知政所達書(高齢者調査)
明治3年閏10月29日知政所 / 冊子 769頁/原整理番号 985の7/整理ID 985-7
人家来・町人・百姓・浦浜人等の男女で当年七十九歳以上の者について、姓名と年齢を間違いのないよう調べ、それぞれ一帳に仕立て、当十一月中に申し出るよう命じる。民事局から諸郷地頭へ申し渡し、関係向々にも知らせる。明治三年閏十月二十九日知政所。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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明治3年閏10月29日知政所 / 冊子 769頁/原整理番号 985の7/整理ID 985-7
人家来・町人・百姓・浦浜人等の男女で当年七十九歳以上の者について、姓名と年齢を間違いのないよう調べ、それぞれ一帳に仕立て、当十一月中に申し出るよう命じる。民事局から諸郷地頭へ申し渡し、関係向々にも知らせる。明治三年閏十月二十九日知政所。
〈宝暦五年〉 / 冊子 509頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1550
荻原が春井さまへ送った消息。保姫について「御歳御九才」「御姫様御名文字」と記した書付に、右のとおりであると述べる。包紙の伝達文では、その書付を相馬殿へ渡し、御かってんにて御ざ候まま、めでたく届けるよう依頼する。相馬には義岡久中の人名注がある。上書に春井さまへ、封と記し、扣の正文は家老座にあるとする。年は宝暦五年の朱注による。
天明七年未(刊注による。月日不記) / 冊子 994頁/原整理番号 2672の2/整理ID 2672-2
松平豊後守の明細書。本国は薩摩、上総介の嫡子、従四位下侍従、未年十九歳、生国は武蔵、居城は薩州鹿児島と記す。領知は薩摩国一円・大隅国一円・日向国の内、高六十五万五千石余とし、その外に琉球国十二万三千七百石を掲げる。未年は刊注によって天明七年とされる。
年月日未詳 / 冊子 608頁
永正十二年、島津忠隆が十九歳で守護職となったことを記す島津氏家譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 11頁
町田氏庶流の系図記事。町田三郎五郎が弘治元年四月朔日、隅州帖佐岩剣城の戦いで十九歳にして戦死したこと、兄の死後に新左衛門忠継が家を継ぎ、永禄十年の馬越城合戦で二十九歳にして戦死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 50頁
吉利氏の久定について、永正十六年の誕生、母が島津相模守忠幸の娘であること、島津貴久から吉利の地を与えられて居住したこと、弘治三年九月十二日に三十九歳で没したこと、法名舜公・号日山を記す系図記事。
年月日未詳 / 冊子 543頁
川上久園の自作文として、川上久辰が九歳で父を失った際、島津義久が孤児を懇切に遇し、忠臣の子であるとして正月元日に他の諸士と分け、久辰一人を特に賞したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 727頁
町田久倍の子・忠綱が文禄二年春に朝鮮へ出陣し、旧都で島津義弘・久保に拝謁した後、両公に従って巨済島の唐島へ移った経過を記す。 忠綱は唐島の陣中で病死し、享年二十九歳だったという、若い家臣の朝鮮在陣と最期を伝える譜記事。
年月日未詳 / 冊子 351頁
島津義久が北郷長千代丸に書状を与え、若年であっても自身で上洛するよう命じたため、慶長三年十一月に九歳の長千代丸が京都へ赴いたことを記す。続いて、その正文を掲げる旨を示す。
慶長十二年十一月八日 / 冊子 133頁
慶長十二年十一月八日、伊勢平左衛門貞成が肥前寺沢侯のもとへ使者として赴き、高畠仲兵衛と戦って唐津で死去したこと、および享年三十九歳と記す記事。
