鹿児島県庁達書(困窮士族救助米規則)
辛未10月15日鹿児島県庁 / 冊子 850~851頁/原整理番号 1072の3/整理ID 1072-3_1
持高二十五石以下で生計が困難な士族に救助米を支給する基準を定める。役職・収入・出稼ぎ・旅行等がある者の除外、家督相続や家族の扱い、名簿・届出の手続を示し、十一月十日から支給する。辛未十月十五日鹿児島県庁。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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辛未10月15日鹿児島県庁 / 冊子 850~851頁/原整理番号 1072の3/整理ID 1072-3_1
持高二十五石以下で生計が困難な士族に救助米を支給する基準を定める。役職・収入・出稼ぎ・旅行等がある者の除外、家督相続や家族の扱い、名簿・届出の手続を示し、十一月十日から支給する。辛未十月十五日鹿児島県庁。
享保三年十二月廿五日 / 冊子 382頁/整理ID 1025
吉貴が本地院の寺領二十石に五石を加増し、合計二十五石とする知行目録。薩州郡山の地を挙げ、家臣三名が判を据える。
享保三年十二月廿五日 / 冊子 382~383頁/整理ID 1026
吉貴が先年寄附した寺領に五石を加増し、薩州郡山の地について普賢院に渡す知行目録。家臣三名の判を付す。
享保三年十二月廿五日 / 冊子 383頁/整理ID 1027
吉貴が寺領に五石を加増し、薩州吉田の地について曼荼羅寺に渡す知行目録。家臣三名の判を付す。
9月摂津(本文);当7月19日の戦死への言及 / 冊子 377頁/原整理番号 540の3/整理ID 540-3
感状一通、切米十五石、金五枚を軍賞として賜う九月摂津の通知。当七月十九日の長州勢襲来時、野村勘兵衛が隈之城物主として担当の堅場で防戦して戦死した働きに満足し、これらを拝領させると記す。宛先は親族中。本人の戦死報告に対する親族への賞とし、年限・実支給状況や金五枚の現代額は記されない。
明治2年五月12日知政所(年は朱書) / 冊子 668頁/原整理番号 867の2/整理ID 867-2
諸士の分地別立は、これまで本家に高二十石余を残し、十石以上を分地する扱いであった。しかし、家がむやみに増え、本家も零落するおそれがあるという達の判断から、今後は本家に三十五石以上を残し、十五石以上を分地する条件へ改める旨を関係先へ伝えるよう求める。朱明治二年己五月十二日、知政所。本家に残す高と分地の高を別の条件として保持し、石高を実収穫・土地面積・通貨に換算せず、全分家の禁止や実際の許可件数は補わない。
明治2年七月(日不記)知政所(年は朱書)/米渡は二五月九十二月の四季 / 冊子 686頁/原整理番号 896の2/整理ID 896-2
諸郷の小隊長・半隊長・分隊長の俸禄は、城下同様に各官等級へ応じて与える。世禄二十五石以上については城下五十石以上の扱いに準じ差し引く旨を、会計総裁・軍務局総裁と関係先へ伝えるよう求める。但し米渡は二月・五月・九月・十二月の四季に、米穀掛出納奉行の手形をもって最寄りで渡すとする。朱明治二年己七月、知政所。世禄の二つの条件・官等級・四季を区分し、差引率・俸額・受給者数、現代通貨や実渡完了は補わない。
明治2年十月9日知政所(年は朱書) / 冊子 704頁/原整理番号 922の2/整理ID 922-2
