佐多久政譜
年月日未詳 / 冊子 291頁
佐多氏の譜中に、久政に続く「忠常・又太郎・常陸介」の名乗りを列記した極短い記事。人物関係や通称を確認するための系譜的注記で、戦闘経過を記した文書ではない。
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年月日未詳 / 冊子 291頁
佐多氏の譜中に、久政に続く「忠常・又太郎・常陸介」の名乗りを列記した極短い記事。人物関係や通称を確認するための系譜的注記で、戦闘経過を記した文書ではない。
(天正15年) / 冊子 292頁
佐多久政が豊州瀧田城を守備中、大軍の攻撃を受けて奮戦死したことと、享年四十二・法名を記す譜記事。城を守ったまま最期を迎えた久政の事績を簡潔に伝える。
慶長十九年六月晦日 / 冊子 530~531頁
慶長十九年六月晦日、島津久元の領地について、山崎村・湯田村・舟木村・屋地村など多数の村別石高を列挙し、合計一万三千六百六十石八斗二升とした頴娃久政・川上久好連署の知行目録。
元和六年五月十三日 / 冊子 732頁
上小河院内の田地について、田ごとの面積・籾高・石高を記し、蒲地四郎左衛門に宛てた喜入久政・川上久晴連署の名寄目録。
四月十一日 / 冊子 37~38頁
町田久政が、公役人員の名簿と門前屋敷をめぐる処理について蒲地伊賀入道へ回答した書状。別紙の人数書付を送り、新城にいる山田藤内左衛門への連絡を求めるとともに、門前屋敷の持合や旧来の墨付をめぐる問題は、存松の帰着後に協議する方針を示す。
正月十四日 / 冊子 66頁
頴娃久政と新納忠清が、唐物屋千左衛門・帯屋四郎兵衛尉・下人長五郎の三人に宮内八幡参詣のための書状を付した連署書状。参詣先以外の在郷へ立ち寄らないよう厳命することを求める。
四月十六日 / 冊子 170頁
島津久慶と頴娃久政が諸所の噯衆に、江戸奉行衆の奉書が早飛脚で下されたため写しを地頭衆へ回したことを伝え、前年の指示と相違なく油断せず申し付けるよう命じた廻文。御兄弟衆が巡見するので、不行届きの場所は直ちに報告されることを心得、少しも疎略にしないよう戒める。
天正八年十一月十三日 / 冊子 656頁
天正八年十一月二十三日、佐多久政を将として、新納忠元・忠尭、川上忠智、肝付兼寛、上原尚近、比志島国貞らが大軍を率い、肥後合志城を攻めたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 661~662頁
熊本の城親賢父子が商人を介して島津義久への帰属を申し入れたため、鎌田政年が支援を進言し、島津義虎を通じて志岐・栖本・上津浦・大矢野・天草を味方につけた。鎌田ら足軽三百余を熊本へ派遣し、さらに佐多久政ら番手を送った。阿蘇方の甲斐宗運や矢崎・青田・合志勢と対立する中、新納忠元・伊集院久治らを加えて矢崎城攻めを決定するまでを記す。
年月日未詳 / 冊子 662~663頁
鎌田政年の報告を受けて島津家中が肥後支援を評議し、佐多久政を大将として川上忠智・上原尚近・宮原景晴らを熊本へ派遣した。城親政父子と家臣、周辺勢力の帰趨を探り、阿蘇方の甲斐宗運、矢崎・青田・合志・大津山勢と対立する中、秋月・高橋・草野・星野勢の内応も得て、新納忠元・伊集院久治・鎌田政年らが矢崎城攻撃を決めた経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 681~682頁
天正八年十一月二十三日の合志合戦を記す。島津軍が久保田千町を焼くと、大津山源左衛門ら約四千騎が追撃した。伊集院久治が太刀始めで源左衛門を討ち、顔に傷を負いながら諸将の支援で戦い続け、佐多久政らの総攻撃により合志勢百三十余人を討った。鎌田政年が凱歌を挙げ、十二月十三日に全軍が熊本から薩摩へ帰った。
