島津義弘書状
(慶長十七年)七月廿五日 / 冊子 367~368頁
慶長十七年七月二十五日、島津義弘が片桐主膳正へ、薩摩守に関する用件と、書状・諸白樽二荷の贈与、前年高麗以来の懇意に謝した書状。
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(慶長十七年)七月廿五日 / 冊子 367~368頁
慶長十七年七月二十五日、島津義弘が片桐主膳正へ、薩摩守に関する用件と、書状・諸白樽二荷の贈与、前年高麗以来の懇意に謝した書状。
(慶長十七年)閏十月朔日 / 冊子 382~383頁
慶長十七年閏十月朔日、島津義弘が片桐主膳正へ、使札と懇意に謝し、島津家久の使者を介して馬一疋と琉球折敷十枚を贈ったことを伝えた書状。
(慶長四年)正月五日 / 冊子 346頁
寺沢広高が、正月七日朝に徳川家康へ茶を進める予定であるため心得るよう、羽柴左近ら四人へ知らせた書状。前日の六日夕刻に家康の門前まで礼に出るのがよいと助言し、兵庫頭の願いについて又八郎のもとまで出向くよう伝える。
年月日未詳 / 冊子 701-704頁
十九歳の井上主膳は長寿院盛淳に従って関ヶ原へ赴き、敵陣が連なる美濃路を少人数で突破して九月十三日に島津義弘(惟新)の陣へ到着した。合戦では盛淳が義弘の名代として太閤拝領の羽織を着け、後衛に残って敵中へ突入した。主膳は側近くで戦って深手を負い、盛淳の最期を直接は見られなかったが、のち京都・南都を経て帰国した。
(天正13年)12月13日 / 冊子 136頁
近衛信尹が新納忠元に、前年秋以来の禁裏近辺と堂上衆の動向、家門をめぐる事情を知らせた書状。 古川主膳入道の件にも触れ、進藤筑後守からも詳細を伝えるとして、京都の公家社会の近況を島津家臣へ直接伝えている。
(天正13年)12月13日 / 冊子 136頁
進藤長治が新納忠元に、古川主膳入道を御使として派遣することや、禁裏・近衛家周辺の事情を伝えた書状。 忠元がたびたび厚意を示していることに謝意を述べ、今後も近衛家への奉公を頼むとして、京都との取次役を果たしている。
年月日未詳 / 冊子 711頁
文禄二年六月、諸将が大軍で晋州城を攻めた際、島津豊久も城内へ突入したことを記す。 横目の片桐主膳正・藤懸三河守が戦況を記録し、味方の戦死者も出たという、豊久隊の晋州城攻撃参加を示す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 630-631頁
島津義弘(惟新)は大垣在陣中、石田三成から洲俣渡口の警備を求められ、渡河して一泊した。岐阜城方面の砲声と火災を確認後、石田との談合に少人数で出向くが敵が近く、後続も義弘を追った。黒具足の武者が迫るなか矢野主膳の退避連絡を受け、木脇休作らは舟で洲俣を渡って義弘のもとへ急行した。
年月日未詳 / 冊子 646-647頁
駒野で島津義弘(惟新)が花色の木綿衣を着け、同色の手拭で髪を包み、矢野主膳が用いた鞍に敷き替えて馬に乗ったことを記す。伊勢平左衛門が先導し、山間の道を夜通し進んで住吉へ至った。大坂屋敷にいた相良日向・吉田美作入道・新納孫右衛門・上原右衛門佐らも船で兵庫へ追い付き合流した。
(慶長八年)四月五日 / 冊子 888頁
片桐主膳正直盛が島津義弘へ、忠恒の無事な帰国を祝い、来秋の再上洛時にはできる限り用向きを承ると伝える。徳川家康が三月二十五日に参内して今も在洛中であることを知らせ、遠路のため疎遠ながら再会と懇談を望んだ。
(慶長十八年)六月十九日 / 冊子 401頁
慶長十八年六月十九日、山口直友が島津家久の側近へ、那須主膳が駿府から退出した後の取成しと現地事情について、本人から説明させる旨を伝えた書状。
(寛永五年)三月十二日 / 冊子 56~57頁
比志島国隆の処分に関連する調査事項を列挙した覚書。新納越後との往来、国隆の蔵や金銀・家財の封印、京都での貸銀、種子島移送前後の様子、松本主膳の関係、国隆と親密な者の名簿を調べ、秘密裏に報告するよう求める。
十月二日 / 冊子 71頁