年月日未詳 / 冊子 37頁
北郷翁久の婚姻記事。寛永四年七月、島津家久の第三女と鹿児島の邸宅で婚礼を挙げ、太刀・鎧・鞍などを賜ったこと、翌寛永五年七月二十一日に十九歳で没したことを記す。
(寛永九年)四月廿八日 / 冊子 267頁
永井監物白元が島津久元に、先に述べたとおり五十歳以上の者は上下とも乗物を許されると伝え、久元が五十九歳以上であるなら案紙どおりの書状を本丸目付・西丸目付へ各一通持ち込み、相談すると述べた書状。
年月日未詳 / 冊子 301~302頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0652
久四郎忠清一流の系図に久岑を掲げ、虎松・又六と記す。慶安三年八月九日生、母は救仁郷天神坊頼重の娘で、光久の四男と明記する。明暦二年八月十五日に光久が虎松へ佐志三千石の遺領を賜り、自ら加冠して又六と号させ、島津市正忠廣が理髪を務めた。寛文八年十二月十二日死去、十九歳。
年月日未詳 / 冊子 900頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2441
島津光久が元禄七年十一月二十九日に七十九歳で逝去し、寛陽院殿と追号されたことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 907~908頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2477
幕医の診療後も島津光久の病状は次第に悪化し、元禄七年十一月二十九日申刻に七十九歳で死去して、寛陽院殿泰雲慈温大居士と追号されたことを記す記事。
〈宝暦三年〉四月二日 / 冊子 398頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1224
松平薩摩守重年が宝暦三年四月二日、善次郎を仮養子としたいと伺う。以前の御暇の際には弟の島津杢を仮養子として届けていたが、家督以前に先妻から生まれた善次郎が当酉年に九歳となった。家中一門とも一致し国許にいる善次郎を昨年から考えていたものの、虚弱のため見合わせていたところ、今は丈夫になったので今回の御暇に際して願う。妻に男子が生まれればその子を嫡子とし、善次郎はそれまで仮養子とする考えも示す。注記は四月二日に小笠原縫殿助を通じ西尾隠岐守へ提出し、八日に留守居山澤小左衛門へ伺いどおりの回答が伝えられた経過を記す。
〈宝暦三年〉四月二十一日 / 冊子 403~404頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1236
松平薩摩守重年が宝暦三年四月廿一日、堀田相模守・酒井左衛門尉・本多伯耆守・松平右近将監・西尾隠岐守の五名へ願う。今回の御暇により国許へ帰るが、今の妻との間に男子がいないため、在国中に不測のことがあれば、家督以前に先妻から生まれ国許にいる当酉九歳の善次郎へ、相違なく跡式を認めてもらいたいとする。重年公御譜中・正文在右筆所の注と重年御書判の表示を持つ。No.1224の仮養子願に関連する、在国中の不測時に備えた跡式相続願である。
明和七年春二月(日無記載) / 冊子 244頁/原整理番号 654/整理ID 654
始羅郡蒲生郷士嶺崎平左衛門の僕市右衛門を褒賞した記事。市右衛門はもと他国の産で、九歳の時に平左衛門の僕となり、ますます慎んで仕え、吉凶を問わず私財を出して主人を給養した。この年の春二月、その勤めを褒賞し、廩米十五苞を与えたとする。
明和七年八月二十一日出生~天明八年四月二十日死去(後年の付注を含む) / 冊子 268頁/原整理番号 713/整理ID 713
