肝付兼氏譜
年月日未詳 / 冊子 122頁
『肝付兼氏譜』の記事。永徳二年六月七日、公使の大寺弾正忠保音入道幸阿らが、北原主計入道に姶良荘末次の田中寺寺務職を命じたことを記す。
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年月日未詳 / 冊子 122頁
『肝付兼氏譜』の記事。永徳二年六月七日、公使の大寺弾正忠保音入道幸阿らが、北原主計入道に姶良荘末次の田中寺寺務職を命じたことを記す。
永徳二年六月七日 / 冊子 122~123頁
慶安・幸阿が北原主計入道に、大隅国姶良庄末次内田中寺の寺務職を計らい与え、先例どおり沙汰するよう命じた連署状。本文には島津氏久御譜にも収載されるとの注記がある。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 649頁
慶長十九年七月二十三日、明石川喜之内の高十四石を淵辺主計助へ宛行った知行目録。三原重種・伊勢兵部少輔・比志島国貞・町田久幸が連署する。本文には編年位置を誤った文書との注記がある。
正月十五日 / 冊子 187頁
島津義弘が加藤主計頭へ、明軍約二十万が攻め寄せ、小早川勢が正月六日に敗れて黒田甲斐守の陣所まで退いたとの報を伝えた書状。義弘は奥陣の「つなぎ」として当地に置かれているため動きにくいと述べ、在朝鮮軍が急に引き取る事態を憂慮する。加藤側が退陣を考えているのか、蔚山方面から釜山浦へ通じる直道を使うのかなど、具体的な撤退方針を尋ねる。
四月十七日 / 冊子 409頁
島津龍伯が加藤主計頭へ、京都から仰せ付けられた巣鷹を運ぶ通路について度々申し入れても承諾がないため、阿蘇方面へ通す二人の使者と僧の道中に支障がないよう取り計らうことを頼み、近隣同士として今後も用向きを伝え合いたいと述べた書状。
(天正19年)6月27日 / 冊子 506頁
島津竜伯が、筑摩の件を京都から命じられ、求麻へ通路確保をたびたび申し入れたが同意を得られないと伝える。阿蘇方面へ二人を通すため僧侶の路次に支障が出ないよう処置を求め、近隣として今後も互いの用件を取り次ぐよう頼んだ書状。
天明元年閏五月 / 冊子 620頁/原整理番号 1756/整理ID 1756
郡奉行見習の役を新たに立て、二階堂主計をこれに任じると申渡した書付。役順については御裁許方見習の次とし、奥向の係へも伝えるよう指示する。天明元年閏五月の記載がある。
(文禄元年)6月18日 / 冊子 571頁
豊臣秀吉が、朝鮮渡海の遅れに不満を抱いた梅北国兼が佐敷辺で一揆を起こしたため、義久からの報告と首を討つ旨の命令を受け、現地諸将へ即時の成敗を指示した朱印状。 島津兵庫頭の不安を除くよう申し聞かせることも命じ、梅北一揆を島津家だけでなく豊臣政権の軍事命令として鎮圧したことを示す。
年月日未詳 / 冊子 310頁
追放後に反逆した奈良氏兄弟が守る指宿城を島津久豊方が包囲した経過を記す。退城交渉がまとまらず攻撃となり、奈良方は隈城へ退却して降伏した。戦闘で酒勾主計が戦死し、清敷彈正忠らが軍功を挙げたことを示し、指宿支配の回復を伝える。
元亀二年~四年 / 冊子 303頁
中山主計介・中山綱幸・中山源次綱吉・湯前対馬守・橋口半七郎・四藤清右衛門・米良美濃守・肥田木三郎兵衛らが、野心なく二心を持たず島津氏へ奉公すると誓った同文の起請文群。元亀二年から四年にかけての日付と各人の署名・判を列記し、違反時の神罰を誓う。
天正元年三月下旬~四月 / 冊子 304頁
天正元年、禰寝方が肝付氏から離反し、高洲を破って日向の警固船などを奪ったことを記す。三月下旬には野頸の米良美濃守・肥田木三郎兵衛・中山主計が野心を企て、召喚に応じると偽って途中から薩摩へ逃亡した。四月には野頸城を廃して城ヶ尾へ移し、関係者と足軽約四十人が飯野へ逃れた。