天正八年十一月十三日 / 冊子 682頁
十一月二十三日、島津軍が合志表の久保田千町を焼いて退く際、大津山越前守率いる約四千騎と交戦した。伊集院久治が太刀始めで敵を討ち、顔に傷を負って危急となるが諸将が援護し、比志島国貞・新納忠元・忠尭・佐多久政らの反撃で大津山越前守以下百三十余人を討ち取った。熊本へ戻り町口で勝鬨を挙げた。
天正八年十一月十三日 / 冊子 679頁
十一月二十三日、島津軍が二手に分かれて合志表へ出て久保田千町を焼き、退却時に大津山越前守率いる約四千騎の追撃を受けた。伊集院久治が太刀始めをして負傷しながら敵を討ち、諸将が反撃して大津山越前守以下百三十余人を討ち取った後、熊本へ引き上げた。
年月日未詳 / 冊子 294~295頁
豊臣勢の接近を受け、島津軍が府内方面から夜半に退却し、阿蘇内坂などで追撃戦を行った経過を詳述する。敵を討ちながら各城へ退く道筋、伊集院肥前守らの配置、各地の守将・戦死者名を列挙し、敗走時の部隊再編と人的損害を具体的に伝える。
十月十五日 / 冊子 68頁
川上久國らが、江戸から下向する上使を迎えるため発した連署廻文。通行路の道・橋を念入りに普請し、上使通過時は下々まで見物に出ないこと、途中で出会った場合は平伏して慎むことを厳命する。
二月二日 / 冊子 15頁
飯野での越年の労苦をねぎらい、近日中の境目への出張に備えて軍衆を催促し、十分な人数を集めるよう命じた書状。
天正八年五月十三日~十一月 / 冊子 656~657頁
天正八年の肥後進出に際し、事前偵察、宝川内城攻め、熊本番手、矢崎城攻め、合志方面出陣に参加して軍功を挙げた者を日付・戦場別に列挙する交名。鎌田政年ら足軽三百余の派遣、新納忠秀らの偵察、忠元・忠尭らの攻略、佐多久政・伊集院久治らの合志戦を記す。
寛永廿一年九月朔日 / 冊子 347~348頁
川上久国・頴娃久政の連署覚書。阿蘭陀船・南蛮船・唐船の絵図をよく見分け、写しを八重山ほか諸島へ配布すること、異国船の漂着・寄港・上陸を厳重に監視して速やかに報告することを命じる。船形・旗印・乗員・積荷を確認し、禁制品の密売や唐人の無断上陸を許さず、長崎との連絡を徹底する海防条項を列挙する。
4月11日 / 冊子 376~377頁/原整理番号 188-14
四月十一日、町田源左衛門久政が蒲地伊賀入道へ、移衆全員を公役に出すとの来札を了承し、ただちに申し渡すと回答した返書。当地から伊集院方面へ公役に出る者が多いため、当時伊作にいる公役人数を別紙に書き付けて持たせ、すでに解役された者は大野将右衛門来訪時に詳しく付け立てて渡したと伝える。追而書では、川辺の新城にいる山田藤内左衛門には蒲地側から事情を説明するよう求め、門前屋敷について比紀州の同意がないのではないかと懸念し、旧墨付を改めて見せる必要はないとの見方を示す。争論を長引かせず、存松が下した屋敷だとして申し遣わすよう助言し、当地で尋ねられても同趣旨で答えると約す。
永禄十一年正月廿日~三月廿三日 / 冊子 186頁
永禄十一年正月二十日の羽作瀬合戦で戦功を挙げた将兵を中心に、その後の大口・曽木方面の戦闘参加者を併記した交名。義弘・歳久の退却を支えた遠矢良堅、財部盛弘、入来院筑後守、伊集院久治ら、二月二十八日の小苗代原で戦った忠元・兼寛ら、三月二十三日の曽木城防衛・永福寺口守備の人々を列挙する。
永禄十一年二月廿八日~三月廿三日 / 冊子 192~193頁