良恕法親王が、島津家久の江戸からの上洛を喜び、逗留期間が分からないためまず書状を送ったと述べる。柿二籠と諸白二樽を寸志として贈り、詳しくは西池主膳から伝えるとする。
寛永七年十二月十三日 / 冊子 182頁
正宮武内四所之宮の修理に必要な品々を大工主膳正へ渡すよう、宗代坊と桑幡左馬佑に命じた沢永澄の書下。本文では五か条の内訳が省略されている。
(寛永十年)九月十九日 / 冊子 383~386頁
伊勢貞昌が家久の意を受けて国元の家老へ、矢野主膳父子と関係者への告発について、南蛮宗との関係、証人供述、召喚・拘禁・探索、寺社への照会などを指示し、詮議の経過を詳しく伝えた書状。
十二月十三日 / 冊子 4~5頁
近衛信尹が、前年秋に禁裏近辺へ堂上衆が派遣されて以後、家門の諸事が不如意であると伝えた書状。助成を求めて古川主膳入道を遣わしたので馳走してほしいと頼み、扇子五本を送り、詳細は進藤筑後守から伝えるとする。
十二月十三日 / 冊子 7頁
進藤長治が、使者の古川主膳入道を遣わしたことを知らせた書状。家門の御殿が禁裏近所へ移され、諸事不如意で調達が難しいため、助成と使者への馳走を頼み、家門の祝着になると伝える。
六月十六日 / 冊子 34~35頁
青巌寺法印政遍が、少将の勘気を受けて流浪していた矢野主膳について、川上四郎兵衛尉・本田源右衛門尉へ取り成しを依頼した書状。矢野主膳を青巌寺に招いて勤めさせているが、俗人の寺住まいは不相応であるため、少将への赦免の働き掛けと惟新への伝達を求める。
八月廿七日 / 冊子 56頁
上京を考えていたところ相良方の山衆から攻撃を受け、肥後へ出て大雪にも阻まれた事情を述べつつ、天下への忠節と島津への別心がないことを誓い、那須主膳らの勧めに従って上京する覚悟を伝えた書状。
十二月十三日 / 冊子 642頁
禁裏近辺へ堂上衆の屋敷を移すことになったが、近衛家では諸事不如意であるため古川主膳入道を下向させたと知らせ、助成・馳走を依頼する。あわせて前年夏頃に段子一端を贈られたことを謝した近衛信尹書状。
十二月十三日 / 冊子 643頁
近衛家の屋敷が禁裏近くへ移されるものの、諸事不如意で造営が難しいため、使者古川主膳入道への助成を取り次ぐよう依頼する。以前届けられた段子一端と自分への贈物にも謝した進藤長治書状。
年月日未詳 / 冊子 280~281頁
『島津家久譜』の記事。慶長三年冬、撤兵を察知した明将陳璘らが大船団で海口を封鎖したため、島津義弘・忠恒父子が立花・高橋・寺沢勢とともに、順天の諸将を救うため十一月十七日に南海島岸へ進んだとする。翌十八日、鄧子龍・李統制らの水軍と銃砲・火器を交えて戦い、敵将を討ち、朝鮮船四艘・大明船二艘を斬捕した一方、島津・立花・高橋勢にも多数の戦死者が出た経過と氏名を記す。
年月日未詳 / 冊子 282頁
『北郷三久譜』の記事。慶長三年十一月、明・朝鮮水軍が日本軍の帰路を遮り、順天の小西・大村・五島・有馬・松浦の五家が撤退できなくなったため、島津義弘が立花・高橋・寺沢らと相談して救援に向かったとする。十一月十八日の南海海上で、矢と火壺を受けながら三度敵船へ攻めかかり、勝利した経過を簡潔に記す。
(元和三年)九月十九日 / 冊子 659~660頁
那須祐実・祐増が伊勢平左衛門尉に宛て、近隣の高橋家種が那須氏の山領を奪おうとし、今月八日に山内へ出兵したため、防戦する覚悟であると伝える。天下静謐の時に弓箭を起こした高橋方の非を訴え、山内を防備するため分国の足軽衆による加勢を求めるとともに、この件を島津家へ披露・取次ぎするよう依頼した連署状。
正保三年四月二十六日 / 冊子 41~42頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0072
加久藤噯所案文。四人が伊主膳正へ、出水での大狩に伴い加州様が人数を召し集め、前朝出立したことを承知したと返答する。地元衆も加わる場合には事前の注進を頼み、今朝刑部様へ飛札し、求厂にも一人を派遣したと伝える。今回の狩の様子を詳しく聞いた時や帰宅時には知らせてほしいと依頼する。