大信公(重豪)の二女敬姫を、宇都宮領主奥平大膳太夫昌男の縁女として記す。明和七年庚寅八月二十一日、江戸で出生し、幕府には五年戊子の出生として告げたという。実母は市田喜内貞行の女で名は於登世、母は甘露寺前大納言矩長卿の女と記す。母甘露寺氏の注は安永四年乙未十月二十六日の死去と法名玉貌院殿華山妙巌大姉を記す。実母市田氏の注は、安永五年八月二十二日に茂姫君の許嫁により禄を賜ったことを記す。額は「子六百石」とあり、冒頭字の解釈を留保する。御内証様と称し、天明三年五月に御前様に準じ、寛政元年八月六日に御部屋様と称した旨を続け、享和元年辛酉十月晦日に高輪邸で死去し、大円寺に葬り、慈光院殿仏心恵証大姉の法名、浄光明寺への安牌を記す。敬姫の本条は、明和八年辛卯十一月十八日に福ヶ迫へ謁したこと、九年壬辰二月十三日の首途、二十一日の府城発、五月十七日の芝邸着、六月に公夫人甘露寺氏の養女となったことを列挙する。安永五年丙申十一月二十七日、奥平九八郎昌男との許嫁が決まった。天明六年丙午八月、昌男が結納前に死去し、その旨を官へ報告した。敬姫は天明八年戊申四月二十日、芝邸で十九歳で死去し、大円寺に葬られ、法名は淨信院殿本因即妙大姉とする。付注は十月十二日の遺毛の福昌寺への帰埋、恵燈院への主の安置と銀二十枚による弔祭を記す。
安永六年丁酉十一月朔日(墓表)、同月癸亥(碑陰文) / 冊子 539~540頁/原整理番号 1501/整理ID 1501
題は太夫人島津氏墓表で、題の八字は本文の列にまたがって大字で掲げられる。既に葬ってから三十三年として、子の懋昭が墓表を立てたと記す。太夫人は諱都美、島津氏、右馬頭忠将の後裔で、家は代々垂水を領し麑府に居住した。父の名は貴儔、自称備前、老いて自号靜山翁、太夫人はその嫡女とする。先君に嫁いで二年で没し、延享二年十一月七日、十九歳、法名は正覺院殿貞範妙雅大姉、墓は隅州加治木の長年寺にあると記す。祖夫人から聞いた人物評として、温恭慈恵、上に仕え下を慈しみ、平居幽閑で言笑を慎み、操縵・書札を好み、世俗の紛華を好まなかったことを載せる。男子は懋昭一人で、母の没時には生まれて才二日だったと記す。その後の嗣位襲封と、母の慈顔を知るに及ばなかった悲しみを述べ、安永六年丁酉十一月朔日、男・従四位上中将薩隅日三州守兼領琉球国源懋昭記と署す。近侍掌務臣山田明遠が薫沐拜書したと記す。続く碑陰文は、墓表を作った公が知学事臣山本正誼に碑の陰を書かせたものとし、夫人は圓德公の元配で、公が初め公族島津久季の嗣となったためその邑加治木へ葬られたと説明する。公が爵を襲った後、夫人の主を福昌寺祖廟へ祔し、諸侯の礼で祭ったことを、母以子貴の義として述べる。末は安永六年歳次丁酉冬十一月癸亥、知学事臣山本正誼謹記。編者注は原碑による補入、原碑文十行と篆字の区別を示す。
天明七年正月十八日・廿八日・廿九日(本文の経過日付) / 冊子 921~922頁/原整理番号 2533/整理ID 2533
正月十八日に父重豪が隠居して国を斉宣へ伝えることを幕府に願い、二十八日に老中奉書を受け、翌二十九日に斉宣が本多豊後守助受と登城したと記す。白書院で大老・老中が重豪の隠居と斉宣の継封を許し、牧野越中守貞長が命を伝えた。斉宣と助受は受命後、大老・老中各邸に謝礼し、番頭と表方使者を若年寄・御側衆各邸へ遣わした。帰邸後は家老以下が祝い、袖判の書を側役に読ませて家老に渡し、父から家伝の譜牒と重器を譲られたと述べる。斉宣の実年齢は十五歳、幕府への申告は十九歳とし、若年のため重豪が従来どおり国政を執ることを幕府へ告げたと付記する。
天保4年春の中陰日(日未記載、本文に四月某日の帰葬) / 冊子 973頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0134
No.2704の附属資料「の4」、島津内匠久徳が献じた祭文。重豪を三州兼領琉球国源公・大信院殿栄翁如證大居士と称し、高輪邸で病に伏し医療が効かず二月三日に正寝で死去、翌日から執事が霊柩を奉じ、四月某日に薩府玉龍精舎へ帰葬したと述べる。中陰の日に族臣源久徳が追慕の情を告げ、領地の僧侶に供えを備えさせ尊霊を祭ると記す。韻文は幼少からの仰望と高い位階、雄名、徳、文武と学習・講説を讃え、八十九歳の死、山川を隔てる道、落花・流水・柳車・玉龍宝窟の寂しさを詠む。法幢と経声、草木に及ぶ追慕を述べ、供えを受けるよう願って「尚饗」と結ぶ。序文の死亡・帰葬は祭文の叙述として保持し、四月某日を八日などの具体的な日に置き換えない。久徳の献祭と僧侶への準備の指示も分ける。