永禄十一年二月二十八日、小苗代原で敵が不意に出た際、新納忠元が薬師堂の板に詩句を書き終えるまで動かず、家臣久保勝八に引き退かされた直後、竹添丹後守の鑓で左脇を突かれた逸話を載せる。忠元はなお敵三人を討ち、自身も六箇所の傷を負ったため、貴久から使者を通じて感賞と見舞いを受けた。三月二十三日の曽木・市山攻撃では、未平癒ながら出陣し白坂と永福寺口の守備を指揮した。
天正八年八月十九日 / 冊子 663~669頁
天正八年八月十九日の水俣城攻めにおける三陣の構成を詳述する陣立日記。家久・征久を中心とする先陣、義弘を大将とする第二陣、義久本陣と歳久・忠長らの後陣について、脇大将・役者・各外城地頭・物頭・近習・納殿衆・兵具・人足を列挙する。各陣約三万一千人、旗本を含む総勢十一万五千人の賦とし、水俣城の球磨・八代勢を包囲する配置を記す。
年月日未詳 / 冊子 677頁
矢崎城主中村一太夫と網田城主中村二太夫が阿蘇惟前と結び、宇土・熊本および薩摩への往来を遮断したため、新納忠元・鎌田政年・伊集院久治らが数万の兵を率いて出陣した。天正八年十月十五日に矢崎城を急攻し、中村一太夫は自害、島津方にも市来備前守ら多数の戦死者が出た。翌日網田城を攻めると二太夫が降伏し、二十九日に全軍が熊本へ入った。
天正八年十一月十三日~十四日 / 冊子 679~680頁
十二月十三日に島津軍が熊本を発って河尻へ下り、翌十四日早朝、順風を得て兵船三百余艘で出航し、一夜で出水米之津へ着いた。島津義虎は戦功を賞して酒肴を送り、翌日出水城へ主要な将と数百人を招いて饗応した。軍勢はその後本国へ帰り、領国の人々が祝った。
寛文十一年正月十一日 / 冊子 285~287頁
高柳行文が寛文十一年正月十一日付で大川平久兵衛へ提出した申状。大川平源太左衛門隆重が幼少時に伊東方へ取られ、のち島津方へ戻った経歴を述べ、泗川戦では少数で明軍の陣を破ったとする。帰朝時の唐島の戦いでは、退潮と水手の損耗で危機に陥った義弘の船を救うため、隆重ら十三人が敵船へ切り込み、全員戦死して主船の退却を助けた。帰朝後、隆重の二子が召し出され、それぞれ名を与えられたことも記す。
慶長十九年六月晦日 / 冊子 530頁
島津久元譜中に、慶長十九年の領地目録を収める旨と、その目録を松坂但馬守に宛てたことを記した記事。
正保三年四月十六日 / 冊子 39頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0068
江戸奉行衆から届いた奉書を早飛脚で転送したので、その写しの趣旨どおり油断なく処置するよう伝えた連署廻状。
寛永二十一年正月四日 / 冊子 105~106頁/原整理番号 15
頴娃久政・三原重庸が、田返しを早く行い、百姓の年頭礼や不要な夫仕を止め、正月二十日までに井手溝の道具を整えるよう命じる。井手・溝・樋の修理や春水の田への導入、郡奉行・曖衆の巡回も箇条書きにする。
「寛永十八年」十月廿三日 / 冊子 169頁
島津久慶・山田有栄・鎌田正統・頴娃久政・島津久元が寺師半右衛門へ、大口の役人・衆中が手薄で用務に支障があるとの新納加賀守の申し出を受け、寺師に関係する役務・公役の扱いを調整し、当地の衆中のため万事念を入れて勤めるよう求めた連署書状。本文注は、島津忠恒が慶長十一年に徳川家康から『家』字を与えられ家久と称したとする。
年月日未詳 / 冊子 189頁
島津光久譜の記事。寛永十九年正月二十六日、光久が参勤のため鹿児島城を発し、西方の海路を進んだことを記す。家老の頴娃久政と旅家老の島津久通が海路に随行した。
寛永十九年正月廿八日 / 冊子 189~190頁
島津久元・山田有栄・頴娃久政が五代仲兵衛尉・三原五郎兵衛尉へ、高二百石を知行および御使役分として与え、両人で支配するよう命じた連署引付。寛永十九年正月二十八日付で、久元が印を据えている。
