新納為舟忠元書状
(天正15年)11月26日 / 冊子 364頁
返答が届かないため直書を送り、大木の件や在所の扱い、兵粮・雑事の手配が進まないことへ強い不満を示す。油断によるものか、野心があるのかと問い、現地の事情を詳しく返答するよう村田久右衛門へ迫った新納忠元の書状。
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(天正15年)11月26日 / 冊子 364頁
返答が届かないため直書を送り、大木の件や在所の扱い、兵粮・雑事の手配が進まないことへ強い不満を示す。油断によるものか、野心があるのかと問い、現地の事情を詳しく返答するよう村田久右衛門へ迫った新納忠元の書状。
(慶長四年) / 冊子 400頁
島津義久が前田久右衛門尉に、旧主肝付弾正忠の武勇は広く知られており、その家跡を取り立てるべきだと述べる。前田家が代々重ねた比類ない戦功と忠節を評価して召し出し、高四十石を宛行う。
七月廿一日 / 冊子 46頁
新納忠元が、遠隔地の前田久右衛門尉から京都経由で届いた書状に返答したもの。喜入衆の多くが大坂へ参上し、残留者が二、三人しかいないことを問題とし、交替要員を上らせるよう求め、鎌田出雲守とも相談するよう伝える。
十二月廿四日 / 冊子 123頁
新納忠元が丸田久右衛門尉に宛てた書状。馬越之前目を加増として拝領したことを伝え、明後日二十六日を吉日として、加増地に関する段取り、槍兵への指示、大隅殿への案内と番衆一人の派遣などを命じている。前段には丸田久右衛門尉について、天正五年以来の合戦歴、十六歳以来三十八人を討ち取ったこと、加藤式部左衛門尉を案内者として雇う案などを記した覚が付されている。
十一月廿六日 / 冊子 124頁
新納忠元(抽斎)が丸田久右衛門尉に宛てた書状。鯨一疋の件と客来への対応について、申し入れが届かないため直書を送ったことを伝える。宮路早右衛門にも帰宅時に堅く申し付けたが、兵粮・雑事などが十分に届かず意外千万であるとして、油断の事情や野心の有無を問い、詳しい返答を求めている。
文禄4年12月16日 / 冊子 927頁
白坂篤国は、幸侃の在所から栗野へ召し移されても「武庫」こと島津義弘への奉公に二心を抱かず、命令に従うと誓う。 島津又八郎(忠恒)の上洛供奉を願ったものの留め置かれた経緯も述べ、配置変更に際する忠誠を神仏へ誓約した起請文。
(慶長五年)十二月廿四日 / 冊子 726頁
新納忠元が馬越の市日を加増として拝領したことを知らせ、十二月二十六日の開市に向け、加藤武部左衛門らと相談して各地の商人を集め、市の振興と商人の定着を図るよう依頼した書状。
(文禄2年)7月18日 / 冊子 715~716頁
島津義弘が明・朝鮮側との応接や使者の接待に尽力したことを石田三成へ報告し、陣替え候補として金海から三里の唐島を知らせる。 大谷吉継・石田三成・小西行長が「唐人」に伴われ釜山海へ向かったことも伝え、講和交渉期の奉行衆と島津勢の動きを具体的に示す書状。
(文禄2年)5月朔日 / 冊子 690頁
長期在陣の辛労をねぎらい、使者二人を派遣したので、引き続き朝鮮での任務に励むよう島津義弘へ命じる。 現地の「御仕置」に関する詳細は別の書面と熊谷半次・水野久右衛門が伝えるとした、在陣慰労と軍令伝達の朱印状。
(文禄2年)5月2日 / 冊子 690~691頁
都への軍勢進入と城内の処置について知らせ、秀吉が現地の配置に不満を抱いているため、熊谷半次・水野久右衛門を改めて派遣したと島津義弘へ伝える。 秀吉の機嫌に異状はなく、義弘の早い帰朝を待っているとも述べた、朝鮮の戦後処理と使者派遣を知らせる書状。