文政6年3月29日(後書) / 冊子 666~667頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1929
重豪が飛鳥井・瀬川・花町・梅園・むめ溪・花崎の六名へ送った書状。前日の御臺様の神田橋屋形への立寄りに際し、重豪自身も伺候して御目見を許され、長年望んでいた御臺様への御礼を直接申し上げられた喜びを伝える。幼年からの折々の恩顧を振り返り、老後も厚く遇されたことを有り難く思う一方、最初は恐縮して十分に言葉を尽くせず、後から無礼がなかったか案じたと述べる。子孫にも御臺様の恩を忘れぬよう伝え、献上した御品と魚肴が無事に届いたかを尋ねる。結びでは手元の品を贈るので今後も取りなしを頼む。後書は文政六年三月二十九日の礼状とし、重豪の七十九歳、御臺様は重豪の三女で将軍家斉の御臺所と注記する。
安政6年2月7日(明細書);外包:4月朔日 / 冊子 209~210頁/原整理番号 288/整理ID 288
太守の明細書。安政六年二月七日、従四位下少将松平修理大夫茂久、未十九歳と記す。養父は故薩摩守斉彬、実父はその弟島津周防。本国・生国は薩摩、居城は薩州鹿児嶋、領地は薩摩国一円・大隅国一円・日向国の内、高六十万五千石余とし、別に琉球国について「外十二万三千七百石」を掲げる。包紙に安政六年四月朔日、伯耆殿から渡され白木御文書十番箱に収納した旨がある。各記載高は合算せず原欄の区別を保持する。
明治11年3月23日 / 冊子 976頁/原整理番号 1259の1/整理ID 1259-1
十九歳十一か月までの未成年者が家督を相続するときは、士族・平民を問わず親族または適任者を後見人とする。十五歳以上は親族の協議によって後見を免じてもよく、女子の家督相続にも同様の扱いを適用する。
建武五年四月八日 / 冊子 103頁/原整理番号 396
飢饉のため、うは太郎の母が九歳の子うは太郎を池端殿の家へ銭二百文で質入れした人身質券。翌九月中に銭を返せば請け戻すが、返済できなければうは太郎を永代の家人として召し取ることなどを定める。建武五年四月八日付。
年月日未詳 / 冊子 335頁/原整理番号 18
忠元の弓箭覚書が、伯囿が伊集院にいた時に郡山を警固し、八月十七日の夜に呼び出されて敵一人を討ったと記す。内城の近くで山口という者と刀で切り合い、その首を伯囿へ見せた。槍傷を負ったが、十九歳の初合戦であったという。
年月日未詳 / 冊子 436頁/原整理番号 2-5
『玉海』の文治元年十一月十三日条から、関東武士の入洛と、十九歳で未元服の北陸宮の記事を引く。季安の考証は、皇室の重宝吠丸・鵜丸・蒔鳩の伝来を検討する。源氏の重代の膝丸が吠丸と呼ばれたこと、保元年間の義朝による皇室への献上、平氏西海没落の際の流出、範頼による回収・奉献などを述べる。北陸宮の立皇論と義仲の意向にも触れ、朝家の守護と源氏の奉公の関係を考える。
文書日付:建武五年四月八日 / 冊子 475頁/原整理番号 七四五/整理ID TMP-P03-IKEHATA-ZASSHO-D0745
うはたらうの母が、九歳の子をいけはたとのへ用途二百もんに入れ置く。飢饉で自身と子が飢え死ぬためと述べ、二百もんを日頃の二くわん三くわんもんにも当たると記す。 「もしらい九月中に、ふほうなる事候ハゝ」という条件のもと、子を永代を限って相伝の御とのの人に召し取る旨を記す。 御用途は来九月中に「いちはいをもて、わきまゑ申候へく候なり」と記す。 九月中を過ぎる場合は、この状をはうけんとして子を永代相伝・服仕させる旨を別の条件節に定める。