年月日未詳 / 冊子 75頁
天正十三年閏八月十三日の肥後甲佐・堅志田城攻めで、樺山久高が城門へ進み、防戦する敵兵と交戦した記事。高田中軍兵衛・森山主計が各一人を討ち、高崎大蔵兵衛正顕が首級を挙げるなど、久高配下の戦功を具体的に列挙する。
年月日未詳 / 冊子 309~311頁
島津義久の上洛・降伏後、秀吉が九州を治定し、一族を人質に定め、日向諸県郡を又一郎久保へ与えるなど諸大名の知行を再編した経過を列挙する。続いて肥後を拝領した佐々成政が検地を急いで国衆一揆を招き、鎮圧に失敗して摂津で切腹し、その後の肥後が小西摂津守・加藤主計頭へ分与されたことまで記す。九州仕置と検地抵抗を伝える重要記事である。
文禄4年10月6日 / 冊子 917~918頁
滝重時は上井仲五を介して京都での謁見や渡海、城替えの処置について指示を仰ぎ、遅滞なく進めたいと伝える。 加藤主計頭・毛利豊前守らの動向や現地の軍事情勢も報告し、使者から詳しく聞くよう求めた、朝鮮在陣中の長文連絡。
(慶長元年)九月七日 / 冊子 41~42頁
小早川隆景が義弘へ、唐人側の発言で和平が破れ、毛利壱岐・加藤主計・小西摂津が渡海を命じられ、翌年には四国・中国勢も渡海する触れが出たと伝える。朝鮮王子を渡さず礼を遅らせたことへの秀吉の怒りに触れ、義弘にも渡海命令が出るか尋ねる一方、自身は暇を与えられ、十四、五日頃に乗船して帰り養生する予定を知らせた書状。
(慶長三年)正月六日 / 冊子 184~185頁
島津義弘が、前年十二月二十一日に唐人が加藤主計頭の蔚山新城を攻め、同二十六日に急報が届いたことを伝える書状案。泗川普請に当たる垣見和泉守らも救援へ動くなか、城主は受け持ちの泗川を守るべきだとの指示を踏まえ、義弘父子の一人を留守居に、一人を東方の蔚山救援・見分に向かわせたいと述べる。さらに晋州・固城方面の唐人の動きと、物見・追撃の状況を報告する。
年月日未詳 / 冊子 188頁
『島津豊久譜』から、明軍が蔚山城の外郭を破り本城を危機に陥れたため、島津豊久が泗川から船で救援に向かい、三日で蔚山へ着いた記事。到着時には敵が退いていたが城兵はまだ知らず、豊久は単騎で諸軍に先駆け、敵首二級を得て鞍輪に結び付けた。左耳の下に傷を負っても退かず、その後に加藤左馬頭・黒田甲斐守・鍋島信濃守らが到着し、豊久は先駆けの働きを浅野左京大夫・加藤主計頭から賞賛された。
(慶長三年)正月廿六日 / 冊子 190~192頁
宇喜多秀家以下十三名が、蔚山での明・朝鮮勢の攻撃を踏まえ、朝鮮在陣諸城の配置と普請方針を再検討して奉行衆へ言上した連署状。蔚山は突出し川越えの難所もあるため、西生浦に加藤主計頭を置き、安芸宰相勢五千を残して普請させる案を示す。順天は大河と遠い干潟のため海陸から救援しにくいとして、小西勢を島津の泗川城へ、島津勢を固城へ移す案を提示するが、小西摂津守・対馬守は同意しなかった。順天・蔚山の普請は下知まで見合わせ、梁山を加徳へ替えて安芸宰相に普請、黒田甲斐守に在番させ、毛利壱岐守を固城在番とし、城主の半役を普請に充てるよう提案する。
(慶長三年)七月十五日 / 冊子 223~224頁
増田長盛・浅野長政・石田三成・前田玄以が島津義弘に、豊臣秀吉は霍乱を患ったが盛法印の薬で快方に向かい、近頃はさらに回復しているので心配は不要と伝えた連署状。義弘の「御無事」の件は加藤主計の筋で解決し、難しければ小西摂津守ら在番衆と相談して調えること、秀吉病中の雑説に惑わされないことを求める。
慶長三年八月廿五日 / 冊子 230頁