年月日未詳 / 冊子 881頁
秀吉の召しに応じて義弘が朝鮮から上洛することとなり、その旨が北原勘右衛門尉を通じ栗野へ伝えられたため、新納旅庵も五月十七日に名護屋へ向かった。 旅庵は川上久右衛門尉の助けで船を得て義弘に従い、八月の帰国まで同行した経過を記す。
(慶長六年)三月四日 / 冊子 750頁
近衛信尹が龍伯に、徳川家康が島津側へ懇切に対応していると伝え、井伊直政・山口直友の指図に従って早く上洛することが肝要だと勧める。川上久右衛門ら使者への対応にも触れる。
(慶長六年)三月七日 / 冊子 750-751頁
井伊直政が島津義弘(惟新)の正月十二日付返書と二人の使者を受けたことを報じる。龍伯の上洛後は義弘の件も含めて尽力すると述べ、詳細は川上久右衛門ら使者に託した。
年月日未詳 / 冊子 903-904頁
島津家久譜は、徳川秀忠の長女と豊臣秀頼の婚礼成立を受け、忠恒が比志島紀伊守国貞を上方へ遣わして将軍家と秀頼へ祝賀したことを記す。忠恒自身は秋の参覲を命により免除され、川上久右衛門を専使として派遣した。
(慶長八年)八月十四日 / 冊子 904頁
山口直友が七月二十八日の婚礼後の繁栄を報じ、上方へ向かう宇喜多秀家の到着を待っていると伝える。秀家の身命に別条はないと忠恒を安心させ、詳しい事情は川上久右衛門の口上に託した。
(慶長十年)八月七日~九月十六日 / 冊子 28頁
島津常久譜の記事。八月七日、鎌田政近の使者が、朝鮮人の女性を質人として乗せた船が大坂に着岸したと報じた。続いて、常久の座上の壁にいた手飼いの青鷺を大樹の鷹師与右衛門尉が持ち去り、西牟田辺右衛門・税所久右衛門が追跡して負傷させたため、鷹師衆との騒動となり、両名が追放された経緯を記す。八月九日の質人の伏見到着、同月二十一日以降の使節往来も記録する。
慶長十一年十一月七日 / 冊子 92頁
新納拙斎が蔵代官に、正月酒用の米として蔵入米百石につき一斗七升ずつを支出し、丸田久右衛門へ渡すよう命じた切符。
年月日未詳 / 冊子 723頁
島津家久室が慶長五年に肥後で生まれ、母は皆吉久右衛門続能行の娘であったことを記す系譜記事。
(寛永十一年)四月六日 / 冊子 418頁
伊地知重康が、喜入久右衛門尉の上洛で国元の様子を知ったこと、七島との替地として久志地頭を任じる件を伝え、久志役人を召して協議し処置するよう求めた書状。
二月廿九日 / 冊子 772~773頁
四人で先手を務めて有馬春之城本丸の塀に取り付き、塀越しに槍を合わせようとしたが、日高十兵衛・有馬久右衛門らが石打ちに遭い、槍を合わせられなかった経緯を記し、鹿児島衆の実見を証跡とした四名連署の差出。
(寛永十五年)三月朔日 / 冊子 784頁
二月二十八日辰刻、有馬原城本丸攻略の際、友野七郎と藤井助四郎が石垣際へ先に進み、敵の投石を受けて三間ほど下へ落ちた場面を実見したとして、有馬久右衛門が三月朔日に提出した証文。
(文禄二年)五月朔日 / 冊子 41頁
長期在陣の辛労をねぎらって衣類を贈り、引き続き精勤するよう求め、現地の仕置について別書で命じたうえ、詳細を熊谷直盛・水野久右衛門尉に託した朱印状。
明暦元年十二月廿八日 / 冊子 270頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0592
鎌田政昭が藤野久右衛門へ、家伝文書八十七通のうち四十三通が正文の写し、四十四通が写本・案文の写しであること、原本を島津光久へ献上して三十斛の新恩を受け、未済借財も家老評議で銀二貫目余を与えられ弁済したことを証し、後世の亀鑑として原本どおり写したと記した証状。