年月日未詳 / 冊子 161頁
島津彰久室の譜記事。島津義久の二女で新城君と称し、永禄六年六月十六日に種子島左近大夫時堯の娘を母として生まれた。寛永十八年八月十五日に新城で死去し、享年七十九、法号を珠月浄珊庵主としたことを記す。
天明八年(朱書、月日不記) / 冊子 1013・1014頁/原整理番号 2734/整理ID 2734
敬の死去に際し、内々の香奠として白銀五枚を拝領したことを受け、重豪が藤崎へ礼を申し上げる書状。上々様の機嫌を喜び、まず受領の礼を伝える。敬の名に付された朱注には、戊申四月二十日に芝邸で没し、年十九とある。
文化6年6月17日家督・隠居、18日改名。文化元年10月4日元服、外包文化6年12月廿八日 / 冊子 317~318頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1006
白木御文書七番箱中46番、斉興と斉宣の明細書写2枚。冒頭から次頁にまたがり、薩摩国一円、石高60万5千石余と大隅国一円・日向国之内、別に12万3千7百石と琉球国を掲げる。斉興は本国・生国とも薩摩、文化元年甲子10月4日元服、従四位下侍従、文化6年己巳6月17日家督、居城薩州鹿児嶋、松平豊後守斉興、年齢欄は己21と記す。斉宣は本国薩摩、生国武蔵、文化6年己巳6月17日隠居、18日改名、従四位上中将・上総介事、榮翁重豪嫡子、松平修理太夫斉宣、年齢欄は己41と記す。右包紙に明細書写二枚、外包に朱46番と太守・御隠居の明細書写二枚を記し、文化6年己12月廿八日、安房から三原次郎四郎へ渡され七番箱へ納置した旨を付す。二人別の生国・官位・年齢・家督隠居改名を分ける。1004朱按の斉興19歳・斉宣37歳とは異なり、年齢欄を推測で統一しない。後続1014の御譜注は斉興を実19歳、幕府には21歳と告げたと明記するので、斉興の年齢差は申告上の差として説明できる。斉宣41と朱按37の差は引き続き未解明。
文化4年4月2日届。附書:宝暦3年4月23日、宝暦4年閏2月23日・8月4日。文化6年追記 / 冊子 332~334頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1039
重豪公御譜中・写正文在文庫。文化4年4月2日、榮翁の母方叔父嶋津美作(貴澄・垂水家)が国元で先月5日に死去したため、続半減の忌服を届ける。忌5日・3月5~9日、服15日・3月5~19日、日数が過ぎ残日数がないので遠慮1日とする貼紙を付す。本丸の書留には日限がなく老中側の扱い、ほかの書留は見当たらないと記す。続く重年の系譜説明は、継豊の二男で嶋津兵庫名跡を継ぎ、美作の姉と婚姻して榮翁が生まれ、その後宗信の養子となったが榮翁は重年実子として家督相続し、美作は養子であっても母方叔父半減の忌服になると述べる。宝暦3年4月23日、重年が帰国許可を受け、先妻所生の善次郎・9歳を家督以前の男子として跡式相違なく命じられるよう願う届を五宛へ出す。4月4日御暇、13日発足、21日善次郎の申上げを付記。宝暦4年閏2月23日、善次郎を家中一門に置き前年仮養子として願ったこと、今回参勤で召し連れる件を記す。延享2年乙丑11月7日一門家で生まれ母は備中女、宝暦4年に10歳、8月5日に嫡子届を行い松平又三郎と改名したとの説明と、同8月4日の改名届も収める。文化6年、珎林院(久柄妻)の病気を機に旧続書を再調査し、美作死去時の母方叔父半減について、重年実子なのに養子となって他家を継いだとの続書文言が不適切だと牧野側から指摘された経緯を記す。旧続書はそのまま置き難いとして、卯4月提出の続書を取り消し、所定の母方叔父母の扱いで届けるよう内々に決めた。国元の家老座・記録所に帳面書類を取り寄せ、江戸詰記録方添役篠原善助を介して照会した。その後珎林院が死去し訂正どおりの届を出し、公辺の都合も無滞に済んだと結ぶ。年次・実子と養子の申告文言・旧書面撤回を分け、単一日付の忌服届として縮めない。1072末注は本件と同一とするが、院号は本件珎林院・1072瑤林院の掲載字形を出典別に保つ。