豊臣政権が「御無事」の決着後における釜山浦在番の組分けと番替を定めた朱印状。加藤主計頭・小西摂津守・島津兵庫頭・黒田甲斐守らを複数組に編成し、各城から釜山浦へ引き取る際は兵糧・玉薬・鉄砲などを運んで蔵に収めること、対馬豊崎には久留米侍従・筑紫上野介・寺沢志摩守の計二百人を置くこと、在番外の一部諸将は帰朝して御目見することを命じる。
慶長三年八月廿五日 / 冊子 231頁
豊臣秀吉が、「御無事」の決着後における釜山浦在番の組分けと番替を定めた朱印状。小西摂津守・島津兵庫頭の組、加藤主計頭らの組、黒田甲斐守・鍋島加賀守の組を置き、各城から釜山浦へ引き取る際は兵糧・玉薬・鉄砲などを運んで蔵に収めること、対馬豊崎には久留米侍従・筑紫上野介・寺沢志摩守の計二百人を置くことを命じる。
(慶長三年)十一月廿日 / 冊子 284頁
島津豊久が(慶長三年)十一月廿日付で伊勢弥九郎へ出した書状。順天方面の番船と交戦して味方の船も出たとの知らせを受け、家中の負傷者や現地の様子を案じる。加藤主計頭・黒田氏・鍋島氏が当地へ来たものの急迫した様子ではないと伝え、使者を送れないため、詳しい状況を返信で知らせるよう求める。
慶長六年十二月十九日 / 冊子 754頁
伊勢貞成が、大隅国桑原郡般若寺村内の屋敷・田畠を主計、孫五左衛門、仲十郎、三郎次郎、大学介らへ割り当てた知行目録。各屋敷の面積と石高を列記する。
(慶長六年)八月六日 / 冊子 772頁
島津義弘が島津忠恒に、談合のため富隈へ来るとの意向を喜び、風が強ければ義弘のもとへ直接来るよう伊地知主計助を介して伝える。面談して相談すべき事柄が多いため来訪を待つとした書状案。
(慶長十九年)七月八日 / 冊子 531頁
慶長十九年七月八日、島津義弘が、長年笛を稽古し音楽で奉公することを望む宮原主計助を召し寄せたとして、伝授済みの技法を残らず指南するよう笛師へ依頼した書状。
(元和九年)九月 / 冊子 797~798頁
島津家久が井上主計頭へ、両御所の在京諸事が上意どおりに済み、自身も暇を得て帰国し在国していると伝えた。京都出立時は取り紛れて十分に暇乞いできなかったことを惜しみ、翌年早々に訪問して懸案を相談するので、新しい動きがあれば知らせるよう求め、品三端を添えた書状案。
(寛永七年)八月十一日 / 冊子 169頁
西丸の秀忠御座近くで豊島刑部・井上主計らが関係する不慮の事件が起こり死者が出たこと、大名・小名が急ぎ登城し、混雑のため黄門も徒歩で入城したことを知らせた島津久元・伊勢貞昌の連署書状。
七月六日 / 冊子 33~34頁
賦所が、諸士と従者の人数、夫役、船数、乗船地、飯米の受領方法を定めて平田狩野介・上原源右衛門尉へ達した文書。如瀬浦・名護浦へ移動し、山田主計助の指示で乗船すること、三枚帆三艘への割付や三日分の飯米を用意することなどを命じる。
四月廿四日 / 冊子 43~44頁
鹿屋某が、関ヶ原合戦後に肥後八代へ赴き、黒田如水・加藤主計正らの軍勢に交じって情勢を探り、惟新らへ報告した奉公歴を申し立てた文書。その後も筑前・京都への使節や上洛供奉を重ね、入来市比野村で知行十石と屋敷一所を与えられた経緯を列挙する。
正月十六日 / 冊子 396頁
長岡兵部と石田三成が、肥後方面の統治と国侍の処置、安国寺使者の派遣、浅野弾正少弼・加藤主計頭ら検地担当者の対応、四国衆の配置などについて指示した連署書状。
六月十三日 / 冊子 191頁
先刻は番役のため薩摩家久の書状へ返事できなかったと断り、渡辺宇四郎が家久の病状を詳しく申し上げたため、見舞いの上使として井上主計頭が再び派遣されたと知らせ、養生を怠らぬよう家久へ申し伝えることを頼んだ書状。
正月九日 / 冊子 185~186頁