外城士族の分地別立は、本家に軍役高十五石以上を残し、五石以上を分地する者に認め、十五歳以上で軍役等を勤める年齢となってから願い出させる。隠居・家督・継目その他、従来地頭または旧領主が処置した事項は今後も地頭へ委ねる。養子は嫡庶・血統連続を第一に選び、同格に適当な者がなければ格違いの嫡庶または血統連続の者を願う際、伝事に関係図を添える。諸郷士族の家筋を追って治定し、名簿を編み到後年の追補を続けるよう求め、分地別立等の取扱いを地頭に委任する。朱明治二巳十月九日、知政所。石高・年齢・願出・血統条件を区分し、全家の即時分立や名簿完成は補わない。
明治2年十月22日知政所(年は朱書) / 冊子 707頁/原整理番号 925の2/整理ID 925-2
兵器隊を設けたため、俸禄を一等六石、二等五石、三等四石、四等三石六斗と定め、関係先へ伝えるよう求める。一等から三等の三行に原「右三行軍功」との注がある。朱明治二巳十月廿二日、知政所。等ごとの額と軍功注を区分し、官等や実人数、四等の無功断定、年額月額の支給周期、実支給総額は補わない。
元応三年正月廿八日 / 冊子 476~477頁
守部氏女が重枝名内の水田五段を、相伝証文とともに米十五石五斗で臺明寺へ永代売却した売券。売却田の所在・所当、代米受領、証文引渡しを記し、親族・相続人の違乱時には別田で担保することを約す。
正中三年二月十九日 / 冊子 546頁
山田道慶が諸三郎へ、谷山郡山田・上別符両村の散取米十五石と年貢・得分を譲り、覚信との和与状に従って知行するよう定めた仮名書きの議状。
天正21年正月17日 / 冊子 664頁
大隅国正八幡領のうち加治木にある浮免分七十一石四斗八升六合三勺について、四十五石の請負として定める。風害・干害・水損があっても収納を果たす一方、満作の年でも四十五石を超えて徴収しないと取り決める。 検地で田畠・山林などが確認されてもこの条件を変えないと保証しており、年貢請負額を固定して双方の負担限度を明確にした連署状。
正月17日 / 冊子 664頁
文書番号の直下には「案文」とのみ記され、前掲No.1043が肝付中将側の証状案であることを示す短い注記。 独立した本文は収録されておらず、正八幡領加治木の浮免分・四十五石定請に関する具体的内容はNo.1043と目録表題から確認する必要がある。
年月日未詳 / 冊子 799~800頁
義弘が前年分の扶持米と城米の受領状況を記し、増田長盛・早川長政・寺沢広高・石川久五郎らの取扱分を列挙する。城米三千石、五千七百五石、九百五十石を合わせ、御蔵米総計九千六百五十五石と算定する。 福島正則と毛利秀元へ提出された請取状で、朝鮮在陣軍を支えた大量の兵粮米と、豊臣政権奉行間の受け渡しを数量で追える兵站史料。
文禄五年二月八日 / 冊子 8頁
伊集院幸侃が春口土佐守へ、薩州市来湯田村内の五石を与えた宛行状。先年、川内へ出向いた際に御輿を担いだ働きへの恩賞として知行を認めた。
十一月廿八日 / 冊子 37~38頁
高岡の小田原源右衛門が、豊臣秀吉が川内泰平寺へ下向した際、龍伯(島津義久)の指図により祖父但馬と父源太兵衛が御輿を廻して奉公し、その忠節により高五石を賜った由緒を、名寄を紛失したため古書物に基づいて申し立てた上書。
文禄五年十二月二日 / 冊子 55~56頁
伊集院幸侃が蓮光坊に、これまでの奉公を賞して日州諸県郡野尻・三ケ山内の五石を充行った領知目録。
慶長四年十二月廿日 / 冊子 478頁
種子島久時と山田利安が安楽大炊助に、日向国諸県郡大崎の岡別符内十五石五斗二升二合と、大隅国肝付郡柏原村内四石四斗七升八合、合計二十石を加増として配当することを定めた連署目録。
慶長五年九月六日 / 冊子 573~574頁
島津忠長・比志島国貞・鎌田政近が連署し、薩州鹿児島郡武村の浮免五石一升をはじめとする加増地を梅北与左衛門尉へ宛行う目録。庄内で自力百日在陣した功による加増で、田畠の反別と石高を列記する。
慶長五年十二月八日 / 冊子 721頁
島津義弘(惟新)が、大少路村内の籾五石を従来どおり他と混同せず、泰平寺へ寄進する旨を認めた寄進状。