七月廿一日 / 冊子 567頁/原整理番号 4の9
福屋兼昭が白坂以益・吉井主膳へ送った書状。上様の忌日に伴う禁断の周知を伝え、以益の役儀と子息勘左衛門による代勤・奉公について、関係者で相談するよう求める。七月廿一日付。
〔承応二年〕八月十七日 / 冊子 567~568頁/原整理番号 4の10
福屋兼昭が白坂以益・吉井主膳・白坂勘左衛門へ送った書状。相良主税を通じて以益の役を免じ、勘左衛門へ役を仰せ付けることになった旨を知らせ、承知するよう求める。承応二年八月十七日付。
年月日未詳 / 冊子 75頁
天正十三年秋、新納忠元が肥後方面へ出陣し、阿蘇方との戦いや堅志田城攻めに関与した経過を記す。田宗和へ帰順を促す書状を送り、十二月には島津家久の書状、古川主膳入道宗忍の来訪を受けた。さらに島津義久の家督継承を祝う使者・贈答にも触れ、戦闘と外交・家中儀礼が連続して進む様子が分かる。
年月日未詳 / 冊子 871頁
朝鮮へ送る石火矢・火薬・鉛玉を諸将ごとに割り当てた豊臣秀吉の朱印状。島津義弘をはじめ、柳川侍従・高橋主膳正・筑紫上野介らの配分量を列記する。 総計は石火矢十四挺、火薬二千五百斤、鉛二千四百斤。朝鮮在陣軍へ火器と弾薬をどのように配給したかを数量で確認できる兵站史料。
二月廿九日 / 冊子 340~342頁
伊勢貞昌が、朝鮮からの撤兵時に小西行長の籠る城が漢南・高麗勢に包囲された際の救援と海戦を報告した書状。立花飛騨守・宗対馬守・高橋主膳らとの協議、島津方の番船・迎船、敵の火攻めによる船の焼失、負傷・戦死、漂流者の救助、退路確保と乗船の混乱を述べ、帰国後も国政に油断なく励むよう求める。
十二月十五日 / 冊子 681~682頁/原整理番号 1922/整理ID 1922
島津大進(久起)が、虎寿丸へ部屋料として高三万石を去る六日に分け与えた際の首尾を記す。島津左中が判物を虎寿丸の部屋へ運び、虎寿丸は礼を述べ、左中への拝領物や重豪への対面・礼、部屋での吸物・銚子などが続いた。判物を記録方掛へ渡すこと、御女中方や担当役へ申し伝えることも記す。本文は十二月十五日付で喜入主馬ら四名に宛てる。末尾の天明三年卯二月五日は、この書付を黒田嘉右衛門に渡し白木御文書五番箱に納めたという後注の日付で、首尾書自体の日付ではない。
天明五年三月十二日 / 冊子 785~786頁/原整理番号 2195の1/整理ID 2195-1
転任祝儀の先月二十七日招請について、老中・若年寄らの出席、能、盃と供食、招請先・贈物・不参者取扱い・後日四日六日の次第等を報告する。本書の署名は上島津伊賀、日付は三月十二日。
文久2年戌7月 / 冊子 267頁/原整理番号 371/整理ID 371
雑集中の短い記事。島田左兵衛権大尉が長野主膳と同じ動きをして奸曲を企てたとして、天地に容れられない奸賊と断じ、誅戮して梟首したと記す。島田には九条家の諸大夫正辰との注がある。文久二年戌七月。断罪的な呼称と処置は記事の記載として扱い、今回独立に裏付けた有罪事実とはしない。発給者・記者の実名や宛先は記さない。
元亀三年九月廿七日 / 冊子 320頁
元亀三年九月二十七日に島津軍が早崎へ着陣して新城を落とした際、伊地知方の各城から島津陣へ内通した者を列挙する。新城一人、本城四人、田上城二人、垂水城九人の計十六人とし、矢文や使者によって連絡した人物名を具体的に記録する。
〔慶長三年〕三月十三日 / 冊子 199~200頁
豊臣秀吉が島津義弘・忠恒へ、蔚山・梁山・順天の三城を自分の許可なく引き払うとの申し出を曲事として強く戒めた朱印状。前年、城数を減らして海辺を固め、交代で人数を渡海させて敵地を焼き働きする方針を示したのに、蔚山城の普請や兵粮・玉薬が整わない時に明・朝鮮軍の攻撃を受けて敗軍したことを挙げる。三城の普請を完成させ、兵粮・玉薬を備えて堅固に守ること、守備困難なら帰朝前に申し出ること、翌年には軍勢を渡して朝鮮の都まで攻めるため蔚山に在城して準備することを命じる。
慶長三年八月廿五日 / 冊子 230頁