「寛永十九年」四月二日 / 冊子 194~195頁
島津久通・頴娃久政・川上久国が、島津光久の江戸着府後に松平信綱の慰労を受け、将軍への拝謁を無事に済ませたことを報じた連署書状。あわせて西国浦廻上使の向井右衛門祐・小笠原芸州が出立し、東目・西目の巡見経路は大坂で決める予定であること、贈答品の受領や焼酎を音信として贈ることなどを伝える。
「寛永十九年」六月廿八日 / 冊子 199頁
島津久通・川上久国・頴娃久政が、虎寿丸の加冠・元服を祝し、家中から太刀・青銅などの進上物を差し出す手順を知らせた連署書状。両殿や御前への太刀・折樽、諸地頭その他の家中衆が進上する品目と負担の目安を伝えている。
「寛永十九年」六月朔日 / 冊子 198頁
島津久通ら四名が、金山麓で金を小判相当の品位に整え、山中の商取引や運上・八木代などを金子で行う案について報じた連署書状。幕府老中らへ内談したうえで実施を認める印判書が下され、北郷佐渡守に関係者と相談して首尾よく進めるよう求めている。両替の扱いは既に命じてあるとして、当地から重ねて問い合わせないよう付記する。
七月 / 冊子 205頁
島津久通ら三名が、島々の者が流罪人に私事や非分を申し掛けて殺害するとの風聞を受け、流罪人を勝手に打ち果たすよう命じたと称する書物があれば取り返すよう指示した連署書状。島民が恣意的に流人を死なせた場合は厳しく処罰すると申し渡すよう求めている。
「寛永十九年」七月十九日 / 冊子 206~207頁
島津久通ら三名が江戸での幕府老中との折衝を伝えた連署書状。薩摩金山の前年産金四十貫目は献上を免じられ、礼として金子三千両を進上したこと、当年の産金は年末の進上に備え、翌年も九州の飢饉が続けば採掘停止を検討することを報告する。あわせて他国者森寺清左衛門の召抱え、浦廻上使の帰着、八重山に渡った使者と琉球からの切支丹不在の報告などを知らせている。
寛永十九年七月十九日 / 冊子 207(本文省略、No.269抄録)頁
本文には「本文書ハ二六九号文書ノ抄録ニツキ省略ス」との注記のみがある。No.269は薩摩金山の産金献上と飢饉時の採掘停止、他国者の召抱え、浦廻上使、八重山・琉球からの報告などを扱っており、本書はその抄録であることを確認できる。
「寛永十九年」七月廿一日 / 冊子 207~208頁
島津久通ら三名が、荒廃して百姓の少ない島原・天草へ隣国から百姓を移すとの幕命について、薩摩も百姓に余裕がなく田畠が荒れる懸念はあるが、天下の下知であるため従わざるを得ないと伝えた連署書状。使者の到着後すぐに相談し、隣国の様子も聞き合わせて移住の手配に尽力するよう求めている。
「寛永十九年」七月廿五日 / 冊子 208~209頁
島津久通ら三名が、鍋島信州の家老衆から知らされた『かれうた船』への警戒と通報手順を指示した連署書状。船が甑島方面に現れた場合は鹿児島を経由すると遅れるため、長崎および高力家へ島から直接急報し、早飛脚を用いるよう新納勘解由らへ申し渡すことを求める。あわせて島原・天草への百姓移住の使者派遣を知らせている。
「寛永十九年」八月八日 / 冊子 209~210頁
島津久通ら三名が、甑島に潜んでいた南蛮人九人について幕府老中へ報告し、書付・絵図を提出した経緯を伝えた連署書状。島内に彼らを世話した者がいないか油断なく調べ、長崎で出身地や宗旨を尋問すれば事情が明らかになるとして、念入りな調査を求める。あわせて八重山番手の帰帆と交替要員の扱いに触れている。
「寛永十九年」八月八日 / 冊子 210~211頁