慶長六年正月九日 / 冊子 741頁
佐多忠充が、関ヶ原合戦で命を顧みず主君を守護した狩野介の忠節と働きを称え、田畠五石を当毛とともに与え、今後も忠勤に励むよう命じた感状。
慶長六年五月二十九日 / 冊子 763頁
新納忠元が、大口の坂本周辺にある田地を複数の者へ割り当て、各筆の所在地・面積と領知人を列記した合計五石一合の領知目録。
慶長七年七月廿二日 / 冊子 827-828頁
島津忠長ら四名が連署し、薩摩国日置郡伊集院下神殿村の浮免五石二斗五升を安藤左近允へ加増した目録。先年の川内行幸時、途中で大閤の輿を担ぎ上げた働きへの褒美とする。
(慶長十二年)閏四月廿四日 / 冊子 114頁
慶長十二年閏四月二十四日、島津惟新(義弘)が木裏大山神に立てた願文。神舞を立てること、七湊の塩井、御宮造営、知行五石の寄進を立願し、巣鷹を得たなら、これらを速やかに成就すると誓った。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 533~534頁
大隅国肝付郡串良岡崎村内の浮免五石を下之御諏方へ宛行い、その高に応じて公役を勤めるよう命じた四名連署宛行状。
慶長十九年七月廿一日 / 冊子 536頁
日向国諸県郡深歳村内の土地五石を法華嶽寺へ知行として宛行い、公役を勤めるよう命じた四名連署知行目録。
慶長十九年八月五日 / 冊子 541頁
大隅国曽於郡重久村内の浮免三十五石余を止上神社の神領として寄附し、諸役を免じた四名連署寄進状。
元和四年十一月廿三日 / 冊子 680頁
高野山谷上の蓮金院を島津家の宿坊とし、銀四十貫目余で買い取った寺地・紀伊国安良見村三十五石に薩摩国出水郡百石を加えて計百三十五石を永代寄進し、当家の祈念・先祖位牌・寺中修営を怠らないよう定めた連署達書。
寛永五年四月八日 / 冊子 58頁
島津家久が初めて上洛した際、平島休右衛門尉の父母が宿を提供して厚くもてなしたことへの恩賞。父に米二十石、本人に七石を与えていたが、今回八石を加増し、以後は年十五石の扶持とする。
寛永十一年十二月朔日 / 冊子 462頁
包丁役に関係する三名の知行について、切米返地として十五石・三十石・二十一石を割り当て、役替わり時の返還を前提としつつ、当時の知行逼迫を理由に二十五石を加えて合計五十石を支配させる旨を記した覚書。
寛永十二年正月十二日 / 冊子 470頁
父福永藤四郎の成敗後に召し出された福永長兵衛について、旧知行百十七石のうち既に下された二十五石へさらに二十五石を加え、合計五十石を支配させることを定めた曳付。
(寛永十五年)十一月五日 / 冊子 826頁
大口へ召し移される者に新地として三十五石を与えるため、菱刈方面で相応の知行を配分するよう命じ、先祖以来の地頭職と近年の困窮を考慮した特例であると申し渡した書状。
寛永十六年十月廿三日 / 冊子 57頁
島津光久が高野山蓮金院を島津家の宿坊とし、家久が興隆させた由緒を確認した寄進状。買地三十五石と薩摩国内の知行百石を寄附し、旧約を違えず先祖の日牌や寺檀の修補を永代怠らないよう定めている。
寛永十六年十月廿三日 / 冊子 57~58頁
島津久慶ら六名が、高野山における島津家宿坊の由緒と蓮金院への改替を示した条書。義弘・家久が蓮金院と寺領三十五石を代銀四十貫目余で買い整備したこと、廻向院が豊臣秀頼の大坂籠城に加担したため寛永十六年に宿坊利用を禁じたことを述べ、領内の参詣者を蓮金院に付け、廻向院や他坊への宿泊を禁じ、違反時は届け出て処罰するよう定めている。
(承応三年)十二月五日 / 冊子 249~250頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0529