豊臣政権が「御無事」の決着後における釜山浦在番の組分けと番替を定めた朱印状。加藤主計頭・小西摂津守・島津兵庫頭・黒田甲斐守らを複数組に編成し、各城から釜山浦へ引き取る際は兵糧・玉薬・鉄砲などを運んで蔵に収めること、対馬豊崎には久留米侍従・筑紫上野介・寺沢志摩守の計二百人を置くこと、在番外の一部諸将は帰朝して御目見することを命じる。
慶長三年八月廿五日 / 冊子 231頁
豊臣秀吉が、「御無事」の決着後における釜山浦在番の組分けと番替を定めた朱印状。小西摂津守・島津兵庫頭の組、加藤主計頭らの組、黒田甲斐守・鍋島加賀守の組を置き、各城から釜山浦へ引き取る際は兵糧・玉薬・鉄砲などを運んで蔵に収めること、対馬豊崎には久留米侍従・筑紫上野介・寺沢志摩守の計二百人を置くことを命じる。
年月日未詳 / 冊子 346~347頁
慶長四年正月七日早朝、徳川家康が島津忠恒・羽柴左近将監ら五人を茶席へ招いた記事。前年十月一日の泗川の戦いで明・朝鮮の大軍を破った功を賞し、同九日に五大老が感状を与えて忠恒を少将に任じ宝刀を授け、五奉行も新恩の目録を与えたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 689-691頁
木脇休作は島津義弘(惟新)から拝領した長刀を携え、洲俣渡で義弘のもとへ急行し、関ヶ原では「島津兵庫頭内の小弁慶」と名乗って敵中へ斬り込み、多数を退けた。山田有栄らと殿軍を務めて義弘を逃し、信楽での危機も越え、七か国を通って片時も側を離れず帰国まで供奉した。
天明七年正月廿九日(年は朱書) / 冊子 934~935頁/原整理番号 2555/整理ID 2555
太守の隠居に伴い、今後は「中将様」と称し、侍従の家督相続に伴い「太守様」と称することを知らせる。記載の順序は太守様を先、中将様を後とするとし、この趣旨を明姫・御女中方に申し上げ、通達等を取り扱うよう求める。正月廿九日付で市田勘解由から喜入安房・川上頼母・島津仲・宮之原主膳へ宛てる。
天明七年二月二十三日(年は朱書) / 冊子 948~949頁/原整理番号 2582/整理ID 2582
中将が隠居後も持病がすぐれず、国許には病状に合う温泉があるので入湯し、領国の仕置の助けにもなるよう、およそ一年の暇を願い、許可されれば三月中に体調次第で出立したいという太守の願書について、その提出経過を知らせる。二月十七日、留守居が願書案文を御用番水野出羽守と松平周防守へ持参して内見を求めたところ、両人とも差し支えないとして、都合に従って正式に提出するよう、それぞれ用人を通じて答えた。翌十八日、別紙願書を御先手土方宇源太を通じて出羽守へ差し出し、受領された。宇源太が出羽守の門前で留守居にその旨を伝え、受領の挨拶の使者を取次へ申し出たが、後刻申し上げるとの返答であった。取次からこの応答を受け、願書提出の件を詰中の面々も承知するよう同日申し渡したという。続いて明姫方女中衆を通じた周知や国元での申渡しについて相談するよう述べ、近く願いどおり命じられる見込みなので、その際さらに詳しい事情を知らせると結ぶ。二月二十三日、嶋津伊賀から喜入安房・川上頼母・嶋津仲・二階堂主計・宮之原主膳への書状である。
天明七年三月九日(年は朱書) / 冊子 953頁/原整理番号 2592/整理ID 2592
中将が下向するにあたり、二丸の家作などが完成していないので、直接本丸へ入るよう命じられたと伝える。この地では承知すべき面々へ申し渡したので、国元でも関係する向きへ申し渡すよう求める。三月九日付、市田勘解由から喜入安房・川上頼母・嶋津仲・二階堂主計・宮之原主膳へ送る。
天明七年三月九日(年は朱書) / 冊子 953~954頁/原整理番号 2593/整理ID 2593
中将からの指示として、大雄山・御宮南泉院・御位牌殿、ならびに江戸と国元で年中の代参を命じられている先祖方へ、発駕前・着城時・参府時に代参を行うよう命じられたと伝える。この趣旨を若年寄へ知らせ、申し渡すべき事項を取り計らうよう求める。三月九日付、市田勘解由から喜入安房・川上頼母・嶋津仲・二階堂主計・宮之原主膳への申渡書である。