島津義弘が河上三河入道へ、前年十二月二十一日の蔚山新城攻撃と同二十六日の報知、その後の救援準備を知らせた書状。泗川の受持城を空けられないため、義弘父子の一人が城を守り、もう一人が諸将とともに蔚山方面へ赴く案を述べる。あわせて晋州・固城・泗川周辺の敵情、物見の報告、在陣衆の動向を伝え、城の守備と東方救援を両立させようとする。
(慶長三年)九月廿七日 / 冊子 239頁
加藤清正が島津義弘・忠恒に、順天方面で明軍が活動していると聞き心配している一方、自陣にも九月廿一日に七、八万の敵兵が進出したと報告した書状。数度の戦闘で敵を討ち、敵は城際に陣取れず二十町ほど退いて対陣しているため、自陣については心配不要とし、義弘らの方面の状況を詳しく知らせるよう求める。
(慶長三年)十一月十六日 / 冊子 279~280頁
加藤清正が(慶長三年)十一月十六日付で島津義弘・忠恒・立花宗茂へ出した書状。十一月十二日付の注進を受け、順天が通路を断たれ兵糧も乏しく、長く籠城できないとの報告を重大視する。日本の年寄衆・奉行衆から撤収命令が出ているものの、自城を翌十七日に引き払い、諸将に加わって順天救援へ向かう覚悟を示す。
「寛永十八年」十二月廿六日 / 冊子 181~183頁
川上久国・新納久詮が国元の重臣らへ、九州巡回上使の松田善右衛門・蒔田数馬・曽川喜左衛門を迎えるため、国絵図を持参して経路や宿所を協議した結果を報告した連署書状。上使は江戸を正月二十三日に出立し、細島・佐土原・飫肥・志布志・肝付・根占・佐多・種子島・屋久島・永良部島・山川などを巡る見込みで、渡海船・水主・供人数・宿所・賄い・案内人を整え、天候や海上事情に応じた代替経路を準備するよう指示している。追記には、十二月二十六日付の書状が翌年正月十八日に御道具衆によって届けられ、飛脚が立山吉左衛門・末原甚左衛門であったことを記す。
四月廿五日 / 冊子 377~379頁
近衛前久が伯老(龍伯)に、諸大名の支援、自身と周辺人物の病状、書状や使者、馬・鷹とその薬、贈答、京都での諸案件など、多数の照会事項への回答と依頼をまとめた長文の書状。
元禄十三年二月九日 / 冊子 198頁/整理ID 684
小笠原彦太夫が島津主計へ、昨日来訪時は上野参詣で不在だったことを残念に思い、遠方からの帰りに立ち寄って休息し心遣いを受けたことに謝す。口上書を受け取り、日向国絵図を薩摩守一人で調える旨が井上大和守から留守居へ伝えられたと承知し、主計の骨折により首尾よく運んだことを喜ぶ。修理大夫の喜び、薩摩守への道中連絡、二月十七日の発足にも触れ、尚書で内意の処理を約す。
元禄十三年十一月六日 / 冊子 246頁/整理ID 836
神宮寺純正・町田久置・伊集院久美の三名が嶋主計と与力衆へ、諸国絵図改訂に伴う日向国の用務を貴殿に命じられたと江戸から知らされ承知した、と答えた連署状。当方の絵図を正保年間に公儀へ提出したとおりに調え、追って使者により申し上げる予定と伝える。
〈寛延元年〉十二月二十一日 / 冊子 132~133頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0362
十二月二十一日、嶋津右平太・伊勢兵部が、嶋津左衛門・樺山主計・嶋津矢柄へ、隅州様による御鷹の鶴拝領と御礼の取扱いを知らせる。先例に従って準備したところ、去る七日、上使の櫻井監物が鶴を届け、名代の水野肥前守に伝えられたという。上使が出向いた際には御門の外まで出迎えて案内し、大御書院中段の頭に着座させた。上意は肥前守が承知し、鶴を受け取って御勝手へ運び、上使には休息を勧めた。礼を申し上げ、熨斗・茶・多葉粉盆を用意したが料理は辞退され、退出時も迎えた時と同様に送ったと述べる。 同日、老中方へ御礼の名代として肥前守を回し、若年寄方へは御番頭高橋七郎右衛門を使者に立て、御側衆にも表方を通じて使者を申し達した。