島津家老四名が蓮金院の申し分へ答え、紀伊国内三十五石と薩摩国出水郡内百石の寺領寄附を示す旧証文二通を確認したうえ、寺の修営は寺領内で行うべきため通常の助成はしないが、先住以来の借銀の元銀五貫目は助成するとした覚書。今後は寺領収入内で人数・仏事を賄い新たな借銀をせず、島津家の祈祷と先祖の忌日供養を怠らないよう命じる。
正徳二年四月朔日 / 冊子 1頁/整理ID 1
島津久明ら家老五名が、志布志即心院には島津家六代太守氏久公とその御簾中の石塔・位牌が安置され、寺領十五石が付されていることを確認する。寺領が悪地で年貢が十分でなく仏供・寺役にも支障があるため、怠慢なく仏供を備え如法に勤行するよう山西堂へ命じた連署証状。
享保八年四月十六日 / 冊子 612頁/整理ID 1541
吉田宮之浦村と郡山村のうち高二十五石の土地を挙げ、花尾権現再興に伴う寄附知行として示す。
宝暦七年八月二十六日(記事) / 冊子 656頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1965
重年は初め、公族島津兵庫久季の養子となってその家を継ぎ、島津玄蕃貴儔の娘を娶った。彼女は忠洪を産んで亡くなり、法名を正覺院殿貞範妙雅大姉といい、加治木長年寺へ葬られた。その後、重年は家兄重統の家を継ぎ、忠洪も元の家を離れて重年の後を継いだ。忠洪は実母の追善を薩府へ命じ、宝暦七年八月二十六日、正覺院殿の霊牌を萬燈院へ改めて安置し、寺僧に点眼供養を修めさせた。日牌料として毎年米五石を寄せ、多数の祭器を備えた記事。出典は重豪公御譜。
明和五年六月十三日 / 冊子 203頁/原整理番号 521/整理ID 521
六月十三日、正覺院殿の霊牌を福昌寺の霊屋へ遷したことを記す。正覺院殿には重年室・貞範妙雅大姉の号と重豪の真母の付注があり、以前はその霊牌を恵燈院へ安置していたという。同日、川上久馬久致を代参とし、恵燈院への歳給廩米五石を附して、正覺院殿の齋食に充てる。重豪公御譜中の記事で、供養に用いる米は五石と記される。
安永九年十一月三日 / 冊子 603頁/原整理番号 1711/整理ID 1711
桜島燃焼について先に届け出た後の諸所損失を列挙した覚書。永損は高六百七十五石余、当損は一万七千六百四十七石余、救米は米三千三百六石。汐揚屋敷四百十七か所、汐揚家七百九十八軒(潰家百六十八軒・半潰家六百三十軒)、土手・道一万千三百八十間余、石垣千二百三十七間余、川筋六百七十間余の損失を記す。人の怪我と牛馬の死はなかった。安永九年十一月三日。数量は原文単位のまま保持する。
天明四年正月~二月(後日の追記あり) / 冊子 720頁/原整理番号 2038/整理ID 2038
宗信の実母妙心院が前年臘月から病み、薬療も効かず、天明四年正月二十一日に本府山下邸で七十四歳で死去したことを記す。於嘉といい、継豊の次妃で、継豊没後に妙心院と称したとの原注を伴う。法名は妙心院殿実法道徹大禅定尼。参勤途上の重豪へ、同日急使二人を防州花岡駅に追遣して凶報を伝えた。二十四日に遺体を棺に納め、二十六日夜に山下邸を出棺し、一門、島津久定・久当、家老・若年寄・大目附らが焼香して従い、福昌寺客殿に安置した。二十九日には宮之原通直が重豪の代理で焼香した。島津久起が木主を奉じ、肝付兼満・島津久備・入来院定馨・定代・渋谷貫風が棺に従って紼を執り、福昌寺住持円山の引導で、同夜良英寺に葬った。良英寺の境内が狭く参列者を収められないため、闍維の儀は福昌寺で行ったと注記する。二月八~九日に福昌寺で中陰の法要を修し、木主・影像を良英寺に納めた。冥福のため米五石・銀十枚を寄附し、後にそのうち米三石・銀五枚を妙心院に、残り米二石・銀五枚を良英寺に配した。理由は「餘靈不齊」と記すが、具体的な事情は明記されていない。重豪公御譜所収の葬送記事。2045号書状は二十三日付で本文に今日午ノ刻とあり、2038記事の正月二十一日死去と日付の異同がある。