寛文元年後八月十二日 / 冊子 30頁/原整理番号 6-49
鎌田政直は、諸外城から提出された文書、御家の系図、御記録草案を平田清右衛門から引き継ぎ、御文書倉に収めるよう日高主膳と川上彦左衛門へ命じた覚。受取と保管の対象を三種に分けて列記する。
正保三年四月廿六日 / 冊子 185頁/原整理番号 101
正保三年四月二十六日付、加久藤側から伊地知伊主膳らへの書状。出水方面の大狩に新納加賀守が菱刈の衆を率いて出立したと聞き、急ぎ新納刑部へ報告したことを伝える。加久藤の衆にも出動があり得るなら早く知らせてほしいと求め、求麻方面の情報を探らせたと記す。大狩の実情はまだ把握していない。
天明四年正月廿九日 / 冊子 724頁/原整理番号 2046/整理ID 2046
久金の返書で、今暁に本書の飛脚が花岡駅へ着き、当日の宿泊先関戸駅で太守へ知らせたことを記す。太守は残情を思うものの御機嫌に障りはなく、本書の伺いの通り手配するよう命じた。先に病気見舞いとして大野休之丞を吉田駅から遣わしたが、行き違いになるため中陰法事詰めと代香を命じ、本人が途中で出立する場合も代香に支障がないよう取り計らい、供物は吟味に応じて用意するよう指示した。随行者の慎みも当日から五日間申し渡し、急飛脚二人を当夜に差し立て、太守・大奥へ知らせる。本書の飛脚は道中の用事が済んだので当夜江戸へ差し通すと記す。正月廿九日の朱書で、本書2045の行間朱書として収録される返書。
天明六年十月二十九日 / 冊子 882~883頁/原整理番号 2447/整理ID 2447
二階堂行旦は、牧野越中守から新葬法事中の参詣を命じられたため、松平伊予守の先例に合わせ、重豪も同日に参詣したい旨を留守居から届け出たと国元家老へ報告する。六日に留守居が呼び出され、付札によって許可が伝えられたので、翌七日の御三家参詣の際に直垂で参詣した。先例のない事柄であるため、別紙二通を添えて経過を知らせる。
天明六年十月二十九日 / 冊子 883~884頁/原整理番号 2450/整理ID 2450
二階堂行旦は、徳川家治の院号「浚明院」が伝えられた経緯と、国元での法事・位牌調製の取扱いを家老へ報告する。重豪は病気で登城できなかったため、院号を書いた原本を受け取って松平陸奥守へ順送し、国元には院号を白木箱に入れて送付する。南泉院の四十九日・百箇日法事について、遠国では当日を過ぎても差し支えないと留守居が仏頂院へ照会して確認した。中陰法事には従来の先例がないものの、今回は中陰・四十九日・百箇日を各一日、計三日間行うよう指示された。また、南泉院に安置する位牌の名は上野の宮に揮毫を依頼する見込みであり、惇信院の位牌寸法と用紙を先例として相談している。江戸側ではなお正式な申込みに至っていないため、国元でも先例を調べておくよう前もって知らせる。
天明六年十月二十九日 / 冊子 886頁/原整理番号 2459/整理ID 2459
二階堂行旦は、中陰中の機嫌伺いの献上物について、在府の一万石以上には二度の献上、侍従以上には檜重、二度目の品は伺いによる旨の触達があり、重豪が先月十八日に檜重一組、今月二日に吉野葛粉一箱を献上したと家老へ報告する。さらに松平越前守が新葬法事中の献上を伺ったことを受け、重豪も現在の席次と由緒を考慮して、先例のない菓子類の献上を今月朔日に留守居から水野出羽守へ伺った。十日に同様に献上してよいとの付札が示され、十四日に干菓子一箱を献上した。本丸の蘇鉄之間で目録を提出し、品物は側衆が受け取り、披露する旨が伝えられた。奉書も同日届いたため、伺書写一通を添えて経過を知らせる。
天明六年十月二十九日 / 冊子 886~887頁/原整理番号 2461/整理ID 2461
二階堂行旦は、中陰明けに伴い、所作をする者に限って昨日二十八日から鳴物を許す旨が、水野出羽守から大目付衆を通じて伝えられたと家老へ報告する。別紙写のとおり江戸の屋敷内へ申し渡したが、能方の稽古に関する鳴物その他の屋敷内の慎みは、当面は従来どおりとする旨を口頭で伝えた。国元でも先例に従って申し渡すよう求め、別紙を添える。