近衛前久書状
(天正八年)九月十三日 / 冊子 676頁
近衛前久が喜入久道へ、豊薩和平を重ねて申し送ってきたが、大坂対応で遅れたと説明する。織田信長が伊勢貞知を下向させるので、この機会に島津方が同意するよう取り成すことを求め、扇十本を贈った。
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(天正八年)九月十三日 / 冊子 676頁
近衛前久が喜入久道へ、豊薩和平を重ねて申し送ってきたが、大坂対応で遅れたと説明する。織田信長が伊勢貞知を下向させるので、この機会に島津方が同意するよう取り成すことを求め、扇十本を贈った。
天正九年十一月二十六日 / 冊子 703頁
近衛信尹が喜入久道へ、京都の不慮の錯乱で他に手段がないため、この機会に助力を得たいと求め、詳細は進藤筑後守が伝えるとした書状。
(文禄元年)正月27日 / 冊子 531頁
昨冬以来相談してきた前代未聞の唐入りについて、全員に残らず命令が下った以上、準備に力を尽くすよう求める。京都からの知らせを受けて倅が出立する前に注進し、その翌日に栗野へ参着して供をすること、決めた出立日を延ばさないことを喜入久道へ命じた連署状。
(慶長九年)四月一日 / 冊子 929頁
島津忠恒が島津左衛門久道へ、示現流兵法の文書を一度見たいと求め、自分は新参の学び手で十分に心得ていないと述べる。師匠として教えを受けることが差し支えないか尋ね、詳しくは面談するとした書状。
天正九年十一月二十六日 / 冊子 728頁
本文はNo.1247の文書と同文であるため省略されている近衛信尹書状。
年月日未詳 / 冊子 759頁
朝鮮への長期渡海・在陣をねぎらわれたことに答え、自身が従軍しないのは唐瘡を長く患い歩行不能なためだと説明する。弟は光明寺に在寺し、島津義久と相談して細川幽斎跡目を取り立て、兵員は前年春に出して疎略がないと弁明した喜入久道書状案。
(元和三年)四月十八日 / 冊子 641~642頁
島津家久が日光参詣を控えた旅程や帰国の見通し、近況を伝え、関係者への伝言と家中の健康への配慮を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 241頁
北郷義久譜が、島津元久の上洛時、北郷義久が留守居を厳命され、新納近江守・佐多久道・樺山入道・山田入道らとともに国務へ励んだことを記す記事。
寛永六年八月廿四日 / 冊子 103~105頁
樺山美濃久道が、過去の合戦・境目警固での働き、帖佐春毛村などの所領処置、敷根氏らへの返地・配分、加増・替地・兵粮扶持・役料等の経緯を列挙し、未決の扱いを明確に裁定するよう求めた長文覚書。自身が老齢で後に尋ねられる者がいなくなるため、今回の機会に返答を得たいと述べる。本文署名は寛永八年八月二十四日、樺山美濃久道。
年月日未詳 / 冊子 757~759頁
喜入季久の後裔系図。忠道・久績兄弟の根占戦死、久道の長患い、島津義弘四男の養子早世、岩屋城で戦死した久延、細川幽斎の進言で還俗し家を継いだ忠政、関ヶ原で戦死した島津豊久家を継いだ忠栄、島津光久庶子忠長の養子相続を記す。
応永十八年十一月廿七日 / 冊子 260頁
島津久豊が比志島方に、大隅国下大隅の市成一名を郡山の替地として預け置き、先例どおり領知するよう命じた預ケ状。本文年紀は十一月廿七日である。
(慶長九年)四月三日 / 冊子 929-930頁
島津忠恒が又吉へ、十分な品ではないと断りながら木刀を持たせ、依頼された案文を書き付けて送った書状。今後も折々に書き留めるよう求め、雨中の来訪を待つ心情を添える。
(元和三年)三月一日 / 冊子 636頁
島津家久が禁中から賜った品々について、袋や箱、薫物まで比類なくありがたいと述べ、帰国後に見せる意向を伝えた書状。
廿九日 / 冊子 324頁
天候不良のため狩りを翌日に行うこと、二日の振舞いは加治木から夕方に来る予定と重なるので延期がよいことを伝え、上書は「中納言」と書くよう指示した島津家久書状。
廿八日 / 冊子 324~325頁
喉の調子が良くなったことを喜び、香箱を弾正殿のため風呂屋で焚かせるよう贈り、自身もまもなく訪れて風呂へ入ると知らせた島津家久書状。
十九日 / 冊子 334頁
