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追録7-No.1039複合文書旧記雑録暫定版・確認中

重豪親族忌服・公辺届集(美作死去、善次郎・又三郎届と後年再吟味)

文化4年4月2日届。附書:宝暦3年4月23日、宝暦4年閏2月23日・8月4日。文化6年追記/整理ID 旧記雑録追録7_文書1039

確認度高
この文書は暫定版です

現在、内容を確認中です。概要・人物・宛先・キーワード等は後日修正される可能性があります。

概要

重豪公御譜中・写正文在文庫。文化4年4月2日、榮翁の母方叔父嶋津美作(貴澄・垂水家)が国元で先月5日に死去したため、続半減の忌服を届ける。忌5日・3月5~9日、服15日・3月5~19日、日数が過ぎ残日数がないので遠慮1日とする貼紙を付す。本丸の書留には日限がなく老中側の扱い、ほかの書留は見当たらないと記す。続く重年の系譜説明は、継豊の二男で嶋津兵庫名跡を継ぎ、美作の姉と婚姻して榮翁が生まれ、その後宗信の養子となったが榮翁は重年実子として家督相続し、美作は養子であっても母方叔父半減の忌服になると述べる。宝暦3年4月23日、重年が帰国許可を受け、先妻所生の善次郎・9歳を家督以前の男子として跡式相違なく命じられるよう願う届を五宛へ出す。4月4日御暇、13日発足、21日善次郎の申上げを付記。宝暦4年閏2月23日、善次郎を家中一門に置き前年仮養子として願ったこと、今回参勤で召し連れる件を記す。延享2年乙丑11月7日一門家で生まれ母は備中女、宝暦4年に10歳、8月5日に嫡子届を行い松平又三郎と改名したとの説明と、同8月4日の改名届も収める。文化6年、珎林院(久柄妻)の病気を機に旧続書を再調査し、美作死去時の母方叔父半減について、重年実子なのに養子となって他家を継いだとの続書文言が不適切だと牧野側から指摘された経緯を記す。旧続書はそのまま置き難いとして、卯4月提出の続書を取り消し、所定の母方叔父母の扱いで届けるよう内々に決めた。国元の家老座・記録所に帳面書類を取り寄せ、江戸詰記録方添役篠原善助を介して照会した。その後珎林院が死去し訂正どおりの届を出し、公辺の都合も無滞に済んだと結ぶ。年次・実子と養子の申告文言・旧書面撤回を分け、単一日付の忌服届として縮めない。1072末注は本件と同一とするが、院号は本件珎林院・1072瑤林院の掲載字形を出典別に保つ。

登場人物

榮翁重豪、嶋津美作(貴澄・垂水家注)、重年、継豊、薩摩守宗信、嶋津善次郎、松平又三郎、嶋津備中(貴儔・垂水家注)、堀田相模守正亮、酒井左衛門尉忠寄、本多伯耆守正珍、松平右近将監武元、西尾隠岐守忠尚、久世忠右衛門、御用番牧野備前守、珎林院(久柄妻注)、國徳院(重年注)、慈徳院(宗信注)、篠原善助

宛先

宝暦3年届の五宛:堀田・酒井・本多・松平右近将監・西尾。文化4年届に独立宛名なし

キーワード

文化四年母方叔父美作死去、忌五服十五残日なし遠慮一、本丸書留日限なし、重年継豊二男宗信養子榮翁実子申告、宝暦三年善次郎九歳跡式届、宝暦四閏二月仮養子参勤、延享二出生備中女、十歳嫡子又三郎改名八月四五日、文化六珎林院病気続書再調査、牧野指摘、卯四月旧続書撤回、正式忌服、記録所篠原善助照会

冊子頁

332~334頁

読込量

中

面白さ

★★★★★

原文を確認

(2)152~346頁(寛政10~文化6).pdf