年月日未詳 / 冊子 560~561頁
大重平六の覚書。七月十九日に伏見城攻撃が始まり、八月朔日に落城したのち島津勢が美濃へ向かい、大垣近くの奥窪・六之渡付近に陣した経過を記す。岐阜城陥落と石田勢の敗戦を受け、洲俣の人数をまとめ、新納弥太右衛門・川上久右衛門らが石田治部少輔の馬口を取り、島津豊久らと大垣城へ籠ったこと、家康が赤坂に陣し義弘が大垣に滞留したことを述べる。
(慶長五年)十一月廿四日 / 冊子 619~620頁
本田少吉が勝一郎へ、扶持に関する音信がなく心細いこと、自身も山口勘兵衛方でいまだ堪忍して助丞の上洛と返事を待っていることを伝える。旅庵と狭い宿で寒さに難儀している近況を述べる一方、川上四郎兵衛・助七・久右衛門・東郷源六・進牟木彦兵衛らが無事であると知らせ、助丞が上洛すれば自分たちの下向も可能になるので急ぐよう求める。
(寛永九年)七月廿六日 / 冊子 298~299頁
島津久元と伊勢貞昌が、加藤忠広改易後の熊本城受渡しと上使到着、相良・加藤右馬頭・大口・山野・出水・綾・高岡等からの注進を確認し、早打への礼を命じた。また肥後へ向かう諸勢への兵糧米貸与、山川・頴娃方面に着岸した唐船への対応、喜入久正没後の国分地頭職と喜入久右衛門尉の鹿児島移転などを指示した連署書状。
(文禄2年)5月朔日 / 冊子 688頁
泉又太郎が島津豊久の与力に命じられながら、仮病を装って船に留まり、軍役に加わらなかったことを秀吉が「前代未聞」の違反と断じる。 本来は成敗すべきところ命は助け、知行を没収して小西行長に預けるよう命じた、朝鮮在陣中の軍役忌避に対する具体的な処分状。
年月日未詳 / 冊子 831頁
文禄三年十二月十日、栗野で兵庫頭忠恒の御前に定められた人員移動と土地配置を記す覚書。上野彦九郎や吉田等松田弥蔵、飯野衆、多藤五郎などの移転先・召集・交代を列記する。 吉田・馬関田・小林・高原などの人々について、合計約百六十人をどこへ配置するかを具体的に示す。朝鮮出兵期の薩摩国元における家臣団の再編と土地支配を知る史料。
年月日未詳 / 冊子 561頁
島津義弘(惟新)譜として、徳川家康の上杉景勝征討中に石田三成が残留大老を謀って関東に対抗し、義弘へ出兵を催促した経緯を記す。義弘は七月二日から十七日まで繰り返し拒み、伏見城への入城と守備を願ったが鳥居・内藤らに拒絶された。朝鮮出兵や伊集院忠真の反乱で兵が二百余人に減り、忠恒や義弘の妻を含む一族が大坂に人質としていたため、やむなく石田方に加わり、八月朔日に伏見城を落としたと説明する。
慶長五年十一月廿八日 / 冊子 620頁
新納新八郎ら十一名が、用に備えて銀子一貫目(うち七匁不足)を借用したことを証する。利子について配慮を受けたことに謝意を示し、本銀は各人が国元へ下る次第、早々に返済すると約束する連署借用証文である。
11月21日 / 冊子 391頁/原整理番号 356の5
『飯米賦渡送状』は、十一月二十一日、小松原の久右衛門主従へ赤米九斗を割り当てる(人名箇所に本文『本まゝ』注記)。末尾では、五枚帆船の水手六人に同日以後二十日分の海上飯米を一人一日赤米七合五勺で算用し、天草一乱に伴い小松原から出水へ送る船用として渡すよう永山覚右衛門・三原源右衛門へ命ずる。
正月廿六日 / 冊子 8~9頁/原整理番号 3-9
喜入忠政が喜入久右衛門尉ら四名へ、急用の使者として加世田衆一人を差し上せ、自分の夫を付けて届けたので、帰路には宿送夫一人を付けるよう求める。また、出水から小船で天草上津浦へ着けるための取り成しと、先便で頼んだ杉原・中紙の早急な送付を依頼する書状。
寛永9年8月12日 / 冊子 24頁/原整理番号 30の2