前日は急用で暇乞いできなかったことを詫び、今回は江戸で首尾よく過ごして帰国したいと述べ、快復後も養生を怠らないよう母らへ伝え、二十二日に出立する予定を知らせた島津家久書状。
三日 / 冊子 334~335頁
珍品ではないが竹を贈り、自作歌の下書きと弾正殿が提出した書付を送るよう頼み、五日に心祝いのため訪ねるとした島津家久書状。
廿五日 / 冊子 335頁
初めての夏切りの茶を贈り、母の体調が良く脈も戻ったと聞いて喜び、まもなく訪ねると伝えた島津家久書状。
廿日 / 冊子 335頁
母へ巾着と印籠を贈り、印籠は江戸で藤重藤近という者が縫った平たい作りだと説明し、当日八つ時頃に来るよう求めた島津家久書状。
廿六日 / 冊子 335頁
珍しい物ではないが二人へ品を贈り、母がすっかり心安く過ごしていることを喜び、間もなく見舞いに参上するとした島津家久書状。
六日 / 冊子 336頁
前日に訪ねて十分な馳走を受けたことに謝し、弾正殿にも礼を伝えるよう頼み、風呂を焚くなら訪ねるので待っていてほしいとした島津家久書状。
九日 / 冊子 336頁
母の体調と局の傷・痛みを案じ、薬を怠らず付けるよう求め、先日の三絃を稽古してはどうかと勧めた島津家久書状。
三日 / 冊子 336頁
近く湯にかかると聞き、その日取りを尋ね、五日までは忙しいので六日に訪ねると知らせ、最近の祝いの振舞いでは酒を控えると述べた島津家久書状。
年月日未詳 / 冊子 337頁
島から帰ったことを知らせ、次の遊興をどう催すか母の意向を尋ね、茶はこちらで念入りに挽かせるので肥前守らへ頼む必要はないとし、来訪すれば琵琶・琴を弾くと誘った島津家久書状。
五日 / 冊子 337頁
当日訪ねて種々慰めたことに触れ、たいへん秘蔵されてきた書物を弾正殿が見るというので送り、詳しくは別の書付に記したと伝えた島津家久書状。
十六日 / 冊子 337頁
島津家久が、息女とされる「むもし」の体調が良いことを喜び、自身は暇がなく鳩狩りに出られないため、竹林へ出向いて鳩を三羽ほど「打つ」よう頼んだ書状。本人の直接射撃か供人による実行か、また使用武器は本文から確定できない。
十六日 / 冊子 337~338頁
見舞ったところ母の体調はかなり良くなっていたが、今後は食事を少量ずつ取り、日数が経っても再発に注意して養生を怠らないよう細かく諭し、兄弟にもよく伝えるよう求めた島津家久書状。
十六日 / 冊子 338頁
母の歯痛を聞き、自身も先に五、六日ひどく痛んだが薬師へ立願するとすぐ治まったので、早々に祈誓するよう勧めた。十九日の会に備えた下書の完成状況を問い、自分は当日下見するとした島津家久書状。
五日 / 冊子 338頁
見舞いのため書状を送り、母の体調を案じ、三絃を弾いているだろうかと尋ねた島津家久の短い書状。
十八日 / 冊子 338頁
島狩りの帰途に庭へ立ち寄ったことを知らせ、又五郎が翌日来れば具合も良いとのことなので、自身も翌日一日中訪ねて話すとした島津家久書状。
廿一日 / 冊子 338~339頁
秋守殿の移転が二十三日に決まり、十八年あるいは二十年ぶりで二昔が移り行くようだと感慨を述べ、自身も当日訪ねるので母はいつ来るかと尋ねた島津家久書状。
廿四日 / 冊子 339頁
前夕詳しく話した案件について、当事者の親が物事を知らない愚か者なので本人の仕合せも案じられると述べ、一定の処置を命じたことを知らせ、女性側の返答を聞いて改めて相談したいとした島津家久書状。
六日 / 冊子 339頁
角守の孫の口脇に火災か傷害が起きてひどい状態だと聞き、どのような具合か案じ、発来の様子を知らせるよう求めた島津家久書状。
年月日未詳 / 冊子 339~340頁
上方からも無事の知らせが届いたことを喜び、十四日の朝に訪ねると約し、前日に弾正殿を狩りへ登らせて鹿を獲るよう命じ、狩衆は谷山衆へ手配したと知らせた島津家久書状。
十八日 / 冊子 340頁
近頃琴を弾いているか、弦が切れていないか尋ね、自分も訪ねて弾きたいと述べ、筆と江戸で作ったが自分には似合わない品を母や又母へ贈った島津家久書状。
七月十九日 / 冊子 340~341頁
書状を認めている最中に祈念の符が届いたのを吉兆と喜び、別の書状とともに送り、指示どおり符を飲むよう勧め、星回りを直してからは心安く過ごせると伝えた島津家久書状。
廿四日 / 冊子 345頁