上使には先例どおり御太刀と金馬代を贈り、同日使者を遣わしたことを記す。付記では、太守様が承知したうえで三御所へ使札による御礼をし、愛宕御馬廻の内から使者を立て、書状での御礼も済んだと伝える。隅州様から公方・大御所・大納言への内證の御礼と、公方への書状による御礼も先例に従って取り計らうとする。 拝領に伴い、姫君様から隅州様へ祝詞を贈り、当日勤務の役人にも帳面を添えて祝儀を申し上げさせるが、忌中の諸事は追って扱うと記す。末尾では、鶴の拝領を喜んでこの事情を知らせる旨を述べ、御女中にも伝えるよう求める。
安永六年九月十日(年は朱) / 冊子 533頁/原整理番号 1482/整理ID 1482
当冬は宿次御奉書による御鷹の鶴を拝領する順年であるが、来早春に出発し三月中に参府するよう申し渡されたとして、それでも差し支えなく拝領があるかを尋ねる。参府の途中で頂戴することになる場合、御礼使などをその場所から差し越す扱いとなるのか、それとも御流れとなるのかを聞き合わせ、何分の儀か知らせるよう依頼する。九月十日、嶋津左中、二階堂主計殿宛。原の署宛脇に上・下の朱表示があり、同欄に十月十四日付の朱書返答が入る。
安永六年十月十四日(年は朱) / 冊子 535~537頁/原整理番号 1489/整理ID 1489
来年の参府が早く、宿次御奉書による御鷹の鶴を拝領する順年が御流れになるのではないかを内々に聞き合わせるよう命じられたことから、その折衝を報告する。まず右近将監方で、正月中旬頃に国元を出発するなら来年の拝領はない筋かもしれないと聞いたが、右近将監本人へはまだ内々の問い合わせをしておらず、断定し難いとする。去六日朝、松倉左中に会い、在国年の格年に拝領してきたこと、去々年の順年には拝領がなく当年は拝領されると思っていたこと、早春出発・三月中参府を願った経緯を述べた。宿次の鶴は極月末又は正月に当地から送り出され、遠国のため旅中で頂戴する場合と、出発が早く拝領がない場合の二筋があり得るとして、拝領の有無と御礼使の扱いを相談した。松倉は都合のよい方で差し支えない旨を述べ、旅中で頂戴する場合は役人に相談し、御着服・外表向・外廻りの扱いにも触れる。有川は旅宿での拝領、在府後の拝領、後年に障らない延期等の扱いを尋ねた。松倉は国元を発つ前の拝領を心積りとし、当年在国中に拝領がなくても後年に障ることはない旨を述べた。右近将監への内密の問い合わせ、八日朝の再訪、九日頃の飛脚を見込んだ返答の催促、先例や若年寄方の調べが続く。後段では国鷹の順年に当たる家が早春に発駕する場合の話を聞き、早春出発による順年繰替の例はなく、鶴は捉飼次第で年内に下されることも翌年になることもあるという説明を載せる。年内に国元で拝領する心積りや当年者相除ケ方との取り調べの方向にも触れるが、十月十四日の記載時点では松倉方からまだ何分の連絡も受けておらず、まずこの旨を報告すると結ぶ。有川勇馬、主計様宛。差出の貞厚・留守居、宛所の家老二階堂行旦は原注にある。
天明元年十一月二十二日・十二月十三日(本文内) / 冊子 647~648頁/原整理番号 1840/整理ID 1840
御両公への祝儀献上物や御縁女への献上物について、琉球へ品目・数量の手当を命じる時期と方法を相談する。中山王からの祝儀使者と献上物の申入れを、御縁女の西丸への引移りに合わせてどう扱うかを記し、先月十八日の田沼主殿頭への伺いにも触れる。朱書の返答は「本文致承知、献上物御手当差留候」として当面の手当を止める。天明元年十一月二十二日付の部分に続き、十二月十三日付で喜入主馬殿・島津仲殿・二階堂主計殿を掲げる。見出しは「正文在家老座」で、先行する1839の本文非掲載見出しと分ける。
