へ適切に伝えるよう指示した島津忠恒書状。
(慶長十二年)十月十日 / 冊子 131頁
慶長十二年十月十日、水野甚左衛門が伊勢兵部少輔へ、前日夕刻に駿府城二丸で火災が発生し、松平定勝が夜中に駆け付けたこと、本丸は無事であることを報告し、奥州様へ伝えるよう求めた書状。
(寛永三年)十月十日 / 冊子 22頁
酒井忠世・土井利勝が、又三郎の熱海湯治願いについて両御所の意向を伺い、早々に湯治してよいとの許可が出たことを伊勢兵部少輔へ知らせる。
(慶長六年)八月二日 / 冊子 769-771頁
鎌田政近が上洛後の状況を詳報する。細島出船から室津・京都・大坂・伏見への行程、諸大名・奉行との取次、城普請、島津家の進退交渉、伊集院久治・山田有信の扱いなどを記し、慎重な対応を求めた書状。
六月六日 / 冊子 587頁
島津陸奥守が将軍に拝謁して馬を拝領したことを祝し、伏見への到着・滞在や今後の進退について連絡した本多正純の書状。
(寛永九年)十一月十三日 / 冊子 323頁
島津家久が、世上への配慮と諸人の風評、宗門に関する沙汰、他国との相談や江戸の落書、礼儀、図書頭新八郎の出立・病気、江戸にいる家臣間の情報共有、来客応対などについて心得を命じた条書。
(寛永十一年)七月六日 / 冊子 434頁
伊勢貞知(友枕斎)が、小袖に関する問い合わせと紙の表裏について答え、肌理のよい面を表とし、粗い面に本阿弥らが文字を書くこと、翌日に伺候する旨を伝えた書状。
慶安四年四月廿一日 / 冊子 136頁
長く病床にあった将軍徳川家光が四月二十日晩に死去したことを急報し、江戸城から重臣らが下って供奉した悲痛な状況を伝えた。諸説・流言が生じ得るため十分心得、国中の仕置をこの時こそ厳重に行うよう命じた四名連署状。
十月朔日 / 冊子 186頁
六月二十八日付書状を八月二十二日に受け、仲賢に関する問題を三司官と熟談し、諸人の目安をもって申し上げたと報告した。仲賢が王位は日本の代になり迷惑だと語ったとの嫌疑について、鹿児島で神文を提出した以上そのような発言はないと否定し、事情を理解するよう求めた書状。
十月六日 / 冊子 186頁
筑後へ派遣した者が帰着し、幕府上使が二日に柳河、三日に高瀬へ到着し、当日は佐敷付近まで進み翌日には当地へ着く見込みだと知らせた急報書状。
寛永十七年九月二十二日か / 冊子 72~73頁/原整理番号 27
新城が伊勢兵部少輔へ、子の相模守久倍をめぐる寺領の話、寛永八年の屋敷侵入事件と家臣処分、相模守の不審な死の噂、孫の大和守久章の出奔、知行と菊千代丸の扶助を訴える。文中の寛永八年十月二十五日は屋敷侵入の年次であり、書状末尾は辰九月二十二日。
(慶長四年)六月廿七日 / 冊子 392~393頁
島津忠恒が中務大輔に、その方面で多数を動員して尽力し、山田城を切り崩した働きを賞する。討死・負傷した手勢の軍労にも言及し、さらに攻め詰めることが肝要であるため、川上左近将監と伊勢兵部少輔を派遣して協議させると伝え、慰労の印として刀一腰を贈る。
(慶長四年)六月廿九日 / 冊子 395頁
島津忠豊が図書頭に、庄内へ出陣して山田城を攻め落とした勝利を祝い、忠豊への言葉と腰物の拝領に謝意を示す。図書頭方の手勢に戦死者が出たことへの配慮にも礼を述べ、今後の軍事行動は川上左近将監・伊勢兵部少輔と協議して両使へ伝えたので、披露するよう求める。
(慶長五年)正月三日 / 冊子 495頁
伊那令成が島津中書の側近へ新年を祝う。前年暮れに中書が内府徳川家康へ小袖を贈り、家康が喜んで直書を発したこと、令成自身も小袖一重を受けて感謝していることを伝える。西郷弥左衛門・山口勘兵衛・伊勢兵部を派遣するので、領内を安全に通して確実に到着させるよう頼み、惟新へは大坂から直接参るため別状を出していないと述べる。
(慶長五年)十月九日 / 冊子 590頁
島津義弘(惟新)が少将殿こと島津忠恒(家久)側へ、龍伯こと島津義久へ申し上げるべきことがあるため喜入大炊助を召し連れるよう求め、差し支えがあれば別人を選ぶよう指示する。翌日の来訪を早朝に待つとし、太田飛騨守方の使者や日向からの来訪者もいるので相談したいとして、比志島国貞・伊勢兵部少輔・桂太郎兵衛尉・喜入大炊助の同道を求める。
(慶長五年)十一月十五日 / 冊子 615頁
島津義弘(惟新)が、白坂与竹・有馬次右衛門尉の帰着と、立花方の使者がもたらした情勢を忠恒に伝える。その内容は島津方に有利と見込まれ、事態の決着に関わるため、翌朝早く富隈へ赴いて談合するよう求める。伊勢兵部にも立花方の意向を聞かせて富隈へ向かわせるとし、強風時は陸路を使い油断しないよう戒める。
年月日未詳 / 冊子 896頁
島津家久譜は、山口直友の書状が将軍宣下と秀頼婚礼の祝賀のため忠恒の上京を勧めたことを記す。また本多正信・直友の内談に基づき休復にも上洛して訴えるよう促し、忠恒が伊勢兵部貞昌を遣わした結果、休復が上京を承諾した。
(慶長八年)七月十四日 / 冊子 900-901頁
本田助允の書状案。忠恒の上洛に際し、軍役を勤めていない自身の知行が公儀に召し上げられるか、改めて宛行われるかについて取成しを依頼する。伊勢兵部少輔への書状取次も求めた。
(慶長十年)六月廿五日 / 冊子 21頁
山口直友が、島津忠恒の在洛中の御前での待遇が申し分なく、関東下向も不要とされ帰国を許されたことを伝えた書状。忠恒が献上した刀は本多正純の取り成しで納められたと報じ、御前の様子は伊勢兵部少輔から聞くよう述べる。