文化11年10月(年は目録)。再造は天明戊申冬と記す / 冊子 447頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1385
重豪公御譜中。先に天明戊申の冬、封内出水郷で米津天神社(出水注)を再造したことを述べ、今冬10月に田禄を「十五石貳斗九舛三合七夕五撮」として天神領に定めたと記す。年は目録文化11年。社の再建と今回の田禄設定を分け、原数量の細単位夕・撮まで保持する。重豪の意によるという末尾を採録し、天明年号の年数、田の地番・面積や収穫実績を外部から補わない。米津の原名称を目録の米ノ津と照合しても本文表記を無注で変更しない。
〔天保九年〕十一月(包紙受渡日は天保九年十一月十三日) / 冊子 21~22頁/原整理番号 29/整理ID 29
島津伊勢久浮が、霊龍院の位牌再安置と瑞輪寺・大圓寺の供養や寄附の取扱いを伝えた申渡書。瑞輪寺の火災後は屋敷から遠いため再興せず大圓寺へ置いていたが、瑞輪寺にも位牌一基を再び安置し、以前の祠堂銀百枚に加えて金百両を寄附するとする。貸付運用の利息によって月牌・遠忌などの法事を寺役で行い、内々に白銀五枚を贈り、番頭を御代参させる。盆の水向料は銀二枚、灯籠一対を付け、塔頭恵遠院には墓所掃除等の費用として米五石を毎年納める。従来の恵遠院への供養・修理等の扱いは改めない。一方、大圓寺に置く位牌は矢張只今までのとおりとし、仏餉米二十石は取りやめ、代わりに仏餉料として新たに銀百枚を寄附し、法事を行わせて御代参は要しない。五廟以前の遠祖の位牌には香奠銀三枚を納めるが、大圓寺には直接参詣した折に拝礼し、瑞輪寺には遠忌に代参を出す扱いを区別し、毎年の盆には特別の思し召しで当番頭を代参させる。十一月付で、包紙は同月十三日に川上孫左衛門の取次で上村休兵衛へ渡されたことを記す。
〔天保九年〕十月(年は目録による) / 冊子 22~23頁/原整理番号 32の1/整理ID 32-1
井上逸作・半田嘉藤次・近藤隆左衛門が瑞輪寺へ、霊龍院殿の位牌再安置と供養・寄附の取扱いを申し渡した書。寛延元年三月の火災後は屋敷から遠いため再興せず菩提所大圓寺へ置いていたが、今回瑞輪寺へ位牌一基を再安置し、以前の祠堂銀百枚に加えて金百両を寄附する。寺役で月牌・遠忌の法事を行い、内々に白銀五枚を贈り、番頭を代参させる。盆の水向料は白銀二枚と灯籠一対、塔頭恵遠院には墓所掃除などの費用として米五石を毎年納める。霊屋・墓所・破損修復などは寺役で賄い、供養や修復の費用を別に申し出ないよう命じる。役僧交代や位牌の持退などの際の手当は証文へ詳しく記すことを求める。五廟以前の遠祖の盆・月次には代参を行わず、霊龍院は遠忌の代参を設け、毎年の盆には番頭を代参させると伝える。十月付。
嘉永元年申四月(本文申四月)、四月十日(写しの回覧伝達) / 冊子 95~96頁/原整理番号 141/整理ID 141
給地高改正に伴う分地・別立と借銀返上を扱う本文群。無禄の家が難渋して本家も衰微し家の産業を失うことを防ぐため、御小姓興で継高五石以上を分地する願いを認め、寄合以上や小番・新番・御小姓興の二男以下の別立では、本家持高のうち五十石以上を分地・附属する願いを認める。郷士の所高五十石持越と御小姓興の養子願いにも条件を示し、別立した者が当然に本家へ戻ることを避ける。高の差上で所務から返すとされていた小普請銀・利銀の滞納者については、差し上げた高を返下し、滞納利銀は免除、本銀は成文分を納め、納め難い者は早く願い出て年賦返上を認めるとする。小普請の高の取り扱いは利銀免除と別だと注す。二分銀・国役銀・利銀の滞納者にも、持高等を返して滞納利銀を免除し、本銀は納付または年賦返上とする。改革中の恩意に感謝して軍役方の分限に応じて勤め、支配中へ漏れなく早く伝えるよう命じる。末尾に四月十日の大番頭座印・竹内善蔵による写しの伝達と本文返納を記す。