年月日未詳 / 冊子 681頁/原整理番号 1921/整理ID 1921
島津重豪が島津大進と二階堂主計に、虎寿丸の部屋料として五万石方の内から高三万石を差し分けたことを受け、その支配に意を用い、家督方と混同しないよう命じる直書。虎寿丸は幼年なので掛役が万端に細心の注意を払い、遅滞なくこの旨を守って下知するよう求める。本文末尾は「十二月」のみで、年と日は記されていない。白木御文書五番箱中の注記がある。
天明四年正月廿日 / 冊子 722頁/原整理番号 2042/整理ID 2042
大進久起が左中・二階堂主計に、妙心院の不快について於千萬や女中方から南泉院の加持を求める意向があったと伝える。南泉院の大奥への通行等は通常容易に許さないが、この時は格別として相談し、加持を許したこと、側役も詰めるよう命じたことを知らせる。奥御医師のうち二人を付けた件は先便で伝えており、平田長淳・左近允喜泉を詰めさせ、伺わせるよう命じたと記す。上への伝達は相手の考えに任せる。天明四年正月廿日付、島津大進の書状。大野休之丞の便を通じた受達の朱注を伴い、正文は家老座にある控え。
(慶長五年)十一月九日 / 冊子 612頁
黒田如水(円清)が羽柴兵庫入道こと島津義弘(惟新)方へ、使僧への返書を喜び、井伊直政・山口勘兵衛から使者派遣の話を聞いたとして、遠路のためまず適当な使者を寄越せば加藤主計頭と相談し公儀への取りなしに尽力すると伝える。井伊直政とは特に疎意がなく、聚楽以来の交誼を踏まえて委任されれば誠実に奔走すると保証する。
(慶長五年)十一月十五日 / 冊子 615-616頁
島津義弘(惟新)が樺山久高に対し、出水境の普請を油断なく進めるよう命じる。水俣までは黒田如水・加藤主計頭が兵を出しているが、出水は堅固に備えさせているので安心するよう伝え、しばらく音信がないため見回りの使者を送り、現地の様子を詳しく知らせるよう求める。
(慶長五年)十一月廿二日 / 冊子 619頁
黒田如水が、立花左近の申し入れにより派遣された二人の使者の口上を了承したと伝える。当初、加藤主計頭が軍事行動を起こす予定だったが、井伊直政・山口勘兵衛を通じて釈明することになったため行動を止め、同道して上洛するとし、上方での取りなしに疎意なく尽力すると保証する。
年月日未詳 / 冊子 549頁
加治木御日記の十月十四日条。相良清兵衛の使者長介が来訪し、島津義弘が以前から所望していた槍の柄三本を進上したこと、返書や使者への銭百疋の贈与、宮原主計助の相伴を記す。
天明元年十月二十四日 / 冊子 646頁/原整理番号 1836/整理ID 1836
御縁女の本丸入り・西丸引移りに際して、一般の贈物がどのように扱われるかを問い合わせる。使番を通じて品を同役へ差し越し、頂戴の相済み方を確かめたうえで、嘉兵衛殿への書状による御礼や、右付の者の参上などを相談する。本文中には有川勇馬・小倉喜藤太への拝領物、嘉兵衛殿御宅への御礼も記される。十月二十四日付。見出しは上・下二通の宛名を並べており、同日の1835の品目指図とは別文書として保持する。
十二月十五日 / 冊子 681~682頁/原整理番号 1922/整理ID 1922
島津大進(久起)が、虎寿丸へ部屋料として高三万石を去る六日に分け与えた際の首尾を記す。島津左中が判物を虎寿丸の部屋へ運び、虎寿丸は礼を述べ、左中への拝領物や重豪への対面・礼、部屋での吸物・銚子などが続いた。判物を記録方掛へ渡すこと、御女中方や担当役へ申し伝えることも記す。本文は十二月十五日付で喜入主馬ら四名に宛てる。末尾の天明三年卯二月五日は、この書付を黒田嘉右衛門に渡し白木御文書五番箱に納めたという後注の日付で、首尾書自体の日付ではない。