島津久通ら三名が、切支丹宗徒を発見・届け出た者への褒賞を指示した連署書状。幕府高札では伴天連の申告者に銀百枚、いるまんに五十枚、一般の切支丹宗徒に三十枚と定められており、今回の通報者にも銀五十枚ほどを与えるべきだとする。南蛮人が長崎で述べた内容の報告を求め、竹内備前は江戸での用務がないため上らせる必要はないと伝えている。
「寛永十九年」八月十三日 / 冊子 211~212頁
島津久通ら三名が、甑島で南蛮人を捕らえて長崎へ送ったことを将軍が賞し、池田帯刀を上使として褒意を伝え、捕獲した島民へ褒賞を与えるとした連署書状。南蛮人と日本人を長崎で拷問・尋問し、島内に残る同類や協力者を捜索すること、発見者には銀を与え、隠匿者は処罰することを命じている。
「寛永十九年」八月十八日 / 冊子 212~213頁
島津久通ら三名が、南蛮人捕獲への褒意に対して島津光久が登城して謝礼した際、将軍が書状中の『下野守』に名字がないことを問題とした経緯を伝えた連署書状。古来名字を書かない慣例であると説明したが、将軍家一門や他国の例にならい、以後は公私とも島津一門の全員が『島津』の名字を記すよう厳命された。
「寛永十九年」十月十七日 / 冊子 215~216頁
島津久通ら三名が、島津光久の熱海湯治後に複数の政務を伝えた連署書状。甑島で捕らえた南蛮人の所持金銀を発見者へ褒賞として与え、刀・履物は鹿児島に留め、宗旨や同類を詮議することを命じる。ほかに籠屋の移転、当年の出物、甑島・長崎間の火立て、火災後に寺領へいた者の召出し、沖長門守の処分、八重山番手が売った鉄砲の回収と七人の処置などを指示している。
「寛永十九年」十二月朔日 / 冊子 219~220頁
島津久通ら三名が、翌年に金山を停止する件を伝えた連署書状。新納右衛門佐が阿部対馬守へ出向いたところ、金山を直接停止する旨を告げられた一方、領国内の者には採掘させたいとの従前の申出もあったため、酒井讃岐守と相談して改めて上聞に達することとなった。北郷佐州へも伝え、他国人を翌年早々に帰国させるよう厳命することを求めている。
年月日未詳 / 冊子 235頁
島津光久譜の記事。阿部対馬守重次が光久邸へ上使として来訪し、帰国の暇を伝え、例により御袷百・白銀千枚・馬一疋を賜った。竹千代君からも牧野内匠頭を通じて御袷五十を受け、光久は五月十五日に江戸を発ち、家老らを伴って六月十七日に鹿児島へ帰着し、帰国許可と賜物への謝意を示した。
十一月七日 / 冊子 248~249頁
川上久国ら四名が、異国船と伴天連の潜入に備えて沿岸警戒を命じた連署書状。江戸年寄衆の意向を島津久通・新納久詮から受け、浦浜を担当する者は油断なく番を固めるよう求める。伴天連が日本商人に変装して日本船へ乗り移り、船を処分して山中へ潜伏する可能性にも触れ、前年の異国船取逃しを教訓に厳重な捜索を命じている。
「寛永廿年」十月五日 / 冊子 256頁
川上久国ら四名が敷根筑前守へ、今回の御使を務めるにあたり敷根姓では差し支えるため、島津姓を名乗るよう光久の意向を伝えた連署書状。日付はインデックス記載の寛永二十年十月五日を保持するが、本文の日付は寛永二十年十月十五日である。
「寛永廿年」十月十五日 / 冊子 257頁
川上久国ら四名が敷根筑前守へ、京都への使者としての用務を終え次第、さらに江戸へ赴いて将軍へ祝言を申し上げるよう光久の命を伝えた連署書状。島津久通・新納久詮と相談し、添付の書状・案文に沿って手続きを進めるよう指示している。
「寛永二十年」十一月九日 / 冊子 261~264頁
島津久通・新納久詮が国元の重臣らへ、翌年の琉球使者参府について人数・行列・進物・船舶・馬・宿所・衣服・路銀などの準備を詳細に協議した連署書状。朝鮮使節の例も参照し、琉球人百二十人程度という当初案に対して二百五十人前後の編成を検討し、幕府・京都側との調整を求めている。