文化4年4月2日届。附書:宝暦3年4月23日、宝暦4年閏2月23日・8月4日。文化6年追記 / 冊子 344~346頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1072
白木御文書七番箱72番。文化6年、御記録所の「御隠居様御事瑤林院江之御続合、於江戸御吟味之上以後公邊御届振被究置一巻帳」の蓋紙を付す。文化4年4月2日、榮翁の母方叔父嶋津美作(貴澄・垂水家)が国元で先月5日に死去したため、続半減の忌服を届ける。忌5日・3月5~9日、服15日・3月5~19日、日数が過ぎ残日数がないので遠慮1日とする貼紙を付す。本丸の書留には日限がなく老中側の扱い、ほかの書留は見当たらないと記す。続く重年の系譜説明は、継豊の二男で嶋津兵庫名跡を継ぎ、美作の姉と婚姻して榮翁が生まれ、その後宗信の養子となったが榮翁は重年実子として家督相続し、美作は養子であっても母方叔父半減の忌服になると述べる。宝暦3年4月23日、重年が帰国許可を受け、先妻所生の善次郎・9歳を家督以前の男子として跡式相違なく命じられるよう願う届を五宛へ出す。4月4日御暇、13日発足、21日善次郎の申上げを付記。宝暦4年閏2月23日、善次郎を家中一門に置き前年仮養子として願ったこと、今回参勤で召し連れる件を記す。延享2年乙丑11月7日一門家で生まれ母は備中女、宝暦4年に10歳、8月5日に嫡子届を行い松平又三郎と改名したとの説明と、同8月4日の改名届も収める。文化6年、瑤林院の病気を機に旧続書を再調査し、美作死去時の母方叔父半減について、重年実子なのに養子となって他家を継いだとの続書文言が不適切だと牧野側から指摘された経緯を記す。旧続書はそのまま置き難いとして、卯4月提出の続書を取り消し、所定の母方叔父母の扱いで届けるよう内々に決めた。国元の家老座・記録所に帳面書類を取り寄せ、江戸詰記録方添役篠原善助を介して照会した。その後瑤林院が死去し訂正どおりの届を出し、公辺の都合も無滞に済んだと結ぶ。末尾の編者注は本文書が1039号と同一と明示する。院号は1039の珎林院に対し本件瑤林院の掲載字形を保持する。
嘉永四年正月十六日(出生)、明治二年三月廿四日(没日) / 冊子 110頁/原整理番号 167/整理ID 167
斉彬公の子の系図から睦姫の条を収め、忠義夫人と記す。男女九人の表示があり、嘉永四年正月十六日に生まれ、母は菊三郎と同じとし、実母を伊集院兼珍の女とする注がある。明治二年三月二十四日に没し、年十九、神号を稚桜豊睦姫命と記す。
年月日未詳 / 冊子 146~154頁
『島津世家』巻二所収の島津忠久譜。忠久を源頼朝の庶子、母を比企能員の妹・丹後局とし、政子の嫉妬を避けた局が播磨国住吉の誕生石で出産し、狐火に照らされたとの出生伝承を記す。七歳で鶴岡八幡宮にて畠山重忠を加冠役に元服し、重忠の娘を妻とし、島津御荘地頭職と薩摩・大隅・日向三国守護職を得たとするが、薩摩下向年次には異説を併記する。奥州合戦で重忠と先鋒を務め、阿津賀志山攻めに従軍したこと、比企能員の変による守護職喪失・回復、近衛家の猶子となって藤原姓を称した二説、越前島津氏系譜を収録。後半は花尾権現の縁起、頼朝・丹後局らの像、建保六年銘の御正躰七鉢、霊鏡・国平丸の図と銘文、貞享元年の宝剣紛失確認、嘉禄三年四十九歳没の伝承を記す。
年月日未詳 / 冊子 246~247頁
島津元久譜が、元久方と渋谷氏方の軍勢配置、伊集院頼久らの進退、元久発病後の軍勢崩壊を記す。元久は応永十八年八月六日に四十九歳で没し、法名を玄忠としたこと、その後頼久が伊集院へ退いたことを述べる。
年月日未詳 / 冊子 607頁
永正十二年、十九歳の島津忠隆が守護職となったことなど、忠治から忠隆への継承を記す島津氏家譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 723頁