春雨の寂しさの中にも春の景色を感じると述べ、前日の珍しい贈物に謝し、来訪を誘い、江戸からの便りを待ちながら、正月の遊び道具や鞠を用意したか尋ねた島津家久書状。
廿七日 / 冊子 345頁
月末の吉日に帯に関する祝いを行い、自身も必ず参上するので、時刻が重要なため心得ておくよう伝え、お鍋殿にも知らせるとした島津家久書状。
六月十八日 / 冊子 345~346頁
双方とも無事であることを伝え、まもなく命令が出て暇を賜ればすぐ帰国するとし、母と弾正殿を長く待たせて迷惑をかけることを案じつつ、当地は静穏なので安心するよう述べた島津家久書状。
九月三日 / 冊子 346頁
七月の書状を喜び、双方無事であると知らせ、いつまで江戸に留まるのかと思っていたが、暇を賜ればその日のうちに下向したいので遠くないと安心させた島津家久書状。
七月十四日 / 冊子 347頁
弾正殿が近頃帰国したことを喜び、自身も暇が出次第すぐ下向すると知らせ、母方から贈られた一箱に謝し、暑さの中でも当地で首尾よく過ごしているので安心するよう伝えた島津家久書状。
寛保四年二月三日 / 冊子 756頁/整理ID 1966
久道は、対の槍二本と長刀一振について、槍は吉貴が家督のときに所持し、長刀は持替えの道具だったと記す。今回忠紀が拝領したため、家宝として大切にするよう求め、久道が取次をした証として書付を出した。
(延享四年)八月十五日 / 冊子 27頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0071
島津久道が比志島隼人に、先年吉貴から神当流馬術の書物を譲り受け、書物を残さず託された経緯を証した。自分方の書付と照合して必要な書物を渡し、証拠としてこの書状を差し出している。
(延享四年)八月十五日 / 冊子 27頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0072
島津久道が御記録奉行に、神当流馬術に関する先年の書物の預け置きと返却の経緯を述べた。書物・写しを照合し、必要なものを関係者へ渡して記録方へ書き留めるよう申し渡した。
十一月廿日 / 冊子 329頁
島津家久が仮名書きで近況を伝えた書状。江戸では猿引や鼓・太鼓などの慰みもなく、春には下国して花の下で酒を酌みたいと述べ、近日中の暇と帰国を待つ心情を記し、母や妹らへの伝言を託した。
(寛永九年)十一月廿日 / 冊子 329~330頁
島津家久が仮名書きで、思いがけず長い滞在となったが、春には暇を得てまもなく下国できる見込みであると伝えた書状。国元の無事を喜び、『たんもし』『ひこ』らしき人物が使者として当地にいることにも触れる。
十二日 / 冊子 346~347頁
流行病による体調不良を案じ、薬を飲み養生を怠らず、留守中は女房衆へ火の用心を厳命するよう求めた。翌日は佐土原へ向かい、天候・道中は穏やかで、秋守殿も加治木にいるので安心するよう伝えた高岡発の書状。
寛保四年二月三日 / 冊子 756頁/整理ID 1965
二月三日、吉貴が家督時代に持っていた対の槍二本と持替えの長刀一振を忠紀に賜る命が出た。島津久道がこれを伝え、証書を添えた。No.1966は道具の由来と受領・保存についての書付である。
(延享四年)八月十六日 / 冊子 27頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0073
記録方が吉田用右衛門に、島津久道から伝えられた神当流馬術関係の書付と新太夫の書付を渡す手配を伝えた。書付一通を届けたので照合し、必要な書付を新太夫へ差し出すよう求めている。
寛政9年3月18日出生、慶應元年8月20日卒(本文) / 冊子 141頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0440
御系図中の抄。図の上に斉興、下に女子の二列を示し、一方に於隣と記す。於隣にはチカ・ムラの読み、松樹院・松壽院、種子島伊勢久道室の記載を伴う。寛政9年丁巳3月18日生、母は島津仲久建女、慶應元年乙丑8月20日卒、法名妙悟日全とする。次441は斉宣公御子とするため、この図の斉興表示と同一の父系説明へ推定統一しない。久道室の表記も次の輔時室表記との異同を残す。