西田時通と西田市左衛門尉が合計八十五石四斗四升について、自分高による乗馬奉公を申し出る。二人分の鉄砲二挺・鑓二本・弓二張と矢を保有するとし、馬とその他の道具の支給を求める。
寛永9年8月12日 / 冊子 24頁/原整理番号 30の3
井上帯刀長が知行五斛について、自分高による乗馬奉公を申し出る。鉄砲一挺・鑓一本・弓一張と矢を保有し、馬一疋とその他の諸道具の支給を求める。
7月20日 / 冊子 211頁/原整理番号 130
船賃を平戸で精算するため客衆と同心して平戸へ向かい、船貨・借入米などを処理するよう求める呂宋船頭めんてすの書状。
寛永15年正月19日 / 冊子 757~759頁/原整理番号 803
出水米之津と黒之戸で定めた天草出陣人数を、久元3,707人、久賀3,609人、久加3,692人、浮衆・船奉行と廻り245人、兵糧渡衆15人、総計11,268人とする。人躰5,235人、卒者・夫丸6,033人に分け、先に島原へ渡った衆や諸湊から直接渡海した者、未着者など、人数不明・除外の事情を細記する。寛永十五年正月十九日、賦所二名が花押を据え、相良ら四名に宛てる。
年月日未詳 / 冊子 238頁/原整理番号 173-4
馬追の日に付ける人員の記録。四月四日に担当者を追加・改定した旨を記し、長江浦・池田・庄屋など関係者の名を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 89頁/原整理番号 146
『国分賦所日記』。御道具持ちとして国分から鹿児島へ出立した十七人を列記し、宮内からの夫四人と出水までの送夫二人を付記する。また喜入久右衛門を迎えるため出水方面へ出た衆中と送夫を記す。本文は二月七日条だが目録年月日欄は空欄。
二月十日 / 冊子 114~115頁/原整理番号 180
川上久国・三原重庸が島津久元・山田有栄へ、四日付書状への返答として、旧冬に鹿児島町で出会った桂外記・柳元喜左衛門が福昌寺・浄光明寺から寺領を与えられ、当地へ来たかを尋ねる。幕府の公儀により町奉行へ任命できない事情を述べ、喜入久右衛門・相良杢助と相談して寺領・町奉行双方の扱いを調整するよう求める。
二月廿九日 / 冊子 319頁/原整理番号 359
日高十兵衛尉正盛・有馬久右衛門・藤井助四郎・友野七郎の四人が、先手として原城本丸の屏に着き、屏越しに鑓を合わせた状況を届ける覚。ただし日高と有馬は鑓を合わせようとしたところ早く石打ちに遭い『無生ニ罷成』ったため、実際には鑓を合わせなかったと明記する。鹿児島衆が後方の岡から見たことを証跡とし、『薩摩壱番鑓合』と掲げる。二月二十九日付で市来八左宗友・新納加賀守忠清宛。編者注は『旧記雑録後編五』二一五九号文書と同文とする。
三月朔日 / 冊子 357頁/原整理番号 405-2
有馬久右衛門尉(純兵)が、寛永十五年二月二十八日の有馬原城本丸落城時、日高拾兵衛正盛が友野七郎・藤井助四郎と先陣し、屏際で敵の石打ちを受けて三間ほどの石垣から落ちながら名誉を遂げたことを、自身も同じく城乗して実見したとして、三月朔日に日高へ渡した証文。
五月十五日 / 冊子 11~13頁/原整理番号 6
桑幡孫六が、養父桑幡久右衛門の家の由来と奉公歴を記した覚書。久右衛門の父牛屎刑部太夫が求摩で戦死し、二歳の久右衛門を連れた母が島津惟新を頼って平松の松平隠岐守家に仕えたこと、成長後の久右衛門が駿河・江戸への供奉、国焼の茶入進上、銀子二枚の拝領を経験したことを述べる。牛屎を本姓、桑幡を小名字とする由緒と、文治三年から建武四年までの所蔵文書八通も列挙する。