天文三年四月三日、執印三郎次郎公友が久體橋で戦死したこと、二十九歳で、同時に主従十二人が戦死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 890頁
樺山善久が十九歳で上洛を企て、正宮の尊体に眼病平癒を祈願し、近衛家や飛鳥井家との交流を通じて和歌の会を催した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 2頁
蒲生北村の敵が帰順を装って島津軍を誘い出し、弘治元年正月二十二日に貴久・義久が吉田から出陣したところ伏兵に遭った。弟子丸播磨守・指宿丹後守以下十八人が戦死し、十九歳の歳久も負傷したと記す。
年月日未詳 / 冊子 89~90頁
島津貴久の命で島津忠将の家老となった町田忠林が、永禄四年七月十二日に廻の竹原山で戦死したことを記す。二男の軍四郎忠次も十九歳で父とともに戦死し、両人の法名を載せる。
年月日未詳 / 冊子 123~124頁
永禄六年六月十六日に生まれた島津義久の女子について、島津義虎および島津彰久の室となったこと、母は種子島氏の女子であることを記す。寛永十八年八月十五日に新城で七十九歳で死去し、法名も載せる系図記事。
永禄十二年三月十三日・元亀二年 / 冊子 242頁
薩州島津家の略系図。忠辰を島津歳久の猶子とし、永禄十二年三月十三日生、天正十五年四月十七日に十九歳で死去したと注記する。元亀二年に出水で生まれた忠清は義久長女を母とし、兄忠辰の罪により母・母堂・弟忠富・忠豊とともに小西行長へ預けられ、長年肥後に在住したとする。
年月日未詳 / 冊子 188頁
天正十四年七月六日辰刻の鷹取城攻撃で、二十九歳の上野隼人佑が土師兵部と一歩も退かず戦い、互いに刺し違えて討死したことを記す覚書。末尾の歌は、その名を「高取の露」として後世に残す忠節をたたえる。個人の年齢・対戦相手・最期が具体的に分かる短い戦功・討死記事である。
天正15年9月13日 / 冊子 353~354頁
吉田清在が執印河内守へ、新田神社の祭礼に例年どおり太刀・馬を奉納したことを伝えた書状。馬屋を預かる立場から、七歳で置いた馬が九歳となったが、戦乱のため鹿児島領内から移して飼育し、傷んで見苦しくなった事情を説明し、今後の祭礼用の馬をどうするか判断を求めている。
年月日未詳 / 冊子 486~487頁
樺山忠助譜に収められた、七十九歳の老母・通善周慶大姉の書状と事績。上京して龍伯に供奉する忠助へ、主君への忠節を尽くし、酒色を慎み、病を養い、仏道を忘れないよう諭す。母の教養と家訓、忠助が書を珍蔵して繰り返し読んだこと、母の死と龍伯の追悼までを伝える、家族の情愛が鮮明な史料である。
年月日未詳 / 冊子 803頁
秀吉の上使が薩摩・大隅・日向を検地し、北郷忠虎領では田中吉政らが都城・安永・高城・末吉・財部など十五か所、計六万九千二百余石を調査したと記す。 同年冬、忠虎は巨済城で寒気と軍務の疲労から病を得て、十二月十四日に三十九歳で死去した。鶴田貞明が殉死したことも記し、検地による領地確定と朝鮮陣中での最期を一続きに伝える家譜記事。
年月日未詳 / 冊子 869頁
島津彰久が義弘に従って昌原浦辺の大山で虎狩りに参加し、家臣の安田某が剣で虎を討ち、忠恒から宝刀を与えられたことを記す。 彰久は同年七月五日に朝鮮国巨済の陣中で二十九歳で病没した。死後は家老の川上忠実が軍勢を率いて在陣を続け、義弘の命で旧館岩を守ったという。
年月日未詳 / 冊子 670-671頁
慶長五年の関ヶ原敗戦後、須木衆は島津方を迎えて日向へ進み、十月朔日に紙門寺を攻めた。俵屋原弥介との戦いでは十九歳の村尾長介と二十歳の上野彦九郎が負傷しながら敵を討ち、村尾笑栖が若者の働きを称えた。その後、上野隼人は細島で島津義弘(惟新)へ拝謁し、鹿児島清水で弓の技を披露した。