3月(本文年・日不記);包紙:安政7年申3月 / 冊子 227~228頁/原整理番号 311/整理ID 311
左衛門から渡された家老連署書付の写。慈徳院・圓徳院に各百五十石あった仏餉高を、各銀百五十枚へ引き替え、利足銀各一貫目を年々渡すとする。智光院の仏餉米三石は銀三百二十四匁一分二厘、年々の利足は二十七匁二分二厘六毛、正覺院の五石は銀五百四十匁二分、利足は四十五匁三分七厘六毛と記す。御判物・御書附と家老添書はこの銀額へ改め、四霊の仏前その他の儀礼は格別に減少する趣旨とし、仏餉等を利足で賄い、掃除等を怠らぬよう住持へ命じる。米の高は表方へ差し出す扱いとし、福昌寺への伝達・取扱を寺社奉行に申し渡す。本文三月、左衛門・筑後・伯耆・但馬・登・式部の六名。包紙に安政七年申三月、白木御文書十番箱中・百九番。
元治元年甲子8月18日茂久御判;子9月5日感状授与注 / 冊子 377頁/原整理番号 540の4/整理ID 540-4
先月十九日の長州勢襲来で、亡父野村勘兵衛が隈之城一組の物主として公家御門を警衛し、多数の敵と遭遇して防戦し戦死した働きに感じ入り、切米十五石・金五枚を宛てて優證する感状。元治元年甲子八月十八日茂久御判、野村熊太郎殿宛。子九月五日にこの感状を与えたとの注を持つ。親族宛軍賞通知との対応を示すが、同額の記載を重複支給と判断しない。
明治2年十一月22日知政所(朱年)/十一月軍務局の条文を所収 / 冊子 712~713頁/原整理番号 934の2/整理ID 934-2
十一月軍務局条文は、外城の聞見・時勢理解に関する原評価を述べ、軍務局学問所の師員寮へ各外城から地頭・副役が一人を選んで出府させ、漢学方学寮にも配して武文を修行させる。四ツ・八ツ時の間は軍務局に出席し世上事情を探り、郷々へ事情や取締りを伝達して地頭等が成行を報告し、兵士の出府にも関わるよう求める。入寮者の軍役高二十五石以上は原「自分失脚ニ而罷出」と記す。原「右以下」は一日白米六合、内三合を糧餉方通帳で渡し、残り三合は郷人民の出費を要さず地頭が別段差繰りして継続、半年交代とする。朱十一月廿二日知政所が関係先へ周知する。閾値・時刻・額・交代・支給方法を区分し、実入寮数や現代時刻換算は補わない。
9月会計局/9月知政所(朱注明治3年) / 冊子 760頁/原整理番号 978の6/整理ID 978-6
当地士族の持高の多少に応じる俸禄の支給方について、「高直」を願い出る際、五拾石以上または五拾石以下への出入がある場合は、本人だけでなく二男・三男・末子まで何の奉公に勤めているかを書いて申し出るよう定める。高直の免許に関する書付は、米穀掛出納奉行が会計局へ出し、不正な取扱いを防ぐ。何秋から所務米を受け取るかも書き、諸郷や貳拾五石以上・以下の出入も同様に扱う但書がある。九月会計局、九月知政所の周知文を伴う。明治三年の朱注がある。「高直」は原語で、その制度の詳細は留保する。
明治3年閏10月(日不記、末署ママ注) / 冊子 768頁/原整理番号 984の3/整理ID 984-3
附士の分地別立は従来一定の持高以上で許していたが、旧基準の持高数字は字形が未確定である。本家の残高を定めないまま、十五石ほどの所持者から別立の願いが続き、本家・末家とも衰微するおそれがあるため、今後は本家に十五石以上を残して分地別立するよう命じる。明治三年閏十月。末署は知政所と異なる表記で、ママ注を伴う。