天明五年二月二十七日 / 冊子 793頁/原整理番号 2195の7/整理ID 2195-7
二月二十七日の能組。翁・三番叟に続き、弓八幡を観世太夫、羽衣を宝生太夫、祝言岩松を十太夫と記す。御跡として末廣かりを彌太夫、是界を金剛太夫、祝言金札を源五郎とする曲目を列記する。各曲の下に配役・囃子方の名を併記する。
十二月十四日 / 冊子 18頁
安楽兼惟が、自力で高麗へ渡って鎌田主助のもとで二年奉公したこと、鎌田玄蕃に従って出陣し惟新の帰国に供奉したことを列記した申状。奉公の認定を豊州・惟新へ求めたものの、隠居や談合未決、中納言様・薩州様の上洛で返事が延びたため、今度は地頭を頼って披露と取り成しを願う。
年月日未詳 / 冊子 785頁/原整理番号 866
国分賦所日記の正月二十五日条に久右衛門の来訪・滞在を記す。続いて元日攻城時、寄手が退く中で三原重庸が城へ向き直り、犬追物で鍛えた弓馬の技で数筋の矢を放った働きを述べる。吉田印西がこれを聞き、息子三右衛門の使行を機に賀書・贈物を送り、対面も求めたとして、重庸の名声を評する。
記事成立日:未確認 記事内参照年紀:文祿四年乙未九月三日 記事内参照年紀:慶長五年庚子 記事内参照年紀:五月廿五日 記事内参照年紀:七月十四日 記事内参照年紀:同年九月十五日 記事内参照年紀:自十月朔日至拾一月六日共三十六箇日 記事内参照年紀:慶長七年正月十五日 / 冊子 199~200頁/整理ID TMP-P02-CONT-A75
文祿四年九月三日の先領七ヶ所返地、吉利村田數三千二百、在判目録に関する叙述を置く。本田下野入道三清・伊集院右衛門大夫入道幸侃の名があり、授受の細部は留保する。 慶長五年の伏見宅地警衛、五月廿五日の吉利出発、七月十四日の大阪到着、三成と家康卿との隙を記す。伏見城攻撃の先登戦功と、惟新君が川上久右衛門に伝えさせる感言に言及する。 同年九月十五日の濃州関之原合戦で関西軍が敗散し、重張が惟新君を離れ、喜入攝津守・新納族庵・本田助〔丞カ〕父子等と伊吹山へ退去したとする。頼實僧を含む四人、海津・江州小松への移動、寄宿拒否、穴居と捕縛・大阪への移送を述べる。省略主語・人数句の指示は留保する。 山岡修理亮殿、頼實の僧體・獄舍に係る句、重張の免除をめぐる訴えを記す。収監操作の主体と直接引用範囲は未確定。十月朔日から十一月六日まで三十六箇日の獄舍滞在、原免、泉州堺・藝州廣島への移動、文識房の学問・越年、慶長七年正月十五日の帰郷を述べる。学問の主語は重張へ補わない。
万治2年9月朔日(目録) / 冊子 502~503頁/原整理番号 37
國分宮内の留守・桑幡・澤・西勝寺の四氏の系図を御記録に照合するため、平田清右衛門から喜入久右衛門へ差し出すよう求める。万治二年九月朔日付。
「寛永十六年」八月十日 / 冊子 31~32頁
島津久元が国元の重臣らへ、ポルトガル船や黒船が領内へ来航した場合の処置を報告した書状。港に番を置き、長崎奉行らへ知らせ、江戸へ急報し、抵抗する船には石火矢を用いて徹底して対処するよう幕府から命じられたと伝える。あわせて姫君の祝言日程と兼松弥五左衛門尉の長崎派遣を知らせている。
「寛永十六年」八月十一日 / 冊子 32~33頁
島津久元が国元の重臣らへ、江戸城で早朝に火災が起こり、本丸天守は残ったものの二の丸などが焼失した状況を急報した書状。酒井忠勝・松平信綱らに出向いて事情を確認し、島津家からの見舞い・献上について相談し、必要なら材木などを用意する案を伝えて指示を求めている。
享保十四年十二月十一日 / 冊子 1008頁/整理ID 2461
十二月十一日の御能組として、翁・高砂・東北などの演目と勤める役者名を列記する。